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俺の心配にもかかわらず、陽子は夕方近くに帰ってきた。ファーストフードで友人と食事をした後、買い物に出たらしい。いいご身分だ。いや、ゴミ分だ。
「そんな、いきなり人だかりの中グサッってことされるわけないじゃん。智陰、バカじゃないの?」
そう言って、陽子はケラケラ笑った。その手には高級アイスの季節限定の味。俺は嘆息して、バイトへ行く準備を始めた。俺の通う学校は、バイト厳禁だったが、事情を説明したらすんなりOKが出た。俺が思った以上に、客観的に見た家庭環境が困窮していた。
「だからって。あんまり無理はするなよ」
バイト用のバッグを肩に背負って振り返ると、陽子は妙なものを手の中で弄んでいた。真っ黒の、卒業証書をおさめる筒のようなモノだった。
陽子の手の中にすっぽり納まってしまうような大きさだった。片方の先端には大きなリングがついているが、鍵のアクセサリーにしては無骨すぎた。
「何だよ、それ」
「これねー、小さいけど特殊警棒なの。今日、買い物行ったときつい買っちゃった。男が持ってたら逮捕されるんだって」
買っちゃった、じゃねえ、きちんと家に金を入れろ、アホ。という言葉が喉まででかかったが、陽子の顔がいつものように明るくないことを認めた。こいつなりに、ヤバいことをした、という実感はあるのだろう。
「そんなにリーチの無い警棒が使えるのか?」
俺は陽子の手から警棒を借りた。硬いゴム製だった。
俺は右手を振り上げ、左腕に振り下ろした。あまり痛くはない。これでは暴漢対策にもなりそうにはない。陽子が素手でぶん殴ったほうが早いだろう。
俺は溜め息を押し殺し、小さな警棒を陽子に返した。
「智陰、バイト行くの?」
「当たり前だろう」
「妹が殺されかかっているのに?」
「そうだな…………」
言いたいことは死ぬほどあったが、全部言っていたらバイトに遅刻してしまう。
「お前がもう少し、家に金を入れていたなら、守ってやったかも」
「守ってやった、とかキモッ!」
そんな声と共に、汚い座布団が飛んできた。それは、あちこちがボコボコになり、ロックすらとまらなくなった郵便受けに当たった。俺は座布団を、テーブルの前に投げ返すと外への扉を開けた。甲高い女性の悲鳴のような音を立てて、ドアが軋む。もう長いこと油を差していないし、それ以外の理由もある。
俺は駐輪所から自転車を引っ張り出した。これだけはこまめに手入れをしているので、異音は鳴らない。
自転車を漕ぎながら、陽子の言葉を反芻した。
「なーにが、殺されかかっている、だよ……」
やはり、陽子は致命的にバカだ。
*
俺のバイト先は、ショットバーだった。驚くなかれ、学校公認だ。
店と店の間の汚い路地裏に自転車を押し込み、明るい声で挨拶して店内に入った。真っ先に西村さんが気付き、軽く笑ってくれた。
金曜でも祝日でもない日は、客の入りは大人しく、ざっと店内を見渡しただけでも、カブトムシのような巨躯を無理にシャツとズボンに詰め込んだ男が一人と、女子大生らしき二人組しか客はいなかった。
「遅かったね。何かあった?」
西村さんはラベルを確認しつつ、カクテルを拵え始めた。その声には、怒りも咎めも含まれていない。ただ、純粋に心配していることが感じられた。ただのバイトにも優しくしてくれる西村さんはかなり稀有な大人だ。
「いえ……」
対して俺は、こういう風に親身に接されると萎縮してしまう。そうでなくても、家庭環境について話すことは苦手だ。
「妹さんのこと?」
だが、西村さんは的確に核心を突いてくる。俺は前にやった両手の指を閉じたり開いたりしながら、客がオーダーしないか心から願ったが、今日の客は財布に紐が固いのか、下戸なのか、願いは天井辺りで壊れて消えた。
「学校からまた呼び出しでもあったの?」
俺は無言のまま首を振った。気まずい沈黙が緞帳のようにおりてきた。俺はダスターを持って、空のテーブルを拭きに行った。しかし、背後から西村さんの不安げな視線は感じる。
いつも以上に時間をかけて熱心にテーブルを拭いていると、カウンターの向こうで西村さんが冷蔵庫を開け、料理の準備を始めていた。オーダーは未だ無いので、恐らく、俺の為のまかない飯だろう。テーブルを拭くことしかしてない、バイトのド底辺にまで優しい。
たまに料理を焦がすことが玉に瑕だが。
テーブルを拭いていると、カブトムシ男が低い声で「ギムレット」と言った。リスニングができたことが奇跡なほど、くぐもった声だった。俺は了承の返事をして、カウンターへ戻り、カブトムシ男の注文を西村さんに告げた。西村さんは頷くと、ジンの瓶を取り出し、慣れた動作でカクテルを作り始めた。
俺は、小説に出てくるからと、本当に飲みたくも無いものを頼む人間がいたことに感動し、カブトムシ男を凝視していたが、西村さんからホワイトキュラソーの瓶で軽く腕を叩かれた。お客さんをそういう風に見てはいけない、といった風に睨まれた。
俺は肩を竦め、西村さんがつくったギムレットを銀のトレイに乗せ、カブトムシ男に運んだ。
「妹は」
ギムレットをテーブルに置いた時、カブトムシ男が呻くようにそう言った。
「はい?」
俺は素っ頓狂な声で聞き返した。その声は静かな店内によく反響し、女子大生やカウンターの向こうの西村さんの視線まで集まった。
カブトムシ男は注目されて気まずくなったのか、ギムレットを一気に飲み干し、テーブルの端に紙片を置くと、会計表を掴んで立ち上がった。
西村さんがすぐにレジに向かう。俺は、女子大生や西村さん、カブトムシ男が見ていないことを確認してから紙片を拾い上げた。
カブトムシ男は、西村さんに不躾なことを訊いていたが、西村さんは嫌な顔一つせず、にこやかに答えていた。暖色の照明の下、西村さんが目を細めているのが見えた。
俺は、ダスターを取ってくる為に、カウンターに回った。湯気が立ち上っている料理が置かれていた。少し遅れて西村さんも来た。そして言った。
「これ、新作で出そうと思うんだけど、良かったら試食してくれない?」
「だったら、あっちのお客さんに出したらどうですか?」
西村さんは頭をかいた。
「冷蔵庫の中の賞味期限がそろそろ危ない素材ばっかりだからなあ。あそこのお客様には別のものを出すよ」
西村さんは、嘘が下手だ。ほどよく炒められたブロッコリーは、昨日冷蔵庫の住人になったものだ。俺が朝食も夕食もとっていないことを知って、急いで料理を作ったのだろう。
西村さんはタッパーを持ってきた。中には、皿に盛られた料理と同じものが入っている。
「作りすぎたから、良かったら妹さんと食べて」
嘘が下手すぎる。肉じゃがを余らせる、といったほうがまだ真実味がある。だが、敢えてそれには言及はせず、素直に礼を言った。
軽く背を折りながら、ポケットの中の紙片を握り潰した。