10 仲直り
「小母さん、グリッドは?」
挨拶もそこそこに扉を開けて入ってきたローラをグリッドの母は朝食の準備の手を止めて笑顔で迎えてくれた。
薬草師の朝は早い。
朝だけでなく急に具合が悪くなったという村人が運ばれて来たり、呼びに来たりするので必ずしも薬草師であるクラップやグリッドが家にいるとは限らない。
「グリッドならメグと薬草園に行ってるわ」
「そう。ありがと」
案の定ご自慢の薬草園へと出ているらしい。
そのまま扉を閉めて向かおうとしたが「ちょっと待って」とグリッドの母キキに呼び止められた。
決心が揺るがぬよう、勇気が萎まぬように先を急いでいるローラにしてみれば少しの時間も惜しかったが把手から手を放して向き直る。
キキは小柄で華奢な体つきをしており、真っ直ぐにおろされた前髪のせいもあって実年齢よりもずっと若い。
忙しい薬草師の妻として、また息子を育て上げたひとりの母として立派にやってきているとは信じがたいほど。
目の前に立つローラよりも小さな女性はやんわりと目元を緩めて微笑んではいるが、背筋を伸ばして見上げてくる瞳は決して優しいばかりではない。
きっとグリッドはキキ似てるんだ。
柔らかな物腰や雰囲気に誤解してしまいそうだが、芯がしっかりとしていて根気強い。
そんな所が似ている。
「あのね。もうお互いに大人なんだからこういうことに親が口を出すべきじゃないと思うんだけど」
「…………はい」
一体何を言われるのかと身構えつつ、ローラはゆっくりと返事をした。
緊張で声が掠れてしまったし、唾液を飲みこもうとして上手くいかずにゴクリと音がする。
ぎゅっと指を握りこんで続く言葉を待つ時間の長いこと。
そわそわしているローラを見て、キキが困ったように小首を傾げて嘆息する。
「いい加減はっきりしてくれないかしら?一緒になるならそれなりに準備がいるし、あなたがグリッドを受け入れないならどうせあの子は他にお嫁さんを迎える気はないから孫を腕に抱くというささやかな夢を諦める必要がいるし」
細い指のついた掌を広げて小さな宝ものを優しく抱くような仕草をしたキキは顎を引いて自分の腕の間を切なく見つめる。
「若い子にしてみたらどうでもいいことなんでしょうけど、小母さんにしてみたら今後の楽しみが失われる一大事なの」
「小母さん……」
「別にグリッドを振ったからってわたしは恨んだりしないから。そろそろあの子の想いに区切りをつけてやってくれないかしら?」
お願いよ。
息子であるグリッドが拒絶されることを前提としたキキの言葉に、長い間幼馴染にとってきたローラの態度がどれほど酷なものだったのかと察することができる。
報われない恋に苦しんでいるグリッドの姿を村人全てがどんな風に見守ってきたのか。
「ごめんね。小母さん」
「ローラ」
自らのこれまでの罪に対する謝罪のつもりだったが、どうやらローラがグリッドを選ばないと勘違いしたらしい。
青ざめた顔でキキは目をみはり、次に悄然として項垂れた。
「私、まずは仲直りしなきゃならないから」
これから先のことはまだ分からない。
そもそも仲直りした所で二人が上手くいくとは限らない。
最近は顔を合わせれば互いに不愉快になることばかりで、話をしても噛み合わないことが多かった。
それでも毎日顔は見ていたし、言葉を交わしていたけど。
あの日から三日。
その間はずっと姿を見ていない。
ローラは特別に彼を避けているわけではないからグリッドの方が近づかないようにしているのだと思う。
逆に。
大人になれば仕事も増えるし役割もある。
そんなに暇じゃないから二・三日顔を合わせないことも無いわけじゃない。
それでも毎日顔を見ることができていたのはきっとグリッドが――こんなことを考えるのはひどく傲慢だと思う――ローラに会いに来ていてくれたからなのだ。
特に村の奥にある村長の家と森が近い村の端にあるグリッドの家とではかなりの距離があるから。
会うためにはわざわざ足を運ばなければならない。
それを毎日してくれていた。
だったらローラも――。
「毎日来る。グリッドに許してもらえるまで」
そして許してもらえたら意地を張らずに色んな話をしよう。
知っているようで知らなかった幼馴染の一面ももっと発見できるかもしれない。
「行ってくる。薬草園に」
グリッドの所へ。
「ローラ……?もしかして」
困惑しながらもキキの胸に少しの希望の灯が灯ったのか。
顔を上げてローラを見る瞳が潤んでいる。
「まだ、待って」
答えはローラひとりで出せるものでは無い。
だから期待に胸を膨らませて、あとでがっかりする可能性もあるから。
今度こそ扉を開けて外へと出る。
村の方を見れば幾筋も煙が空に上がっていつもの穏やかな朝の訪れを知らせてくれた。
太陽は上り、光は平等に地上に降り注いで朝露に濡れる草花を輝かせ、森の中にある薬草園へと向かう茶色の道へとローラを導いてくれる。
しっかりと踏み固められた道を急ぎ足で向かい、端に咲く草花に触れたスカートがしっとりと湿る頃には目的地が見えてきた。
柵で囲まれた部分があちこちから集められた貴重な薬草を植えている場所。
結構な広さがあり種類や採取された場所等で分別された薬草が並んでいるが、知識が無いローラか見るとどれも同じにしか見えない。
葉が薬となるものや根に薬効があるもの、実や種が材料となるものまで使用する部分も作用する効果も違うらしい。
人の姿は見えないが話し声が聞こえ、ローラは柵の傍まで行き視線を彷徨わせる。
声のする方へ。
だが丁度丈の高い薬草が視界を遮っていて良く見えない。
名を呼んで声をかけるか、それとも中まで入るか。
迷った末に会話を遮るのも悪いだろうと柵の入口まで歩いて進みそっと引き開けて足を踏み入れた。
柔らかな土がふんわりとローラの足裏を受け止める。
同時に薬草たち独特の青いような苦いような香りがした。
「――――――じゃないですか」
「そんなことないよ」
なにを話しているのか分からないが楽しげな声は確かにグリッドとメグのもの。
メグの可愛らしいクスクス笑いが薬草園に響き、それを喜んでいるかのように小鳥たちが歌う。
丈の高い草をそっと手で避けると白い花を咲かせた薬草を隔ててしゃがみ込み向かい合う二人の姿が見えた。
さっきまでは万物に等しく光を当てていたはずの太陽が、二人にだけ特別優しく美しく射しているように浮かび上がっている。
まるで、祝福されているみたい。
額の汗を袖で拭ったメグの輝くような可憐さと、手に着いた土を叩き落としながら微笑むグリッドのなんの憂いも無い穏やかな微笑みがローラの脳裏に焼き付いて目の奥がひりひりと痛みだす。
「―――――っ」
焼き焦がれるような胸の熱。
喉奥が締め付けられる苦しさに喘ぐしかない。
「あれ……?ローラさん?」
ローラの存在に気づいたのはメグの方だった。
腰を上げて駆け寄ってくる顔には“来てくれて嬉しい”という言葉が書いてある。
その後ろでグリッドはさっきまでの柔らかい表情を一変させて固い顔をしていた。
「おはようございます!会いに来てくれたんですね」
「ええ……。そう、だって約束したから。それに」
弾けるような笑顔のメグを見下ろした後、グリッドをチラリと伺うと形だけの笑顔を張り付けて彼はゆっくりと歩いてくる。
「メグに会いに来たんだろうから邪魔者は退散するよ。ゆっくりして行って」
そのまま立ち止まらずに横を通り過ぎようとするのでローラは腕を伸ばして袖を引く。
強く掴んだわけではないから振り払おうと思えば簡単にできる。
でも。
グリッドは足を止めて待ってくれた。
こっちを振り返ろうとはしなかったけれどそれでも十分だ。
「疲れたし、お腹すいたので先に戻ります。ローラさん、グリッドさん。ごゆっくり」
察したメグがそう言って二人の横を通り過ぎていく。
柵を開け閉てする音が響き、小走りに去って行く足音が聞こえなくなるのを待ってローラは大きく息を吸った。
「あの……は、えっと……そう、謝りに」
つっかえながらもなんとか言葉を発する。
応えは無いけど聞いているその背中に向かって。
「謝りに来た、の」
まずはなにから謝ればいいのか。
謝らなければならないことばかりだから困ってしまう。
「ああ、違う。その前に誤解、あのね。私はジョーを伴侶に選んだわけじゃないから。それはジョーも同じで、お互いに特別な感情は持ってなくて。今まで恥ずかしいとか、傷つきたくないとか、外聞が悪いとかで避けてきた色んなことのひとつを経験してみたら何か変わるかもしれないって、やけくそになった私がジョーに頼ったせいでこんなことになっちゃって」
そもそもこの歳まで未経験なことが多すぎるのが問題だったのだ。
初恋を引きずり、次の恋が怖くて逃げてたから。
「全部ひっくるめて私が悪かった。ごめんなさい」
巻き込まれたジョーにも後でちゃんと謝りにいかなくては。
改めて申し訳なく思いながら、黙っているグリッドの袖をぎゅっと握りしめた。
「許してくれるまで毎日来るから」
「…………もう、いいよ」
「もういいって、どういうこと?折角人が決心して毎日来るって言ってるのに。そりゃ顔も見たくないくらいに怒ってるのかもしれないけど――――!?」
突然手首を掴まれたと思うとわけが分からないうちにグリッドの腕の中にいた。
グリッドの肩越しに見る薬草園の瑞々しい景色。
栗色の髪に光が透けて。
嗅ぎなれた薬の匂いと温もりが近くにある。
まるで壊れ物を扱うかのように優しく抱かれてローラは驚きよりもふっと力が抜けるような心地よさにほうっと息を漏らす。
「…………顔、見たくないわけない」
「う、そうなの……?」
ならばもう誤解は解けて仲直りができたということだろう。
さすがに拒絶されつつ毎日通うのは精神がもたない。
更に安堵で息をそっと吐き出すとグリッドの腕に心なしか力がこもったような気がする。
「グリッド?」
「本気でローラがジョーを選ぶと思ってないよ。でもさすがに寝台で抱き合う二人を見たらちょっと面白くなかったし、その後ローラと喧嘩しちゃったし。それで怒りが抑えられずにジョーを脅しちゃったけど」
わざわざ会いに来て、謝ってくれたしね。
グリッドが耳元で囁く声になんとなく甘い響きがあるのに気づきローラは赤くなる。
「こうやって抱きしめても嫌がられないってことは」
「ち、が。あの、えっと……いやではないけど、まだ気持ちの整理ができてなくてっ」
「もう随分待ったけど……?」
「ちょっ、それは勝手にあんたが」
不服そうなグリッドの言葉に今までのように返そうとして慌てて口を噤む。
胸に両手を置いて押すとグリッドはあっさりと腕を解いて一歩さがる。
「追いついてないの。全然。だから、あのね」
「…………つまり、もう暫く今までのままってこと?」
「………………ごめん。でも、ちゃんと真剣に考えるし、今までより一緒にいる時間増やそうと思ってるし」
自分が我儘を言っていることの自覚はある。
だからそれをグリッドが拒否すればそれで終わってしまう。
チラリと目線を上げると彼と視線がぶつかる。
いつものように澄んだ水色と瞳。
「だって、もう少しあんたのことちゃんと知りたい……から」
だからやっぱり甘えてしまって。
「あ――――もう。ローラには負ける。分かった。あと少しだけ待つよ」
しょうがないなと続けたグリッドに「ありがとう」とお礼を言って、少しだけ胸が軽くなった。




