エピローグ
「いや、お礼は俺じゃなくてシドに」
二人で行こうと約束したけれど、足を折ったグリッドは熱を出していて疲れもあるだろうからと無理やり寝台に押し込んできた。
村人たちは無事に帰ってきたことを喜び広場でそのまま宴会が開かれ、賑やかな声や調子外れの下手くそな歌が少し離れた家にまで聞こえてくる。
疲労は喜びに。
笑顔は安堵に。
明日からまた変わらぬ日常が戻ってくることを尊び、一日探し回った自分たちを労う彼らのために女たちは料理を運び、酌をして回る。
母も父もその宴に残っていて家にはオーランとローラの二人きり。
グリッドを見つけ出した功労者であるオーランが参加しないのは明日の朝早くに旅立つからで、一日伸びてしまった上に一番遅くまで捜索してくれた彼に無理を言ってはいけないと村人たちは渋々引き下がったという経緯をフラニーから聞いた。
なので旅装を解いてゆっくりとしているだろうオーランの部屋を訪れるのは気が引けたが、これを逃したらお礼を言う前に彼がいなくなってしまう気がする。
意を決して扉を叩くとオーランは困ったように笑って居間へと行こうと移動することを提案してきた。
寝台のある部屋で男と二人きりになることは本意ではなかったので素直に応じ、こうして机を挟んで向かい合っている。
「オーランじゃなくて、シドに?」
どういうことだろうかと訝しんでいると、オーランが不思議な灰色の瞳を怪しく煌かせて唇だけで笑う。
知っているだろう?と。
「あの時、グリッドを乗せた馬が戻ってきたからどこで何が起きたか知ることができた」
「グリッドの馬……?あ――――っ」
いくらオーランが知識豊富な旅人だとしても土地勘の薄い場所で当てなくただひとりを探し出すことなどできはしない。
なんらかの情報や手がかりが無くては。
グリッドの行方不明騒ぎが起こる前、ローラはとても信じられないが確かにシドの声を聴いた。
よく人の言うことを理解する賢い馬だと思っていたら、なんと普通の馬じゃなかった。
きっとオーランは知っていて、だからこそシドを丁重に扱っていたのだ。
相棒として。
「シドは馬と会話できるの……?」
間の抜けた問いにオーランが笑って「そりゃ、馬だからね」と応じた。
ただの馬ではないが、やはり馬ではあるのだと当たり前のことにほっとする。
でもシドは一体なんなのだろう?
人語を解し、人の言葉を話すなんて。
そんな馬がいるとは自分が体験していたとしても受け入れがたい。
今回はそのお蔭でグリッドを見つけ出すことができたとしても。
「どうして、シドは人の言葉が話せるの?」
「……それはとっても難しい質問だ。彼も自分が何者なのか理解できていないからね。ただ、俺はシドが獣人の子孫なんじゃないかと思ってる」
「獣人!?」
太古の昔、獣人は人族が住むこの世界グリュライトへ侵略しその圧倒的な力と獰猛さで殺戮を繰り返したとされている。
人は無力で大した抵抗はできず、ただ怯え逃げることしかできなかった。
ぐっと数を減らし、絶滅の危機さえあった人族を救ったのは竜族であるとの伝聞が残っているが確かなことは分からない。
ただ天が許さなかったことだけは間違いないだろう。
禁忌を犯した獣人たちは別の異界にある故郷へと戻る手段を失い、それと同時に彼らの力の源も断たれた。
繁殖する能力も減り、今度は絶滅の憂き目にあったのは彼ら獣人族の方。
野蛮で汚れた生き物。
そう信じて、忌まれ続けてきた獣人族の末裔がシドだとしたら――ローラはなにを信じたらいいのだ。
「そんな、」
激しく戸惑っているローラを真っ直ぐ見つめてオーランは小さく頷く。
動揺するのは当然だと。
「かつての獣人たちが行ったことはとても許されるものじゃない。だがあれからどれだけの月日が経ったと思う?数千年だ。彼らが悔い改めるには十分な時間が経ってる。彼らは孤独に耐え、人族の迫害に晒され続けながら細々と子孫を残して」
唇を震わせて彼は一旦言葉を切ると耐えきれないように目を伏せた。
どうして我がことのように彼らの境遇を憐み、悲しみに思いを馳せることができるのかとても理解できない。
旅人特有の感覚か、それともオーランの価値観が人と違うのか。
「彼らも、帰りたがってる」
数千年も前に閉ざされた獣人族の世界が果たして今も存続しているのかどうかなんて誰も知りようがない。
どこにあるのか。
どうやったら戻れるのか。
それを知っている者はグリュライトには存在しないから。
「俺はね、帰る方法を探しているんだ」
シドのために。
そして獣人族の生き残りのために。
自分のためではなく他者のためを思い願うことができるオーランはすごい男だ。
「もしできなかったら……せめて人族とこの世界で共存できる道を探したいと思ってる」
「そんなこと――――」
できるとは到底思えない。
困難すぎるオーランの望み不可能であるのに「できない」とはっきりと口にすることはローラには怖くて。
「言っておくけど、グリッドを救ったのはシドだ」
噛んで含めるかのようにゆっくりと口にしてオーランは感謝する相手を強調する。
「岩の切れ目の中に落ちた彼を見つけて引っ張り上げたのも、村まで運んだのも俺じゃなくシドだ。俺は何もしてない。ただ蹲るグリッドの傍へ行きシドの鞍に結び付けた縄の先を腰に結んだくらいだ」
頼む――とオーランの瞳は懇願してくる。
どうか否定しないで欲しいと。
シドを認めて欲しいと。
「メグは」
知っているのだろう。
彼らが特別な関係であると教えてくれたのはメグだ。
そして「探し物見つかるといいですね」と真摯な顔でオーランに声をかけていたから、彼の旅の目的も知っているだろう。
彼女がローラとオーランが一緒になり旅を続けられなくなったらと心配していたのは、シドのことを受け入れ好意を抱いていたから。
「そっか……不幸になるのは私とオーランだけじゃなく、シドもだったのね」
だからこそ必死で。
「メグは本当にいい子」
その柔軟さが少し羨ましい。
「知らないことこそが一番恐ろしいことなんだ。獣人を嫌悪し、恐れるだけじゃなく少しでもいい」
知ろうとして欲しい。
全てじゃなくてもいいから。
彼らのことを。
「シドは本当にローラとグリッドのことを応援している、だから」
「……私もあなたとシドのことを応援して欲しいのね?」
小さく首肯するオーランはどこか自信なさげで不安そうだった。
やれやれと溜息を吐き、左の肘を机に乗せてその手のひらに顎を乗せる。
「なによ、あなたは私たちのこと応援してくれないの?」
それじゃ不公平じゃない。
「ちゃんと祝福して。私も努力するから」
「ローラ?ほんとに、」
「私の初恋の相手竜族だったの。天災だと恐れられ、煙たがられてる竜族を一途に十年以上も思ってたのよ?だからね」
シドの幸せを願うことなど簡単だ。
進んで共存への道を他人に説くことはできないけれど陰ながら応援するくらいはできる。
村長の娘の権力を使って獣人族が迷い込んできた時にむやみに痛めつけたりしないように口出すことも可能だ。
「大きなことはできないけど、オーランの探し物が見つかるように私も祈ってる」
オーランはくしゃりと泣き笑いの顔で「ありがとう」と呟いた。
それから「グリッドと幸せに」と続けたので今度はローラが「ありがとう」と返す番だった。
彼とはそれっきり。
中性的な顔をした美しい旅人は夜遅くまで宴に興じていた村人たちが深い眠りについている間にそっと旅立った。
別れの言葉を交わすことができないままだったが、きっと辛くなるからと彼が気を使ってくれたのだと思うことにした。
最後まで不思議な男だった。
今頃どこを旅しているだろうかと思いを馳せつつ、彼の夢が叶うことをその度に願っては教えてくれた月光花の歌を口ずさむ。
月のように妖しく、手の届かない彼を。
本当はちょっとだけ好きだったのだと隣にいる夫に詫びながら。