9 友人と異性
「頼むからローラからもなんとか言ってくれよ」
夜空を背に窓枠を掴んで訴えてくるジョーは必死な様子だが、こんな時間帯に私室の窓を叩かれて驚かされた方の身にもなって欲しかった。
勿論まだ夜着に着替えているわけでもないし、寝台に横たわるほど遅くもない。
それでも玄関からではなくローラの部屋まで庭を回り込んで訪れるのは非常識極まりない行動だ。
「あいつ、ずっと勘違いしっぱなしなんだ。確かに俺も悪ふざけが過ぎたのは反省してるって。でもお互いに本気じゃないって解ってるはずなのに、あいつ、なんであんなこというんだか」
本当に解らないんだと黒く変色した頬や目の周りを歪めて彼は俯いた。
「…………あんたもとんだお人好しね」
自分を殴った相手を心配して、そしてその原因となったローラに助けを求めてくるのだから。
「いやいやいや、ローラさん。そりゃないわ」
「なにが?」
「なにがって――ローラも気づいてんだろ?ほんとは。そこまで鈍い女じゃない。どちらかといったら自分に向けられる好意や羨望の眼差しには敏感な方だろ」
それを。
「気づかないふりしてどれだけあいつを振り回せば満足するのか聞きたいくらいだけど?」
掴まれている窓の桟がミシリッと音を立てる。
実際にはそんなことはなかったのだろうけれど、ローラには不穏な空気と音が痛みを伴って聞こえてきた。
「ふり……?」
「そうだよ。ほんとに子どもの頃からあいつはずっとローラのことしか見てなかった。そんなことみんな知ってる。村のやつら全員が知ってることを当の本人が知らないなんてあるわけないだろ。あんなに分かり易いってのに」
身に覚えがあるだろと問われてローラは口を噤んだ。
視線を感じて振り返ればいつだってそこにはグリッドがいて、ローラが彼の誕生日を忘れたことがあってもグリッドは誕生日に贈り物を欠かしたことは無かったし、片思いの苦しみに切ない涙を流した時も隣で慰めてくれた。
「ずっと待ってる」
その言葉とは裏腹に、彼がローラを見つめる視線には激しく揺さぶられるような熱意は無くて。
ただ穏やかに微笑み、変わらぬ友人の顔で傍にいるばかりだから。
「本気かどうかなんて、」
分かるわけがない。
友人としての好意なのか。
異性としての好きなのか。
「私にはグリッドの想いがどっちなのか分からない」
「ああ……しっかりしてくれよ。ローラ」
盛大な嘆息の後でジョーは長い前髪の向こうからこちらをじっと見つめてくる。
残る殴られた痣が顔にあっても彼の造形は変わらず整っていたし、目元や仕草も甘い雰囲気を醸し出している。
でもそれらがローラの心をときめかせることは無い。
そんなことジョーだって望んでない。
「あの後、グリッドからなにか言われなかったのか?普通なら、あの流れでなにもないとか有り得ないんですけど」
「なにかって……い、色々あったけどそれはちょっと言えない。ただ」
あの時初めてグリッドの中に異性を感じて恐怖を抱いた。
そして。
「ジョーじゃなくておれを選んで欲しかったって……」
その言葉に胸が疼いたことも思い出す。
最後にローラを抱きしめた腕が優しくて温かかったことも。
「私、ちゃんと追いかけてジョーを選んだわけじゃないって伝えようとしたのに」
聞こうともしてくれなかった。
いや。
違う。
あまりにもグリッドの傷心が深くて。
そして彼の涙にローラが驚き怯えてしまったから。
「もっと、」
逃げずに話せばよかった。
母の助言の通り二人きりになる時間を増やすことで互いの想いや気持ちを整理できればこれほど拗れずに済んだのだろう。
無理をせず、自分にできる最大の努力をするだけで良かったのに。
「私、バカだわ」
ツルリと目尻から零れた涙が頬を伝う。
どちらか分からなかったのはグリッドの想いではなく自分の想いの方だった。
友人として好きなのか。
男として彼を求めているのか。
本当のことを言えば今でもどちらなのか分からない。
あまりにも近すぎて、いるのが当たり前すぎて。
「じゃあ、俺の頼みを聞いて誤解を解いて来てもらえる?」
ローラはしっかりと首を縦に振る。
そうするとジョーは酷く安堵した顔で笑った。
「良かった―……。実はローラと結婚しないと今後病気になっても怪我をしても薬を処方しないって脅されてたんだよ。あ!いや、別にローラと一緒になるのが嫌ってわけじゃなくて!」
「そんなこと言い訳しなくても気にしないから」
「いやいや。ありがたい。感謝ついでにもうひとつ暴露しとこう」
「なに?」
にやにやと笑い始めたジョーの様子から聞くのは怖かったが、好奇心の方が強かったのは否めない。
「ローラに村の男が誰も言い寄らなかったのは村長の娘だからって遠慮とかだけじゃなく、全部グリッドが裏で圧力をかけてたんだ。みんな命に関わるから薬草師に睨まれたくないしさ」
「――――嘘でしょ!?」
グリッドが友人たちにそんな脅しをかけていたとは意外である。
優しいばかりの男だと思っていたが、本当は違うのかもしれない。
「ほんと。でもそれだけあいつがローラを好きってことだろ。まあ脅されなくてもグリッドの気持ちを応援するって奴は多いから、引かないでやって」
「…………それ、普通の女は確実に引くから」
「普通の女は、だろ?ローラは普通の女じゃないから」
きっと大丈夫だろ?
そう断言したジョーを軽く睨みつけながら、頬に熱が集まってくるのを抑えられなかった。
鼓動が高まり、心地よい浮遊感で満たされる。
こんなこと久しくなかった。
だから戸惑いの方が強い。
「ど、どうしよう?」
「どうしようって」
俺に聞かれてもと苦笑して、ジョーは焚き付けておきながら後は知らないとばかりに窓から一歩下がった。
夜の闇に抱かれてセロ村一の色男の姿が遠ざかる。
「まずは仲直りすることだな」
代わりに窓辺に駆け寄って身を乗り出したローラを哀れと思ったのか。
ジョーは手を振りながら現実的な問題を解決する術を提案してくれた。
「ありがとう、ジョー!」
もう見えなくなった男に向かって声を張り上げて礼を述べるが返事は無かった。
それでも満足そうに笑っているジョーの顔が想像できてローラは胸いっぱいに夜気を吸い込んでキラキラと瞬く星空を見上げる。
もう手遅れかもしれない。
彼の気持ちは冷めてしまったかもしれないけれど、ローラの想いは漸く芽吹いたばかりで心細く震えている。
また失うかもしれないけれど、まだ今なら痛手は小さくて済む。
父に頼んで他の村や町から伴侶を求めるのはいつだってできるから。
打算的で狡い、我儘な嫌な女だと我ながら自嘲する。
「本当に欲しくてたまらないものを手に入れるには、やはり身を切るほど失い難いものでなくてはならないのなら……」
矜持や恥を捨てて全身全霊でぶつかる覚悟が必要だろう。
ちょうどメグが遊びに来て、と言ってくれたからそれを口実に明日行ってみよう。
みんなが口を揃えて進もうとしている道は間違っていると指摘してくれていたから、その言葉に耳を傾けることに誰も文句は言わないはず。
「まずは誤解を解いて、それから仲直りする……」
簡単なことのように思えるがそれがどれほど難しいか。
子どもの時ならいざしらず。
いい大人が自分の非を認めて謝罪することにどれほど勇気がいるか。
縺れてしまった糸を解くことがどれほど困難な作業か。
拒絶される恐怖。
背をむけられる辛さ。
すれ違う言葉と思い。
グリッドはずっとそれを味わってきたはずだ。
ならば一度の挫折で諦めたらいけないと思うから。
「よし。明日のために、寝よう」
決めたのならば今度ばかりは迷ってはいけない。
だからごちゃごちゃ考える暇を与えぬように眠ってしまわなければ。
急いで窓を閉めてローラは就寝の準備を始めた。




