4 逆走
「さあ、食べなさい」
母クララがテーブルを挟んだ向こうで両腕を組んで睨んでいる。
その有無を言わさぬ口調と態度にローラはおとなしくスプーンを手に取った。
皿を引き寄せてのろのろとスープを掬い、上目遣いで母の様子を窺えば眉間に力を込めてさっさと食べろと無言で促される。
温め直されたスープは白い湯気をあげ、野菜たちがほんの少し煮崩れた状態でローラに食べられるのを慎ましく待っていた。
「…………おいしい」
口の中で解けては溶けるそれぞれの旨みが舌から喉を通って胃の中に落ち着く頃になってようやく自分が空腹であったことを自覚する。
そして光の月になり温かくなってきたとはいえ、雨に濡れれば芯から冷え切ってしまう体を中から優しく温めてくれた。
混乱し荒れたままのローラの心も知らずゆっくりと穏やかになっていくような気もする。
「人はね、食べなくては。特に悩んだり辛い時は無理してでも食べるのよ。そうでなくてはどんどん悪いことばかりに目が行って、それに引きずられ不幸になるから」
母の言うことは確かに真理かもしれないが、食欲がわかないことにはテーブルに着くことも料理を口に入れることも難しい。
そして美味しいと感じることも。
「お腹がすくとまともな考えなんかできなくなるでしょ?決断を迫られてもそれが本当に正しいことなのか判断できない」
「…………分かってる」
今のローラが冷静さを欠いていることくらい自分が一番よく分かっている。
その原因がオーランとメグにあることも。
それ以上にグリッドの存在がローラの心を掻き乱していることも。
「男はきっと若くて可愛い子を選ぶ」
だからずっと頭の中でグリッドとメグが幸せそうに微笑みあう姿ばかりがちらつくのだ。
同時に“ずっと待っていると約束したくせに”と幼馴染を恨み、ちっとも彼の想いに応えようとしない己の身勝手さからは目を逸らしつつ心のどこかで罪の意識に駆られて――。
メグのように見た目も可愛くて人生の目標もしっかり持っているような子ならばグリッドでなくても嫁にしたいと思う男は山ほどいるはず。
昨日案内している間に言葉を交わした少しの間だけでも彼女が薬草師の技術を身に着けたいという真摯な姿勢と熱意が感じられたし、自分の恵まれた容姿を鼻にかけた様子など全く無かった。
逆にさばさばとした性格で飾らないメグに好感を持ったぐらいで。
そんな彼女だからこそ、グリッドが惹かれ彼女を選んだとしても仕方がない。
「そうかしら?」
私はそうは思わないけれど。
クララはけろりとした顔でそう告げたが、ローラにはその言葉が気休めにしか聞こえない。
母親が娘を励ますために思いとは違う言葉を口にしている――もしくは親の愛情が真実を見えにくくしているのか。
「若い子には若い子の良い所が、ローラにはローラの魅力があると思うわよ」
「私に魅力なんて」
もう、ない。
素直でもない。
可愛げもない。
若くもない。
あるのは見栄と高すぎる自尊心だけ。
そんな女に魅力を感じるとしたら変わり者以外にいないだろう。
「自分では分からないものなのよ。それでも不安なら自分から動きなさい。黙っていても現状は変わらないのなら積極的に行くべきよ。私はそうしたわ」
「母さんが……?」
父に見初められたという話しか聞いたことがないから、母が積極的に動いたという発言に耳を疑う。
クララは頬を緩めて笑うとふっくらとした腰に手を当てて豊かな胸を張った。
「実はね。父さんには素敵な恋人がいたのよ」
「はぁ!?嘘でしょ!?」
「あら、ほんとなんだから。私がどんなに頑張ったって勝てないような女性だったから絶対に振り向いてもらえないと思ってたんだけどね……」
「信じられない……あの父さんが」
今では頭頂部が薄くなっている父の姿からは想像もできないが、どうやら若かりしき頃のバダムは人気があったらしい。
「身長も高いし、顔立ちもまあまあ整っていたし……なにより村長の息子だったから」
「…………やっぱり」
村長の息子ということは次期村長候補なわけで、それが一番年頃の少女たちには魅力的に感じていたのだろう。
オーランがいったように女は現実的な生き物なのだ。
母も例外ではない。
「でもそれって母さんが父さんを横取りしたってことよね?」
聞いていた話とは全く違う父と母の馴れ初めは衝撃的だったが、それはそれで好奇心をそそられた。
クララはどちらかというと守られる立場の印象が強く、父の関心を引くために相手の女にどのように対抗したのか気になるところだ。
「そうね。横から奪ったのは事実」
クスクスと笑いながら母は肯定するがそこに全く悪びれた様子が無いのはちょっとだけ怖い。
もう済んだこと、過去のことだからかもしれないがローラだったらずっと心に引っかかって自分の幸せを感じるたびに自己嫌悪に陥りそうだ。
「でも終わってみれば彼女より私の方がバダムを想う気持ちが強かったってことが分かったし、彼女はもっと素敵な男性と結ばれて幸せな家庭を築けたんだから……それで良かったのよ」
「それで、良かったって……」
人の物を奪っておいてその言い方はあんまりな様な気がする。
非難めいた視線に気づいたのか、クララは少し拗ねたように唇を尖らせた。
「だって好きだという気持ちは止められない。どうせ適わぬ想いならいっそのこときっぱりと振って欲しい……」
そうしてもらえないと次の恋に行けないから。
「あなただって諦めるまでどれだけの月日がかかったか身に覚えはあるでしょ?」
そうだ。
ローラは失恋したとはいえ自分の想いを相手に伝えたわけではない。
恐らく相手はこちらの気持ちに薄々気づいていたとは思うけれど、ちゃんと言葉にしてあげなかったことでローラの恋心はずっと宙に浮いて消えることができずにずっと燻っていた。
消化できずに心に未練たらしく残って、いつまでもローラを苦しめた。
「…………自業自得なわけね」
「だからローラ。彼の想いに応えられないのなら、ちゃんと口にしてけじめをつけてあげなくては。このままでいいとは思ってないわよね?」
彼が誰を指すものか、名を出さずとも村人は誰のことを言っているのか分かるほどにはグリッドの気持ちを知っている。
「中途半端が一番始末が悪いんだから」
母は今までどんな気持ちで娘のことを見て来たのだろうか。
十年以上好きだった相手に告白する勇気もなくずるずる引きずって、幼馴染の想いを素直に受け入れることができずに意固地になっている娘に随分と苛々したり心配したりして。
「母さんはどうやって父さんを落としたの?」
少しでも参考になるかと思って聞いてみたけれどクララはうふふと含み笑い「押して、押して、最後に引いたのよ」と分かったような、分からないような返答をする。
恋の駆け引きというやつだろうが、ローラにはそんな高等な技術はない。
「私には無理そうだわ……」
すっかり温くなってしまったスープを流し込みローラは手を合わせて立ち上がる。
母が見守る中での食事は気まずいが、たったひとりで食事をするよりはよほどいい。
しかしこのまま独り身を貫けば、いつかはひとりで空しく食事をすることになるだろう。
そうならないためにもここら辺でしっかりと将来を見据えて行動しなくては。
「ねえ、押すって……どうやるの?」
親に尋ねることではないと分かってはいても、焦りや不安が口からついて出た。
クララは空になった皿を手にして「そうね……」と思案する。
「まずは二人になる時間を増やすことが先決かしらね」
「なに、それ……」
あまりにも助言にならない提案にローラはがっかりする。
「だってそれ以上は今のあなたには難しいでしょ?」
つまり経験不足。
そう指摘されて何故か反発心を抱いたのは、やはり相談相手が親だったからだろう。
「分かったわよ!経験こそが人を成長させるっていうのなら、なんだってやってやるんだから!」
「ローラ?」
途端に不安そうな顔になったクララを見てどこか胸がすく思いがした。
傷つきたくないとか、外聞が悪いとか頭の中にあって避けてきた諸々の事柄をこの際だからと奮起する。
いっそのこと経験してしまえばいいのだ。
みんなが通る道だ――そう思えば怖いことなどなにもない気がする。
現状を変えるために。
自分が変わるために。
中途半端が一番悪いのなら、思いっきり。
家から飛び出したローラを待っていたのは清々しいほどの晴天。
雨はすっかり上がっていた。