6 間違いだらけ
「ちょっと、待って!痛い、痛いったら!」
グッと掴まれ引っ張られている腕が痛い。
きっと指の形がついているんじゃないかと思うくらい強い力でローラの手首はグリッドの掌に握り込まれている。
引きずられながらも必死で足を動かしてついていくが、男の速度に女が追いつけるはずもなく。
「――――っあ!」
スカートが脚にまとわりつきそうだ、とひやりとした瞬間だった。
転ぶことを覚悟して目を閉じたローラを意外と力強い腕が支えて、頭上から「……失敗した」というぼやきが降ってくる。
なにが失敗した、だ!
とカッと頭に血が上った。
せっかく思い切って初めてを捨てようと挑んだ機会を邪魔し、更に転びそうになるくらいの力で無理やり連れだすなんてこちらの気持ちも考えずにどれだけ自分勝手なのだろうか。
「いい加減にして!!」
痛いと言っているのに放しもせず、待ってと頼んでも聞き入れずに。
全力でグリッドの胸を押して腕を振り解くとローラは村中に響き渡るくらいの大声で叫んだ。
実際に五軒先で洗濯物を干している女がぎょっと目を向いてこちらを見た後で、これは関わり合いになってはいけないものだと判断したのだろう。
そそくさと途中で手を止め、籠を抱えて家の中へと消えて行った。
「あんたなんなのよっ!ほんとに、」
どんなに叫んでも、訴えても目の前の男には伝わっていないようだ。
必死になって抵抗して、怒ってもグリッドは常と変らぬ表情でこちらを見つめて自分だけは冷静だと言わんばかり。
ローラとの温度差があまりにもありすぎて、向き合っているのに違う場所を互いに見ているような気がした。
渾身の怒気を発揮しても彼を動揺させられないなんてあまりにも悔しすぎる。
「一体なんの権限があって私の邪魔をするのっ!?」
「じゃあ逆に聞くけど、ローラはどうしておれを怒らせるようなことばかりするの?」
「なに、それ!あんたが勝手に怒ってるだけでしょ!?」
私には関係ないと続けるとグリッドが呆れたように溜息を零すから、どんどん血が頭に上ってくらくらする。
「あり得ないよ。どうしてジョーなの?誰とでも寝るような男と関係を持ったら、よくない病気を伝染されるかもしれないっていうのに」
このまま卒倒するんじゃないかと思うくらいに興奮しているのに、落ち着かせるどころか逆なでしてくるから性質が悪い。
しかも自分の友人をそんな風にいうことすらローラには我慢ができなかった。
「経験豊富で優しくしてくれるし、上手だって――――」
フラニーが言っていた。
いや。
彼女だけじゃない。
ジョーと寝たことのある女たちは全員がそう言っていたから。
ただ聞いていたことをそのまま口にしただけ。
なのに。
グリッドの纏っている空気がピリッと固くなる。
闇の月冷え込んだ朝に地面に霜が降りた時の緊張感のような感じ。
嫌味な言い方をしても絶対に怒鳴ったりしたことはなかったし、不機嫌そうな様子は見せても怒ったりしたことも無かった。
そんな彼が。
「へぇ。経験豊富だから上手いとは限らないけどね?」
半眼でこちらを睨んでいる。
それなのに口元だけはいつものように微笑んでいて、雪解け水を湛えた小川のように澄んだ瞳に剣呑な光を乗せて。
「な、なによ。ジョーに嫉妬でもしてるわけ?」
村の女たちが床上手だと誉めていることを。
もしそうならどれだけ男と言う生き物は狭量な生き物なのだろう。
「嫉妬?ああ、そうだね。嫉妬してるよ。きっとローラがびっくりするくらいに」
そして怖がるくらいにね。
「ちょっ、止めて!」
伸ばされた手が再び迫ってくる。
遠慮や配慮など感じさせない強引な腕が。
ここは村の中。
周囲に住宅はあるし、人の気配だってある。
だから安全だと思っていたけれど、大人の男女が二人きりで深刻な雰囲気を出している時は意外と誰も関わろうとしないらしい。
今まで大事に守られてきたローラにとって村の周りにある森の中だって安全な遊び場だった。
恐怖など今まで感じたことが無い。
でもそれは守られるだけの価値があったからなのだろう。
「…………試してみる?」
「冗談言わないで……!」
この期に及んでなにを試してみるかと誘われているか分からないほど愚かではない。
身を捩って逃れようとした腰をグリッドの左腕ががっちりと囲み、嫌がって突き出した両手の脇から右腕が背中を這って首元へと移動していく。
恐れか。
それとも怒りか。
どちらのものか分からない震えが背筋を伝い歯の根を合わなくさせた。
「や、め」
じわりと滲んだ涙の向こうでグリッドが瞬きをしたのが見えた。
その瞬間に水色の瞳に再び静寂が訪れていることに気づき、正気に戻ってくれたのだとほっと安堵する。
力を抜いたローラを最後にぎゅっと抱きしめて、グリッドが「ジョーじゃなくておれを選んで欲しかった」と囁いた言葉は胸を疼かせたが、疲れ果ててしまった今はただ深く考え吟味することはできない。
そっと解かれた抱擁にふらつきながらも踏ん張ってなんとか持ちこたえるとローラは数歩下がってグリッドから距離を取る。
顔を正面から見ることはできないから視線は地面の上。
どうやら彼の方も気まずいようでこちらを見ようともしない。
「…………ローラが決めたのなら、おれは諦めるよ」
「――――え?」
「ごめんね。もう付き纏わないから。ローラの幸せだけを祈ってる」
あっさりと身を引く言葉を口にしたグリッドに驚き反射的に顔を上げたけれど、その時はもう背を向けて足を踏み出した後だった。
なんだかよく解らないが婚姻相手にグリッドではなくジョーを選んだと思われているらしい。
「ちょっと、待って!グリッド」
誤解を解こうと慌てて追いかけ、腕を掴んだがやんわりと振り解かれた。
更に不安がっていると思われたのか。
「大丈夫。ジョーは相手がローラなら断らないよ」
「は?私が相手なら断らないってどういう……?いや、だからそうじゃなくて」
「ローラ、お願いだから今はひとりにしてくれるかな?」
こっちを向かせようと服の袖を引っ張って覗き込んだ先にあったグリッドの顔が傷心に沈んでいてローラは怯んだ。
目尻が濡れているように見えたのはきっと気のせいじゃない。
「あ――――っ」
間違えた。
決定的に。
なにかを。
そう覚ったが、では一体どこをと問われても答えることはできなかった。
「じゃあ、またね。なにか困ったことがあったら頼ってくれていいから」
手を軽く振ってそのまま足早に去って行くグリッドの背中を呆然と見送る。
いつだって彼に背を向けるのはローラの方で、こんな風に立ち去るグリッドを見つめることになるなんて思ってもいなかった。
ズキリ。
胸が重苦しくて、痛い。
拒絶されることはこんなにも痛みを伴うのだと改めて実感して罪悪感に苛まれた。
困ったことがあったら頼ってくれていいということは、彼が言ったように本当に付き纏うことは止めるということなのだろう。
用事がなければローラに関わることはもうしないと――――。
「そんなの」
勝手すぎる。
でも。
これで良かったのかもしれない。
グリッドは自由だ。
新しい出会いが彼を幸せにしてくれるだろう。
可愛いのに気取らない、勤勉なメグとグリッドはお似合いだ。
誰の目から見ても。
ローラは父に頼んで余所の村か町から婿に来てくれる人を探してもらおう。
それでいい。
それが一番丸く収まる。
「めでたしめでたし」
寝物語で結ばれる最後の言葉のように。
もう傷つくのも疲れた。
誰かを好きになるのも怖い。
臆病だと笑いたければ笑えばいい。
胸の痛みと罪の意識に襲われるのはもう御免だ。
「セロ村で伴侶は探さない……か」
期せず五年前に失恋した相手と同じような決意を固めた自分に嘲笑し、ローラは重い足を引きずって家へと向かった。