天使に囲まれた天使①
一週間だ。
アンジェリカから厳しい言葉を与えられ、猫の目亭から足を遠ざけ、彼女から距離を置いて耐えた、一週間。
これでも、我慢した――――と、思う。
我慢というその言葉の存在を手持ちの語彙の中から消し去っていたブライアンが、一週間も、我慢したのだ。
だが、アンジェリカからの問いかけに対する答えは未だ見つからず、これからも見つかりそうにない。このままだと一生彼女に逢いに来ることができかもしれないと不安になり、そうなると、つい、手綱が緩んだ。
気付いたら、フラフラと足がここに向かっていた。
時刻はまだ九時。
いつものブライアンなら、まだぬくぬくとベッドの中にいる。というより、起床時間よりも就寝時間の方が近いくらいだ。だが、最近――特にこの三日ほどは、今より二時間前には目が覚めてしまい、忠実な執事に何かの病気なのではないかと心配されている。
そんな、ブライアンにとっては青天の霹靂ともいえるような有り得ない、時間。
彼は猫の目亭の前に立ち、その扉を見つめる。中から物音は聞こえない。人がいる気配もない。
(どうしよう)
迷った末に、まだ開店前だが、試しに押してみた。
開く。
開かなかったら諦めて帰ったのだが、開いてしまった。
中を覗くと、人の姿はない。客はもちろん、コニーも……アンジェリカもいなかった。
厨房にいるのかもしれないが、そこでブライアンはまた迷う。
まだ店が開いていないのだから、何かを食べに来たとも言えない。それこそ、「何のために来た」状態だ。ここでアンジェリカから一週間前と同じ質問を投げかけられたら、すごすごと引き返すしかないだろう。
女性相手にこんなにも心が惑うのは初めてで、正直、どうしたらいいのか判らない。
ブライアンにとって女性の気持ちを読むことなど本を読むより簡単なことで、相手の気に入るような言動など息をするように容易にこなしてきたことだったはずなのに、アンジェリカを前にすると指先を動かすことすら難しくなる。
今だって、ただ逢うというだけでも気持ちがグラグラと揺れている。
アンジェリカに逢いたいと思う。
彼女の姿を目にして、声を聴きたい。
だが、また「何をしに来た」とでも言われた日には、二度と立ち上がれないかもしれない。
(やっぱり、帰った方がいいんだ)
はあ、とため息をついてブライアンが扉から手を離そうとした時だった。
「何やってんの?」
「ぅわぁ!? ッたッ」
びくりと振り返った拍子に後頭部を枠で強打した。
「ちょっと大丈夫? 大っきな音したよ?」
両手で後ろ頭を押さえたブライアンを、コニーの茶色の目が覗き込んでくる。
「やあ、コニー、おはよう。いい天気だね」
ごまかし加減でヘラッと笑ってそう言うと、彼女は目じりが吊り上がり気味のその目でまじまじと彼を見つめてきた。
「久しぶりだね。でも、アンジーならいないよ」
「え」
アンジェリカを前にしたらどんな態度を取ろうとかどんな話をしようとか、ブライアンの中でも全く定まっていなくて、彼女に逢ったらどうしようと思っていたのにも拘わらず、不在だと聞いた瞬間襲ってきたのはずっしりした落胆だ。
「そうか……」
緊張が解けた反動もあって抜けんばかりに肩を落としたブライアンに、しばらく彼を眺めた後、コニーが首をかしげた。
「いる場所、教えてあげよっか?」
そう言って、猫のようににんまりと笑った。
「今日は夜まで店に出ないんだよ、アンジーは。月に一回の大事な逢引の日なの」
サラリと放たれた言葉を耳から耳へと聞き流しそうになったブライアンだったが、その意味を捕まえた瞬間裏返った声を上げる。
「そう……あ! い、びき……?」
つまり、男と会っているということか。
もしかしたら、以前にコニーが口走ったガブリエルだかブラッドだかいう輩のもとに行っているのだろうか。
固まっているブライアンを、腰の後ろで両手を組んで、コニーが覗き込む。
「すっごい楽しげで仲良さげなアンジー見ちゃうかもしれないけど、それでも行く? 行きたい?」
ブライアンは迷った。
アンジェリカほど素晴らしい女性に誰も相手がいないというはずがないのだ。もちろん、彼女を愛し慈しみ大事にしてくれる男はいるだろう。いてもおかしくないどころか、いるのが当然だ。
当然のはずなのに、ブライアンはアンジェリカが他の男と楽しそうにしている姿など、見たくなかった。想像するだけでも、胸が悪くなる。
思わず両手を固く拳に握ったブライアンに、また、コニーが問うてくる。
「どうする?」
他の男と微笑み合うアンジェリカなど、見たくない。
だが、それでも、これ以上彼女と逢わずにはいられない。
一度息を吸い込み、それと一緒にブライアンは言葉を吐き出した。
「教えてくれるかな」
「ホントにいいの?」
「……――お願いだ」
念押しに束の間息を止めて彼が言うと、コニーはニコリと微笑んだ。
――後々思い返してみればアンジェリカの恋人との逢瀬にブライアンを導こうとするなど、奇妙極まりないことだったのだが。
その時の彼には、そこを疑問に思う余裕など、皆無だった。




