12 お仕事
「仕事で隣村まで行ってくるけど、ちゃんとローラの誕生日までには戻るから」
朝一番で訪ねてきたグリッドがあまりにも神妙な顔をしているので「別に無理して急いで帰ってこなくてもいいわよ」とは言えなかった。
彼は旅支度を整えており、肩越しに柵に繋がれた馬が見える。
出かける前にわざわざ会いに来てくれたのか。
昨日夕方に会った時にはそんなこと一言も言っていなかったのでこの仕事はきっと急な話だったのだろう。
「そう。分かった……気を付けてね」
セロ村はまだ朝靄に包まれており、起き出している村人もまだ少ない。
ローラも心地よい夢の途中で母に叩き起こされたくらいで、身支度を整えるのもそこそこに玄関口へと連れて来られた。
薄い夜着の上に肩掛けをかけたくらいでは朝晩はまだ肌寒い。
ふるりと震えてくしゃみをするとグリッドが申し訳なさそうに謝罪する。
「ごめん。まだ寝てるとは思ったけど、どうしても顔を見てから出発したくて……無理言っちゃった」
「…………ほんと。風邪でも引いたらどうするのよ」
なんだかやっぱり可愛げのない返答になってしまったが、慣れっこになっているグリッドはなんでもないことのようににこりと微笑んだ。
「その時はおれが看病するよ。特別に良く効く薬も調合するから」
「それはいいけど、あんたがいない間に倒れたらクラップ小父さんがその薬を作ってくれることになるんだけど?」
「確かに……でもおれのより父さんが作る薬の方が効き目はあるからね」
薬草師としての熟練度は経験と長い月日が必要だ。
だからグリッドよりもクラップの方が作る薬の方が確かで間違いが無いのは仕方のないことなのだが己の努力ほどに実力がついて行かないことを心底悔しそうに呟く。
それでも父の代わりに隣村まで仕事を任せられていることから分かる通りグリッドの腕だって決して悪くは無いのだ。
そんなに悲しそうに目を伏せていては彼の澄んだ瞳が全然見えない。
「そうなる前に帰ってくればいいだけのことでしょ」
「そうだね」
「ほら。ちゃんと顔を上げて。じゃないと道を間違えて迷っちゃうわよ」
頬にかかる横髪を払うようにして頬に手を触れるとグリッドの肌はひんやりと冷たかった。
なのに触れた先からじんわりと熱が伝わってきて戸惑う。
「迷わないよ。だって一本道だよ?」
くすくすと笑いながら目を細めて注いでくれる眼差しは柔らかい。
そんな風に見つめてもらえるほど未だに自分に自信が持てなくて、いつだって居心地が悪くなる。
だからその視線を受け止められずにそっと逸らす。
「……じゃあ馬から落ちないようにしっかり掴まってるのよ?」
「そんな間抜けに見える?」
心外だと言いたげに肩を竦めるグリッドの衣擦れを聞きながらローラはゆっくりと嘆息した。
「もう、いいから」
さっさと行きなさいよ。
「これ以上長居して機嫌を損ねても仕方がないし出発するよ」
「そうしたほうが懸命ね」
愛想もない返事にグリッドは苦笑し、左足を後ろに引いて身を返そうとしたところで「あ、そうだ。ローラ欲しいもの、決まった?」と思い出したように聞いてくる。
誕生日の贈り物についてだ、と気づきローラは首を左右に振る。
こっちにしてみれば別に欲しいものがあるわけでもないし、贈り物をもらえなくても一向に気にはしないのだが、グリッドは誕生日に贈り物をすることに強い拘りがあるらしい。
できれば貰っても心苦しくないものを咄嗟に思いつければ良いのだが、残念ながらいいものが全く思い浮かばなくて少々申し訳なくなる。
「そっか……じゃあ、どうしようかな」
困った顔で唸り声を上げる幼馴染は仕事のことなど頭から完璧に抜け落ちているのか。
全く出発する気配の無いグリッドを呆れ顔でローラは眺めた。
「思い悩むのは後にしたら?大体私がいらないって言ってるんだから気にしなくてもいいのに」
「……ローラは全然男心が分かってない。それに贈り物を喜ばない女の子なんてローラくらいだよ」
途端に不満そうにするグリッドがなんだか腹立たしくてローラは鼻先で笑い飛ばし腰に手を当てて胸を反らす。
普通の女じゃないことを今更責められたところで痛くも痒くもないが、男心も女心も互いに理解できていないのだから文句を言われる筋合いはない。
「お生憎さま!男心が分かってたらこの歳まで行き遅れるわけないし、グリッドだって女心が分かってたら恋人の一人や二人――――」
いつもの調子で口調を強くして喋り出たところで「ちょっと待って」と目を丸くしてグリッドが止めてきた。
できれば最後まで言わせてほしかったが、彼のなんとも微妙な表情――少し驚いたように目を瞠り口元を緩ませている――に面食らって口を噤んだ。
なにを言うのかと思ったら。
「ローラ……一応聞くけど、それって誘ってる?」
なんて意味の解らないことを聞いてくる。
「はあ?なんでそうなるの?」
「いや……誘ってるわけないって分かってるけどさ。そんな薄着でそんな格好されたら嫌でもそこに目が行っちゃうんだけど」
言い終えた後で遠慮のない視線を顔から胸元へと移されて改めて自分が薄っぺらい夜着姿であることを思い出す。
胸を張ったせいで形が丸見えになっている――例え肩掛けをしていたとしてもそれは隠しようが無かった――ことに一気に赤面した。
「ば、ばか!見るな!信じらんない、ほんと男って」
「そうだよ。男ってほんとに下心だけで生きてるから」
気をつけてよね。
「まあ、良いもの見られたし、そろそろおとなしく出発するよ」
なにが良いものか、と罵倒したくてもすぐには声が出ない。
肩掛けを掻き寄せて胸元を隠したままじっとりと睨みつけるだけ。
「じゃあ、行ってくる。おれのいない間くれぐれも他の男には気を許さないようにね」
一番危険なのはお前なんじゃないのか、という言葉も飲み込んでローラはこれ以上長引かせないようにひとつ頷くだけに留めておく。
グリッドは満足気に笑うと馬の手綱を解いてから慣れた動作で跨り馬上からもう一度こちらを見る。
ローラが軽く手を振ると安心したのか腹を蹴って進ませて、すぐに朝靄の向こうに消えて行った。
「…………行っちゃった」
隣村など馬なら一日もあれば辿り着く。
仕事の内容にもよるだろうが三日もあれば帰ってくるだろう。
丁度ローラの誕生日の前日には戻ってこられる。
なのに。
なんとなく気持ちが沈んでしまうのは何故なのか。
幼馴染の道中になにかありはしないかと不安になるのはどうしてだろうか。
「寂しい……」
なんて思ってしまうのは、顔を合わせ無い日がこれまでそんなに無かったから――という理由だけではないだろう。
「ローラ、そこは寒いから中に入ったら」
既に見えなくなって随分と経つのに、薄らいできた霧の向こうにグリッドの姿が見えないかと睨むように佇んでいる娘を心配して。
クララがそっと声をかけてきた。
「うん……でも、もう少し」
もう少しだけ。
彼が感じている寒さや空気をローラも感じていたい。
面と向かっては素直になれないし、可愛げのない態度ばかりとってしまうけれど本当は。
ちゃんとグリッドが好きだ。
ただ彼がローラに対する想いの激しさや深さに比べると、なんともあやふやで弱々しいからその温度差に戸惑うことの方が多いだけ。
「無事に……」
一日でも早く、無事に帰ってきて欲しい。
さっき別れたばかりだというのにもうグリッドの顔を見たくて仕方がないのだからローラも随分と絆されてしまったらしいと自嘲する。
欲しいものなんてないけれど。
願うのは彼が仕事を終えて真っ直ぐにこのセロ村に帰ってきてくれること。
ただ、それだけ。