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俺の妹は底なしのバカだった。
中学も高校も、「赤点じゃないからセーフ」で誤魔化した挙句、入学できる高校がひらがなで自分の名前が書けたら合格、とかいうバカ学校してなかったりするし、似たり寄ったりの、違いがあまりなさそうな流行の服を買うための時間を、学業以上にバイトに費やしているし、そしてその稼いだ金は服やら友人の付き合いやらで一週間もたたずに水泡と帰す。
せめて携帯代ぐらい自分で払えってんだ。
今日も友達と食事をするから晩飯はいらないときた。妹は容赦なく我が家のエンゲル係数を削りまくっている。俺は昨日焚いたご飯の残りを炊飯器からよそい、黄色く変色したそれを、冷え切った味噌汁の中に投入した。
妹と違い、堅実でこつこつ蟻さんのように積み重ねる俺は、妹みたいに服のような消耗品に浪費はしない。
それに、食べれば何でも良いので、グルメからも縁遠い。
あと、これはあまり言いたくないが、交友関係が妹のように広くないので、交友費というものは、俺にとっては地球の裏側の話だった。
特に観るものはなかったが、テレビのリモコンを操った。一人きりの食事に4LDKは広すぎる。誰もいない部屋の広さと、孤独の飽和が比例する。
ニュース画面で指が止まる。今日の昼、アパートで不審火があったらしい。死者はいなかったが、全焼したらしい。その映像が映し出される。真っ赤な炎を窓という窓から吐き出しながら、アパートが燃えている。
火災保険に入ってなかったら大変だな、と高校生らしからぬ所帯じみたことを考えた。次のニュースに変わった。
例の連続殺人だ。
ファンデーションを濃く塗りすぎた女子アナは、は連続殺人者のスコアが増えたことを淡々と告げていた。手口は言わなかったが、いつもと同じ…………だろう、多分。単発の発作的な犯行と思われていた最初は、微に入り細を穿って説明をしていた。無関係の俺すら、PTAからの苦情を危惧したほどだ。
連続殺人者の手口はいつも同じ。背後から被害者の頭を一撃し、その後、頬や腹を何度も殴打し、最後に首を切り落とす。最初は阿呆の衝動的な犯行と思われていたが、同じペースで動揺のことが起こってから、警察はやっと連続殺人だと気付いた。
連続殺人犯だと気付いた後の警察の発表は、首を切り落とせる膂力があることから、おそらくは壮年の男性、などという少し推理小説読む奴ならすぐに辿り着くような結論をドヤ顔で言った。
そんなお粗末なプロファイリングと同時に、連続殺人鬼は今まで証拠らしい証拠を全く落としていない、と発表した。ケチな殺人鬼だ。
ニュースが、動物園で赤ちゃんが生まれた、という一秒前の血生臭さをかき消すような内容に変わった頃、滅多に鳴らない俺の携帯が振動した。発信者は、国下陽子。俺の妹だ。
俺八つ当たり気味にニュース画面の左上にあるデジタル時計を見た。シンデレラだったら、魔法が解けて灰だらけのドレスに変わっている時間だった。
普通だったら俺はとうに夢の中だったが、陽子の分まで炊事掃除洗濯をやっている内に、こんな時間に夜食になってしまったのだ。今日の家事担当は陽子の筈だったのに。
携帯電話を乱暴に掴み、通話ボタンを親指ボタンが折れそうなほど強く押した。そして陽子が何か言う前に早口で言った。
「陽子。お前な、遊び呆けるのはいいけどな、自分の義務ぐらい果たせよ」
「そんな場合じゃないんだって、バカ兄貴!」
電話の向こうの陽子は、珍しく動揺していた。俺は眉を寄せた。ストーカーにつきまとわれていても、それを嬉しそうにSNSで拡散するほど危機感が無い、大胆かつバカな奴なのに珍しい。
俺は立ち上がりかけた姿勢を戻し、座り直した。
「何かあったのか? 事故にでも巻き込まれたのか?」
「うん! そうなの!」
「そこは楽しそうにいうなよ……
ひき逃げを唯一も目撃したけれど、轢いた相手のナンバーを全く覚えてなくて、被害者と警察の双方から怒られてんのか?」
「違うよ……あの、ヤバいモン見つけちゃったの……!」
俺は、はぁ!?と素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。
「お前な……俺は確かに遊び呆けろって言ったが、法に抵触することはしちゃダメだろうが!」
「私じゃないよ! ユッコとジンクスに廃墟探索に行ったら、」
そこで陽子は一呼吸置いた。
「血だらけの鉄パイプと、でっかいナイフがあったの……!」
俺は目眩を覚えて、膝から崩れ落ちた。その間にも陽子の声が追走してくる。
「しかも、それ以外にも、壁に……あの首を切り落とす殺人者いるでしょ? あれ関連の新聞の切り抜きとかがバーッて貼ってあって……ヤバいよ、あそこ絶対犯人が住んでいたんだよ……」
俺は空になった茶碗の底に僅かに残った味噌汁を見た。
「そこの住所を警察に通報しろ。そして、今すぐ匿ってもらえ」
「無理だよ……だって、SNSで流れてきたんだけど、全焼したんだって……」
俺は先程のニュースで流れた、何処かで不審火があったことを思い出した。
陽子は馬鹿だ。馬鹿故に、社会問題と絡めた嘘なんてつけない。つく必要も無い。給料日当日にテーマパークに行ってバイト代を二十四時間も持たせなかった理由なら五分以上自己弁護できるが。
「さっきから、ずっと気になっていたんだが、ジンクスって何?」
少しでも緊張を緩和させようと、できるだけ温厚な口調を作った。
「ウチの学校でね、今、誰もいない部屋に忍び込んで三十分いれたら、好きな人とくっつけるんだって。だから、私、ユッコの付き添いで、」
そこまで聴いた俺は、頭が重量に負け、額がちゃぶ台と衝突した。空のプラスチックの茶碗が、割れずにころころと空々しい音を立てて、あちこちが沈む畳みの上を転がっていく。
「お前は、いや、お前の周囲と学校は、不法侵入、という四文字熟語も教えねーのか! それで恋が実っても全ッ然嬉しくないわ!」
「えー、でも、ミカは実際にマックンと――」
「知るか! 二人でテーマパークに行く前に派出所に出頭しろ!」
日付が、変わった。
「とにかく、お前は全然面識も無い赤の他人のアパートに不法侵入して、そこがたまたま新聞で騒がれている殺人鬼のアジトだったんだな?」
「うん。…………ねえ、智陰。これからどうすりゃいいと思う?」
年子の陽子は、俺をたまに呼び捨てにする。俺は睡眠時間を犠牲にして考えた。
「そこに忍び込んだ時……何か、証拠とか持ってこなかったか? 凶器とか」
電話の向こうで思い出したような声が響いた。
「あ! ユッコが何か持ってた!」
「それだ! そのユッコとやらに今すぐ、それを持って、事情を洗いざらい説明しろ」
「えー……私らが忍び込んだことも言わなきゃダメ?」
「当たり前だろう。陽子、お前、脳味噌を殺人鬼のアジトに落っことしてきたのかよ……」
俺は脱力して、煎餅布団に寝そべった。
妹がここまで馬鹿だとは思わなかった。生まれつきに心を持たない人間はいるらしいから、生まれつき脳味噌が無い人間もいてもおかしくないかもしれない、と陽子を見ると本当にそう思う。
俺の気持ちをよそに、妹の軽快な声が聞こえてくる。
「わかった。じゃあ、ユッコに確認してくるから、一旦電話切るよ、智陰」
「今日はなるべく早く帰って来いよ」
言い終わらない内に、電話は切れた。俺は苦い顔で通話終了画面の携帯電話をみつめた。
*
陽子が夜の闇に包まれた、寝入ったように静かな住宅街を歩いていると、駅前のファーストフード店から溢れ出す暖色の光が見えた。
念のため、背後を警戒しながら歩いたが、尾行してくる人間はいなかった。
ファーストフード店の中で、ユッコはシェイクを啜りながら右手を上げた。不法侵入したという罪悪感は無いが、見世物小屋に入ったような感覚はあるようで、その顔は若干青ざめていた。
深夜のファーストフード店は、駅前いえども人はいなかった。
「ユッコー。兄貴に相談したんだけどさぁ、ユッコ、あの部屋から何か持ってきたじゃん?」
陽子はユッコの対面に座った。シェイクを最後まで啜り終えてから、ユッコは答えた。
「うん、持ってきた」
「あれ、警察にみせれば動いてくれるんじゃないかって兄貴が言ってた」
「やだよ」
ユッコは即答した。そして本当に嫌そうな顔をした。
「アタシ、警察のお世話になるなんてゴメンなんだからね」
「でもさ……もしかしたら殺されるかもしれないんだよ?」
「それなんだけどさ」
ユッコは急に眼を輝かせ、身を乗り出した。
「アレ使って、逆に犯人脅迫できるんじゃね~って考えてんだけど?」
「はあ?」
陽子は生返事で答えた。が、ユッコの眼は輝いている。スリルと、皮算用の支配欲に。
「でも、ウチら電話番号とか何も知らないじゃん」
尻込みする陽子に、ユッコは「アレ」を手に持って揺らしてみせた。
「コレ売ってる店見張っていたら、偶然出会うかもじゃん? さすがにヒトゴロシでも、人が多いところでは滅多なことできないと思うし」
「脅迫して、どうすんの?」
陽子は水気が多いオレンジジュースを啜った。
ユッコはニヤッと笑って、親指と小指で丸マークを作った。
「たくさん人殺しているんだから、奪ったカネとかあるっしょ?」
陽子は無言のまま、オレンジジュースを一気に飲んだ。カルキの味がした。
不意に、兄の智陰が想起された。いつも人をバカ扱いする、趣味も少ない引きこもり予備軍だが、智陰が今、この場にいたら、ユッコを張り倒すだろうな、とぼんやり思った。
それに、陽子はほとんどニュースを見ていないが、兄やクラスメイトがそれなりに膾炙しているので、殺人鬼のあらましは知っていた。
殺人鬼は、一度も金品を奪ったことが無いのだ。