13 もしかしたら
「どうか長い道中お気をつけて」
そう言いながら母が早起きして作った料理の入った包みを受け取りながらオーランは「ありがとうございます。長い間お世話になりました」と感謝の念を伝えた。
黒の外套を身に着けた旅人は何度となく出会いと別れを繰り返して慣れているだろうに、それでも整った美しい顔に寂しさを滲ませている。
ローラの鼻の奥がつんとして不覚にも泣きそうになり慌てて視線を逸らすと、その先にいた月毛の馬がじっとこちらを見つめているのに気づく。
「シド……あんたにはなんか色々とバカにされてた気がするけど、もう会えないかと思うとちょっと残念だわ」
そっと近づいて目の前に立つとシドは首を振って白っぽい鬣を散らし、唇を捲って白い歯を剥き出しする。
そうすると笑っているように見えてローラは堪らずに吹き出す。
「元気でね……オーランと仲良くするのよ?」
鼻を鳴らして心配には及ばないと言わんばかりのシドの様子が余りにも人間臭くてやはり不思議な馬だと感嘆する。
輝く大きな茶色の瞳には知性すら感じられるし、良く動く耳はどんな言葉も異質な音の気配すら聞き逃すことは無いように思えた。
筋肉の浮き出た美しい胸や脚、すらりと伸びた首筋。
感情豊かに動く綺麗な尻尾や表情を見て改めてローラはシドがどの馬よりも素晴らしく、そして特別な馬なのだと実感した。
「あんたたちの前ではたくさん恥じ晒してみっともない所ばっかり見せてたけど」
頑張るから。
「ちゃんと幸せになれるように、ってちょっと、やだ!ふ、あははは」
濡れた鼻を頬に着けられてローラは驚きつつも笑い声を上げた。
しんみりとした別れは御免だという風に、耳元をべろりと舐められてたまらずに逃げ出す。
その瞬間。
確かに聞こえた。
「お前も、アイツと仲良くな」
と、囁くような声で。
「あんた、」
空耳かと思えるほど小さくて確証は無かったけれど、絡み合った視線の先にあるシドの瞳は真っ直ぐでどことなく懇願にも似た光りがあった。
全身の産毛が総毛立つような気持ちの悪さと一気に体温が下がったことによる寒気に襲われてローラは唇を戦慄かせる。
「しゃべ、」
れるのか、と続く言葉を途中で止めたのは確かめるのが怖かったからではない。
決してシドが怯えたように目を瞬かせて一歩下がったからでもない。
「―――――村長っ。大変、大変だ!」
道の向こうから血相を変えて村人が駆けてきたからだ。
全速力でここまできた男は汗だくで息も絶え絶えになりながら地面に膝を着く。
満身創痍の村人を労わりながら父がローラに水を持ってくるようにと言いつけたので、何事が起きたのか気にはなったがその場を離れる。
どうせあの様子では直ぐに話すことはできないだろう。
ひんやりとした室内に入ったことでまた寒気が戻ってきて二の腕を摩って耐える。
この平和なセロ村で大事などそうそう起こらないから、駆け込んできた村人の大変という内容もきっとそうたいしたことではないと――自分に言い聞かせて。
生まれてからずっと住んでいる我が家だとういうのに今日はとっても台所までが遠く感じる。
緊張と不安でローラの歩みが遅かっただけなのか、それともただの気のせいなのか。
漸く辿り着いた台所で器に水を汲もうと水瓶の前に進んだ所で名を呼ばれた。
のろのろと振り返った先にいたのは旅装を整えたオーランの姿。
「ローラ」
もう一度名を呼んだ彼の声は重く沈んでおり、語尾が微かに掠れている。
そして顔色が悪い。
「なに?あなたも喉が渇いた?」
違う、そうじゃないと返ってくる言葉は薄々予想がついていた。
ではシドのことを口止めにでもきたのだろうかとローラは苦笑しながら柄杓で水を掬う。
水面に映っている自分の顔は酷く疲れた顔をしており、そして歪んだ笑みを浮かべていた。
「大丈夫よ、私」
誰にも言ったりなんかしない。
そんなこと言ったって頭がおかしいんじゃないかと思われるだけだ。
それにそう聞こえた気がしただけかもしれない。
風の音が悲鳴に聞こえたり、獣の声が赤ちゃんの泣き声に聞こえたりするように。
意味のある言葉に聞こえて欲しいというローラの願望からそんな風に聞こえたのだ、きっと。
そう言おうとしたのだ。
だけど。
違った。
オーランは再度ローラの名を呼んで落ち着いて聞くようにと告げた。
訝しく思いながら小さく首肯すると彼が目を伏せてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「さっき、グリッドが乗って行った馬が戻ってきたそうだ」
「馬が戻ってきた……?それってどういう」
グリッドが出立したのは昨日の朝。
帰ってくるのは早くても明日だろう。
なのにどうしてグリッドの馬が帰ってくるというのだろう?
「ローラ、いいか?馬だけが戻ってきたんだ」
上手く話が掴めないローラに少し苛立ったようにオーランが口調を強めた。
それでも理解できなくて――違う、理解したくないのだと気づいた途端目の前が暗くなる。
持っていた柄杓が落ちて甲高い音を響かせ床に水溜りを作っただろうがそんなことどうでもいい。
よろめいたローラの腕を掴んで支えてくれたオーランが近くにある椅子へと座らせてくれた。
「どうして……?」
一体なにが起きたというのか。
隣の村までは一日程の距離。
天候も悪くは無いし、盗賊が出没するという噂も無かった。
眠りから覚めた獣たちもそれほど活発ではないし、幽鬼だって明るいうちはうろつかないというのに。
「……グリッドは、」
無事なのだろうか。
「――――――っ!」
その一点に思いが至るとローラの心は激しくうねり、恐怖で叫びだしそうになる。
膝が震え脈打つ鼓動と息苦しさに両手の指を掌に握りこんで必死に歯を食いしばった。
頭の奥が痛んで吐き気がする。
「落ち着け、ローラ」
宥めるように背中を摩る手の感触に気づきローラは反射的に身を捩った。
煩わしさと同時に自分が欲しいのはオーランの慰めでも手でもないと強い反発心が働いたのだ。
自分がいない間に他の男に気を許さないで欲しいというグリッドの声が、言葉が蘇る。
「いや!触らないで!」
悲痛な叫びにオーランが眉根を寄せて辛そうに顔を背けた。
下心ではなくただ優しさだけで触れている彼を拒むローラの方こそひどい仕打ちをしているというのにオーランは「ごめん」と素直に謝罪して手を下ろす。
「この、状況でっ!落ち着けって言われて冷静でいられるわけないじゃないっ!」
「……そうだな」
「分かんないわよっ。こんな時、どうしていいかなんて!こんなに、」
取り乱すなんて。
これほど怖いことなんて今までなかった。
失うかもしれないと恐れるよりもずっと怖い。
「もう、」
会えないの?
「もう……」
帰ってこないの?
そんなこと口にしたら現実になりそうでもっと怖かった。
だから必死で飲み込んで。
「大丈夫だ。俺が探してくる」
「オーランが……?」
「正確には俺とシドで」
だから心配しないで待っていればいいと微笑んだオーランの言葉に縋るように頷く。
なんの根拠もないけれど彼とシドならグリッドを見つけてくれる気がした。
今どこでどうしているの?
そうだ。
馬が無傷で戻ってきたのならグリッドだって無事なはず。
もしかしたら馬から下りて休憩している時になにかが起きて、驚いた馬が逃げ出して村に帰ってきただけかもしれないじゃないか。
「……連れて帰ってきて。グリッドを、絶対」
待っているから。
「お願い、オーラン」
「了解。任せとけ」
頼もしい台詞と共に立ち上がったオーランは靴音を鳴らしながら足早に去って行く。
ただローラにできることは彼の言葉を信じて待つしかなかった。