5 じょうだんじゃない
「出てきなさい!いるのは分かってるんだから!!」
間仕切りの無い小屋は丸太を積み重ねて作られた重厚かつ丈夫で、建てた本人いわく「自分が死んだ後も数百年は残るに違いない」と胸を張って威張っていたものだ。
まだ建ってから三年程しか経っていないので、木の香りが残り男くささなど感じられないこの小屋はまあ居心地が悪くは無い。
勿論床中に散らばっている衣服や布、木片や削りかすなどがなければだが。
男の独り住まいというのはそういうものらしいのだが、こんなに散らかった中で平気で生活ができる神経がローラには全く理解できなかった。
丁寧に作られた木の食卓の上にも使われたままの食器がそのまま残され、座り心地の良さそうな椅子の背もたれにまで脱ぎっ放しのズボンがかけられているから呆れてしまう。
腕は悪くない木材職人なのに性格や考え方が適当なのだ。
「全くもう……」
これだけ服を洗濯もせずにいられるのは豊かさの象徴だ。
代わりのものを沢山持っている、ということになるから。
いや。
彼の場合は“愛されている”ということに尽きるかもしれない。
こうして散らかった部屋を見渡してみるとローラでさえ片付けてやろうという気持ちになってしまうのだから、それがあいつの女心を擽る技術のひとつなのかもしれないとさえ思われた。
壁の隅に追いやられていた箒を発掘し、衣服を腕に回収しながら掃除を始める。
ローラの剣幕に慄いて逃げ隠れしているのではなく、もしかしたら本当に出かけているのかもしれない。
その間の退屈を紛らせるためにはなにかをしなくてはいけないような気がした。
それに色んなことを教えてもらうためにはなんらかの形で彼に誠意を見せなければならないだろうと、自らが決意したことに対する逃げ道を失くすためにもこれは必要なことかもしれない。
「…………そうよ。こんな散らかった汚い部屋でなんて、イヤだしっ」
途中で見つけた籐籠にまとめた衣類を放り込み、寝台下にまで落ちていた布に手を伸ばして引き出したところで固まった。
広げてみるまでもなくそれは使用済みの男物の下着であることは明確だったので、ローラは目を逸らし、しっかり掴んでいた手のひらから指先だけでつまむようにして籠の中へと投げ入れる。
「ほんっと!もう、イヤっ」
思わず手をエプロンで拭おうとして、そこでまた止まる。
目に見えるなにかや感触、痕跡が残っているわけではないがどうにも気持ちが悪い。
家族以外の異性の身体を包んでいたものを手で触れてしまった――しかも下半身の方!――という事実に動揺と嫌悪が襲ってくる。
「ど、どう、どどど、どうどう……」
「どうどうって……おいおい!動揺しすぎだろっ!」
「ぇええええ!?ちょ、ちょっと!いるんだったらさっさと出てきなさいよっ!!ジョーのバカっ!」
留守なのだろうと安心していたらやっぱり隠れていたのか。
家人であるセロ村一番の遊び人との呼び声高いジョーが床下の野菜貯蔵庫からこっそりと顔を出している。
どの女も素敵だと認める華やかな顔立ちは、そんな滑稽な姿さえもどこか愛らしく見せて憎らしいほど。
ローラよりも二歳上のジョーはこの村で嫁を貰っていない少ない若手のうちのひとりではあるが、彼が婚姻を誰とも結ばないのは忘れられない相手がいるとかもっともらしい理由よりも“自由でいたい”“多くの女に愛されていたい”という甘えの方が似合っている。
「あんたが片付けないから、私が、あんたの!汚い下着を触る羽目になったでしょうが!!」
「えー?それって俺のせい?ローラが勝手に片づけ始めたんだろ?」
肩を竦めながら床板を押し上げて出てくるジョーにギロリと鋭い視線を向ける。
大体隠れてローラの訪問をやり過ごそうとするからいけないのだ。
ちゃんと迎え入れてくれていれば相談をした上で同意の下、きっと物事は簡単に進んだに違いない。
多分。
「…………そもそも、なんで隠れたのよ」
口の端を下げて責めるローラに「そりゃあ男の勘だわな」と笑いかけてジョーは窓を大きく開け放つ。
さっき降った雨のせいですこしむっとした空気と土の濡れた匂いが入ってくる。
「男の勘?」
「そうそう。今のローラに関わったら悪いことになりそうな予感ってやつ?」
違うか?と問われてローラはぐっと答えに詰まったあと小さく頷いた。
確かに今回ここへやってきたのはこちらの我儘であり、ジョーにしてみれば迷惑極まりないことかもしれない。
「…………でも、他に頼れそうな相手がいなかったんだから仕方ないじゃないの」
「おや?珍しく弱気だな。なんか悩み?グリッドとなんかあった?それとも例の旅人と過ち犯して後に引けなくなったとか?」
軽い口調だが、だからこそ深刻になり過ぎずに悩みを打ち明けやすい。
そういう空気を作ってくれているのだ。
こういう所が女に人気のある所以かもしれない。
「なによ……私に関わったら悪いことになるんでしょ?」
それでも聞いてくれるのかと念を押せば「もう関わっちまったし?」と窓を背にして苦笑い。
春の日差しが丁度差し込んで、ジョーの顔に陰影をつけて男らしい美しさを強調した。
薄茶の髪が透けて金色になっている。
木を切り加工する仕事をしている逞しい腕や肩、シャツの胸元から覗く肌や首筋の線までもが洗練されていて悔しい。
こうやって見た目だけでなく遊んだことで磨かれた独特の空気感で女を惹きつけるのだ。
「じゃあ、いいのね?」
「あ、いや。よくはないけど――」
あまりにもローラの目が真剣過ぎて怖くなったのだろうか。
ジョーが怯んでちょっとだけ逃げ腰になる。
でも、もう遅い。
都合がいいことにローラがいるのは寝台の傍だ。
床に座ったままジョーを見上げてゆっくりと右手で髪を掻き上げる。
指を項にそって移動させ、目指す場所へと辿り着かせたところでジョーが慌てだした。
「ちょっと!待って!ローラさん!それはちょっと、困るっ!!」
いつもは呼び捨てている癖にこんな時だけ“さん”なんてつけて懇願してくるが、ここで止まってはいけない。
こんな恥ずかしいこと二度はできないから。
だからここで決める。
女の髪は男を惑わすもの。
だからこそ女はみな髪を布で覆う。
年頃になれば父親や兄弟の前でも髪を露わにしたりはしなくなる。
取る時は恋人の前か伴侶の前だけ。
つまり、親密で濃厚な時間を過ごす時のみ――――。
ローラは跳ね上がる鼓動と緊張による息苦しさから早く逃れたくて布の端に指先をねじ込んで一気に脱ぎ去ろうとした。
「だから!ダメだっていってんだろっ!!」
「ちょ、ジョー!?」
窓辺からすごい勢いで走ってきたジョーが腕を伸ばしてローラの後頭部を掬い上げるようにして胸元へと引き寄せた。
途端に体勢を崩し二人で寝台の上に転がって舞い上がった埃のせいで暫し咽る。
自分のものでは無い体臭と温もりを感じながら、空気中に舞う埃が太陽の光でキラキラと輝くのをぼんやりと眺めていると「全く、冗談じゃないっての」とジョーの囁き声にふと我に返った。
「なによ。どうしてダメなの?相手が私じゃイヤだってこと?」
そこまで女として魅力が無いのかと思うと情けなさでいっぱいになる。
沢山の女と幾つもの夜を過ごしているジョーから拒否されたということはローラにとって深い傷となり永遠に記憶に残るに違いない。
「いや、だからなんで俺なんだよ」
「だって、私知ってるんだから……村の女の子が初めてを経験豊富なジョーに捧げると幸せになれるって噂があること」
現に今でも幸せな家庭を築いているあのフラニーの初めての相手もジョーだった。
「彼は優しかった」とうっとりと頬を染めて打ち明けてきたフラニーに先を越されてしまったことを当時のローラは愕然と聞いたのだから。
「あのね……ローラさん。それをいっている時点で、あなたが未経験であると告白しているようなものなんだけど――まあ、そりゃ仕方ないか」
指摘されてカッと赤くなるが、事実なので反論の仕様がない。
それもまた悔しい。
「そりゃそうよ。私は村長の娘だから、みんな遠慮してたし」
「あはは。それもあるけど、それだけじゃない」
ローラの顔の両側に腕を着いてジョーが少しだけ体を離すとそこに風が入ってきて少し寒い。
だから不安になって無意識にジョーの袖を掴むと、彼は眉尻を下げて「まいったな」と微笑んだ。
「いつも強気なローラがそんな顔して甘えてきたら俺だって自制できなくなる」
「…………する必要ない。そのためにここへ来たんだから」
「俺の下着くらいで動揺する初心なローラが最後まで我慢できるわけないって」
「あれは、心の準備ができてなかったからよっ。大丈夫、ちゃんとできるから」
「ほんとに?」
「ほ、ほんと、ゃあ!?」
試すように向けられたジョーの眼差しは思いのほか熱くて胸がドキドキと高鳴った。
頬に血が集まってきて堪らずに顔を横向けるとその部分――つまり首筋――に温かな吐息と濡れた感触が当たって妙な声が上がる。
クスクスと笑う声すらくすぐったくて思わず身を捩るとジョーが脚を絡めて体重をかけてきた。
「俺だって死にたくないんだ。ローラ」
どういう意味だと聞き返したくても頭の中は単語がぐるぐる回るし、口を開くとさっきの変な声が出そうで怖い。
「俺じゃなくてグリッドのところに行けばいいのに。初めてだから恥ずかしいんだろ?」
「そ、そんんん、」
やっぱりだめだ。
我慢してても漏れ出そうになるのだから、喋ることなんてできるわけがない。
会話は諦めよう。
言いたいことは全部ことが終わってからだ。
その間ジョーが言った一言一句覚えておくのだと決めて。
「グリッドだって男だからそれなりに経験も知識もあるよ。ローラが初めてだって十分優しくしてくれる。それに心底惚れた相手なら――――ぐわっ!痛てっ!」
突然温もりと重みだけでなく声も遠のいた上に、最後に聞こえたジョーの叫びに驚いて上半身を起こすと床の上に激しく倒れ込むジョーの姿が映った。
頬を抑えて「痛い!痛い!」と転がっているジョーの傍に無造作に放り投げられた小袋は痛み止めの薬草だろうか。
「帰るよ」
ぼうっとしているローラの腕を掴んで強引に寝台から降ろしたのは今一番会いたくない相手。
散々ジョーが名前を連呼したグリッドだった。