2
「第二、文学部?」
「そうだ。第一文学部があるのだから、第二文学部があってもおかしくないだろう。名称はそれでいこうと考えている」
私は浮かれっぱなしの調子で、そのように、西園寺礼子に進言した。
「発想そのものは悪くないが、教師相手にどう取られるものだか」
「心配の必要はない。既に教師に確認をとったところ、問題ないとの返答が返ってきた。ただ、建前としては外国の文学を扱って欲しい、とのことだ。第一文学部が既に国文学を扱っているということだから」
「いいのか? 君が好きなのは、国文学なのでは」
「そうだが。ただ、建前でいいだろう。自由にやらせてもらうさ。そしてほら」
私は浮かれた調子で書いた計画書も、西園寺礼子に見せつけた。
「計画書まで用意してくれたのか」
「私は私の問題を解決したいと思っているだけだ。暇だった、というのもあってね。顧問も候補は捕まえてある」
「それじゃあ、後は」
「そうだ。部員となる。念のため確認だが、君は部員になってくれるということで、いいのだろうか」
「構わない」
「よし。ではあと三人なのだが、私が人員を選びたいと考えている」
「その方がいいだろう。君の望むようにした方がいい。当初の予測と目的と考えれば」
「うむ。まず、東航平だ。あそこにいる」
東航平は、放課後も図書室で本を読んでいることが多く、今日もまた、SFの類を机に並べていて、ぶつくさ独りごちながらページを捲っていた。
「既に話を?」
「いや、これから通す」
私は東航平の元まで行き、話しかけた。が、空を切る。いつものように読書に没入しているようだった。
彼に話しかけることが出来たのは、ようやく彼の読書が一段落ついてからだった。
「ああ、郷田さんじゃないか」
彼は誰に対してでも、さん付けで呼ぶ。そのよそよしさは誰に対しても同じで、SF以外信頼しちゃいないという姿勢なのかもしれない。
「やぁ、今宵はどんな読書を?」
「初心に返ろうと思いましてね」
と、私に見せたのは、ロバート・A・ハインラインの、夏への扉だった。これは私も読んだことがある。
「そういえば、遠からず夏休みが訪れるな」
「その通り。だからこそ、なんですよ、郷田さん」
と、東航平はまた読書に戻ろうとして、慌てて制する私。
「今日はね、君にお願い事、というか。出来ればでいいのだが、提案があってね」
「どんなことです?」
「部活を創る。第二文学部という、私の創るオアシスのようなものだよ。建前は外国の文学を取り扱うものだけれど、実体は何でもありだ。他の部員がついてこれるかは別にして。君もSFを嗜めばいいよ」
「入ります」
二つ返事だった。
何の苦労もなし、とはまさにこのことだろう。
そして彼はまた、それ以上話すことなどないだろうとして、読書に戻っていった。
私はしてやったりの顔をして、西園寺礼子の元へ戻る。
「順調のようだな。そして次は?」
「次は……女性部員、なのだが。成功率は低い」
私はこの時、自らの楽園を創ることで頭がいっぱいだった。さながら、しようのない成金が豪邸を建てるが如し。頭の中では夢物語が紡がれていたのである。
どうせなら。
という、願望。
弓道部の活動が週に三回程しかないということは知っていた。だから入り込む余地はあるし、承諾される余地もまた、あるのでは、と踏んでいた。
「来栖京香?」
西園寺は意外な顔をして、私を見た。それはそうだろう。私とあの淑女との接点が、どこにも見受けられないだろうから。
「実は彼女がかつてドストエフスキーを読んでいた所を目撃してね。いや、なに、外国の文学に私も、東も、そして君も疎いだろう。一人くらい詳しいのがいないと、言及されたときに窮するだろうから。それに彼女は頭がいいと聞く。一石二鳥じゃないか」
とってつけた理由だったのだが、西園寺礼子は納得したようだった。
「君の好きなようにやればいい」
彼女は頷いた。
私は機を見計らって、放課後2ーCへ行くことにした。
なにせ学年のアイドルなのである。
気安く私ごときが触れているところを見られれば、反感を買うだろうし、彼女としても私のような下々の連中と話しているところを誰かに見られたくはないだろう。
一人の所を見計らおうという、私の計らい。2ーCの扉から私は彼女の様子を伺い、下駄箱でようやく彼女に話しかけることが出来た。
普段であれば、こんなことは出来ない。
しかし乗りに乗っていた私は違った。
こんなことをまず言ったのである。
「やぁ、来栖さん」
やぁ、である。
誰だお前は、と言われても仕方なし。彼女と私は、まるで面識がないのだから。
「えっと……」
やはり困った顔をしている来栖京香。
「郷田さん?」
「え? 私を知っている?」
「2ーAの方でしょう?」
このような誉れが、この世界にあるのだと私は知った。
「どうして私のことを?」
「確か、いつだったかしら。文学部のお友達があなたのことを話していたのを耳にしたことがありまして」
もしかして、第一文学部の新入生歓迎会のことだろうか。もしそうだったのならば……あの時醜態を晒したとは思っていないが、快い内容の伝聞は彼女の耳に届いてはいないだろう。
「そうですか。いや、失敬。私のことを知っていらっしゃったとは……実は私、このたび部活を設立することになりまして、ええ。いや、この前たまたま来栖京香さんを見かけた時に、フョードル・ドストエフスキーをお読みになられていたのを見まして……その、記憶に残っていたのですよね。ええ、いや。本当」
ほぼカタコトになっていた。
かつてを思い出す。
かつて、この乙女に少しばかりでも魅了されていたことを。
それは払拭されていたはずだったし、今日もそのような策略で彼女の元に足を運んだわけでは決してないというのに。ただドストエフスキーを読んでいた彼女が第二文学部に相応しいと感じたからこのように話しかけているだけだというのに。
「どうかしましたか?」
上目遣いで、俯いてしまった私を覗いてくる来栖京香。まずい。この高鳴りを、私はどう処理をすればいいのだ。
「いいや。その、ドストエフスキーを読むということで、あなたは多分、外国の文学を嗜んでいるのだな、と思いましてね。私が創ろうとしている文学部は、様々な人間が集う場にしたいと考えていまして。今のところ、国文学を愛する人間、SFを愛する人間……」
ええと、西園寺礼子は。
「オカルトを愛する人間など、様々集っていてね。そういった人間同士が議論を交わせる場というのを、提供したいと考えております。ドストエフスキーをお読みになるくらいだ。いえ、軽いお誘いというわけで、別段あなたが多忙というのであれば、全く問題ないのです。ただ、もしご興味があれば、ということになりましてですね……」
「あら、それは素敵な会合ですね」
「そうです! わかりますか、素敵なのです」
「けれど私、弓道部をしておりまして、それに家のならいごとなんかも実は、ありまして」
「そうですか。多忙ですよね、やはり」
案の定、ではある。
しかし、こうなるのは想定の範囲内だ。ここで引き下がるわけにはいかない。
「ただ、週に一回でも、参加が可能なんです。我々も、現在活動日を考えてはいますが、軽い気持ちで兼部していただき、その上で合わないとお考えになるのであれば、退部して頂いても、ぜんぜん構わないのですよ」
来栖京香は、思案している。
やはり忙しい身の上なのだろう。これ以上困らせるわけにもいかないので、私はあらかじめ用意しておいたメールアドレスの記載された紙を手渡した。
「失礼しました。気が向いたら、で大丈夫です。この件は忘れてくださっても構いません。ただ、もし興味があるというのであれば、見学だけでも結構ですので、いつでもこの宛先にご連絡ください」
すると来栖京香はあの、微笑みを見せた。
学年の……いや、学園のマドンナ……違う、日本を代表するスターだ。地球に生息する男性を魅了する、その微笑み。
そして言うのだった。
「ありがとうございます。検討させて頂きますね」
それでは。
私は手を振り、下駄箱の前で立ち尽くし、霊に取り憑かれてみるものだと思った。人生、一度くらい霊に取り憑かれても、悪いことはないんじゃないか、と思い至ったのだった。
この時、すべてが順次好調に滑りだしていた。上手く行き過ぎていた。霊に取り憑かれていることを差し引いても、私は幸福を享受することが出来ていた。
私。
東航平。
西園寺礼子。
来栖京香。
この四人であれば、私は私のユートピアを築くことが出来ただろうと思う。そして晴れてあの霊もどっかへすっ飛んでいって、おさらばしていたとも思う。後の一人は、適当に勧誘活動をしていれば、どこかでわかりあえる仲間がいるだろうとの展望を見出していた。
ただ、私は忘れていた。
すっかり忘れていたのだ。
浮かれきったへべれけ人間になっていたのだ。
人間とは末恐ろしい存在だと、身にしみてわかっていたはずなのに。
覗きをした、ということは覚えていても。
あのヒューマンホラーの存在を。
萌木蜜柑の存在を。
忘却してしまっていたのだった。
・
「たくみんさ、最近元気そうじゃない?」
萌木蜜柑は今日もアイドルフェイスだった。
来栖京香のマドンナぶりを見た私にとっては、彼女の見せかけのその笑顔にだまされるわけはなかった。
今の私は、彼女に何を言われようとも、動じたりはしない自信もあった。彼女はそもそも、そこまで凶暴ではない。いじめをしたりだとか、私の人間性を損なう行為は、したりしないものだと、思っている。
…………
……
思っていた。
「なんかいいことあったの?」
十分休み。教室はざわめいている。
「いいや。特段。なに、新しい小説を読める、だとかそういうわくわくが最近途方もなくうれしいような気がしているだけさ。ありふれたものに感謝を、といった具合だよ」
「へぇ。それはよかった。じゃあ、今日私、そんなたくみんと一緒に帰りたいからさ、よろしくね。いいよね?」
その時、私は一瞬だけ、ほんの一瞬だけではあるが、いけないものを見た。いけないものというのは、まず彼女の目。一瞬だけ転じたその目には、やはりありありと闇が沈んでいた。そして私の頭のなかでも、暗がりを見たのである。
気のせいであるとした私は、頷いた。
拒否して彼女の気分を損ねれば、また面倒ごとが起きる。ジュースをおごるだとか、愚痴を聞くだとか、どこかに行くのに付き合うだとか、その程度の些事であれば、受け流すことが出来るだろうから。
萌木蜜柑の指令は、結局の所スタバでお茶をおごって欲しいということだった。直接的ではなく、間接的に、そのようにねだってきたのだったが、私は内心微笑んだ。この程度、全く問題ない。小説が一冊買えなくなるくらいだ。頻繁にこのようなせびりを食らうのならばまだしも、たまになら許せる。
私としても、この程度で彼女の気分がおさまり、あの極道系の目をして睨みつけられないで済むのであれば、なんとかフラペチーノだの、モカなんちゃらだのも悠々おごってみせる。
私たちはまたJR大船駅近くのスタバに足を運んだ。前回来た時と同じ席が空いていて、私達はまたそこに着席したのだが、前回来店した時のことがちらと頭をかすめた私は、頭をふるった。やめよう。いい調子なんだ。萌木蜜柑だって、にこにこしている。
「またコーヒーかよ、たくみん」
「あいにく私は甘いものはそこまで好きじゃなくてね」
「硬派だなぁ、いけずぅー」
「そのなんだかわからないホイップを塗りたくった代物はいかにも甘そうだ」
「甘いよ。女の子はね、甘いもの大好きなの」
「そういうものか」
対等に、話せているではないか。
こうなると、もはや恐怖はなくなってくる。
「にしても、君は普段何をしているのだ?」
「普段?」
「いや、学校が終わるとすぐに帰宅するようだし、何か用事でもあるのかと」
「ん。まぁ、色々、かなぁ」
「色々……か」
「そんなことより、もっと楽しい話してよ」
「そんな無茶な」
とはいえ、私はその場を持たせるために無茶をすることとなった。
彼女が気に入るであろう小説の話だとか、大体そんなもので、途中萌木蜜柑は明らかに退屈そうにスマートフォンをいじったりしていたのだが、とりあえず難癖がつくレベルではなかったようで、やはり私は私の口先に少しばかりの自信を覚えるのだった。
「たくみんの話って面白いね」
その言葉には全く感情がこもっていないように思えたが、ひとまずこれで、彼女のご機嫌取りには成功しただろう。
「小説なんか読まないでさ、部活やればいいのに。文学部、とかさ」
「ああ、文学部は……歓迎会に行ったきりで、私には合わなかったみたいだよ」
「じゃあ、第二文学部は?」
「え?」
「第二文学部」
「……え?」
「第二文学部。楽しそう、だよね」
目を落としていた私は、彼女に再度視線を戻すことが出来なくなっていた。声からわかるのだ。彼女がもう……アイドルを辞したであろうということが。
しかし、私に後ろめたさなどあるわけがなかった。一体なんだってその行動を制限されなければいけないのだろう。
戦わなければならない。
私は武器を手に取って、萌木蜜柑の目を見る。思わずうめき声を出してしまうかのように、満ち満ちていた殺意は、私の戦わなければならない、という決意をほとんど決壊するものだったのだが、私はなんとか武器を捨てずに相対した。ノックダウンをするわけにはいかない。私のユートピアを守るためにも。
「なぜ、知っているのだ」
「ううん。郷田君、最近楽しそうだったから。先生に聞いてみたの。郷田君が楽しそうな理由」
「確かに第二文学部を設立しようとしているよ」
「なんで話さないの? 話してくれないの」
「それは、深い意味があったわけではない」
「楽しいこと、なんだよね? 郷田君の中で」
「それは……まぁ……」
「私、楽しい話ししてって、言ったよね」
いつもの私ならここで食い下がるだろう。自ら降伏しただろう。違う。今日は屈しない。
「それは君に合わない話だと思ったし、むしろ先ほどの小説の話の方が君を楽しませることが出来るからと思っただけだ。そのことが知りたかった、というのであれば、直接聞いてもらえばいいこと」
「じゃあ教えてよ。第二文学部のこと」
間髪入れず、だった。
萌木蜜柑は、あたかも話の展開がこうなるかのように。
未来を見据えたかのように。
そのように言ったのだった。
「なに、私は文学が好きで、先ほども言ったとおり、私は第一文学部にいたとて性に合わない。だから自ら文学部を創り、弁論と知性をぶつけあう場を創りたいと、そう考えているだけなのだよ」
「へぇ。面白そう、だね。創れるの?」
「準備中というだけでね。急ぎというわけではないし、まぁ、私のペースでやらせて頂こうとしているよ」
「部員は? 部員。集まってるの?」
「集まって」
ここで私の肝は、文字通り冷えた。肝のみならず、全身が冷えた。出掛かった言葉を飲み込む。
「ないよ」
嘘では、ない。
事実集まってないのだから。
「へぇ。そうなんだ」
萌木蜜柑はアイドルフェイスに戻らない。彼女が得心する場合、このどす黒い目をするのをやめてくれるはずなのだが。何か納得のいかないことでもあるのだろうか。
「郷田君、何か私に言っておきたいことがあるのならば、今のうちだよ」
それから、長い時間が始まった。
私は何かを言わなければならないらしかった。
頭が朦朧としていて、もう考える力を失いつつある。
楽しそうに、他のお客さんは談笑している。
本来、こういうものではないのか?
喫茶店の日常とは、こういうものでは。
私はなんだってこう、憂き目にあっているのか。
萌木蜜柑は、沈黙を持って私を見た。決して睨みつけるというふうではないが、やはり圧力がある。圧力を持って眺めている。
「郷田君って、本当に覗きをしたこと、反省している?」
「反省している」
「じゃあさ、罪って、どうやったら拭えるの?」
「それは……」
「ちゃんと、罪を滅ぼす意識を持たないと、だめだよね。覗きのような、悪いことしちゃ、だめだよね」
私は何も言わなかった。
「郷田君。私、知ってるんだ」
私の心拍数は、かつてないほどに……これまでの人生ではなかったほどに、速まっていた。
「西園寺礼子さんと郷田君が、部活創ろうとしていること、知っているんだ」
「それは」
「この前、なんて言ったっけ? 接点ない、って。言ったよね。私覚えてるよ」
心拍数の次は、私の思考回路が高速で廻っていくのを感じた。
これに対する、最良のいいわけ。
「確かに事実だ。けれど、あの時君に聞かれた時は、接点はなかった」
「嘘つき」
「嘘ではない」
「嘘、なんでしょ? 実は西園寺礼子さんと仲いいんでしょ?」
言えない。
私は西園寺礼子との約束を破るわけにはいかない。
西園寺礼子が霊能力者で、霊に取り憑かれたから、接点があるし、部活も創っているなどとは、言えない。彼女に背を向けたくはないのだから。
「たまたま、気があったというだけの話だよ。君、そんなに固執しなくても……」
「するよ。私、郷田君が覗いたこと、知ってるから。ね。その罪をちゃんとどうにかしないとって思ってるから。重ねちゃ、だめでしょ? 嘘だって、悪いことだし。それに、私に、嘘をついちゃ、ね? 嘘ついてましたって、謝るのなら今のうちだよ?」
「嘘では、ない」
「嘘じゃ、ないの?」
「嘘じゃない」
再度、長い沈黙だった。
私は玩具ではない。
彼女がどのように言おうとも、西園寺礼子との約束は守りたい。私が嘘をついたって、守りたい。
「わかったよ……郷田君。嘘ついてないってことは」
「本当か。君も話がわかるね」
ほっと、胸を……
「いこっか。安心したよ。郷田君が嘘ついてないってわかって」
撫で下ろすことは出来なかった。
なぜといえば、彼女がまだアイドルフェイスに戻らないからである。
帰り道もまた、取るに足らない日常的な会話をしたのだが、彼女はその時もまた、私に圧力をかけてきた。
撤回するのならば。
懺悔をするのならば。
今のうちだぞ。
そのように聞こえたのは、気のせいだとやりこめることにした私に、浴びせられた一言はこんなものだった。
別れ際、萌木蜜柑。
「じゃあ、私もその部活入るから」
「え?」
「え? じゃないよ。別にいいでしょ? 私、西園寺さんとも仲良くなりたかったし。郷田君だって、部員が増えていいでしょ。それにさ、別にやましいこともないでしょ? 郷田君、私に嘘ついているわけじゃないみたいだし」
「いや、一応、その……部活には何か好きな本があったりだとか……自らの」
「嘘、ついているわけじゃないものね」
「自らの嗜好性についてを……」
「私入れなかったら、全部バラすから」
耳元で、そう囁かれた私は、跪いた。
足腰の力が抜けきってしまったのである。
「じゃあねー、たくみん」
手を振る萌木蜜柑を、私はそのまま見送った。
改めて。
認識する。
私は、彼女に弱みを握られていて、私は覗きをした痴れ者であったのだと。
この地平線の果てにあるものとは一体なんなのだろう。
諸君等も覚えておくといい。
衝撃を受け、逃避欲求が募ると、壮大なものごとについて考えを巡らせるらしい、と。
・
お待ちかね、なのだろうか。
誰も待ってないし、私も待っていなかった。
その地獄絵図。
予期されたものとして、到来するであったのかもしれない。
ようやく、諸君等にお見せすることが出来る。
笑って欲しい。
私が笑えないからこそ。
全力で笑って欲しい。
放課後。
四階。
最奥。
人気のない、科学準備室の前。
空き室だった。
さながらここが孤島である。
部活は設立。
使用許諾を得た。
記念すべき祝賀会。
設立を祝う。
そんな名目で。
集ったのは五人。
私。
西園寺礼子。
東航平。
来栖京香。
萌木蜜柑。
以上の五名が、このお世辞にも広いとも、心地よいとも呼べない、部屋。密室空間に、集った。
私は、代表として。
部長として、挨拶をしようとした。
皆おしなべて、祝福と、好意の目を、向けていた。
ただ一人だけ。
ただ一人。
その目の奥に、闇を。
深遠な闇を潜めている人間がいた。
「どうしたの? 郷田君。ほら、部長なんだから」
その人間はにこにこして、例のアイドルフェイスだった。殴りつけたかった。もう正直に言おう。なんらオブラートに包まない表現をするのであれば、撲殺したかった。金属バットか何かで。
「みなさま。お集まり頂きありがとう。晴れて、第二文学部が設立されました」
「郷田さん。緊張しているのですか? 少し勝手が悪いように見えます」
そんな東航平の、天然な口振りも、私の心を癒しはしなかった。
「部活って、創れるものなのですね」
来栖京香のそのたおやかで、気品のある振る舞いも、この私を癒しはしなかった。というか、よく来てくれたものだ。私はあわよくばの勘定でいたというのに。
「ちゃんと人員が集まるものなのだな」
西園寺礼子の冷静さも。そしていつも手助けしてくれる彼女の救世主ぶりも。私の支えとはならなかった。
「ふふ。郷田君ってこういうの苦手そうだからねぇ。抱負はないんですか。部長! 抱負、抱負!」
萌木蜜柑が囃し立ててくる。
「抱負は、とにかく、頑張ろう、ということ」
その言葉は、もう私が私に向けて言ったことだった。生きていくこと全般について、がんばらなくてはならない。
そして地獄絵図がこの現代に、絵画のように、切り取られてこの部室の中で生み出される。
ここは、地獄なのだ、と。
勘違いではなく。
そう思いこまされるように。
あるのだと。
地獄というのが、あるのだと。
「それじゃあさ、まず自己紹介からしない?」
萌木蜜柑が続けた。
みんなが頷いていく。それぞれが順当に、自己紹介をしていき、萌木蜜柑の番になった。
「私はね、郷田君とは特別な関係だから。今回部活に入れてもらったの」
思わず萌木蜜柑を見やる。
何を言っているのだ、こやつは。特別な関係? それは主従関係というものか? 勝手に貴様が契ってきたものだろうが。今、今ここで言うな!
と、そのように私に口答えをする権利はなかった。
なぜなら萌木蜜柑の目はこう告げていたからだ。
いつでもバラせるぞ、と。
「私、皆が知らない郷田君のことを知っているんだ。皆、郷田君のことを知っているふりをしているかもしれないけど、私、知っているから」
「まぁ、それはどんなことなのかしら」と来栖京香。
「知りたい?」
「でもそれは郷田君次第かな」
第三者にはこう聞こえるだろう。
そんな関係を打ち明ける権利を持っているのは、私次第であると。
しかし私にはこのように聞こえたのだった。
罪を。
罪を償え、と。
ここから、既に私の視界がおかしくなっていたのだが、そんなことにも気がつかない私は、どうあればこの場を平穏無事に収めることが出来るのか。そして、この萌木蜜柑をどうやったら私のユートピアから駆除出来るのかを考え続けていたのだが、さながらメビウスの輪、である。それはもうさんざん考えたことだったわけだしそれが出来なかったからこそ、ここに萌木蜜柑の姿があるわけで。
「西園寺さんはさ、郷田君と仲いいわけ?」
着席する萌木蜜柑。
「悪くはない」
西園寺礼子は私と萌木蜜柑の不穏な関係が明らかになったとて、いつもの表情を保っていた。どうやら萌木蜜柑は、つっけんどん、な西園寺礼子に、なおのことご執心の様子である。
「ふーん」
萌木蜜柑を私は甘く見ていた。その名前が既に甘いわけだし、外見もまた、甘いわけなのだから甘く見てしまうのも仕方のないことであろう。皮一枚下には、甘い果実はなく、蜷局を巻いた闇が潜んでいるのを見破ることが出来ぬのも仕方のないことであろう。
湧いて出る疑問は、一体、この私に何の恨みがあるのだ? ということ。
この私にこれまで時間を割いて、これほどの仕打ちをするだなんて、何を考えているのか。理解に苦しむ。西園寺礼子に何かあるのだろうか? 確執のような、ものが。たまたま席が隣だったから? 隣で、私の存在にいらっときた? ありうる。ありうるが、それだけなのか? 覗きの罰だなんて、でっちあげだろう。ただ単に、私を強請りたいだけなのか?
ここまで。
ここまで、悪質なことを、しなくてもよいのではないか。
私の高校生活の人間関係が、すべてこの教室に存在していると言ってもいい。萌木蜜柑はクラスを掌握している。彼女からバレてしまえば、やはり私はもう自主退学という選択を余儀なくされる。結果的に、西園寺礼子にも愛想を尽かされ、悪霊と討ち死に。
弁舌には自信があった。
今日もやりきれる自信が、少なからずあった。
だが。
悪魔に、私の呪文は効かないようなのだ。
萌木蜜柑はなおのこと、私をにんまりと見つめてきていて、その目の奥には闇がかいま見えるのだった。
ばらすぞ、と。
楽しみはとっておくけれど、何かしたら、ばらすぞ、と。
その何かとは一体何なのか。
考えに考えを巡らせていたこの時、だった。
精神的に異常を来していたことはご覧の通り、なのだが、肉体的にも変調を来した。
かつてない、ものである。
これが通常起こり得るもので、私がこれまでの人生の中で経験したことであったというのならば、私もまだやり過ごせた。ああ、あの痛みなのだな、と。腹痛であれば、腹痛なのだから、と。
しかしそれは、体験したことのない、尋常でないものである。この空間で行われている諸々のやり取りがまず体験したことのない尋常なものでもあるのだが、加えて、である。
予期できなかったそれは、これからも予測することが出来ないと思われた。
まず目眩。
目眩というと、私などは立ちくらみがほとんどで、座ったままの状態で目眩を浴びるということは、ほとんどない。
そのはずなのだが。
目の前が、乗り心地の悪い船……いや、イカダのような全く造りの悪い代物に乗っていて、加えて大波を四方八方からくらっているような。そんな感覚。
続いて寒気。
寒い。
とてつもなく、寒い。
その大波はもう氷点下一歩手前の凍るような温度だったのである。じわりじわりくる寒気ならまだしも、私は突如この身を凍らせたものだから、我が身を疑った。しかしどれだけ疑ったところで、何も解決するはずもなく、寒さが我が身の芯を凍らせ続けるのだった。
まだある。
頭痛。
モスキート音というのがある。確か、若い人にしか聴こえない音という奴で、私はそれを聴いたこともないのだけれど、太鼓でモスキート音を鳴らせば、こういった耳鳴りが聴こえてくるに違いない。そしてその結果発生する頭痛がもしあるとすれば、このような頭痛であると。頭の奥の奥から、割れるような、痛み。
そして、極めつけである。
幻覚。
いや、既に霊をこの目で見てコミュニケーションをとっている身の上だ。幻覚なのか、実体なのか、はたまた霊なのか。霊は幻覚のうちに入りますか、みたいな小学生が遠足の前にするような質問を朧気ながら投げかけたくなった。
この第二文学部の部室となった科学準備室前の空き部屋は、どうやら倉庫として利用されていたらしく、多くの使われていない椅子や机が放置されていた。それを体育館倉庫まで運び、部室としたのだが、まだこの部屋に残っている椅子と机がある。
その、影。
その暗がりに、私は何かを見た。
椅子の下に、何かを見た。
何かはわからない。
あの霊のように、形あるものだったのならば、わかりやすかったものの、そうではない。
確信するのは、何かがいる、ということだった。
目眩、寒気、頭痛、幻覚。
症状だけで見れば風邪じゃないですか、と言われるようなものだが、風邪の五倍の辛さ、というとわかりやすいかもしれない。人間の体調がカレーの辛さというわけでもないのだから、そんなに単調に言い表せないけれど。単純にそれほど強烈な体調の変化が好みを襲ったとだけ考えて欲しい。
それが臨界点を突破した時に、私は地獄絵図を見たのだった。
まず暗がりに潜んでいた影が、徐々に大きくなっていて、気がつけばこの部屋全体を包み込んでいた。皆は何の気なしに話しているものの、私はもうここが日本国ではないとすら思えたし、つまり地獄にいるのだと理解した。
それだけならまだいい。というよりも、それだけであれば、私は現世を地獄などとは呼ばない。
萌木蜜柑の表情、なのである。
笑っているのである。
私が、あまりにも辛そうにしているのを見て、心の底から笑っているのである。人の不幸は蜜の味といえども、これだけ心から人間の不幸を祝福している人間を見たことがない。
邪悪な、笑み。
萌木蜜柑は、決して他の部員には見られないよう、角度を調整して、私だけに、そのどす黒い笑みを振りまき、こんなことを言うのだった。
「郷田君さ、どうかしたの。辛いなら、ちゃんと言いなよ。自分から」
彼女は、まだ疑っている。
嘘をついていた、と言えと。
迫っている。
そしてここで罪を自分から白状をするのだ。
と。
そのように言っているのだ。
「ここにいる人たちとってさ、郷田君のすべてでしょ。想像しなよ。君のすべてが、全部持ってかれること。スマートホン、いつでも出せるからさ、私」
今度は耳元でそう囁く、萌木蜜柑。
幻覚と混じって、私の想像は、暗がりへと追いやられていく。
皆が、私を軽蔑して去っていく。部活動は解散。クラスに居場所はなくなり、学校にも居場所はなくなり、退学を余儀なくされる。家族からも見放されて、最後に私の前に現れるのは萌木蜜柑。言うことを聞け、と邪悪な笑みで……私はそれに従って……
暗黒に閉ざされていく。
萌木蜜柑の笑顔に、部屋中に満たされていた黒い影がまとわりついていて、彼女が遂に人間でなくなっていくように見えた。ついで、この部屋の全てが黒く染まっていくのを見た。これはもしかすると、私が目を閉じかけているから、だろうか。
そして、私の体調はもう、臨死といってもよいくらいの状態になっていた。このままいけば、死ぬのではないか。だというのに、どうやって萌木蜜柑に言い訳をするのか、言い返すのか、高速で思考を巡らせながら、加えてこの部屋に満たされた暗黒物質……恐らく不思議現象であり、霊的な何かをどう処理するかを並列に考え。
そして。
地獄が完成した。
乱歩の世界だけでなく、この世に地獄があるのだとそう思い至った。
倒れる前に見たその一瞬の景色は、確かに地獄であると、そう呼んで差し支えない景色だったのである。
・
自分が死んだのかどうか、確認するすべがもしあるというのならば知りたい、と。人生で初めて思う。目覚めて最初に思い出したのは、死んだかもしれない、ということで、実際にここは死後の世界のようだったから。
幸い、極楽浄土のようである。
私は死んだこともなければ、極楽浄土にいったこともないし、地獄にも堕ちたことはないのだが、じゃあここが死後の世界で、極楽浄土か、あるいは地獄のどちらかというのであれば、地獄ではないと思えた。地獄とは、あの部室だけで結構なものである。
体を起こして周囲を見渡す。
中学生の時に、京都へ修学旅行に行ったことがあるのだが、その時に数々の寺を見て回った。当時も今も、宗教的な知識など大してないにせよ、そんな自分でも寺の建物の造りや雰囲気、そして奉られている神々や、道具に敬虔な気持ちになったのを思い出せる。
ここも。
全くのがらんどうであり、奉られているものなどなにもなかったのだが。数々回った寺のように、神秘的な敬虔さを感じるような部屋だった。ただ、だだびろい部屋の中央に私が寝ているから、だろうか。
ここは、どこなのだろう。
私は学校の四階の、部室にいたというのに。
もしかして、冥界への玄関なのだろうか、死んで、ワープしてきたのだろうか、などと考えていると、聞こえてくるのは西園寺礼子の声だった。そして、男性の声。こちらは聞いたことがない。閻魔大王だろうか。やたらと野太い声で、会話の内容そのものは聞こえないが、激しい口調の西園寺礼子とは対照的に、落ち着き払った声である。
死んだのか、死んでいないのか。
いや、西園寺礼子は死んでいないだろう。
であれば、生きているはずだ。
一体ここはどこだ?
困惑に浸っていると、いつか見た装束姿で、西園寺礼子が襖からその姿を現した。
「生きて、いたのだな」
その言葉を聞いて、思う。
ああ、死にかけていたのだ、と。死線をさまよっていたのだ、と。
「一体、何が起きた? ここはどこだ」
「ここは私の……知人の家だ。家というよりも、宗教的な施設。寺院のようなものと思ってくれていい。君は二日ほど寝込んでいた。君の家庭には私から連絡をしている。君が突然倒れこんでから、私の知人に頼んで、車で運んでもらった。何せ……霊的な現象が原因だ。救急車を呼ぶわけにもいかなかった」
「寝込んでいた? 二日も?」
「ああ」
あの体調ならそうなっても、おかしくはないのだろう。しかし二日だなんて。
「飲むといい」
差し出された水を、私は夢中で飲み干した。大分喉が乾いていたらしいことに、水を含んでから気がつく。
「まだ体力が十分に回復していないだろう。今、食事も持ってくる。食べられるか?」
「すまない。ありがとう。水を飲んだら、腹ぺこなのだと気がついたよ。ぜひ、お願いできるか」
「礼はいい。色々と君も気にかかることがあるだろうが、そういった話は少し後にしておこう」
西園寺礼子の持ってきた食事は美味だった。旅館とかに泊まった時に出てくる御膳。彩とりどりのおかずが待ち構えていて、私は夢中で食べ尽くした。
「君はこんな食事を毎日とっているのかい。うらやましいね」
軽い冗談を投げかけたつもりだったのだが、西園寺礼子の表情は暗かった。なんなら、死線をさまよったはずであろう私よりも、西園寺礼子のほうが表情にかげりがあった。
何か、よからぬことが起きているのかもしれないという予感はあった。
それはやはり、彼女自身に、ではなく。
私自身に。
私は満腹になった阿呆面を引き締め、西園寺礼子に向き合った。
「まず君の方から、聞きたいことは?」
「そうだな、やはり私の体に起きていること、について」
「それに答えるには、逆にこちらから聞かなくてはならない。君はあの日、あの部室で、何かを見たか?」
「見た。まじまじと」
「霊、だったか? 君がいつか見た」
「この間見た霊、というわけではない。もっと禍々しく、邪悪な何かだ」
「やはり、か。それも霊だ。君に憑依した霊が、そのように変化した可能性が高いだろう。複数の霊に憑依される事例は、聞いたことがない」
「変化? つまり、無害なものが、害なるものになったと」
西園寺礼子は頷いた。
「一体どうしてだ?」
「あの霊はやはり君自身と深いところで繋がって、呼応している。君の精神状況が、その霊にも影響を与えているようだ。なにか心当たりはないか? 君が見た霊が、邪悪なものとなり果てる原因を。私が君を観察していたところ、あの日、あの時、君は何か怯えていたように見えた。それはその邪悪な霊なのか、何なのか。私にはわからなかったが」
「…………ある」
「どういう原因だ?」
「それは……」
言い淀む。
「君は、萌木蜜柑と、何かあったのか? メールでも、何か妙なことがあると言っていたし。君の心持ちが変化したのも、彼女が原因のように、私は推測しているが」
言えない。
それだけは。
「少し、特殊な関係があるというだけだ」
「それが繋がってはいないか? 憑依霊の変化に」
「わからない」
確かに彼女が私の精神を脅かしたことは事実だ。
事実だが……その脅威が全ての原因、なのだろうか? 彼女の脅威とは、だいぶ前にも感じていたことだったし、あの時私は精神的に脅かされたにせよ、あの純朴そうな霊が邪悪なものと変化する原因に……なっているのか。
「何か一つ、を要因に絞らなくてもいい。霊が害をもたらす原因も、関係性だ」
「その原因については、私自身も深く考えなくてはならないようだ。どうも心当たりをまず探すところから」
「脅かすようなことを言ってすまないのだが、早く、解かなくてはならない。謎を。このようなことは、君の為にも繰り返してはならない事態なのだから」
「そんなことを言われても、私はまだ謎がなんであるかさえわかっていないのだぞ?」
「霊は君自身の状況と深く呼応しているといったのは、先ほどの通りだ。謎を解く鍵があるとすれば、やはり君の中にあるということになってくる」
無理、難題。
無理だとしか、思えない。
「すまない。わからない」
西園寺礼子に気圧されてしまう。
珍しい、と思った。彼女がこのように感情的になるのが。ストイック、という言葉がここまで似合う人間も中々いないだろうから。
「いや、こちらこそ謝る」
違和感。
彼女からしてみれば、私のこういった事態など所詮他人事ではないのだろうか。
大体、最初はそういうつもりで接してきていたはずだ。霊に取り憑かれちゃった悲しい人。それがたまたま私だっただけで、彼女はその悲しい人に、手をさしのべただけ。私がどれだけ彼女をメシアと崇めようが、彼女からしてみればたまたまの悲しい人。
ではないのか?
「いつか君に会った時のことを、思い出せるか? 私が言ったことを」
「最近読んだ本は……こころ」
「違う。別れ際言ったことだ。君の頭はつくづく文学なのだな」
「えっと……ああ、いつか、自分のことを話せたら、だとか」
「自分のことを話したいと、思ったことは一度もない。なのに、あの日君に私はそんなことを言った」
その目は。
西園寺礼子のその目は。
教室でどこか遠くを見ているあの、目だった。
何を考えているのか。
このクラスのことなど、どうでもよいのだと。
学校など、どうでもよいのだと。
物憂げでいて。
強さもありながら。
寂しさも、あって。
そのような感情が入り交じったような、目。
言葉では、表現することの出来ないような、目、だった。
「それは今もそうだ。だから、私は私のことは話さない。これから話すことは、ある少女の話だ。私の話では、ない」
私は頷いた。この流れで、一体誰の話をするというのか。
「少女は……その少女は、日本の田舎にある牧場で出生し、育った。山々。草原。なびく風。小川のせせらぎ。太陽の光。触れあう動物。この世界を自然とともに堪能し、そして自然を愛していた。君はそんな経験が、あるか? 幼いときに」
唐突な話に面食らうのだが、思い出してみる。幼少時代。
「そんなには。けれど覚えてはいる。初めて牧場に行ったときのことや、クリスマスにサンタクロースがきたときのこと。って、それは関係ないか」
「サンタクロース、ね。あれもまた小さなころに信じているものの一つだろう。少女は、サンタクロースがこの世にいるということを信じるように。この世のあらゆることを信じていてね。それは誰もが、子供のころに経験することなのかもしれない。しかし独特な家計に生まれ、敏感で、そのための訓練を受けてきた少女の他人と違うところは、その信じていたものが、見えるようになった、ということ。信じていたものが、形として。信じていたものが、この目で。本当にあるのだと。山々の、自然の、精霊が。自らの能力と、そして何より自然を愛でていたその感性が呼応し、交じり合い、少女ははさらに世界を愛するようになった」
霊能力者の話、なのだろうか。
私は引き続き、彼女の話に耳を傾けることにした。
「その少女は、霊能力者の家計にいた。だからこそ、祝福された。目に見えたそれを。能力の発現であるとして。少女もその祝福に甘んじた。両親から滅多に誉められることがなかったからこそ、少女はひとしおの歓びを、その身に浴びた。嬉しい。世界は美しいものである。家族にも褒められ、自分も胸を張れる、と。少女は家族の言うことに従い、その能力を鍛錬した。この力は、世界のためにあるのだと、家族から言われた少女は、その言葉を信じて疑わなかった。いずれ、人の役に立つのだから、立てるのだから、と」
静謐。
彼女の話はあまりにも淡々と、この部屋の中で響いていった。
「そしてその時は来た。その力を、人の役に立たせる時が。彼女は、両親と共に、生まれ育った場所を離れ、ある場所へ連れられていく。霊能力者として、活躍するべく、その場所へ。そこは代々伝わる、彼女の家計が守り繋いできた、由緒ある場所柄だった。ここをこれから継いでいくのだと、彼女は父親から告げられた。仕事を、するのだと。戸惑いは隠せなかった。見知らぬ場所に、見知らぬ仕事。見知らぬ人間。今まではすくすくと育ち、厳しいながらも受け入れられてきた彼女にとって、その職場の風景と、やらねばならないことは、あまりにも衝撃的だった。人の役に立とうと、意気込んでいた彼女に浴びせられたのは、洗礼だった。少女のような能力を持った人間たちの、泥臭い、あまりにも人間的な世界だった。少女のような能力を持った人間は、家計と、血筋と、縄張りを守るために、奔走する。そのためであれば、善良な人間から、お金をむしり取る。騙したとて、知ったことではない、と。その信仰が、また役に立つのだから、と。事実、お金は必要だった。色々な方面で。このまま、何を得るのだろう。辞めるにも、辞めることが出来ない。後継者として、家族からの責任があるのだから。来る日も、来る日も。その泥臭さにまみれていった少女の目からは、精霊は消えていった。見えてきたのは、誰かに取り憑いている、ひたすらの禍々しさ。少女の世界は、変わった。この世の中の邪悪なものを、見続けなければならなくなった」
私は思わず喉をごくりとやってから、水を一口、含んだ。
「少女は悩んだ。一体、どうすればこの力を禍々しいものと思わなく、済むのか。この世界を、もう一度美しいものとしてみることが出来るのか。ひたすらに、悩んだ。それは力を、そしてかつてみた景色を信じるということだった。君が文学を信じているように、少女もまた、信念を立ち上げたのだ」
西園寺礼子は、そこで黙った。
私は話の続きを待っていたのだが、どうやら終わり、らしい。
「そんな少女の手伝いを、私はしている」
「手伝い」
「そんな少女のために、出来ることをしている。君を巻き込んでいる、というのは事実かもしれない。もしかすると、ある面では、君を利用しているとさえ、言える状況なのかもしれないのだ」
「利用? 私は助けてもらっていると」
「もう少し。もう少しスマートにやれば、君をすぐに手助け出来るかもしれないのだ。その少女の信念のために、君をそのように解放できないでいる。だから、利用しているといったのだ」
「利用……」
「いや、いい。今のは、君に対する申し訳なさがあったから。それに対する釈明だ。いずれにしても、私は君が解放されるまで、どうにかするつもりでいる。安心してくれ」
そういった西園寺礼子の目は、やはりどこか物憂げであった。
私は彼女が持っている後ろめたさの正体と、彼女の抱えているものを見つめようとしていたのだが、寝込んだ後の、ぼんやりとした頭で出てくるのは胡乱でまばらになった、纏まりきらない思考だけだった。
・
一晩明けて。
十分回復したと思ったので、夕方になってから私はその寺を出ることにした。西園寺礼子は宗教的な施設、寺院、と言っていたのだが、その外観は内装と比較してあまりにも老朽化が進んだ、古びた民家のようだったと、出てから気がつく。長谷寺の近くに位置していたものだから、由緒ある建物であるらしいということはわかるが、果たして寺として機能していたのかは危うい。
西園寺礼子のことは、なおのこと頭をかすむ。
あの時。
私に話している時。
彼女の表情が。
消え入ってしまうかのように。
私を見ていた。
性分でもないのだが、何か自分に出来ることがないのか、と考えるようになっていた。
少なくとも応えなければならない。期待、はされていないだろうけれど、手を差し向けてくれる人間に、私もまた立ち上がるための力を振り絞らなくてはならないだろう。
私は私で、この不可思議な現象と折り合いをつけ、解決をするための努力しなければならない。
だから、謎の、正体。
陽の暮れてくるその帰路で、私は考えた結果、とにかく私は私のなすべきことをとにかくやるしかないのだ、と結論が出る。
謎、謎だ。
もう一度考えてみる。
私と、霊はある意味シンクロしているような、そんなことを西園寺礼子は言っていた。部室での一件。私は確かに苦しんだ。苦しかった。それで害なす霊になった。最初に出てきた時は……二回目に出てきたときは……特に何もきっかけのようなものはなかったような気がする。いや、一回目は覗き……覗き? 覗きが謎?
…………
……
出てこなかった。
気まぐれな霊はただ気まぐれに行動を起こしているようにしか、私には思えなかった。私はきまぐれ……? きまぐれ……謎……
「ちくしょう!」
思わず出た叫びは、私のものではなかった。
「うわっ!」
「久しぶりだの、我」
気がつけば、霊がその姿を現していた。心臓が止まりかけたのだが、あの異形の姿をしていなかったため、ひとまず安堵する。
「お気楽に挨拶をしてくれるじゃないか。私、君のせいで死にかけたというのだぞ?」
「あんなことになるとは我も想定しておらなんだ」
「自覚はあったと?」
「あった。お主に悪影響を与えてしまっている、という自覚も」
「あの時、何が起きたんだ?」
「汝の感情が、我に入り込んできた。しかしそれは歪なもの、というものでなく、ただひたすらに強大な感情だった」
「感情……確かにあの時激烈な感情を持ったのは間違いがないが……」
「汝に言いたいことがある。色々とわかったことがあってな」
「何だ」
「私がかつて人だったころの話じゃ」
「本当か?」
「本当じゃ。ただ、名前だとか、一体何者だったのか、なんてことはちょっと思い出せないでな」
「ちょっと! それを思い出してくれないでいったい何が私に出来ようと言うのか」
「慌てるでない。お主は、あの時、学校の四階にいたろう」
「ああ。いたとも」
「私はかつて、あそこにいた気がするのだよ。そのような景色が、汝の感情と共に入ってきたのじゃ」
「それじゃあ、この学校の生徒だったと? 私が調べたところによれば、君のような生徒は見当たらなかったぞ」
「この学校ではない、別の学校かもしれない」
「別の学校……?」
閃く。
「もしかすると、旧校舎だった時のことだろうか。しかし君の制服は現在の我が校のもののように見受けられるが」
「それはそうなのだが……とかく君は、その旧校舎と私の関係を調べて欲しい」
「一体どうやって? 取り壊され済みだというのに」
「汝が手に取った名簿のようなものが、どこかにあるのではないだろうか。かつて旧校舎で在学していた人間に聞き込みなどをすればよかろう?」
「簡単に言ってくれるね」
「ただ、近づいたはずだ。あともう一つ、最大のヒントは、お主にあるのではないか。やはり我は汝以外の人間に姿を見せることが出来ないのだから。ああ、それでは」
「待て! こら!」
聞きたいことは山ほどあるというのに。
言いたいことばかりを言って去っていく。
手に負えないこの霊を私は本当にどうにかすることが出来るのだろうか。積もるのは、やはり不安でしかなかった。
・
不幸中の幸い、なのか。
あれだけの甚大な被害、といって差し支えないだろう……をこの身に受けた後だからか、次は私に運が巡ってきたように思う。
萌木蜜柑が学校を休んだのである。
珍しい。なおのこと戦々恐々として本日復学を遂げたのだが、左方に極悪人がいないとなれば、話は違ってくる。
心が穏やかになるのを感じた。
これでかの霊も善良なものになるのではないかと思えるほどだった。
しかも、今日は一応、部活動を行う予定だ。あの部室が忌まわしいものと化してはいるものの、萌木蜜柑がいないとなれば、これもまた話は変わってくる。干からびたオアシスに、新鮮な水が充足してくるといった次第である。
放課後、私はまたあの部室へと足を運んだ。誰もまだいなかったため、私は一人ぽつりと部室の窓から景色を眺めた。
かの霊は、何を思ったのだろう。
ここにいた、ということは、ここで何かをしていたということになるのだろう。旧校舎も四階建てだったと聞く。この部室にはかつて何があったというのか。
どのような景色を見ていたというのか。
「おはようございます。郷田さん」
振り返ると、東航平と来栖京香がそこにいた。
二人の顔を見て、思うのは、もしかすると、私は初めて、入学以来、実現したかったことをやってのけることが出来るのではないかということだった。
この高校の辺境で。
かつて文豪がサロンで過ごしたような濃密な時間をこの部室で過ごせるのではないか、ということ。
「皆、よく来たね」
と、そういえば自分が部長だったのだと思い直して、二人を歓待した。
続けて西園寺礼子も姿を現し、始まるのは、読書会。
その日、ようやく地獄から帰還することが出来た。
現世とはこういうものだったよな、という景色がそこにはあって、私は現世地獄論を捨てることが出来たのだった。
東航平はSFについて語り。
来栖京香が外国文学について語り。
私は持てる国文学の知識でそれに呼応し。
西園寺礼子がその知性で皆の意見をまとめあげる。
知性の交響曲とも呼べる場が、そこにはあった。
この景色こそが、私が求めていたものだったのだ。
違いない。
これでかの霊もどこかに行ってはくれないだろうか。私の精神は充足している。
と思った矢先だった。
霊が、現れたのだった。
部室の中。
思わず声をあげてしまいそうになるものの、抑える。やはり見えているのは私だけのようだから。
にしても、今回も様子が違う。
前回は、その姿は異形のものとなり果てていた。
今回は、例えるなら……風呂上がり、という稚拙な比喩で表現してみようか。見栄えそのものは変わっていないものの、なんだかきらきら、てかてかしているように見えるのは気のせいとは思えない。盛りのついた議論を取りやめ、霊と接触するためにお手洗いへ立つこととした。
部室から出た瞬間、霊はこのように語りかけてきた。
「我は、やはり高校の生徒だった。それに、汝と同じように、文学をまた愛していたようだよ。それは今、はっきりと思い出したのだ」
嬉しそうに、霊は語った。それでそのてかり具合、というわけだ。事態は好転してきた。萌木蜜柑さえ抜けば、こんなにもこの世は美しくなるらしいぞ。
「それが君と私の関係性なのだろうか? つまり、謎は文学にあり、と。君の好きな文豪を当てればよいのだろうか」
「そんなことで成仏はしないように、思う。共通の趣味、というところでは文学がそうなのだろうが、もっとその先にある、何かを汝には探って欲しい」
「もっとその先にある、何か? それは文学と関係があるのか?」
「ないかもしれないし、あるかもしれない」
「その辺りは、まだ、曖昧なのだな」
「うむ。それだけは伝えたかった。そろそろ消えるぞ、健闘を祈る!」
健闘。一体なぜ、私はいつも通り、勝手に出て、消えていくこの霊の為に戦わなければならないというのか。いや、その辺りはもはや考えなくて問題ないだろう。考えれば考えるほど、虚しさはこみ上げてくるものだから。
とにかく今、考えなくてはならないのは、謎についてだ。文学が好きと言われたところで、情報は足りない。推理小説で言えば、容疑者全員の趣味がわかったので、はい犯人を当ててくださいというような、名探偵ですらお手上げの困難を突きつけられている状態である。
加えなくてはならないのは、やはり旧校舎における在学生の情報だと思われる。部室から窓を見たときに、そう、確信した。
しかし旧校舎の名簿、というものがどこかに存在しているのだろうか、というところも疑わしいし、それに、旧校舎のものとなれば、歴史がある。幅広い歴代在校生の中からあの霊に辿り着かなくてはならないというのは、至極難しい話だ。
「皆、話を聞いてもらってもいいでしょうか。折り入って、なのですが」
私は部室に入り直して、そう言った。もうほとんど駄目で元々だったのだが、頼れる相手、というのは私にとってこの部室にいる人間だけだったというのは、私の高校生活の人間関係の疎さを如実に表していると言える。
一同が、私に注目した。
「全く……こんなすばらしい場ですべき話題ではないのかもしれないのですが、旧校舎のことについて詳しい方はおりますでしょうか?」
来栖京香がいる手前だ。どうしても話し方が固くなってしまう
「全くわかりませんね」と東航平。
首を振る西園寺礼子。彼女にはもう既に訊いていたものだから、まぁ再確認。そうなるのだろう。
期待、できるわけもなかったな、というところで来栖京香がこんなことを言うのだった。
「でしたら私、お力になれるかもしれませんわ」
「え?」
「母が旧校舎時代の生徒でして。この学校のPTA会長も勤めております。多分、ですが、色々と知っていることはあるのではないかと思います」
「ほ、本当ですか?」
「ええ」
にこりと頷く来栖京香が、天使に見えたのは、悪魔的なものと接してきたからに他ならないだろう。天使と、そのようにお呼びしていいでしょうか。
しかしなるほど。合点が行った。
だから、お嬢様であろう来栖京香はこの学校に通っているというのだ。
かつて、旧校舎時代には、名門校だった時代があったと聞く。来栖京香の母君はその時代の生徒だったのだろう。
来栖京香はこうも続けた。
「恐らく、様々な資料も、母が持っているのではないかと思いますよ。何をお知りになりたいんですか?」
大変恐縮だったが、方便を使った。適当にでっちあげたものである。来栖京香に嘘を言うのは抵抗があったものの……致し方なかった。いつか必ず恩は返したい。
「まぁ、そうだったんですね」
方便とは、知人の知人がかつて、一度だけ出会った人がいて、どうしてもその人との出会いを忘れられず、もう一度会いたい、ということと、私はその知人の知人にどうしても力を貸したい、ということ。情報は、旧校舎時代のこの学校に所属していた、というものと、知人に見せてもらった写真、だけ。ありきたりな方便である。
「どれだけご協力が出来るかはわかりませんが、よければ私の家に、今度いらっしゃいますか? そうですね……急ですが明日でしたらお稽古もありませんし、お母様もお家にいらっしゃいますので」
「よいのですか。私のようなものが」
「これだけみなさまに楽しませてもらう場を頂きましたので、よければみなさまも」
なんてすばらしい乙女なのだ! 私の心の中で何かが弾けるのを感じた。部室にいた一同は頷き、そして来栖京香の家に行く日取りを取るのだった。
・
一夜明けた当日。萌木蜜柑を除いた我々第二文学部は来栖京香のご好意に甘えて自宅に招待され、案の定、ここはどこなのだと言われんばかりの豪邸に到着した。建築にはまるで詳しくない私だが、和式の、かつて日本の貴族が住んでいそうな家を、現代風にアレンジした家、というと伝わりやすいだろうか。
「いやはや、タイプスリップ」などと東は目を丸くしていたし、私もまた、目を丸くしていた。大衆の住むべき家では、やはりないのだから。
玄関をあがり、待ちかまえていたのは、我が家の何倍……十倍はあろうかという広大な和室だった。窓からは、恐らく金色の鯉が息を潜めているのであろう、小池と、鹿威しがあった。
文豪の一人いてもおかしくはないな、と思った私だったのだが、出てきたのは貴族だった。そう、貴族が出てきた。あの、百人一首とかに出てきそうな。どうやら本当にタイムスリップしたらしい。
「これはこれは」
とその貴族は言って、独特の動作をしてから、私たちの前に正座をした。
「この方は、私の婚約者でございます」
ああ、例の。と、得心したのだったが、しかしなぜこんな格好をしているのかは、やはり理解できるわけもなかった。
丁重に、私たちに向かって頭を下げてきた婚約者。
私と東は土下座に似た……挨拶のような何かをし、西園寺礼子はそつなく、堂々と挨拶をしているのを見て、なんだかみじめな気持ちになった。
「どうぞ、ごゆっくり」といって、かろやかに、ゆるりと婚約者は和室から出て行った。
「一体なぜ、あんな格好を?」
と私が訊いてみたら、「あれが普段着なんです」とのこと。どういうことなのか、納得しかねるが、とりあえず頷いておくことにした。
ひとしきりその和室で緊張しながらもくつろいでいると、今度は全く普通の……この豪邸には似つかわしくないような女性が出てきた。庶民的、というと失礼なのかもしれないが、そういった印象を受けるのは事実である。
「お母様。この方々が文学部の方々です」
元PTA会長。兼この豪邸を所有し、来栖京香の母君となれば、もうなんか色々と想像してしまっていたのだが、その想像に反して非常に温かみのある人間が出てきた。この調子だと、父君の方が、格式的で、日本的な人間なのだろうと推察される。婚約者のように着物は着ておらず(というか、それが当然なのだが)普段着のまま姿を現した。
「あら、こんにちは」
というその挨拶もまた、庶民的である。どうやら我々を焦らせるのは、婚約者の存在だけのようだった。むしろかの貴族が異端なのだ、と私はそう解釈することにした。
「ええと、郷田君でしたか。どうぞ、こちらにいらして」
と、そのように呼ばれた私は洋室に案内され、母君と一対一になる。
「こんにちは」
「緊張しなくていいのよ。それで、旧校舎のことが知りたいのよね?」
「そうです。ある、顔だけは知っている人間の名前を、どうしても知りたくて」
「写真とかはないのかしら。私がもしみて、ぴんとくるのならば、それが一番よいのだけど」
「それが……ないんです。なので、もし名簿のようなものがあれば、是非見せていただきたいのですが」
「そうなの。でも残念ね、そういった名簿のようなものはないわ」
絶望、である。そうだろうな、と予測していたことではあったのだが、また謎から一歩遠のいたような感触を受ける。
「旧校舎の時代は、一体どのような趣の学校だったのですか?」
私はなんとか、謎に近づける情報を得ようと、質問を投げかけた。
「そうねぇ。元々は名門校、だったのよ。ご存じ? 威張るわけでは決してないのだけれど、私も名門高の生徒として通っていたのだわ。すっごく厳格でしてね。あらゆることが校則で決められていてねぇ。いやぁ、懐かしいわ」
在りし日、というのは誰にでもあるのだろう。来栖京香の母君は一体どのような学校生活を送っていたのだろう。
「そうだわ。もし、雰囲気だけでも知りたいというのならば、卒業アルバムがあるから、私たちの世代の。ご覧になる?」
「本当ですか? 是非拝見させてください」
来栖京香の母君は、言って箪笥の奥から、古びた冊子、卒業アルバムを見せてくれた。
確かに、厳格で、格式高い学校のようだ。男女共に、制服をぴったりと同じように着ている。女生徒に至っては、一ミリも誤ってはいけないとばかりにスカートの長さが均一である。
ページを捲っていくと、私も見覚えのある景色や風景が出てくる。感じるのは、歴史。時間と共に、確かに様々なことが、この校舎であったのだろうと想像させる。あの霊は、旧校舎で何をしていたのだろうか。
アルバムの最後の方になって、個人の写真が一人一人掲載されているのを見つける。
「恥ずかしいわよ、私を見つけないでね」
と言いながら、母君が近寄ってのぞき込んでくる。少しいい匂いがして、どきりとしてしまう。
「ああん。そのページはだめよ」
と言いながら、まんざらでもない様子である。来栖京香の母君がそこに写っているのを見つけた。髪型などはやはり時代を感じさせるものだったが、とても美しい顔立ちだった。来栖京香ともどことなく似通っている。
「私、美人だったのよ」
と言ってくる母君はやはりまんざらでもない、というか褒めて欲しい、と言わんばかりで、私はそのようですね、と少しばかりぎこちない笑みで返した。
「これくらいしか、与えられるものはないかしらねぇ」
「そう、ですか」
私はもう一度その卒業アルバムを、最初から、最後まで見返そうとして。
手を、止めた。
何かを、見たような。
直感が私に舞い降りて、射止めた。
なんだ?
この、感覚は。
今の、卒業アルバム。個人写真の中で。
慌ててもう一度写真を一枚一枚見ていく。
「お、お母様!」
「あらあら。どうしたの」
「この人……この人は一体だれですか?」
「あら。名前にも載っている通りよ。雨之紗代。かわいい、子だったわ。あなたも、タイプ?」
雨之紗代。
とてつもない、僥倖。
旧校舎の在校生徒をすべて隈なく探さなければならないと考えていたというのに。
それは、間違いなくあの霊の顔と一致していた。
色白で、細くて長い髪に、切れ長の目。
間違い、ない。
この偶然。やはりとてつもない。来栖京香を部員に勧誘しておいて本当によかった。もし、彼女が部員でなければ、まず間違いなく私とこの……雨之紗代は遭遇出来なかったに違いない。謎もまた、解けなかったに違いない。
「どんな、方だったんですか? お母様は、親しかったのですか?」
「いつも、ぼうっとしていたように、私は思って見ていた。あまり人付き合いはせず、一人でひっそりとしているような。話しかければ、話してくれるけれど、あちらからは話しかけてくれなかったわねぇ。一人でいるのが、好きな子っているじゃない。彼女にはどこか、いつも寂しさがあったものだから。こけしみたいだな、って私は当時思っていたわ。可愛らしい、こけし。というか、もしかして雨之ちゃんが、探していた人?」
「そうです! そうなんです! この、雨之さんは、今どうされているんでしょうか?」
私はそのように口にしてから、はっとする。
わかりきったことを。
聞くべきではないということを。
聞いてしまった、と。
「わからないわ。どこかであの寂しさを持って、元気にやっているのではないでしょうか」
「そう、ですよね」
それ以上は、聞くのをよした。私の心が、寂しくなるだろうから。
見つけられて、それで喜べるはずなのに。これ以上痕跡を辿って……つまり誰かの死についてつぶさに考えを巡らせるという行為が、非常に愚かなことのように思えてきた。それは間違いなく霊と化した雨之紗代の為になるはずだし、彼女もまた、その……生前における某かの未練を謎と称して私の前に現れたのだろうから、私がそうすることを、彼女の周囲を詮索することを喜ぶはずなのだろうが。
「ちょっと待ってらして。私、クラスの皆に聞いて、連絡先を聞いてみるわ」
私は何も言えなかった。恐らく、やはりこの先に待っているであろう彼女の死に、辿り着きたくないのだろう。
しかし最終的に。
私は私のために。
そして彼女のためにも。
「お願いします」
と、頭を下げるしかなかった。
・
その日、我々文学部一同は夕食などを来栖家でもてなしを受け、帰宅した。東航平などは、そのごちそうに目をくらませて、大量のおかわりを申し込み、はしたなさを全快に出しきってその夕食を堪能して、「いい家ですな」と何様なのか、宣っていた。悪気のない、彼の天然ぶりは私とて閉口するものだったが、来栖京香はそんな東航平にも笑顔であった。
私といえば、当初の予想を遥かに上回った収穫を手にすることが出来、本来高揚するべきだったのだが。
どうにも神妙な気持ちになっている自分がいる。
その日の夜。自室で母君から頂いた電話番号と睨めっこしていた。
雨之紗代の電話番号である。
私が待っていたのは、霊の登場だった。この電話番号にかけるまえに、霊に確認をとっておきたいのだ。これから雨之紗代。君の死について調べるが、よいのか、と。確認するまでもないことかもしれないのだが、なぜだか私はそうしなければならないような気がしていたのである。
ただ。
待てども待てども霊は姿を現してはくれなかった。こちらが呼んだ時にはまるで出てこない、勝手な雨之紗代。
私はしょうがなしに、生前の雨之紗代について考えを巡らせることとした。
こけし。
寂しさ。
私の前に姿を現した雨之紗代は、外見は確かにこけしのようであったけれど、内面においては、快活な印象を少なからず受けた。やはり高校を卒業してからの年月が、人の性格を変えることもあるのだろう。かくいう私だって、実は小学生の時は外向的だった気もする。それは子供時代、皆そうである、といえば、そうなのかもしれないのだが。
ここで私は何か。
途方もない違和感を感じ取るのだが、それが一体何であるかはわからなかった。その違和感を頼りに、もう一度雨之紗代へ交信してみるも、うんともすんとも、彼女は応えてくれなかった。
仕方なしにパソコンを立ち上げると、西園寺礼子からメールが来ていた。
内容は今日、私が相談したことだった。すなわち、故人についてかぎまわることについてである。西園寺礼子は、それが謎なのだから、早く行動せよと言っていたし、メールもその内容がまたも記載されていた。一通りそのメールを読んでから、私の頭では「最悪、死ぬ」という西園寺礼子の言葉が繰り返されるようになっていて、やはり悠長に構えるべきでないのだと焦りを覚えるようになっていた。萌木蜜柑がなぜか学校を休んでからは、霊の様子は芳しいものになっていたところで、西園寺礼子は霊が憑いていることに代わりはないのだから、安心できないのだと、言う。
雨之紗代の登場を、翌日の日曜日、午後三時まで待ったのだが、結局の所私の前に姿を現してくれはしなかった。
私は、震える手で、番号の書かれたメモ書きを手にした。
電話するしかないようだ。ここまで待ったのだから、これ以上は待てない。自らの命のために。
母君曰く、本当に繋がるかはわからない番号、とのことだった。彼女と連絡を取っている人間は、ほとんどもういなかったのだとか。
コール音はする。
どうやら実在はする番号のようだった。
どれほど待っても、しかし留守番電話にもならなければ、誰も出てこない。
駄目なのかもしれない。
私はこの時、正直に告白すれば、駄目であって欲しいと、繋がらなくて構わないと、なぜかそのように願っていた。
得体の知れない不安が、私を襲っていたのである。
不安に苛まれながら聞き取った声は、か細い声だった。それでいて、凛としているような、強さもある。
声。出たのである、人が。
「雨之さんのお宅ですか?」
はい、と。
「雨之紗代さんはいらっしゃいますか」
と、私は聞きたくもないことを。
わかりきったことを聞いた。
「私が、雨之紗代です」
・
遠いもので、あると。
届くまではとても遠いものと感じていた雨之紗代は、近くにいた。この世と、あの世。それは何キロだとかの物理的な距離では言い表せぬ、途方も無い隔たりのある、遠さだと。絶対に手の届くことはないが、何らかの手段があるようではあるので、隔絶している、というよりは、遠いと。遠いのだと言わなくてはならずに右往左往していた私だったのだが。
雨之紗代は日本にいた。
神奈川県の政令指定都市、横浜に。
私は、電話の後、横浜駅前でその日の内に彼女、雨之紗代と待ち合わせることになった。
電話越しでは、私に対して不信感しかないといったふうではあったのだが、一度電話を切った後に、来栖京香の母君に、一度連絡をしてもらい、私の信用が得られたのである。どうやら来栖京香の母君は雨之紗代に対して、多大な信頼を得ていたようだった。
待ち合わせていた時に考えていたのは、西園寺礼子も呼ぶべきだったということだった。得体の知れない人間二人で待ちかまえていては、失礼かと感じたので躊躇ったのだが、JR横浜駅で待っている時の私の心境といえば、とても言葉では表現できないものだった。心細い、というだけでない。
私は雑踏に紛れながら、いったいここが現実の世界なのか、幻の世界なのか……霊界というやつなのか、まるきりわからなくなってしまっていた。。
雨之紗代が生きているのであれば。
じゃあ、あれはいったい何だったのか。私の前に出てきた、霊は。
それとも、電話に出た雨之紗代は、霊だったのか?
共通の、何かだったとでもいうのか。
景色が、朧気になっていくのを感じた。地上がぐにゃりと曲がり、雑踏の人間もまたどこか異世界へ旅立っていくような。そんな感覚に陥り、どうにかしてそこから脱しようとした私の前に、姿を現したのは雨之紗代だった。かの霊ではなかったし、卒業アルバムにいた通りの姿ではなかったのだが。
雨之紗代だった。
それは間違いなくあの霊と、そして卒業アルバムにいた雨之紗代が時間の経過と共に年老いた姿だった。私は眼前の景色が、さらにねじ曲がっていくのを感じた。
「はじめまして。郷田さん、ですか?」
口を開けて眺めていた私に、雨之紗代が声をかけてきた。
私のような人間にも丁寧に会釈をし、そして敬称まで使い、さらには化粧を施し、淑女として、社交場にも相応しいような格好で現れた、雨之紗代。
「はじめ、まして」
それからいくつか言葉を交わしたのだが、私は何を話して、何を聞いたのか、覚束ずに、幻に包まれたまま、某チェーン展開をしているファミリーレストランに入ることになった。これだけ気品のある方を、果たしてファミレスへ誘うことが正しい選択なのか、考えを連ねたのだが、横浜駅に慣れない私が気の効いた店など選ぶこともできなかったし、ドリンクバーを頼む程度の金銭しか持ち合わせていなかったのだ。仕方がない。
ファミリーレストランで相対していても、私はこの雨之紗代が、本当に生きているのか、よくわからなくなっていた。つまり、この方も霊に似た、何かなのではないのか、と。
「改めまして、今日はお越しいただいてありがとうございます」
私は来栖京香の婚約者を見たときよりもまた、畏まってしまう。
「いえ。私で役に立てることがあるのなら」
「はい、では早速なのですが……」
ここで私は言い淀んでしまった。電話で説明したように、そのまま、とってつけた口実を話せばよかったものの、今更罪悪感が募ってきたのである。一体どうやって真剣に、知り合いの知り合いがどうだと嘘をかこつけることが出きるのか。ここまで来て頂いたことと、そして私という人間にここまで時間を割いていること。真実を話したとして、とても信じられるような話ではないにせよ、嘘で応えるということには、やはり後ろめたさを覚える。
それに、理屈ではないところで、この方には本当のことを告げなければならないと、そのように思えた。それはもしかすると、雨之紗代氏自身が持っている、清廉な雰囲気というものによるものかもしれない。嘘をつくでない、という脅迫じみたものでは、決してなく、むしろその正反対で、全てを受け入れるような、おおらかさ、とでもいうのだろうか。巷では母性とか、そうも呼ばれるのかもしれない。全てを受け入れてくれるだろう。だからこそ、正直に話さなければならない、と。
だから私は正直に告白したのだった。
これまで起きたことを。
もしかしなくても、大変な失礼だったのかもしれないし、また夢物語を見た阿呆と思われてもしょうがないと、私は話しながら感じていたのだが、雨之紗代は真摯に話を聞いてくれた。
「そうだったのですか」
「嘘だと、そのように、思いますか? 逆の立場であれば、私はやはり信じられないと思います」
「いいえ。あなたの目が、嘘をついているとは思いませんもの」
「失礼な話をしてしまい、申し訳ありません」
「この世の中。何があってもおかしくはありませんもの」
雨之紗代は、やはり何事も受容してみせるような、そんな人間だったのかもしれない。怪しげな勧誘……主に霊感商法とか呼ばれるセールス野郎なのではないかと警戒されてもおかしくはないことを、内容だけ考えれば言ったのだが。
「それで、あなたが疑問に思っていることは……なぜ私が生きているのに、あなたの前に私の霊が出てくるのか、ということでしょうか」
「正確に言うのであれば、まずこの目で確かめたかったということがあります。雨之さんご自身が、私の前に現れた、この世ならざるものとは別物である可能性も、やはり否めなかったものですから」
「でも、同じだった」
私は黙って頷いた。
「私はやはりこのように生きていますから。その霊。あなたの見ている霊は、私ではない、と。そのようになりませんか?」
「確かに」
冷静に考えれば、その通りである。
「じゃあその正体は何なのか、というところが、不可解なことになるのではないでしょうか」
「それも、はい」
客観的に、雨之紗代は私に的確な助言をしてくれている。本当にその通りの話であるが……その不可解なことというのが、どうにも飲み込めない。手がかりはなにか、ないだろうか。
「雨之さんは、文学や、小説はお好きですか? その……たとえば明治、大正、昭和の小説だとかは」
「好き、ではあります」
「とても?」
「とても、というほどではありません。教養として、読んでおりますし」
「高校時代はどうでしたか? そういった小説を読んだことは」
「それは、ありませんでしたね。私はあの時、窓の外ばかり見ていたような気がします」
「全く、読まれていなかったですか?」
「国語の教科書に出てくるようなものは知っておりましたけれど。それ以外は特に。小説なども、好きとも嫌いとも呼べるほど、興味をもったことはございませんでしたから」
「私の前に姿を現した霊は、その……私は文学が好き、なのですが、霊もまた、私と同じように文学をこよなく愛していると、そのように言っていました」
ここでようやく、私は幻の世界から解き放たれた。
そうか。違うのだ。
雨之紗代が言ったとおり、霊の正体は、雨之紗代自身ではない。霊の姿が、そのまま生前の姿と一致しているわけではない、ということだ。雨之紗代は間違いなく生きている。なぜなら今こうして私の前にいるからだ。これは幻覚などではない。
これが、謎なのだろうか。
雨之紗代を変わり身にして出てきた、その人間の元に辿り着けば。謎は解けるというのだろうか。
「その霊は、私に恨みを持っているのでしょうか」
西園寺礼子は怨念をもって霊は発現するのだと言っていた。
であれば雨之紗代に憎しみや、恨みを抱えて朽ちたということになる。余計な不安を、与えてしまっただろうか。安心してください。憑かれているのは、私なのだから。などとは言えなかった。
「いいえ。私のことは心配しなくてもいいわ。郷田さんの問題を解決することが大切ですもの」
雨之紗代は、私の心を見透かしているかのように、言った。
「そのお化けは、高校時代の私の姿をしているということ、なのですよね?」
「はい」
「であれば、そのお化けもまた、私と同じ高校の生徒だったのかしら」
「はっきりとはわかりませんが、その可能性がやはり高いと思われます」
雨之紗代氏は少し考え込むような素振りを見せた。遠くを見て、何かを思い出すように。
「自分自身で言うのは少し間違っているのかもしれませんが、私……誰かから恨みを持つようなことはあまりした覚えはありません。とりわけ、高校生の時は」
それは、そうだろう。
そのはずだ。
高校生というのが、少し未熟な存在であったとしても、この目の前にいる雨之紗代は今のような気質を持って、学生時代を送っていたはずだ。一体、どうやったら人に怨まれるというのか。
「とはいえ、私もまた人間ですから、どこかで、意図しないところで、誰かの恨み辛みを買うことが、あったのかもしれませんが」
「その……先ほど、とりわけ、高校生の時、と仰っていたのはどういうことだったのでしょう?」
「今となっては、よい思い出ですけれど、私、高校生の時はほとんど、誰とも関わりを持とうと思わなかったのです。思春期の、少しだけ厄介な自分というのがおりまして。覚えている限りでは、限られた人としか話さなかったですし、はっきりと言えば友達と呼べる人もまた、いなかったように思います」
それは、私のような見知らぬ人に言い難いようなことと、思ったのだが。
しかし当の雨之紗代自身はどこかうっすらと笑みを浮かべて、嬉しそうですらあった。昔日の記憶を、思い出を、浮かべているのだろうか。
「その限られた人の中に、京子さんがおります」
「京子さんというと、来栖さんのことですか?」
「ええ。彼女はとても人情に厚い人でしたから。私に対しても、また同様に。このような人がいるのだな、と。私はいたく感心したことを、覚えております」
そんな気がする。人間味が人一倍ある方だな、というのは私も感じていたところだった。
「高校の時は、そんな私でしたから。色々と思い出せないこともありますけれども、やっぱり恨みを買うほどに、人と関わっていなかっというふうに思います」
そうなるとどうなるのだろう。もはや、雨之紗代自身は関係なく、ただなんとなく、意味もなく雨之紗代の体を借りて私の前に姿を現した、ということなのだろうか。
私はこれまでの霊との会話を総動員していく。
霊はなぜ今出てこないのだろうか。今出てくれば、色々と解決するようにさえ思うのだが。
「小説とか、文学とか、そういうことで何か思い当たるようなことというのはありませんか?」
「申し訳ないですが、それもまたありません。あえて挙げるのなら、国語の教科書に書かれていたものを、やはり思い出す程度のものです」
「そう、ですよね……」
白紙に戻る、のだろうか。
彼女が何も関係ないというのなら、じゃあ一体どうやって謎とやらに辿り着けばよいのか。一度帰って、霊が出るのを待つべきなのだろうか。
「そうだ。現校舎の南棟四階奥が、私たちの部室になっているのですが、そこにかつて何があったか、ご存じですか?」
「南棟……四階奥、ですか。ちょっと待ってください」
「たとえば、部室とか。そうだ! 文学部の部室だとか」
「いえ……確か。あそこには何もありませんでした。そうです。ええ、間違いありません」
「何もない、とはどういうことです?」
「倉庫、でした。椅子や、机や、何かわからない資料や道具があったりとか。せせこましい部屋でしたし、はじめから倉庫として存在していたのではないでしょうか」
「倉庫」
「ええ」
今も昔も、変わらなかった、ということか。校舎が変わり、歴史を経てもなお、倉庫は、倉庫のままであったと。とするとあの霊の言っていたことは嘘なのか? 倉庫から景色を楽しんでいたのか? なんだか霊の言っていたことが全て嘘じみたことのように思えてきた。
そういう霊も、いるのだろうか。
迷惑をかけるためにに。困らすだけの目的で出てくる霊も。むしろ、その方が、合点がいくような気がしてきた。恨みとはつまり、私に対して何かあるのではないか。雨之紗代は間違いなく恨みよりも、余る程の感謝を受けてきたような人生を送ってきただろう。雨之紗代の送ってきた人生を知らねど、短い人生の中で得た恨みの総量はともすると私の方が多いのかもしれないとさえ思えるのだから。
私はそれから、雨之紗代の時間が許す限り、高校時代の話を、失礼のなきように、し続けたのだが、話せば話すほど、掴めたような糸が糸ですらなかったような感触を覚えていった。私はあの霊と遭遇してからずっと、実体のない解を追い続けていて、それはこれからもそうなのではないかとの諦観が私の中で巻き起こってきているのを、どうにか押しつけた。今日のこの会話にも、何かヒントがあったはずだと、私はそのようにこじつけてその日を終えた。
雨之紗代には妙な不安を押しつけてしまったかもしれなかったが、どことなく、楽しそうでもあったのが印象的だった。私もそのように、今の高校時代を……この、彩られた青春などとは到底呼べぬし、期待もしていない(というかそれどころでもまったくない)高校時代をよきものと振り返ることが出来るとでもいうのだろうか。
名実ともに、呪われているようにさえ思うのだから、そう出来る気は、やはりしないのだった。
・
てるてる坊主を作って飾ったところで晴れがこなかったように、適当にお札のようなものや庭に生えていた名称不明の植物を結って、振り回して念じてみても、霊は姿を現さなかった。
でたらめを口走っているな。謎などないのだろう。
などと呟いてみたところで、やはり除霊されるわけもなかった。
月曜日になって、私は萌木蜜柑がなおのこと休んでいることを見て安堵したのだが、どことなく心配にもなった。これだけ休む病気にかかってしまっているのだろうか。ほとんど病的な状態である私だからこそ、萌木蜜柑とて、心配を投げかけたくなるものだった。登校してもらってもそれはまた困るものなのだが。
いや、他人の心配などしているどころではない。
昼休み、屋上で昼食を共にした西園寺礼子はこのように言うのだった。
「可能性は、ある、と」
すべてでたらめで謎なんてものはない可能性は、ある、と。それに怨念が私に向けられている可能性も、ある、と。
可能性。
私はどうやら、ありとあらゆる可能性を想定しなくてはならないようで、じゃあ謎とやらを解いてはい終わりという事態ではないということも想定しなくてはならないし、また、自らの死も想定しなくてはならないという……
「怖いか? その得体の知れなさが」
「怖くないわけが、ないだろう。私が百戦錬磨の男に見えるか? 知性はあるのだと自負しているけれど、その知性という矛があまり役に立たないようでね。腕っ節に自信がないからこそ、それが通用しないとなると、恐怖を抱くのだよ。この怖さっていうのは、どうにかすると、今まで味わったことのない、複雑なもののようだよ」
「違いない」
西園寺礼子は空を見ていた。
教室で上の空になっているとき、彼女は文字通り空を見ていたのだろうか。天井を飛び越えて、遙か先にある、この大空を。私とて、もう大空に抱かれて楽になりたい。
「君は空が好きなのか」
単刀直入に聞いてみる。
「好きか、嫌いかで言えば、好きだな」
「そう、だよな」
「いろんな表情を見せるから。人間と同じように」
「哲学的な話をするね。嫌いじゃないよ。そういうの」
「君は、懐が深い人間なのだな」
「そんなことはない。むしろ、浅いし、偏屈だよ。狭い範囲で物事を見ているし、それが正しいと思っている。変える気はない。正しさは人の数だけあるはずだって、私は文豪に教えてもらった」
「人の数だけ」
「けれど霊を見てしまった今の私は、その正しさについて、少しばかり考えを巡らせなければならないようでね。はは」
私も空を見上げた。
思うのは、覗きから、今日までのことだった。明らかに凶事であったにせよ、西園寺礼子と、こうして接点を持つことはできなかっただろうということ。日常の瑣末なことに目を見張らせてあれこれ言うことはなくなった。忙しいといえば忙しいので、だからだろう。それが進歩か? 成長か? なんて訊かれても、それは違うだろうと答えるとは思うのだが。
そういえば私、覗きをしていたんだな。
急に黄昏た気分がどうにかなってしまった。萌木蜜柑をどうすればいいのだろう。彼女がまた帰ってきたら、私は脅されながら、いつ西園寺礼子をはじめとした第二文学部の人々に醜態を晒す羽目になるのか……
「安心してほしい、とは言えない」
不安を巻き起こす私を横にして、西園寺礼子は言った。
「ただ、どうにかしたいと思っている。私は、私なりに。君のことを」
その言葉には気迫と、決意があるようだった。いつかの寺で聞いた、少女の話。それと深く繋がっているだろう、西園寺礼子自身の問題を、私はまだわからないでいる。
「君にした少女の話を覚えているな?」
「覚えている」
「あの少女の為に、君を利用しているのは、まだ変わらない。私の力で、その少女を救うことができたのなら、って、私はただそれだけを考えているのだよ。この大きな空を前にしても、自らと、その少女のことばかり考えているのだよ。もしかすると、そこに君は……」
「なんだ?」
「いいや。なんでもない。今日、また夜の学校に忍び込もう。そして、降霊式をやる。決着をつける、とは言わない。しかしそのつもりで来て欲しい」
「おい、ちょっとまて。急だぞ。夜? また?」
脳裏にフラッシュバックするのは、窓ガラス全壊事件のことである。
「次は、やる。次は、失敗しない」
私に、口は挟めなかった。
なぜなら固く満ちた決意が、そこにあったから。
あまりにも一方的な決意で、唐突な提案に私は聞こえたのだが。
彼女は彼女で、考えていたことかもしれなくて。
少女をどうにかするために、考えていたことかもしれなくて。
確かに。
そこに私はいなかったのかもしれない。
彼女の決意の中に、私はいなかったのかもしれない。
今度は私が寂しくなって、そして恐怖が薄まったのを感じたのだが。
恐怖と、寂しさ。
この時私は、どちらかを取れと言われたら。
ともすると恐怖を選んでいたように思う。
実際に、二者択一になっていないのだから、本当のところはわからなくて……私のこころも、彼女のこころもまた、計り知ることの出来ぬ機微に苛まれているのだと、知ったのだった。
・
夜の学校に行こうという、西園寺礼子の提案。
もちろん解決の糸口になるのは間違いがない。雨之紗代の存在を、どうにか霊に知らせたいからだ。ただどうにも不安に思うのは、西園寺礼子の強行的な姿勢であり、彼女が無茶をしてはいないかという点である。
そんな私の憂慮を、事態は待ってはくれずに、考える時間も与えてくれないようだった。
下校して自宅に帰宅した直後、電話が鳴ったのだ。なんでもない電話と思えど、母が取り、そして私を呼びつけた。
雨之紗代さん。
と母は言い。
ガールフレンド? とも聞いてくる母の木訥さに、癒されはしたものの、私は一体何事だろうかと思い、電話先の相手に意識を向けた。
「雨之さんですか? 郷田です」
「昨日はどうもありがとうございました。色々と思い出したことと、そして渡したいものが、家から出てきましたので。ご連絡致しました」
「一体何を、思い出されたのですか?」
「もしよろしければ、渡したいそのものをご説明をさせて頂きたいと思いますので、またお会いすることはできませんか?」
「もちろん! というよりもむしろ、わざわざいらして頂くのもご面倒かと存じますので、私の方から向かわせて頂きます。今日でも構いませんか?」
雨之紗代はなんという善人なのだろう。普通、あんな話をしたのなら、あまりもう関わりたくないというものではないだろうか。それを昨日の今日で連絡とは。
今度は抜かりなきように、西園寺礼子を呼んでおくことも忘れなかった。どうせ夜の学校に忍び込むというのだし、そのついでだ。
雨之紗代の自宅は、こけしが置いてありそうな、侘びしさを感じる、時代の洗練を経てきた木造の、蔦がやたらと絡まったような一軒家……ではなかった。普通よりちょっと豪華なマンション、といったところだろう。
私と西園寺礼子はインターフォン越しにやりとりをしてから、5階までエレベーターで登り、彼女の家まで辿りついた。西園寺礼子の紹介をして、家にあげてもらった我々は、早速彼女から話を切り出された。
「まず、文学ということでしたので。それで思い出せる何かを、必死に考えていたのですが、一つだけあったのです」
「どういうことですか?」
「……今はどうなのかしら。卒業式の後で後夜祭っていうものがありましてね。簡単なお祭りみたいなものをして。そこでは、花火を打ち上げたり、キャンプファイヤを囲んでダンスをしたり、出し物だとか、イベントだとかを、在校生と共にする用なもので。規則が厳しかったけれど、あの日には教員も含めて、皆が皆、肩の力を抜いて楽しんでいたわ」
「今は、文化祭の後に、後夜祭というものがあります」と西園寺礼子。
「そうだったのですね。その、後夜祭を私は階段の上の方から眺めていたのを思い出してね。皆が校庭ではしゃいでいるのを見ながら、高校生活も終わるんだな、なんて。そろそろ帰ろうかと思ったときに、京子さんが、私に声をかけてくれて。もう少しクラスの皆と楽しもう、って。階段を下って、校庭まで行ったら、その時に在校生が卒業生にプレゼントを送るような催しをやっていたのね。私には親しい後輩というのはいなかったものだったし、うろうろしていたのだけど、その時に……」
そう言って、雨之紗代は両膝の上に置いていたらしい、一冊の本を取り出して机の上に置いた。
「これは?」
「これを、もらったのです。とある、二年生の生徒から。最初は、渡す相手がいなかったのかと思って、ぶらぶらしていた私を見つけてたまたま渡したのかと、そう思ったのですが、私に? と聞いて、あなたに、とだけ言って、その方は去っていきました。名前は、倉間明久という方で。私は正直、いたずら、というか。やっぱり渡す相手がいなかったとか、特段深い意味はないだろう、と。一度見たきりしまっておいたのです。捨ててしまったと思いましたけれど、卒業アルバムの中に、挟まっていて。これ、中身は小説、というか……短い手書きの文章が記されています。私には少し理解しかねるようなもの、なんですが」
「文学的でしょうか?」
「そうなのかもしれません」
「でも、これが関係あるとも、思いませんでしたから、私、とりあえず調べてみたんです。まさか、とは思いました。その方は、倉間明久さんは、高校卒業をした後、すぐに事故で亡くなっているということでした」
「事故で」
「だとしても果たしてその方が、郷田さんの言っているお化けと関係のある方なのかはわかりませんが、私と、文学。関係のあるものといえば、こういったことだけですので。これはどうぞお持ちになっていってください。必要になることもあるかもしれませんので」
・
~~~~
疑い深い私は、その色が継続してその色を持ち続けるのか、毎日観察をした。毎日夕日が沈むのを確認して、安堵するように、私はその色が短絡的なものであるか、むしろそうあっては困るという気持ちで観察し続けた。結果的には寸分違わなかった。たゆまぬ姿勢でその色は色を保持し続けたのだったし、その色を毎度のこと見て、物思いに耽ったり、何らかの感情を持つ私がいるというのも変わらなかった。ではその次はどうしようかと言えば、接触をすることだった。接触をし、正体を確かめようというのである。実は。実を言えばもう既に観察の結果、わかりきったことであって、これはもうしなくてもよいことだったのかもしれない。
実際にその通りであったことを私は確認した。つまりその色もまた空虚さを持っていたのだから、塗りたくれなかったのである。固有の空虚さがそこにどうとおり、私の意識はそこに触れられることもなかった。そんなものがこの世にあるのだと知った私の世界は、また元の風景に戻ってしまった。その一点からひび割れた世界は、徐々に色を取り戻してしまい、どうにも修正がつかなくなってしまった。拠り所であった、私を私たらしめていた空虚さも、散り散りになってしまったのがわかり、芯を確固として持てた私はまた元通りの混濁した私に戻ってきてしまった。白と黒の、終焉。
~~~~
・罪と罰・
帰り道はすでに夜になっていて、私と西園寺礼子は、月明かりと、街灯に照らされて、夜の北鎌倉を歩いていた。
高校への坂道。
いつも登るその通学路は、この前忍び込んだ時のように、不気味な暗がりで満たされていた。
「なぜ中を見ないのだ?」
問いかける、西園寺礼子。
「なぜだろうな。すぐにでも開いて中を見てみたいと思う自分がいる一方、とてつもなく警戒している自分がいる。心の準備が整ったら、ということにしたい」
いつ整うかはわからない。なぜならこの本……というか、冊子からは、感じるからである。何かを。何かがあると思わせるには十分すぎる雰囲気を纏っていたのだった。そのぼろぼろになった和紙の包装も含めて。再度学校に忍び込むことについても、もう全く心の準備ができていないというのもある。
ただならぬことが起こる気がしている。
解決、するのかもしれないという予測はあった。
ただそれが善い意味での解決なのか、悪い意味での解決なのかは計り知れないのだった。
私は罪と罰、というドストエフスキーの作品を坂道を登る途中で思い出していた。海外文学はあまり手に取らないものの、高校一年生の夏休みに、どうしてもやることがなかったので手にとったのだった。かつて来栖京香の手にしていた本でもあり、彼女に少しでも近づきたかったという哀れな下心が動機でもあった。
そんな動機であれども、手にして良かったと思える作品ではあった。内容は、自意識過剰で、どうにも融通の効かない青年が、老婆を殺害してしまうというものだ。あの物語に出てくる青年は、その殺害をてんで悪いことと思わないようにしているものの、結局罪の意識に苛まれてしまうわけなのだが……
もしかすると私とあの青年。少しだけ似ていたのかもしれない。私は自らの権利を執行する旨で、覗きを企んだのだから。人を殺害したいなどと思ったことはなけれど、どうしようもない正義感というのは、私にもあった。覗きで一体何を懲らしめるのか、という話ではあるのだが。
報い、は。
罰、は。
既に受けたのだろうか。これから受けるのだろうか。
十分に受けたのか、受けていないのか。
これからもまだ罰が待ち受けているのだという暗雲は消えないでいる気がしている。この坂道を登り切った後でも。いくらなんでも、覗きの罰としては、少し重すぎやしないだろうか。もしかすると覗き以外に抱えた罪があったのかもしれないという勘ぐりをしてしまうよ、なぁ、フョードル・ドストエフスキー。
「思い出すな。窓ガラスが割れたことを」
「思い出したくもないな。あれは、これから先忘れられそうにもないが」
「そのうち、慣れるんじゃないか」
「それ、冗談のつもりか?」
「そうだ。笑ってもいいぞ」
という西園寺礼子は全く笑ってなどおらず、やはり屋上で見せた、覚悟の伴った顔を見せるばかりだった。
私も笑えず、倉間明久の冊子を小脇に抱えて、夜の坂道を登った。
再び、夜の2ーA。静けさは変わらずに立ち込めていて、私達を迎えた。日常の騒がしさも、この夜の教室にはまるでなく、あれだけ忌むべきものとして眺めていた有象無象のクラスメイトの連中も、ここに召喚したくなった。
ひとまず談笑でもかまけてみないだろうか、きさくに、と提案しようとした私だったのだが、西園寺礼子は無言で支度を始めた。そこに口を挟むということはどうにも出来なかった。
例の装束に着替え、そして降霊式に必要な品々……蝋燭、難しい漢字が記された札、振り回すための植物……などなど。
続いて今度は教室中の机を移動し始めた。
ちょうど中央に机が一つだけ配置され、それを円状に囲うように、他の机を配置した。
仕上げだろう。降霊式に必要な品々を、中央の机に置き、懐中電灯を消し、蝋燭に火を灯した。
その中央の机の前に、御座のようなものをひいて、西園寺礼子は、「座るといい」と私に告げた。
淡々と準備をする西園寺礼子を尻目に、私の恐怖は最高潮に達していた。私は言われるまま、その御座に座り、そして机を挟んでその前に西園寺礼子が立ち、私を見た。あの、射止めるような目で。暗がりの、蝋燭越しに見たその目は、蒸し暑さを感じる今日この夜でも、私の体に突き抜けるような涼しさを与えた。
「準備はいいか?」
これがなければ、あるいはよかったのかもしれない。有無をいわさず、降霊式を初めてくれたのならば、私はこの時席を立ったりなど、してはいなかったのかもしれない。
西園寺礼子も、私に拒否権など残さず、そのまま式を開始すればよかったのかもしれない。
息が詰まったのである。思い出されるのは、悪霊と化した、かの霊。禍々しさの権化となりて我が身を滅ぼしかけた、あの部室でのこと。そして、窓ガラス全壊事件。
西園寺礼子を、私は信じたい。信じたいし、信じている。だからこそ、身を任せることは出来る。出来るのだが。
「外の空気を、吸って来てもいいか?」
間隔を、取らなければ、正気は保てない気がした。
「構わない」
夜の学校における廊下も、階段も、今宵の降霊式と、私が経験してきた数々の難事と比較すれば大したものではなかった。悠々と私は下駄箱まで辿り着き、門を超えて、校庭を眺め見た。
校庭までは、下りの階段になっており、そういえばここから雨之紗代も、後夜祭の風景を眺めていたのだな、と思い至る。
渡したのか、この、冊子を。
降霊式を開始する前に、やはり読んでおくべきだろうか。
私にとっては、遥か昔、と言っていいだろう。その遥か昔に、彼は一体どんな気持ちでこの冊子を渡したのか。
いや、本当に倉間明久という人間があの霊の正体なのかはわからないのだし、それをこれから霊に確認してみようというのだが。
冊子を開きかけたその時だった。
私は校庭に。
何かがいるのを見た。
見てしまった。
あれは、なんだろう。
そんなことを考えるも前に脳裏を貫いたのは、まず恐怖だった。それは、生命を脅かす類の、恐怖。根本的な、瞬間的な、死への恐怖だった。
その何かは、確かに動いていた。
動いていたし、確実にこちらに近づいていた。
歩いているようにも見えたし、走っているようにも、また見えた。どれくらいの速度なのかは、わからないし、またどういう存在なのかもわからなかった。かろうじてわかったのは、人間的な何かである、ということ。人間的、というのは人間のようなもの、ということで……人間ではないものも含んでいることに注意して欲しい。
そのように私が表現したのは、二足歩行をしているようにも見えるし、四足歩行をしているようにも見えたからである。じゃあそれは人間じゃないのではないか、だからこそ人間的な何かと銘打った次第なのである。
私はその存在の正確な正体を確認するよりも前に、逃げた。なぜなら死にたくないからである。最悪、死ぬ。という西園寺礼子の言葉は私の体をどうやら蝕み、縛り付けているようで、死に隣接すると、あるいは死を予期すると、逃避行動へと直結するようになってしまったようである。それは動物の全てが持っている本能なのかもしれないが。
私はその人間的な何かに背を向けながら、その行為が間違っていなかったと、階段を登りながら確信する。命の危機というものが、一段ずつ登っていくと同時に、また一段ずつせり上がってくるのを感じたから。トイレの花子さんだなんて目じゃない。妖怪や、お化けや、鬼や、霊だなんて、そんなものではなく、神話に出てくるような、人類をすべて滅ぼす悪魔がやってくるのだと感じた。
悠長に構えているべきではない。降霊式などもうとりやめるべきで、窓ガラス全壊よりも、もっとひどいことが今日、この学校にいれば起こってしまうのだと思わざるを得なかった。
「西園寺、撤退だ。逃げよう。今すぐ。とんでもない物体を見てしまった。気のせいではない。あれは霊でもなければ、この世にいるなにかでもない」
「それはどういう意味だ?」
「とてつもなく、形容ができない存在ということだよ。こうしている時間が惜しい! 行くぞ!」
「待て。先延ばしにしても、いずれはやらなければならないことだぞ」
忘れていた。どうやら西園寺礼子というのはあまり融通が利かない奴なのだと。人のことを言えた義理ではないのだが。
「いいか? 細かい話は後にしよう。君だって死にたくないだろ? 私だって死にたくない。つまりそういうことなんだ」
「意味が分からない!」
「私はカピバラなんだよ!」
そして聞いてしまった。
足音を。
追ってくることは、もしかしたらないのではないか、と。一分の可能性を持っていた私は、それが打ち崩されたのを感じて、なおのこと生命の危険を感じ取るのだった。
「この音が聞こえないのか?」
「なにを言っている?」
埒があかなかった。どうやら西園寺礼子は、私がただ単純に、例えばあの本だとか、降霊式だとか、夜の学校に恐怖しているから逃げたいのだと、そのように解釈しているようだった。違うというのに!
腕力に自信があったわけではないが、私は人生で初めてぶっきらぼうに女性の腕を掴んだ。ことの緊急さを、どうにかわかって欲しかったから。
「君のためを思っている」
といったのは西園寺礼子で、私も全く同じことを言いたかったのだが。
足音は確かに近づいてきていた。
「聞こえないか、この音が」
私は一度冷静になって、そう諭した。
すると我に返ったらしい西園寺礼子は頷いたのだった。ようやく、私の言わんとしていることが理解できたらしい。
お互いに、小さく頷き合ってから、すぐに教室を出ることを選んだのはようやくの好判断だったといえるだろう。
ただ。
遅かった。
あまりにも遅い、決断だった。
それはここから逃げ出すということもそうだったし、もっと前から気がついておくべき、些細な異常事態に目を凝らすべきだった、という意味でも。
彼女だった。
人間的でない何かと称した、その存在の正体は、覗きの一件以来、私の前に立ち尽くした、あの、萌木蜜柑だったのである。
私たちは揃って仰天して身を固めた。どういう言葉で、どういう理屈で彼女を説明すればいいというのだ。彼女? いや、もう女性である、と、彼女、と呼べるのかどうか。だからこそ人間的ではないと感じたのだが。
そのかつて萌木蜜柑だった存在は、四足歩行だった。四足走行? いや、ところどころ二足歩行にもなったりしていて、変則的なフォームである。
今の萌木蜜柑はヒューマンホラー、などではなかった。
それは紛うことなきホラーだった。身近な隣人が狂人のように四つん這いで狂走をしかけてくるそのさまを、諸君等は見たことがあるだろうか。
それはとてつもない速度だった。明らかに常軌を逸している。人間が出せる速度ではない。オリンピックなら金メダル間違いなし。四足50メートル走という競技がもしあるのなら、であるが。人間の脳のリミットを外すと、とてつもない力を発揮すると聞くが、今の萌木蜜柑はちょうどそんな様相を呈していた。常に火事場の馬鹿力……あるいはそれ以上のポテンシャルを発揮し続けて、こちらに猪突猛進してくる。
もはやあれは萌木蜜柑ではない。そう考えた方が賢明だ。
凶暴な、何か。
恐ろしい速度で近づいてくるそれが、強靱な攻撃を振るってくることは間違いがなかった。明らかに我々に敵意をむき出している。
西園寺礼子も狼狽していたのだが、表情を引き締めてこう言った。
「悪霊に取り憑かれている。間違いない」
合点が行く。地獄からきました、とばかりのその動きは悪霊に取り憑かれている、と。違いない。そうでしかありえない。
一体いつからだ?
あのどす黒い目をして私を強請ってきたときにはすでに私と同じような何かに……取り憑かれていたとでもいうのだろうか。だとしたら、あの悪魔的な強請というのも説明がつく。悪霊に取り憑かれた二人がお茶したり屋上でなにやらしていたりだなんて、なんたる奇遇なのだろう。これもまた、運命というものなのだろうか? だなんて過去を顧みている暇はなかった。
「なぜ気がつかなかったのだろう」
「反省は後だ! 逃げなくては」
「駄目だ。遅い。あの速度では間に合わない」
「じゃあどうする? 戦う? 生憎掃除箱にある箒くらいしか武器はない! ちりとりを投擲したとて弾かれるだろうよ!」
「落ち着くんだ。今日の私はなにがあってもいいように、武装を施してきた。霊的な武装、というものを」
そう言った西園寺礼子は、装束の袂から、木の札のようなものを取り出した。
「効くかどうかはわからないがな!」
決め台詞としては、あまりにも心もとないものだったのだが、一直線に飛んでいったその木札は吸い寄せられるようにして廊下を飛び、萌木蜜柑に直撃した。
そして確実に動きを止めた。
続けて呪詛のような言葉を投げかける西園寺礼子。
「いけるか?」
西園寺礼子は呪詛の合間にこう答えた。
「これは動きを止めているだけだ。強力な、悪霊」
じゃあ、どうすればいいのだというのだろう。
やはり箒で攻撃をしろと? それしかないか!
いてもたってもいられなくなった私はしかし、体を止める。
違う。
体を、止められた。
この感覚は、一度体験したものだったからこそ……二度目だったからこそ、すぐに理解できた。
私に取り憑いている霊が。
悪霊と化したのであると。
途端に、目眩、寒気、頭痛、幻覚。
例の四重苦が私を襲った
西園寺礼子は萌木蜜柑を止めるだけで精一杯だった。到底私に何かをしてくれるようでは、ない。
死ぬのではないか。
ここでもし、私が倒れてしまえば、西園寺礼子と萌木蜜柑の体力勝負であるのだと、そうなる。どちらが勝つのかと言えば、やはり悪霊を我が身に宿す萌木蜜柑の方ではないのか。いくら霊的な武装を施しているとはいえ、あの化け物と一騎打ちして勝てるとは到底思えない。
私とて比喩でなく食い殺されるだろう。
死にたくない。
それは本心だった。まだ到底生きたと、生き切ったのだと、言い切ることができないからであるというのもそうだし。
それに。
少しでも。
少しでも面白く、なってきたんじゃないか?
悪霊に取り憑かれて、こんな時だっていうのに。
私の高校生活は面白くなってきたと。そう呼べるのではないか。そう呼べる瞬間が、出来たというふうに思える時間が、出来てきたのではないか。
それを。
もう少しだけ見ていたい。
せめて、高校を卒業するくらいまでは。
文豪よ、我に力を。
どうか、力を。
段々と身動きが取れなくなり、視界が霞む中で手に掛けたのは、雨之紗代から授かったあの冊子だった。謎にとりかかる、重大な鍵が記載されているはずだった。
倉間明久。
彼が、私に取り憑いている霊なのかは、わからないにせよ。
私は自らの体をとにかく自由にすべく、手がかりを探すために、冊子を開いた。
~~~~
頭を悩ませるのはそれからというもの。どうすればよいのかわからなくなってしまったのである。どうあっても私はこの私に戻ってくる。成功しかけた世界の蹂躙も、やはり蹂躙されているのはこの身であると気がつくのだから、つまりどうしようもないのではないか。
考えに考えを続けた私はただ小さく灯されたあの色を思い出す他なかった。私を正しい道へ誘ってくれるのかはわからないまでも、その正体にたどり着ける時がいつの日か来るのではないかという気はしている。
実を言えば、そのように考えている時に、正直に告白すれば、私は傀儡でないのではないかと感じる時があるのだ。それは感覚的な問題であり、私の主観であり、これまでの全て、経験を踏まえて見いだせたものであった。しかしそれが正であるのだと私は断言が出来ないでいる。その色が、私を灯すものであるのかというのが、わからないでいる。慎重に見極めることができるだろうか。あるいは、長らく私の中でその感情を持つことが出来るかはわからないが、この手記はここでもう辞めようかと思う。元々、自らの感情をどうにかするために記していたものだ。具に心象を記してみた甲斐というのはあって、後はその色を見続けていきたいという決心めいたものはある。揺らいでいくというのはわかる。どうあれ、不確かなものであろうから。白と黒で決別できぬのだから、不確かなものであろうというのは、確かなのかもしれない。
~~~~
幸い、活字を読むことだけには長けていた私は、自らの肉体や精神が不自由になろうとも、その文字の連なりを追いかけることが出来た。
朦朧とする頭の中で私は考え、そして、笑った。こんな状況で、笑うことが出来た。
理解できたのはまず、私に取り憑いている霊は、倉間明久で間違いがない、ということ。雨之紗代は理解できずといえども、私には彼の感情がこの文学的表現の中で、理解出来た。寸分違わず、と言ってもいい。だからこそ、私の前に姿を現したというのだろう。
しかし謎とは何か。
この手記にはそれが見当たらなかった。
考えろ。考えなくては。
まず彼がこれを記したのは、感情の整理であると、そのように記載されている。
自らが空虚であると理解して、世界を空虚にしかけた、彼。
その上で、彼は自らと似通った空虚さを見出した。
それに抗えなかった彼は、見届けると。これから先、その色がどのようになるのかを、見届けると、記していた。そして、高校を卒業して事故で死んだ。わからなかったの、だろうか。その色の正体を。わからないから、未練として、私に取り憑いた?
謎の正体は。
その、色の正体?
どういった色、なのか。
それは既に、わかっていたのではないだろうか。
空虚でない、色として。
もし、わかっていたのならば。
他の謎は。
私の前に姿を現した、理由?
それが謎、なのか?
すぐそこに、すぐ近くに、その答えはあるように思えた。ぐるぐると、目まぐるしく私の思考が移ろいでいく。
その苦悩の末に、私はふと、西園寺礼子の後ろ姿を見た。
頼りがいのある、彼女の後ろ姿を。
そして思い出したのは。
これまでの、こと。
事件から、これまでのこと。
その時。
その追憶の中で。
一つの道を、見出した。
解けた、のかもしれない。
霊。
悪霊。
文学。
私。
西園寺礼子。
雨之紗代。
倉庫。
関係性。
私と、倉間明久。
冊子。
思い出す。
彼が、倉間明久が言っていたことを。
なぜ、霊として姿を現したか。
それ自体謎である、と。
それは、決して想定していたような、複雑怪奇なものでは、ないようだ。
そう思い、また笑みがこぼれた。
つまり、こういうことなのだろう。
彼は、その色の正体を知りたかった……のではない。
やはり既に知っていた。知ったまま、事故で死んだのだ。
ではなぜ未練となったのか。
怨念となったのか。
知っていたそれを。
その色の正体を。
灯されたそれを。
彼の中で肯定、出来なかったのだろう。
知っていながら受け止めきれずに、肯定しきれずに、朽ちたからではないか。
なぜ、そう、思うのか。思えるのか。話したこともない、彼の心を読めるのか。
それは読めばわかった。
彼の手記を。
わかってしまうのだ。
彼の捉えきれなかった、色の正体が。
それは、私がかつて、壮大な勘違いと。
熱病であると呼んでいたそれであると、わかる。
空虚な君は、同じように空虚な雨之紗代に、恋をした。
そういう、ことなのだろう。
君とて、それを恋と呼ぶことにひどく躊躇いを覚えた。
世界を白と黒に塗り替えた君の目には、その人間的な感情も、消え失せていたのだろうから。
私も、そうだ。
私も、その色の正体を。
熱病の正体を、肯定していない。
だから、現れた。
私の前に。
お互いに似通ったものが、過分にあったのだから。
もしかすると。
彼は……知っていてなお。
知っていてなお、私にそんなものがあるのだと、知らしめるために、現れたのだろうか。
もし、そうならば。
そうしてくれるために、現れたというのならば。
肯定しよう。
その関係性を。
男女の。
その中で育まれる関係性を。
受け止めて、みよう。
一切の恥じらいも。誤魔化しも。嘘も。偽りも。茶化すこともなく。
私がそうしたいのだから。
今、そうしてみたいと思ったのだから。
倉間明久。
君が私の前に現れてから、私の日常は目まぐるしく変わっていった。
現れた人間の一人に、西園寺礼子という、一人の女性がいる。
彼女に対して、初めて出会った時、何を思っただろう。怪しさと、逞しさと、冷静さと、知性と……ささやかな、儚さ。無骨なだけではなく、それらをすべて一緒くたにしたような女性が、西園寺礼子だと、私は感じた。
頑固な気丈さは、彼女ならではで。
誰にも知られることはないだろうし、知らせることもないだろうし、知られまいとしている、彼女のこころを、私は少しだけ知っている。
少女の話。
全部、自分のことだろう。
あの寺。知人のもの? 大嘘だ。あの寺で、彼女は霊能力者として働いている。あの時口論していたのは、君の親族か何かで。それに抗っていたのだろう。少女の……西園寺礼子の、家族に。彼女が育てられた、恩人に。
少女……ではなく。
彼女が、自ら信念を立ち上げて。
彼女自身が、一人でまた自分を取り戻すために。
だからこそ、失敗したことを、意地でもやろうとする。
どこまで私を見くびっているというのだ。
簡単な嘘をついて、私が欺かれると思っている、西園寺礼子。
私を利用するなどと言って、自らが利己的であると吹聴する、西園寺礼子。
初めて私の家に現れた時には仏頂面だった西園寺礼子。
合理的で、冷静で、それなのに休日は休日らしくありたいと願って、洒落たカフェにも行く西園寺礼子。
部活を作る時は、そこそこ乗り気で、部室で談笑していたときには、文学もまんざらではないな、と普段は見せない笑みを見せていた西園寺礼子。
そこに私はいないなどと、言いながら、それでいてそんなことをいう必要もない癖にわざわざ言ってくる、西園寺礼子。
教室で空を見上げている西園寺礼子。
言葉にすることの出来ないこころを、持っている、西園寺礼子。
全部、私は見届けていただなんて言えないけれど。
それでも少しは君のことを理解した気になっている。
騙されると、思うなよ。
自分の心が。
こころが。
誰にも悟られないのだと。
誰にも理解されないのだと。
誰とも分かちあえないのだと。
諦めきっていたことはあるだろう。
わかる。
だなんて到底言えはしない。
霊能者の苦悩なんて、誰が理解出来るだろう。
わかるよ、君の苦悩が。
だなんてそんなことは言えない。
けれど、あの時話したように。
誰とも分かり合えないときの寂しさや、不安は。
言葉にしても伝わらなかった時の寂しさや、不安は。
私だって知っている。
私だって知っていた。
私だってわかっている。
だけど。
少しでも拭えたのだから。
拭えているのだから。
そうなったとき。
そうなれたとき。
関係性は、あるのだと。
私は思えた。
彼女と私が見ていた景色は間違いなく同じような視点で揺れていたのだと。
思えた。
それは、私と、西園寺礼子の、唯一無二の関係性かもしれなくて。
壮大な勘違いや。
熱病の類などではないのかもしれなくて。
あるいは、倉間明久。
君の見た景色と、全く同じなのではないかもしれない。
すべての人が。誰かに見出す、自分だけのものなのかもしれない。
それを、受け止めろと。
そして生きていけ、と。
それが、倉間明久。君自身、抱きしめたかったことで。
同じような心情と嗜好を持った私に言いたかったことなのだろう。
だから、私の前に姿を現した。
この答えが、全部合っているか、わかりはしない。
だから答え合わせのために。
叫んでやりたい。
けれど。
思うだけにした。
大きいようで、小さなその気持ちを。
まだ彼女に面と向かって伝えるほどに、声に出して伝えるほどに、達していない。
けれどその気持ちは、確かにあるのだから。
様々な面倒ごとや。
細かいこと。
一切を抜きにして。
肯定出来る。
受け止めて、抱きしめることが出来る。
ある。
そういうものが、あるのだと。
それは熱病でもなんでもなくて。
悪霊でもなんでもなくて。
きっと、大切なものなのだと。
それが、関係性。
私が西園寺礼子と時間を共にした中で見いだした、関係性。
そうなのだろう?
空虚でも、白と黒で塗りたくられたものでも、ない。
霊よ。
倉間明久。
絶対にそれをたぐり寄せることは出来ないのだと諦めながらも、実は心の奥底で、静かに潜めていたそれを。
見て欲しいのだと。
偏屈さで似通った私に。
見て欲しかったのだと。
そういうことだろう。
一体どちらが先なのかは、わからない。
私の熱病に対する気持ちが悪霊と化して、倉間明久。君に届いたのか。倉間明久。君の少しの未練が、私の気持ちと同調したのか。
わからないけれど。
そんなことはどうだっていい。
謎は解けたぞ。
君は。
自らの見出した関係性。
愛すべき。
恋心があるのだと。
私に見い出して欲しかったのだろう?
そしてそれを、是として欲しかったのだろう。
それが、君が私の前に現れた理由。
謎。
違うか?
薄ぼやけていく視界の中で、私は確かに、倉間明久を見た。
それは、雨之紗代の化身として現れた彼、ではなく。会ったこともなければ、話したこともないけれど、一目でそれとわかる、倉間明久ただその人だった。
いかにも偏屈な人間である。
もし彼と私。生きて会うことが出来たのならば、とても親しくなれたのではないか。そんな確信が出来るほどに、彼もまた、文学じみていた。気だるくクラスを見回しては毒づき、悪態をつけぬものの、覗きなんかをして自らの愚行をどうにかこじつけてよきものとしそうな人間だった。
どうだ、と。
と。
聞くまでもなかった。
ありがとう、と。
言われるまでもなかった。
彼は微笑んでいて。
ただそれだけが答えだった。
達者でな。
というのはお互いが思えたことで、若干皮肉まじりに私は彼を見て、彼もまたそのように私を見返した。
私も悪霊に取り憑かれていて。
彼もまた、悪霊に取り憑かれていた。
彼が悪霊、というよりかは。
やはり、我らがどうにもよしと出来なかった、例の熱病が、悪霊と化していたのだろう。
どうなるのか。
この先。
私は謎を解いたし、彼もまた、私の前から姿を消すのだろう。
西園寺礼子には申し訳ないが、これで精一杯だった。
私の体力は確実にすり減っていて、その目をかろうじて開けることで精一杯だった。体は軽くなっていて、どことなく私が成仏するのかと思えるような心地よさがあった。萌木蜜柑に対する恐怖も、なぜかすっかりと消え落ちてしまっている。
私はもう、わからずとも目を閉じてしまう他なかった。
「託していいか。君に」
返答はなかった。
彼女は萌木蜜柑に精一杯で、私はその後ろ姿を、霞んでいく景色と共に見続ける他なかった。
だけど、はっきりと、西園寺礼子は背中で答えていたような気がする。
任せろ、と。
軍隊の上官を連想させるのは、やっぱり彼女らしいと、私はもう一度笑みをこぼしたのだった。
・夏への扉・
夏の学校と言えばどういうものを想像するだろう。プール? 夏服の乙女? 汗の滴る部活動? 私と言えばとにかく暑いこのクラスの風景である。セミがこれでもかと鳴いて自己主張をしながら、しかしクラスメイトも負けじとセミのように喧々囂々と意味のないこと、興味を引かないことを宣っている。私はなぜ校舎を建て替えたのにクーラーがないのか、という疑問と、やはり連中のセミの鳴き声のような雑話に耳を傾けながらうちわをあおぎ、一人教室の片隅で小説をめくっているのだった。今日はカラオケでございますか、とどこぞの仲良しグループの会話に言葉にせずとも茶々を入れながらね。
これが、夏の高校の原風景である。
もうすぐテストだ。焦る。だなんて声が方々から聞こえてきて、私も焦りを覚えていた。なにせ私には珍しく、勉強をしていないからだった。
「たくみんは勉強、得意だよね」
と、そんな私に言葉を投げかけたのは、萌木蜜柑だった。
「どうだろうな」
「またまたぁ。てか、てか。今日部活どうする?」
「あるよ。例の時間で」
「そう。よかった」
例の一件以来、彼女はあの目をして私を強請ることはなくなっていた。ああいった目をしていたのは、すべて霊の仕業であったのだと、私は解釈しているし、西園寺礼子もまた、そのようなことを言ったのだった。強烈な、嫉妬を助長する強力な霊が、彼女に取り憑いていたのだと。全てが解決した今。つまり、彼女の霊も、無事に除霊された今、もう強請ってくることはないのだけど。ただ、こういうことはある。
「覗きしたこと、ばらしちゃうぞ」と。
アイドルフェイスで。
それは彼女なりの冗談、というか、皮肉、というか、私への、やはり武器というか。そのネタを使って何かをしようという目的はないだろうにせよ、私は恐らく彼女にそんなことを言われるのがトラウマになっているのだろう。彼女が四足歩行で襲いかかっていた事実をどうにも思い出してしまって、恐怖に身を蝕まれるのは依然変わってはいない。
が、部室で彼女を見ても、地獄絵図にはならなくて済むのだった。
「それじゃ、部室でね」
放課後、教室の扉を開けてふと思うのは、少しだけ色合いが変わっているということである。彼の、倉間明久の手記に準じて言うのであれば、白と黒であった世界……いや、そこまで均質な世界でなかったにせよ、私が見ていた景色にはなかったほのかな、色。その正体は、私には今のところわからない。私もまた疑り深いのだから、慎重に接近していかなくてはならないだろう。
窓の外を見る。
彼には、もう会えないだろうし、話すこともまた、出来ないだろう。切なさを感じているというのは嘘ではない。覗きから一連の事件。渦中にいる時はこの世の終わりと嘆いていたものの、平時に戻ればひどく懐かしさを覚えてしまっている自分がいる。
恐らくだが。
事件の中で、手にしたものが間違いなくあるからである。
静けさとざわめきが同居したような廊下を、歩き、四階へと登る。暑さは変わらず私の体力を磨耗するけれども、気持ちは冷しげであった。
部室の扉を開けると、西園寺礼子が、一人だけで窓の外を眺めていた。
「君か」
こちらを振り返った彼女の表情は普段通りであったものの、彼女の普段通りと言えば、なにを考えているのかわからないものである。大抵、部室にはいつも私が先行して入るものだから、彼女が先にいるのは珍しいと感じた。
「もうすぐ、夏休みだな」
「ああ。その前に試験をくぐらなければならないがね」
「君なら期末試験程度、問題ないのでは?」
「今はこの部活の活動が、少しばかり私の勉強の邪魔をしていてね。ちょっとばかり苦労を要するよ。特に理数系は苦手なものだから」
「そうか」
あの後。
私が気を失った、あの後。
西園寺礼子は、なにも言わなかった。こうして無事に生きているということは、彼女がどうにかしたのだろうということで、私は解釈している。私が瀕死になりながらも謎を解いた意味というのは、ほとんどなかったのかもしれない。倉間明久の霊が、無事に旅立ってくれたから、その点はよしとできるが。
西園寺礼子はそれからいつも通りに戻った。特別私に話しかけてくることもなければ。教室での振る舞いが変わったわけでもない。
ただ一つ。
変わりがあるとすれば、この部活動に顔を出すようになったということだった。毎回、というわけではないが、気の向いた時に。
「恐らくだが」
「ん?」
西園寺礼子は、窓の外に目を戻して、続けた。
「あの時。君に取り憑いていた霊が、萌木蜜柑をどうにかしたのかもしれない。正確には、わからないのだが」
唐突に、西園寺礼子はあの日のことを話し始めた。
それはもしかすると、話さなくてはならないこととして、彼女の中で溜まっていたものなのかもしれなかった。
「私の力では、なかったように思うのだよ。私は全力で、君を守ろうとしていたのだがね」
「結果的に私は無事だし、霊もどこかに行った。それではだめなのか?」
西園寺礼子は沈黙した。返答の代わりに、吹奏楽部の、お世辞にも上手いともいえないラッパの音が開け放たれた窓から聞こえてきた。
「少女の話を、覚えているか」
「覚えているとも」
「少女は頑なでね。頑固なのだよ。持っていた……信念を、その通り実行出来なければ、達成出来なければ、また元に戻ることは出来ないのではないかなんて、考えていてね」
風が、入り込む。
蒸し暑さの中に。
そよいでいく、風。
「だから、だと。だから、完全には戻らないのだと、嘆いていた時もあったのだよ」
「そう、なのか」
風は。
部室を満たした。
心地の良いものとして。
部室も。
そして私の身体も。
心も。
こころも。
「でも、少しは変わったようなのだよ。精霊が。かつて愛でていた自然が、語りかけてくれているような、気はしているようなのだよ」
それはお互いに、ということなのだろう。
お互いに、少しだけ見えてきたことがある。
それを恐る恐る手にして見て、抱え込んでみたり、あるいはじっくりとよく観察してみて、違うのではないか、と手放してみたり。
もしかすると、高校生活とは、そのためにあるかもしれなくて。
あと一年半足らずの時間の中で。
ゆっくりと見つけていいんじゃないか?
君の尊ぶべきものを。移ろいで行く、その時間の中で。
気がつけば、私は西園寺礼子の背中にそんな言葉を投げかけていて。
彼女は。
聞こえるか、聞こえないか、か細い声で。
ありがとう。
とだけ言った。
そこでまた一筋、風が入り込んできて。
部室のカーテンがなびくのを見て。
風が、これからの夏を、どこか祝福しているように思えて。
心が弾み、高鳴るのを感じた。
東航平が部室に置いていった、ロバート・A・ハインラインの夏への扉でも読むとして、その高まる気持ちを落ちつけでもしようか。
ここで、私の悪霊に纏わる、私達の事件は幕を閉じる。
私はここまでお付き合い頂いた諸君らに、こんな言葉を添えて締めくくりたいと思う。
「この時間は永遠に続く」かもしれないし、「世界は私達のために動いている」のかもしれないし「人間は愛を知るために生きている」のかもしれない、と。
はは。
なに、かもしれないだけだ。
私はやっぱり偏屈なものでございましてね。
本気で、全力で、言っているわけではないのだぞ。
ただ、そのかもしれない、ということを。確かめてみたい気はしている。言ったように、移ろいで行く、この時間の中で。
そして。
もしそんなことを本気で思えるのならば。
それは、私でさえも。
誰も彼もが手にして。
見てしまう。
妖怪や、鬼や、幽霊や、お化けに通ずる。
不思議な現象、なのかもしれない。
了