1 旅人と美少女
「いい加減に素直になりなさいよ」
苛立ちを抱えて行き場を探していたローラは最近二人目の子供を出産した友人フラニーの元を訪れたが、愚痴を零した瞬間に呆れた顔で遮られた。
昔はおとなしくローラの顔色を窺うような少女だったフラニーも、夫を持ち、子を産んだことで強くなったらしい。
もしくは伴侶を持ち温かな家庭を築いた優越感と余裕から、そんな態度を取れるようになったのかもしれない。
そんな邪推をして友人の幸せを妬んでいる自分の卑しさにほとほと嫌気がさす。
生まれたばかりの赤子を腕に抱き、優しくあやしながらフラニーが立ち上がり台所へと歩いて行く。
二人も子供を産んだ彼女の腰は緩み、ふっくらとした腕や胸がローラのそれとはまったく違っていて幸福の象徴のようにも見えた。
やはりひとりの女性として愛されている自信や安心はフラニーを魅力的にしてくれている気がする。
羨ましい。
純粋にそう思う。
好きな男性と婚姻を結び、その人から愛されることを望まない女などいない。
ローラだって人並みに幸せになりたいし、できれば子供だって産みたかった。
ただこの村には適齢期を過ぎた女を嫁にと望んでくれる相手が残念ながらグリッドしかいないのだ。
「なにが不満なの?グリッドは村では貴重な薬草師だし、誰からも慕われる人徳者なのに」
「なにが不満って――――」
昔は彼のことを男として魅力が無いと言っていた癖に。
今ではこうしてグリッドのどこが気に入らないのかと説教する友人の言葉など素直に聞き入れられるわけがない。
最後まで反論せずに口を閉ざし膨れっ面を晒していると、春の訪れを告げる花と茶葉を水でゆっくりと抽出した花茶を出してフラニーは「いーい?」と指先をローラの鼻の頭に突き付けた。
「待ってるって言葉を頭から信じていつまでもそんなに可愛げのない態度をとってたら、グリッドだって愛想を尽かしてさっさと若くて可愛い女の子に乗り換えちゃうわよ!?」
「そんなの、」
「あるわけないって思ってるんだったら、どれだけ自分のことが解ってないおバカさんなのかを私が村中に広めてあげるわ」
「――――思ってない」
そこまでバカじゃない。
「私はずっと言ってる。彼に。さっさとそうしなさいって」
それなのにグリッドはあの時ローラに「ずっと待っている」と約束してしまったから失恋の衝撃で立ち直るのに時間がかかってしまい、嫁に行きそびれた可哀想な幼馴染を置いて先に自分だけ幸せになることができないでいる。
優しすぎるために。
昔は美人だと誉められた容姿も年を追うごとに色あせていく。
ローラは瑞々しさを失い、笑顔も恋する気持ちも忘れてしまった。
「…………こんな女に」
付き合う必要は無い。
グリッドが人生を捧げるだけの女ではないと何故分からないのだろうか。
知識も技術もあるし、顔も性格だって悪くない。
仕事は誰からも必要とされるものだし、尊敬され大事にされるだけの人材でもあるのに。
「バカなのは私じゃない」
そうだ。
バカなのはグリッド――彼の方だ。
そんなことを口にすればフラニーに更に説教されてしまうのは解っているので、ローラは花茶をグイッと飲み干して「ありがとう。美味しかったわ」と礼を言ってから立ち上がる。
ちょうど子供がぐずり出した頃合いだったから逆にほっとした顔の友人に見送られ外へ出ると、寒い時期を乗り越え蕾が膨らんでいる道端の花に目が奪われた。
闇の月が終わったのだと実感するたびに胸がどこか切なく疼くのは、長く想い続けた相手が夜の深い闇のように艶やかで濡れたような髪をしていたことや彼が闇を司る竜族だったことも理由のひとつに違いない。
五年が経ったとしても、相手が既に伴侶を得ていたとしてもローラの中に深く根付いた彼への思いはそう簡単に消えたりはしないのだと気づかされる。
そしていつも傍にある男の顔も同時に浮かぶ。
その時にローラの胸に浮かぶ感情が果たして憐憫であるのか、申し訳ないと謝罪する気持ちなのか自分でも説明できない。
「自分のことなのにね……」
自嘲気味に唇を歪めるとローラは自身の家がある村の奥を目指して歩き始めた。
黙っていてもそこかしこに感じられる春の訪れを必要以上に見つけながらなので自然と足の運びは遅くなるが、それでも永遠に辿り着けないほど遠い所ではない。
見えてきた家は村長の持ち物であることを主張するかのように周囲の建物に比べて大きく、そして門戸も広く作られている。
村の責任者であり、まとめ役でもある村長の元には村人が相談に訪れることもあるし、なにか問題が起こった際や村の祭りや行事等の話し合いなどもここで行われるから当然だ。
「…………なに?お客さま?」
家の周りを囲む柵に三頭の馬が繋がれているのを見て首を傾げる。
村で馬を所有しているのは村長であるローラの父バダムと薬草師であるグリッドの父クラップの他には近くの町や村に荷や手紙を届ける仕事を請け負っている男だけなので、家の前にいる馬がそのどれでもないことくらいローラだけでなく村人なら誰でも分かるだろう。
「旅人……かしら?」
訪れる先々で珍しい物を手に入れ、次の町や村でまた別の貴重な物と交換して旅をする旅人はどこでも歓迎される存在だ。
彼らが持ち込んでくる品物だけでなく、遠くの町や村の様子を聞くことができるまたとない機会を人々は数少ない娯楽のひとつとして待ち望んでいる。
男も女も、そして子どもたちも見知らぬ場所の話しを聞いては胸を躍らせてもっともっとと旅人にねだるのだ。
村の出来事を細かく記録する役割もある長の元に必ず外からの訪問者たちは一番に立ち寄ることが決まりとなっていて――それはどこの町や村でも変わらないらしい――ローラは幼い頃から遠くからやってくる旅人たちを多く見ていた。
なので馬具のくたびれ具合や柵に結わえてある手綱の結び方、馬の毛並みや疲れ具合でどれだけ熟練した旅人なのかがなんとなく解る。
「あなたたちの主人は大切にしてくれているみたいね」
黒い鼻先の下に噛ませている轡も手綱も鞍も鐙もきちんと手入れされ、いい具合にくたびれていた。
馬はどれも毛艶がよく、しっかりとした筋肉がついていて十分に餌を与えてもらっていることも解る。
そして馬たちの瞳がどれも穏やかで気性も優しそうなところからも彼らがとても愛されていることが伝わってきた。
間違いなく腕のいい旅人だ。
きっと運んできた品々も素晴らしいものに違いないと期待できるほどに。
父バダムは娘の誕生日に珍しいものを贈ることができると大喜びで彼らを迎えたに違いない。
欲しいものは特に無かったはずなのに、行ったことも無い場所で作られた綺麗だったり不思議なものを想像して胸がときめくのだから我ながら欲が深いと呆れてしまう。
それでも親からの贈り物には純粋な喜びと愛情からなので、貰っても罪悪感がないところは気が楽でもある。
でもこの歳になってまで親の世話になり、贈り物を喜ぶのはどうなのか。
次に襲ってきた空しさが折角上向いてきたローラの気分を即座に叩き落とす。
とぼとぼと歩きながら玄関を潜ろうとした時だった。
「え……っ?」
黒い革の外套を翻し、ひとりの男が出てこようとしてローラとぶつかりそうになり「おっと」と立ち止まる。
意外と若い声に目を上げると一番に目に飛び込んできたのは漆黒の美しい髪だった。
そしてこちらを見下ろす灰色の瞳は緑にも紫にも見える。
男らしい頬の線とどこか女性らしい顎の柔らかさと細さの危うい均衡が彼の魅力をぐっと惹きたてているようだ。
体つきもほっそりとして、皮手袋をはめた手首の骨や筋が目立つ。
そして長い首筋も。
「おお、ローラ。戻ったのか」
彼の後ろからバダムが歩いて来て、父の声に男は「先ほど自慢されていたお嬢さんですか?」と振り返る。
「ちょ……自慢って!」
嫁に行きそびれた憐れな女を父は幾つになっても可愛いと他人に自慢するのだ。
やめて欲しいと懇願してもバダムの中ではローラはいつまでも小さな愛らしい子どものままなのか。
一向にその暴挙が止む気配はない。
さすがに村人相手に娘自慢をすることは無くなったが、遠くからやってくる客人や旅人たちは格好の獲物になる。
「…………ごめんなさい」
申し訳なくて謝ると男が目を丸くして再びこっちを見た。
「どうして謝る?実際に村長がずっと放さず手元に置いておきたいと思うほど美しいお嬢さんで正直びっくりしたくらいなのに」
世辞だと解っている言葉を素直に喜べるほどローラは物を知らないわけではないし、「そんなことありません」と突っぱねて不機嫌になるほど子どもでもない。
だから。
「優しいのね」
と口元だけで笑い、ローラは一歩さがって「村長の娘のローラです」と名乗った。
男がクッと喉の奥で笑い、右手を胸に当てる。
「俺は旅人のオーラン。各地で美しいもの、貴重なものを探している。暫くここで世話になることになったから、よろしく」
「ここ……?ここって、まさか」
オーランの含みがある言い方が妙に引っ掛かり、ローラは考えられる可能性に気づいて青くなる。
「そう、我が家だよ。ローラ。村には今、彼を迎えられるところが無いからな」
「そんな……!」
今まで父は旅人を家に泊めようとしたことは無かった。
それは若い未婚の女がいる家に素性の解らない男を近づけないためだったはず。
ローラは歳はいっていてもまだ結婚していないし、良い仲の恋人だっていない――どころか誰かと付き合ったことだってないのに――どうしたことか、バダムが旅人である若い男を泊めるなんて。
信じられない。
愕然としているとオーランが横を通り過ぎて繋いでいる馬の方へと歩いて行く。
そうだ!
繋がれている馬は三頭。
ということは!他にも旅人はいるのだ。
もしかしたら女の旅人も一緒かもしれない。
そしてその人とオーランが夫婦なのだとしたら――父が自宅に滞在するのを了承してもおかしくはないだろう。
ほっと胸を撫で下ろしていると奥からもうひとり出てくる気配がしてローラは急いでそちらへと視線を向けた。
「か、」
思わず声が漏れそうになったのは、その子の顔がとても小さく造形がおそろしく整っていたからだ。
およそ人族とは思えないほど可憐で、輝きを放っている金の髪や宝石すら霞んで見えるほどの緑の瞳だけでなく、触りたくなるほどの薄紅色の頬やほんのりと色づいた赤い唇の麗しさにローラは震えた。
こんな美少女の前で父はいい歳をした娘を自慢したのか――――!
羞恥と怒りによって頭の中が真っ赤に染まったことに当の父は気づいていない。
少女を笑顔で迎え、そしてローラに紹介するべくそっと前に押し出した。
「彼女は二つ先の町からやって来た薬草師見習いのメグだ」
「や……く、そうし……見習い?」
「そうだ。彼女は今日からクラップの所で住み込みで勉強することになったから仲良くしてやってくれ」
「クラップ小父さんの家で……住み込みで、勉強……」
バダムの言葉を繰り返すだけでちっとも理解できていないローラの頭は混乱の極みにあった。
にこにこと笑っている父の顔だけを見つめて一生懸命努力するが、受け入れることを拒否でもしているのか一向に飲み込めない。
「ちょっと、待って……少しずつ整理させて」
クラップはグリッドの父で、村だけでなくこの周辺に存在する村や町の中でも指折りの薬草師だ。
だから彼のもとで色々と学びたいとやってくる者も少なくない。
それにクラップとグリッドが森を開墾して作った薬草園には数多くの薬草が栽培され、その薬草を求めて近隣から薬草師や治療師がやってくることもあった。
客や訪れる人の数はもしかしたら村長の家よりも多いかもしれない。
そんなクラップの家は我が家に比べれば小さいけれど、一般的な家よりは大きいので――バダムが自宅に泊めたくないと思っている――旅人たちのほとんどがそちらへ押し付けられる形になっていた。
でもそこにはメグが世話になることが決まっている。
だから父はオーランの滞在を許したのだろう。
渋々か、喜んでなのかは分からないがそこまでの流れは分かった。
「彼女が、グリ――クラップ小父さんの家に住むの?」
こんなに可愛い子が。
こんなに若い子が。
大丈夫だろうか。
「そう言っているだろう?だからローラ、クラップの家まで案内してやりなさい」
「え!?私が?」
なんで、と言いかけたが途中で止めてちらりとメグを窺った。
彼女は両手に荷物を下げてにこにこと笑って待っている。
「…………いいわ。行きましょう、メグ」
「はい。よろしくお願いします」
儚そうな見た目とは違いはきはきと答えたメグは、その細い左右の腕にそれぞれ重そうな荷物を抱えているというのにそれを感じさせない足取りで歩き出す。
「あ、あの……荷物、持つわよ?」
「大丈夫です。わたし意外と力持ちなんですよ」
「そんなわけ」
あるわけがないと渋面を作ったローラに「では、試しに持ってみますか?」と差し出された荷を持った腕がグンッと地面の方へと引っ張られて悲鳴を上げる。
「な……一体なにが入ってるの!?尋常じゃないわよ!?」
結局持っていることができずに鞄は地面の上に落ちた。
メグはそれを軽々と持ち上げ「薬草に関する書物や綴りです」と説明する。
そしてそのまま馬の傍にいるオーランの前に立つとメグはここまで無事に連れてきてくれたことに対する礼を述べた後、約束通り馬を謝礼として渡すことを伝えた。
「頑張れよ」
「はい。オーランさんもどうぞお元気で。探し物見つかるといいですね」
「ありがとう」
ここまで数日かけてやってきた二人の間にだけ通じるなにかがあるのだろう。
オーランとメグはにこやかな雰囲気の中で互いの健闘を祈りあっていた。