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  ・人間失格・


 かつては、壮大な勘違いである、と。そのように認識していた、男女のすなる、よしなしごと。壮大な勘違いであったのならばまだよかったものの、勘違いをしていたのは私であったのだとようやく気がつく。

 勘違いなどではなかった。それは世に蔓延る熱病である。それ自体も、それに付帯する様々な出来事のあれやこれやも、すべて熱病であり、熱病的行為と呼べるだろう。その熱病が、古来から全くの処方箋なしに継続してしまったこの人類知とは、果たして尊ぶべきものなのだろうか。人間の知性を信奉しているからこそ、それが揺らいでしまうとなると大変な大問題なのだが。

 その熱病というのは、いくら効き目があるような、例えば冷水をぶっかける、強烈な張り手をくらわす、度数の高いバーボンを飲ます、などの一時的に効力がある行いをしてみたところで、結局は解消の余地なしなのだ。どれもやってみたことなどはないのだが、間違いない。間違いないのだよ。むしろ逆にその体温を上昇させて気が触れてしまうやもしれない。

 この、まるで歴史を顧みない習性を、神が施したなどとは口が裂けても言えまい。人間は一人では生きていけないように設計したらしいというのは事実ではあるらしいけれど、こんな熱病を熱病よろしくやってしまうような愚行を振る舞うために人間が存在しているとはやはり思えない。

 熱病を自ら浴びたがり、その上で乱痴気騒ぎをさんざしたうえで(そう、例えばデートという営みがあるが、あれなど乱痴気騒ぎでしかない)、それでもやっぱり愛しているだとか、最終的にはなんとお互いに生涯添い遂げるだとか言い始める。

 熱病患者に囲まれた私は、これは熱病なんですね、と誰かがはっきりと宣言してくれるのを、いつも待望している。私がそのように口にした所で、聞く耳を持たれるわけもないだろうから、と、こう言うと、あたかも私が影響力のない負け犬が如し、と思われるかもしれないのだが、しかし諸君らにおいても同じ経験はないだろうか? かような熱病に犯されている人間に対して、「いやあ、どうにも気がおかしくはなっていないでしょうか。現実を現実的に見てはいないのではないでしょうか」と、どれだけ懇切丁寧にその熱病の性質について説明をしてみたところで、このように返ってくる。「この時間は永遠に続くから」だとか、「世界は私達のために動いている」だとか、「人間は愛を知るために生きている」だとかである。私はまるでテレビドラマのしようのない悪役としてその言葉で持って斬られ、そのうえ悶絶してしまうのである。なぜ私が悪に見られるかというと、この均質的な民主主義国家日本では、多数が勝利するからである。多数こそ正義なのである。その熱病は感染に感染を遂げ、私を孤立させていく。

 この惨状を、不敵に笑い、それでいてどこか恨めしく思いながら、私はあちら側に行ってしまったりなどしない、という強い心持ちが、この現代社会では必要なのではないか。否。私は断固としてあちら側に行きたくない。その熱病の世界へ。

 紹介が遅れたが、私は郷田巧。巧みなのはこれまでもこの先も、口先だけではあるな、と理解している一介の高校二年生だ。

 まさか高等学校がこんな破廉恥な場所だとは思っていなかった私にとって、この高校生活はもう最初から呪われたものとなってしまっていた。

 高等学校といえば何を思い浮かべるだろう。

 それは個々それぞれ、様々な事情があるとは思うし、その事情のもと想定するとは思うのだが、私といえば勉学である。自らが勉強したい……私の場合は国文学の歴史的解釈や、今後、日本がどのような文学的系譜を辿っていくか、それが社会にどのような影響を及ぼすか、などなどの体系的、専門的知識を学びに学舎へと足を運んだのである。高校で学ぶ内容とは多少ずれていようとも、向学心があるのであれば、それを受け入れたり、ぶつけたりすることは出来ると考えていた。

 かような熱病を帯びた連中に囲まれるために、学び舎に足を踏み入れたのでは決してないのである。

 君、ぜんぜん喋らないね。

 そう私に進言してきたのは、金色の髪を後ろで結った、いかにも私は罹患したものでございますといった出で立ちのハイカラガールだった。こんな出で立ちがもしオシャレだなんだとなってしまったら、この日本は崩壊を辿るだろう。

 私は彼女に言われた通り、全く喋らなかった。なぜなら来る場所を間違え、履き違えたからである。

 新入生歓迎会、というのをご存知だろうか。

 高校も春が訪れると、新入生が当然入ってくる。それを獲物を捕らえる狩人のように。正門のまえで、もうずっと、待ち構え続ける、多くの人間たち。新入生の意図などまるで介さずにあの手この手を使って、乱獲しようとする。乱獲した挙句、新入生をもてなすのが新入生歓迎会、である。

 私は一年目の春、その部活動とやらに入りそびれた。こう書いてしまうと、あたかも私が部活だなんだと現をぬかし、勉学をおざなりにする、文学に背を向ける尻軽野郎であると、そのように思われるかもしれないのだが、勘違いはしないで欲しい。なにせこれだけ熱病に躊躇いどころか憎しみを感じている人間なのだ。多くの高校で行われているであろう男女同士があれこれしあうその関係性に、全く憧憬などは見出していない。

 むしろその逆で、勤勉さを重ねた人間同士が、たゆまぬ知性をぶつけあう、と。高校生とはかくあるべきという姿を地で行く人間同士のやりとりを私は見たいし、重ねたいのだ。諸君ら、それが高校生活ではないのか? 勉学をしない高校生に、一体どれほどの価値がありようものか。

 だから私は私の知性の向上のために、この、「第一文学部」とやらに足を運んだのだ。

 しかし実態は、ハイカラガールを筆頭とした、多くの熱病患者で構成された、狂おしいまでに男女同士のあれやこれやを推奨する組織だった。狂人だなんて言葉を私は使いたくもないけれど、しかし狂人の会合であると確信した。吐き気を覚えたのは即座のことであって、この煮えくり返った怒りをおさめることが出来なかった。

 文学の話がしたい。

 それが出来ずとも。

 なんであれば、政治の話でもいい。

 社会問題の話でも構わない。

 こんな欲求は、この連中の前ではまるで無意味なのだろうか? 問題というのは、実のところ熱病だけではないのだ。非常に全体的な話になってくる。もう、全部だよ。全く。人間はこんなにも尊い頭脳を有しているというのに、十代のその輝きしころに、なんだってその知性を存分に有用し、文学でなくたっていい! 何らか興味の対象を見出して、我、これに感応しせり、というものを見つけないというのだろう。

 試しに私は隣にいた、これまた茶色に染髪し、南米の奥地に生息していそうな、どこぞの民族もびっくりの出で立ちをした目だけは綺麗な青年にこう問うてみた。

「君、太宰はわかるよね」

 これはなに、会話の糸口というものである。太宰を知らない高校生というのが存在してしまえば、これはもうおかしな話になるし、私の通う高校の存在を深く問う、根源的な問題へとつながってしまう。

 しかし彼から発せられたのは、きょとん、という例の擬態語である。私はこんな機会以外にも、様々な、教養における歴史的著名人というのを会話の端々に出して、誰彼に勉学的な話題を提供してみせたりするのだけど、結局のところ、このきょとん、が返ってくるのだった。これだけこのきょとん、が返ってくるというのは、この高校に所属する人間に問題があるのか、あるいは私自身に問題があるのか、と疑いを持ってくる。

 このような、私が孤立無援の状態では、ついにその疑いというのを、私は自分自身に向けることが多くなってきた。だから、もう金輪際太宰など話に出すのは辞めようかと思うし、こういった会合にも、部活動とやらにも顔をだすのは辞めようかと思う。

「果て無き欲求が、絶えず君たちの前で右往左往しているようだね」

 これが私の捨て台詞だった。

 最も、誰も聞いてはいないし、私自身もまた、誰に向けて放った言葉ではなかった。彼らがどうあれば満たされるのか、私は知る由もないし、知りたくもない。

 立ち止まって思うのは、私こそどうあれば満たされるのだろうか、ということだったのだが、この疑問を私はすぐさま押さえつけ、小石を蹴飛ばして帰路につくのだった。





   ・



~~~~   手記


 溜息をつく理由を訊かれどう答えるかを悩む。辿り着くことの出来ぬ答えであるという確信はあれど、仕方なしに取り出してみる。理路に沿い、整ったその心内から。感触と言えばその実散々なものである。整われてなど、いないのだと気がついたものだから。もう一度溜息をついてみせて、溜息をついてみる理由に考えを巡らせてみるのだけども、答えは出てくるわけもなかった。落ち込んでいるのか浮かれているのか。溜息の理由のみならず、一体この心の性格でさえ私自身がわからずというのだから、何かをわかった気になり話してみせるというのは到底できぬことである。自身の性質がわからずとも、わかりたいと思っているのは、この私の行方である。取りもつかず、取りもつかせないこの私の行方とは、一体どこへ向かっていくのか。縋るものも、信じるものもない、人間の行方。


~~~~ 



   ・




 私とて、誰彼に恋はせずとも、学園生活に恋い焦がれた時分というのは間違いなく存在していた。様々な文学者を排出した鎌倉・湘南における学舎。ここで一体どのような勉学と弁舌を窘めるのかと、血が沸いて、踊っていたのは入学式のことだった。

 在りし日、である。

 現在の私?

 それを知ったとしても、諸君らに得られるものというのは何もないだろう。

 なに、至極ありがちな風景である。学校の原風景とはまさにこのことなのかもしれない。頬杖をつき、私、阿呆です、と周知するかのような、気の抜けた、半開きの口。飛んでいる鳥の数を数えながら、あとどれくらいこの日々を続けるのだろうかとも考えていれば、「郷田」と教師に指される。

 アイキャントスピークイングリッシュ。そんなことを斜に構えて言いたくなったものの、ぐっと堪える。なにせ国語の授業だ。

 太宰の代表作を言え、と。おお、ここに太宰を語れる存在がいたのか、と感嘆は出来ない。この国語の教師に文学的素養はまるでないからである。私は私を自己紹介するかの如く、「人間失格ですね」と呟く。「正解」と言った教師の顔はどこか満足げで、つまり私が人間失格と言ったことで、そうだよ、君は授業中で呆ける人間失格野郎だよ、と暗にほのめかしているようであった。これはいささか被害妄想が過ぎたかもしれない。

 おわかりいただけただろうか。

 そう、くだらない毎日なのである。吐き気がするというよりは、むしろ吐き気がしたほうがよほど刺激的であろう。無味乾燥であるこの空間とこの私にはただただ今日の平和を磨耗するという、ともすると贅沢な日常、いやしかし愚かな嗜みなのだと理解して、その日暮らしを余儀なくさせられるのだった。

 こんな毎日を送る私から、期待というのはとうに消え失せていて、本日は一体どんな夕食なのだろうかと考えるくらいに、私は高校生を辞していた。齢五十歳を迎える国語の教師も、授業中に似たようなことを考えているに違いない。

 何せ一年だ。

 私の期待を粉砕するには、あまりにも十分すぎる時間だった。さらに冒頭の醜態である。あの醜態は自らが引き起こした悲しき現実であるがゆえ、私の頭は思考を停止、とどのつまり行動も停止した。

 しかし平和ぼけ面しているわけにもいかない。この学校生活が残り三分の二近くも残っているというのが、私にとって危機的なのである。全ての期待を磨耗したわけではない理由というのに、何となく残り時間があるから、というのがある。とてつもなくしようのない、どうしようもなく楽しめない小説のラスト百ページにさしかかった心境に酷似している。ああ、つまらない。でも、あと百ページの間に何か起きるかな。なんて期待。大抵、私がそのような期待を向けて読んだ小説は、最期まで貫徹して肩をすかされる。

 その程度の期待。

 どうあつらえばよいのかと問うてみたところで、誰も教えてはくれないものである。



 放課後というのはしかし好きだ。

 正確に言うのなら、六限目、最後の授業が終わったあの瞬間。このくだらない授業と、学校生活から解き放たれたあの一瞬だけは、風呂上がりのサイダーに等しい爽快感をもたらす。

 その一瞬も然り、なのだが。

 本日の私には実はこの放課後にとても楽しみにしていることがあった。創ったのである。どうあれやりきれぬものだから、私なりの楽しみを。本日、初めてそれを執行したいと考えている。諸君らには、その行為自体もそうだし、それを成し遂げた私の心境をお披露目したい。さんざ学校生活について嘆いていた私だったのだが、それは前ふりというやつだ。下げて上げるのがエンターテナーとしての私というやつでしてね。

 どんな楽しみかって言えば、なに。もう少し明かすのは後にしておこう。

 はっきりと言ってしまえば、私がまるで下衆と思われてしまう類の営みであり嗜みだ。下衆の極み足りうる行為を、なぜするのか、しようのかと言えば、それは権利を持っているからだと考える。別段、選民思想を持っているというわけでは決してないのだが、しかし私にはそういった行為を一つでもやり遂げる権利があるのだ、と。

 そうしなければ、どこかで私は私を保てない、というと大嘘なのだが、保ててはいても、じゃあこの無味乾燥な日常をどうやって彩るかという話になってくるのだ。

 誰彼が熱病にうなされて幻覚を見て、その日常を処理しているように、私にだって私が見いだしたその程度の愚行……つまり決して熱病にうなされるわけではないにせよ、その程度の幻覚を見る権利というのは、私なりにしっかりと存在しているはずで、その切符を持っているのに使わない手はないし、使わなければ、これはまったく不平等であるとの確信がある。

 なに、そうは言ってみたものの、別段大そびれたことではない。幼子の遊びだと、稚戯であると、その程度に私だって捉えているし、諸君等もどうかそのように受け止めて頂きたい。

 私はまず、放課後全てのクラスメイトがその教室を出るのを待った。勉強しているふりをしながら。あるいは小説を読むふりをしながら。毎日放課後残ってこの行為をするのは、誰かに勘づかれる恐れがあるため、この行為はこれから週に二回までと決めている。大体、嗜好的な行いというのは、その程度がちょうどいいものだ。

 静まったクラスを確認してから、私も教室を出ることにする。何事かを教室で行うのではないか、そのような考えを持った諸君等はまだ甘い。そんなに劇的なことが毎日起こらないからこそ、この営みに関しては、私は長々と、冗長とも呼べるていたらくで描写しているのである。つまりまだ先に、その行為はあるのだ。

 そして私は、窓の外を見る。

 この2ーA教室からは校門、登下校口、さらにグラウンドが見える。グラウンド。何を想像するだろう。運動。部活。まぁ、大体そんなものだろう。というかそれ以外あり得ない。部活というのもまた、どこか熱病じみていると感じている私は、どの部活にも所属していない。帰宅部というのがあるが、あれを言い出したのは誰だろう。無所属の人間を体よくひとまとめにしただけではないだろうか。きっとさぞ寂しかったに違いない。帰宅部の発起人は。

 と、また本題から逸れていることに気がつく。いや、気がついて欲しい。こういうグラウンドを窓から見る、眺める、あまりにも無駄な行為が、この先に待ち受ける甘美な営みをより甘く、美しくするのだ。どうぞ理解して欲しい。

 頃合いか、と私は腕時計を見て思う。さながら緻密なヒットマンにでもなった気分だった。事実ヒットマンのようなものなのだ。

 午後四時十六分。

 計画通り、この時間帯に、私は始動する。そう、これからなのである。私が始動するのは。何なら今まで記した全ての事柄なんて、些末なことだったのだと受け取って欲しい。

 始動した私は、均一な歩調と速度を保ち、一階下駄箱まで歩く。この吹き抜けの螺旋階段は、いつだったか女生徒の下着が見えてしまうとして、改築を検討されたが、結局のところ女生徒のスカートの長さを校則で再指定することで解決を見た。

 さて、一階にたどり着いた。

 下駄箱にはもうほとんど生徒がいない。

 私は上履きを履き替えてから、ゆっくりと、さも今から下校する人間でございます、と言った風体を装って門を出ることにした。

 勝負はこれからである。

 何と戦っているのかといえば、自分とである。戦いは常に、自らと自らで行われるというのは、高校二年生にして得た、私なりの人生解である。諸君等もどうぞ、記憶の片隅に置いて置いて欲しい。

 さて、覗きだ。

 突然の告白である。

 しかし私とてもう我慢が出来なくなったのだった。大体、いくら先延ばしにしようとも、待ちかまえているその行為にぶれはないし、今日は必ず成功を収めて帰宅しなければ、この糞くだらない吐瀉物まみれの日常に胸焼けした私はどうにもならないのだ。失礼。私としたことが下品な言葉を使ってしまった。

 諸君等は犯罪行為だと嘆くだろうか。

 下衆の嗜みだと嘆くだろうか。

 青少年にあるまじき行為だと嘆くだろうか。

 しかし冷静に考えて欲しい。

 青少年というのはかくあるべきだと、まず私は思う。このくだらない、熱病にうなされた人間に囲われた私にはこうするしかなかった、とさえ言える。

 権利、だ。

 そう、権利。

 もう一度言おう、権利。

 自由に向かって、歴史は動いたのをご存じだろうか。先進国であれば、絶えず民衆が自由を勝ち取る為に、その拳を掲げてきたのである。私とて拳を掲げたい。しかしないのだ。拳を掲げる先が! ああ、なんという事態。糞と熱病にまみれてしまえば、私とてうなされて死んでしまう。

 だからこそ、私の拳を掲げる先はそのリビドーなのである。否。もっとさわやかに表現してみよう。そのエロチズムなのである。違うな。チラリズムである。もっと違うな! 高揚してきたぞ。

 なんてかましている間に、私は私の見繕った特等席へたどり着いたのだった。なかなか人の目につかないようにここまで来るというのが、一連の動きの中で、一番難度の高いことなのだが、やったぞ。やってのけたぞ。

 部室棟。

 よい響きだ。

 つまり今眼前にそびえる建物の中で、かぐわしい乙女が着替えを行っているのだ。着替え! わかるか、この浪漫が! 高まる鼓動は諸君等にも伝わるだろう。この鼓動を聞いて、一体誰が私を責められるというのだろう。

 事実、責められようはない。

 なぜなら見つかる恐れというのがない、というと嘘になるのだが、しかしその可能性を私はほとんど除去して今ここに至っている。

 この部室棟の裏側というのは、私のような覗きを嗜む人間にとっては、とても心地のよい構造になっており、つまりさぁ覗いてくださいと言わんばかりの様相を呈しているのである。ちょうどその背後には角度のある土手、いや、塀のようなものがあって、人の目を防いでいる。気になるのは左右、なのだがこれもまた問題はない。一方は部室棟の階段で覆われて全く見られることもない。私が入ってきたもう一方は、植物で覆われている。私はその植物に潜り込んでここまで辿り着いたという次第である。この部室棟裏側は、元々何の目的があって存在する場所ではないようであり、もしかすると私以外は気がついてさえいないのかもしれない。とりあえず出来てしまった余白として、そのスペースを確保していた。その余白がどうにかして欲しい、と。存在意義が欲しいと。そのように願っているのが聞こえたものだから、私は私の覗き場として意味を与えただけである。

 もし誰かに見つかる可能性があるのであれば、植物の上、遠方、右手の上方に見受けられる職員専用の廊下にある、小窓から、なのだが、計算済みである。甘美と言っただろう。この絶対に邪魔されない絶対時間は、だからこそ絶対時間なのである。私は職員がいつ職員会議を行うかを知り尽くしている。そのスケジュールに合わせてこの覗きを敢行しようという手筈である。あの小窓からこちらを見てくることなど、万に一つないだろうが、見つかってしまう要素は、全て潰しておきたかったのだ。

 もちろん、だからといって誰かに見つかる可能性がゼロになったわけではないので、細心の注意を常に払うことは忘れない。とはいえ、私は何も長らくここにいようというわけでは決してない。自ら予め掘っておいたその覗き穴から、一瞬でもいいのでかぐわしき乙女の下着姿を見ることが出来れば、それでよいのである。確実に勝利できる鋭利な拳を、一撃突き立てて、それで離脱できれば構わないのである。

 さぁこの一瞬だった。

 すべてがこの時のためにあるといってもいい。

 物語はクライマックスを迎える。

 私の高校生活も、くだらない日常も、結局の所、今日この日に収斂していくために存在していたのだ。

 諸君ら、刮目せよ! 

 私もまた、刮目するのだから!

 私は恐る恐るその覗き穴を覗き込んだ。見え辛いな。というより、何も見えない。なんだろう。この前部室に誰もいない時に、試験的に覗いた時には見えたというのに。ポスターやカレンダーなどで塞がれてしまったとでもいうのだろうか? あるいはバレていた? いや、そんなことはあるまい。私を、私がここにいるなどと知っているものは……

 この時の私というのは、はっきり言って愚かだった。おおよそ覗きをする人間に、愚かでない人間などいない、と諸君らは言うだろう。反論の余地はなかった。しかしその点を除いたとしても愚かだったのは、止めなかったことである。どれだけ覗いたとしても、全く見えることがないのだから、さっさと止めて帰宅すればいいのに、ずっと、諦め悪くその景色を眺めているその行為が。もうずっと愚かなのだった。

 だからこそ、私は気がつくことがなかったのである。愚かさに、ということもそうだが。

 背後に、立っていた人間に。

 驚いていい。

 まるでホラーだな、と思ったそこの君。正解。ホラーなのだ。何よりもこの時ホラーだったのは、私の顔だったろう。恐らく見てしまった方が驚愕するほどの表情を私はしていたように思う。

 悶絶、卒倒。

 誰か。

 知る由もない人間がそこにいて、私は吠えかけ、絶叫せんばかりの驚愕の表情を、したのである。

「汝、謎を解け」

 そしてそんなことを、その人間は言ったのである。

 ナンジナゾヲトケ。

 なんだかわからない新興宗教が唱えるお経の一部にしか聞こえなかった私は、どうやって言い訳を取り繕うか、あるいは速いとも遅いとも言えない、五十メートル7、5秒代の脚力で逃げようか考えていたら、足が震えていた。馬鹿みたいだと思うだろう。しかしこの時の私は恐怖で打ち震えていた。

「馬鹿みたいだな」

 そしてその人間もそのように私を評した。

 馬鹿です。しようのない馬鹿でございます。私は頭の中で百度ほど土下座をしたのだが、頭の中でだけだった。

 真っ白。

 白。

 残り何ページあるのか知らない私の人生は、ここで破壊された、のかはわからない。けれどくだらない日常は、どこか違う方向へと転換したらしい、ということと、向こう二年あると思われた平和な日常は砕かれたということは確信できた。喜ぶべきだったのだが、しかしここに来て私はかすんでいく景色の中でこう思うのだった。


 カムバック、日常。


   ・




~~~~


 殻に包まれているのだと感じているのは事実である。この殻が厄介なものであるとはわかるのだが、これなしではやっていられないというのもまた事実なのである。この小さな殻の一枚下に、私を包んでいるのではあるが、時折私を越えた私以外の存在には、その殻無しでは全く触れあえぬものであると気がつく。自身の中で一つだけ確かなものといえば、この触れあえぬのだ、という狂おしいまでの感傷。人間同士ということであるから、という言葉も通用はしない。殻を被っている私は実のところ人間なのかどうか、わからないでいる。殻を被って初めて人間のふりが出来ているものだから、即ち殻を被った私も、そして殻を被っていない私も、どちらも人間ではないのだろう。では一体何者なのかと問われたところで、堂々巡りに陥るのは私に信じるところがやはりないからである。誰に触れるともわからない、この感傷はずっと暴れ回っている。出口も、そしてこの感傷にひとひらを継ぎ足すための入り口も見当たらないのだから。暴れている時に押さえつけても、殻をつけた私がまた誰かと触れあう度に、また騒ぎ出していくのだ。


 今日も私はその暁の場所で夕暮れを見る。別段意味はないその行動にどれだけの意味があるのか、毎日考えている。私にどれだけの意味が込められているのか、考えている。この世界にどれだけの意味があるのか、考えている。時間が経てば、夕日は沈む。それは間違いのないことであるけれども、陽が沈んだとて、私という存在が変わりゆくわけもなかった。この埃にまみれた部屋で、埃にまみれた私は、変わらないのだろう。それは間違いがない。


~~~~





   ・仮面の告白・


 歳月は決して我が身を癒してくれなどはしなかった。むしろ時間はその身を蝕み、恐怖とともに私を腐食させるするのだった。とはいえ、経過した時間はたったの三日ということではある。

 あの時、私の背後に立っていた人間。

 勝ち誇ったような笑み。

 いや、そういう笑みだったのかは、正確にはわからない。すでに朧気になっている。

 あれは火事場の馬鹿力というやつだったのだろう。かつてないほどの速度で駆け、そして逃げ出した私は茫然自失という有様でその日を終えて、結果的にその人間のことをよく思い出せない状況に陥ってしまっていた。かろうじて思い出せるのは、女性だったというその点。その顔をまた見ればしっかりと思い出せるだろうが、空で思い出すことはどうにも出来ないでいる。

 なかったことにしよう。

 そのように何度も思ったのだが、仮に私がそのような楽観的な考えを持ち出したところで、事実は変わらなかった。

 その、事実は。

 つまり……私が、そう、覗いている所を見られてしまったというその事実は覆らない。私の記憶がどれだけ朧気であっても、だ。

 考えれば考えるほど、憂鬱になってくる反面、怒りというのもまた立ち上ってくるのだった。なんだ、あの女生徒は。一体なんだってあんな所に立っているのだ。

 そうだ。私は万全を期したはずだったし、加えて周囲もさんざん確認した。あたかも突然現れたがごとく、私が覗いたのを見計らったがごとく、その背後に現れたではないか。そんなベストタイミングで現れるだなんて、実はずっと見られていたのだろうか? あの一瞬だけでなく。ずっと、ずっと……ずっと……

 私は叫びたくなった。

 が、今は授業中である。

 こういった苦悶を土日中ずっとやってしまっていた私は、何とか叫ぶのを堪えることが出来ていた。当然家では叫び続けていた。

 この感情をどうぶつけようかと言えば、結局のところ解決へ導くしかないのだろう、というのが叫び続けて昨日出した結論だった。いついかなる時も、「あの時覗きをしていた」などと耳元で囁かれ、脅しをかけられるのではないかと怯えながら学校生活を送るなど、耐えられるわけもない。

 戦うことを、私は選んだ。

 諸君等にとってみれば、覗きをした人間の報いだと思うかもしれない。これは罰、であると。罰でしかない、と。ただ考えて欲しい。本当に、客観的になって欲しい。やはり私は権利を行使しただけなのだ。正当な権利を……

 ええい。理解されずともよい。

 戦いの手段とは、まずこうだ。

 まずその人間を見つけること。これが出来なければ話にならない。こちら側から直ちに発見するということが必要となってくる。相手側に見つからないように。相手がまだこちらに姿を見せてこないということは、もしかすると私が2ーAの生徒であるという認識はされていないのかもしれないのだ。

 こちら側から見つければ、あとはその人間の弱みを握る。握り、対等な関係を構築する。そのためならば、私は私の一切を投げ打つつもりでいる。え? それはストーキングに似た行為ではないかって? 知らぬ。知らぬのだ。何せ私もストーキングに近いことをされたのだから、お互い様だろう。

 自己弁護がそろそろ行き過ぎた所になって、私は放課後になってようやく行動に移すことにした。

 こういう時の知恵というのは私はすこぶる働く。そりゃあんたが覗きを働く程度にあくどいからだって? いや、もう勘弁して欲しい。もう、懲りたんだ。しない。覗きは。覗きに似た行為も。今の事態も、私に対する罰として受け入れるさ。

 だが、戦う権利はあるのだ。

 いざ、職員室へ。


   ・


 そして終わった。

 私の戦いは終わってしまった。

 職員室に行った私は、教師に頼み込み、名簿を見せてもらった。出来れば写真つきのものがないか、と。あてつけた理由というのは「探している人がいるんです」と、嘘ではなく本当のことを言った。あまりにも困窮した私に、いつかの国語教師も渋々承諾してくれた。

 だがなかった。

 なかったのである。

 どこにも。

 陽が沈みきってからも、ずっと、入念に、三度程、一学年から三学年の、その生徒リストのようなものを見返しても、あの女生徒の姿はまるでなかったのである。

 諸君等にわかるだろうか。

 ページをめくり続けて、時間と共に腹痛のようなものが襲ってくるあの感覚。

 あるべきものがそこにないというのもまずあるし、私の計画が即座に破綻してしまったという事実もある。

 私の記憶もまた疑わしきものになっていて、実はやっぱりリストの中に存在していて、私が単純に気がついていない可能性もあって、もう何がなんだかわからなくなってきてしまっていたのだ。

 致し方ないとして帰路についたのだが、致し方ないなどとして片付けるわけにもいかない。

 が、どうすればいいというのだろう。

 私はいるかもわからない、その正体不明の女生徒の姿に怯えるしかなくなっていた。

 いるのか?

 まさかこのクラスに?

 ばからしいとも思われるかもしれないが、私の精神状況はそこまで崩されていた。覗きなんてしなけりゃ……覗き……

「たくみん?」

 突如左方から声がした。

 意識の中に入り込んでいた私は、その声に体を僅かに痙攣させて、その方を見た。

 女生徒だった。

 いや、例の、というわけではない。

 いつもそこにいるであろう女生徒だった。

「なんだ」

 私はぶっきらぼうにそう答えた。

 私はこういう女生徒とのコミュニケーションが得意ではない。

 決して会話そのものが苦手というわけではないのだが……なに、文学や政治の話なら延々と出来る自信はあるのだけれど……

「たくみんはどう思う?」

「ええい」

「ええい?」

「あ、すまない。いや、こちらの話だ。して、どういう?」

 そして急に笑い出す隣の女生徒。

「して、って面白いねぇ、たくみん」

「普通の物言いでは?」

 このようなことで笑われるとは心外である。これだからこの学校は。

「私になぜ感想を聞く?」

 時間は昼休み。

 いつもなら図書館に入り浸るのだが、怯えきっていた私はクラスでその身を固めていた。笑うなよ。本当に怖いんだ。いつ見つかるかもしれぬという恐怖に苛まれているんだ。

 隣の女生徒……萌木蜜柑は珍しい光景だとして私に話しかけたのだろうか。一応解説しておくと、萌木蜜柑は、あまりにも、眩しすぎるくらいに今時の女子高生であり、ハイカラガールであった。そしてこのクラスの中心人物でもある。

 ちなみにたくみんというのは、この萌木蜜柑が勝手にいつかつけたあだ名だ。

 人類愛を掲げているのだろうか。偏屈な私とでさえあだ名を付けて友達になろうとするその姿勢は人類愛を掲げる一流スター、というよりも、どこか宇宙人的、というか、なんとか星に住んでます、みたいな二流アイドルを連想させた。が、言わないでおこう。彼女は彼女で、そういう戦略でクラスの中心人物となりたがり、事実、功を奏してなっているのだろうから。

「都市伝説のことだよ」

「都市伝説?」

 急にわけのわからないことを言い出す。こちとらそれどころではないというのに。

「この学校って、もともとあった旧校舎を取り壊して出来たっていうのは知っているよね?」

「当然だ。その趣を持って再建築をして出来たのがこの情緒深い校舎であろう」

 私は建築だとか、デザインのことに関してはまるで疎い人間ではあるのだが、一部の校舎がまるきり老朽化してしまって使い物にならなくなって、この校舎は建て替えられたのである。その意匠の最大のテーマは、モダンとレトロの融合、だそうだ。それは見事としかいえないほど自然と融合し、また近代を表してもいた。それが果てしなく文学的だと感じたものだから、私はこの学校を選んだのである。取り壊されたのは、確か五年もまえのこと。

「であろう! であろう!」

 今度はその萌木蜜柑と共に昼食を取っている人間が手を叩いて笑った。その後、「控えおろうってかんじだね」と付け加えた。実際に控えて欲しい、という私の感情は、しかし言葉にならないでいた。

「その校舎にさ、実は生きていた人が取り残されていたらしいんだよ」

「え?」

「それで、そのまま取り壊しの時に死んじゃって、その霊がこの校舎にいるんだってさ。うけない?」

「事実であれば、笑えない話ではないか」

 一瞬真に受けてしまったが、しかし連中の譫言だと思い直す。

「やだなぁ。都市伝説だよ。多分、誰かが作ったお話なんだけど、たくみんはそういうの好きそうだから、どうかな、って思って」

 萌木蜜柑は、はにかんで笑った。この笑顔は恐らく全男性を魅了する類のものかもしれなかったが、天の邪鬼である私の前ではまるで通用しなかった。魅了されている暇などないのである。知ったことではない。熱病人間が。

「なぜ私がそういう人間だと思う?」

「なんか難しそうな本読んでるから」

 決してオカルト本など読んでいた記憶などないのだが。

「都市伝説というにはあまりにもお粗末な気がする。都市伝説というのは、そもそも都市の中で流行するものではないのか? せいぜいおふざけ半分の、学校の怪談程度の痴話だろう。私は興味がない。むしろそんなものを話題にするのであれば、本の一つや二つ読めばいい」

 皮肉のつもりだったのだが、手を叩いて笑われる。やめろ。その手を叩いて笑うの。

「ていうかたくみんってさぁ、なんかいっつもむっとしてない? 今日なんて特に」

「そのような理由があるのだよ」

「不幸な人は、祈ればいいらしいよ。その、霊に」

「こっくりさん、のようなものとして認定されているのか」

「そうそう。その霊に頼み込む儀式があるみたいだけど……なんだっけ?」

 萌木蜜柑は女生徒と会話を始めた。席を立つなら今しかないと思った私は、その場を離れることにした。付き合ってなどいられない。やはりそれどころではないのだから。

 廊下に出て一息ついたのだったが、すぐにまた恐怖に陥れられる。

 まずはいつ奴が私の前に姿を現すか、という恐怖。

 そして次に。

 実際に、会ってしまった恐怖。

 遭遇。

 あっという間に。

 諸君らもぜひ覚えていて欲しい。人間、恐怖が一回りすると、全身から体の力が抜けていくようなのだ、ということを。私はそんなことをまるで知りもしなかったし、これまで生きてきて経験したことがなかったものだから思わず立つことをやめて体を打ち付けてしまいそうになっていた。慌てて、なんとか、ぎりぎりのところで持ち直すことは出来たのだが。

 だが。

 廊下でばったり出会ってしまったというのならばまだ話はわかりやすかったし、私としても挽回の余地あり、というか、その人間を……人間を、どうにかやりくるめることが出来たろうから、失意の底に打ちひしがれるということはなかっただろうと思う。むしろ敵意をむき出しにして、未だかつてない自分というのに、出会えただろう。それがその高校生活に彩りを与えただろう。

 確かに。

 確かに未だかつてない自分には遭遇出来た。

 出来たのだが。

 それは私の望む方向ではなかった。

 いやむしろ、望む方向というのは何だったのだろうと考えさせられる。あの時、覗きをしていた自分を見られたときに思ったことは、カムバック、日常。つまり頬杖をついて太宰や太宰の著作について考えを巡らせることだったのかもしれない。

 私が望んでいたのは日常だったのだろうか。

 かつて望んでいた青春ですら、高望みであったと、愚かだったと思わせる。むしろ日常でいい、日常でよかったのだと、思わせる。

 誰かに頭を垂れたい。

 申し訳なかった、と謝罪したい。

 話が、あらぬ方向へ進んできているが、もう示してしまわなければならないだろう。

 その人間は。

 いや、違う。

 その存在は。

 廊下にはいなかった。

 窓の外にいた。

 ここは二階。

 窓の外に、浮かんで。

 全く、何者の助力も、物質的な支えもなく。

 浮かんで。

 浮かんでいた。

 そして私を、いつか見たあの笑みと共に見つめていたのだった。

 何事かをたくらんでいるような、その邪悪な微笑に、私は戦慄し、何かが崩れ落ちていくのを感じた。

 どれだけ見つめてみても、それは空を飛んでいた。

 アトム? アトムなのか? と、私はこれもこの高校が生み出した、レトロモダンフューチャー、みたいな近代進化ではないのかとかこつけて、いやぁ、時代も来るところまで来たなぁ! みたいな。あまりにも愚かな自分への嘘をついて演技をしていたのだけど、その存在が、窓をくぐりぬけてきたところを見たところで気を失っていた……らしい。後日、泡を吹いてひっくり返っていたのだと萌木蜜柑が教えてくれた。泡を吹いてようやく一人前の男になれるんだから……日本男子として一皮むけたな、という恥辱を達成感に変えるような視点の変換をして、何事もなかったことには……できるわけもなかった。

 

 これが、かの霊との二回目の遭遇。

 凶兆。

 泡を吹いてひっくり返るその瞬間の私の頭の中を通り過ぎていった感情とは、ただただ後悔の念だった。

 権利。

 そのようなものと引き替えに、私はこの非日常を、招き込んでしまったようなのだから。


   ・

 

 私の恐怖は最高潮に達していた。

 その日の夜、一睡も出来ずにいた私は、わずかな物音で目が覚めるような興奮状態に陥っており、ほとんど休まずに通学していた学校も休んでしまっていた。

 なぜってつまり説明がつくのだ。

 私が入念に入念を重ねて執行した覗き行為を背後から目撃するなどということをやってのけるのは、人間的ではないと考えてはいた。入念に辺りを確認したというのに、背後に立っていたのである。それも短い間のうちに。人間的ではないとしたとしても、まさか本当に人間ではないなんて誰が思うのだろうか? 私に非はない。いや、もういいだろう。覗きにおける罪は十分に反省した!

 都市伝説。

 思い出すのは昨日の萌木蜜柑との会話だった。

 霊。

 いや、まさか。

 と笑い飛ばそうとしても、しかし笑い飛ばせないのだった。飛んでいたのだから。浮いていたのだから。

 なんだ、あれは。

 まるで幽霊じゃないか。

 まるで、ではない。

 ほぼほぼ幽霊だった。幽霊でなくても、現実的でない何かだった。

 飲み込めない事態に、混乱は加速する。

 私は思い返す。見間違いではなかったのか。ああいう類の映像を見せる映写機が実のところあるのではないか。最近の科学……最近の科学…… 

 巧さん、お客さんよ。

 と、私が逡巡の果てを辿っていると、戸の奥から母の声が聞こえた。

 お客?

 いや、勘弁して欲しい。私の恐怖は昼夜問わずありありと存在しているのだから。

 どなたですか、と聞き返すと、なんとかさん、と答えた。やめろ、やめてくれ母。そのなんとかさんという響きが怖い。

 私は億劫ながら、そして恐怖を抱きながら、来客(頼むから客であって欲しい)の相手をすることにした。

 玄関。

 そこには意外な人物が立っていた。

 諸君等も私も、安心するべきであった。決して背後に立っていたあの人間(?)などではなかった。

 なのだが、私としては気を引き締めなければならないような気がした。クラスメイトではあり、決して即座に臨戦態勢を要するような、敵では決してないはずなのだが、ここで彼女が私の家に来る理由が一切見当たらないことなどから、緊張感が募ってくる。

 彼女の名は西園寺礼子。

 黒髪の、大和撫子。

 というと想像しやすいだろうか。いかにも日本的な、和製人形のような出で立ちをした容姿端麗の美女といえば美女である。長身で、スタイルもいい。

 実を言えば、一目置いていた人間である。容姿でその心を奪われる人間なのでは、私は決してないのだが、その立ち居振る舞いや、他人に迎合しないその姿勢というのが、屈強な精神性というのを想像させるのである。

 私のクラスの人物相関図を簡単に述べておくとしよう。といっても、そんなに複雑でないし、むしろ相関図と呼べるほどのものではない。

 女性陣は主に、萌木蜜柑を初めとしたきゃっきゃうふふグループと、それ以外のちょっと暗めの人間が集うグループに大別して別れる。そのどちらのグループにも属さない人間たちがいる。その連中というのもまた、一つのグループを形成しており、基本的には、一人でいたいから喋りかけてくるのではない、というスタイルを打ち出している人間であるが、たまには人と関わりたくなるよな、といった具合で、互いの存在を確認しあってはまた自席に戻っていくようなグループである。

 西園寺礼子は、そのグループにすら関わらない。

 一言で言ってしまえば、孤立無援。

 私のようにまるで人と関わり合いを持とうとしない人間の一人である。いやむしろ、私はなんだかんだで日常会話や、とりとめもない話をたまにしたりするし、懇意にしている人間がいないといえば嘘になるものだから、彼女の、西園寺礼子の狼ぶりには適わないというのが正直なところだ。彼女は意味深にいつも何か考えて天井を見上げたり、教室を見回したりしている。私はたまに何をしているのか、何を考えているのか訝しんで彼女を見るのだが、わかるわけもなかった。

 そんな存在が。

 なぜ?

 プリントを持ってきた、というふうではない。その両手にはなにも握られていない。日本刀などを持っていると非常にさまになりそうだ、とか考えていたら、西園寺礼子が口を開いた。

「時間を」

 なぜこうも構えてしまうのだろう。私は何かこれから、彼女に突拍子もなく、それでいて聞くべきでないことを言われるような気がしたのであった。何か果たし状でも持ってきたかのような、一世一代の大勝負がこの場で繰り広げられるというふうな勘違いを犯してしまう空気が張りつめていた。

 私は何事かを言おうと考えていた。

 冗談が通用する相手ではないと考えていたのだが、しかしどこか冗談めかして話をして、この沈痛とも呼べる空気というのをどうにか払拭したかったのである。

「よう。西園寺、さん」

 私のその挨拶は空を切った。

「時間、もらってもいいかしら?」

「ああ。わかった」

 私はひとまず従った。というより、従う他ないと感じたのが事実である。もし仮にこの会合を後回しにしたところで、西園寺礼子はまたやってくるだろうという根拠のない予感が、彼女との同行を了承せしめたのである。


   ・


 私の家というのは、江ノ島電鉄というそこそこ名の知れたローカル線の稲村ヶ崎駅と極楽寺駅の狭間にある、小高い山の上に位置している。稲村ヶ崎駅は……というか江ノ島、湘南・鎌倉全体が観光地であるとも言えるけれど、ごみごみとはしておらず多くの長閑な人間たちで形成された街で、ゆっくりと時間が流れていくような趣があって好きである。私という人間を振り返った時に、こういう故郷があるというのは何よりも恵まれていると思えた。見慣れたはずの景観も、凍えきった我が身に暖かさを与えてくれた。

「この辺はよく来るのか」

 私は前を歩く西園寺礼子の背中に問いかけた。

「私用で」

 と、それだけ答えられた。

 私たちはそして江ノ電沿いや、あるいは街の中を練り歩いた。西園寺礼子の一体何を知っているのかといえば、その狼ぶりであり、それ以外知るところはない、と言っても言い過ぎではないくらいに私は西園寺礼子のことを何も知らなかった。

 だから、こうして練り歩いている間も、一体彼女がどこに行こうというのかということも、そして彼女が何を考えているかも知る由もなかった。一応、地元の人間である私も、ここがどこなのか、練り歩いている間に、途中でわからなくなってしまっていた。彼女の後ろ姿を見て感じるのは「話しかけてくるのではない」というその漢気だった。そのさまはほとんど教室のそれと何ら変わらず、唯一わかったことといえば、彼女は教室の外でもこのような雰囲気を絶えず出し続けているのだな、ということだった。

 体は大丈夫なのか。

 とは一切聞かれなかった。これきしも。一言くらい期待していたのだったし、こうして練り歩いていると、少なからず体力を磨耗するものだから、病人には堪えるだろうとの言葉を。しかし彼女はもう気がついているのかもしれない。私が仮病だということを。

 西園寺礼子が他を寄せ付けない理由の一つとして、あの目があると、私は考えている。

 人を射抜くような目、とでも言うべきだろうか。決して睨みつける、というふうではない。不良青年がやりとりするような視線ではないのだ。じゃあ一体どのような、何を目的とした目つきなのか、と問われれば非常に答え辛い。他を寄せ付けないため、でもなさそうだった。どちらかといえば吸引力があって、何かを見透かしていると、お前の手の内はばればれだと言いながら、それを知りたいか? と手をこまねいているような、そんな目つきなのである。その目で、既に私の仮病を見抜いていそうである。まぁ、西園寺礼子でなくても、簡単に見抜けるかもしれないのだが。


 練り歩いて、小一時間。

 どこに連れて行かれるかと思えば、なんてことはなかった、辿り着いたのは一つの、この界隈では珍しくもない、年月を感じさせる古びた喫茶店だった。純喫茶、というものに分類されるかもしれない。その店は地下にあって、狭苦しい階段を降りきった先にあった。入り口の扉もまた、時間の経過を感じさせたのだが、豪奢で、高級さを感じさせる木造の扉だった。

「ここにはよく来る……のか?」

 敬語を思わず使いかけた私。さっきからずっと彼女の雰囲気に飲まれそうになっていたのだけど、しかし私も一介の日本男児なのであるということを思い出す。尊ぶべき精神は、様々な文豪、そして思想家から学んだではないか。例えどれだけ情けない理由(私にとってはそうではないのだが)で学校を休もうとも、その精神は崩れていないだろう。いや、覗きをしていた時にすでに崩れていたのだろうか。

 西園寺礼子は私の問いに、ただ首を横に振ってから言った。

「こういう場所は、落ち着くし、何より人が少なくていい」

「そうか」

 店に入ると、店主であろう、当に還暦を過ぎたであろう老人が私達を歓待して席に案内してくれた。こじんまりとした店内であったが、洗練された煩雑さ、とでもいうのだろうか、古臭い本棚も、テーブルに置かれたこの店オリジナルのマッチも、ほのかに地下の暗がりを照らすランプのような間接照明も、すべてがすべて調和が取れていて、それはひどく、私の心を安らかにするものであった。

 ただ、その安らぎも束の間である。

 席に座り、お冷とおしぼりを頂き。

 そして沈黙、である。

 西園寺礼子は私を真正面から見据えてくるものの、言葉を発しないのだった。ここが注文の多い料理店で、私が調理されるのではないか、と。そんな恐怖を一瞬覚えた。この沈黙の間にどれだけ命のやりとりをしたのだろう。と考えさせるほどに、弛緩を許さない西園寺礼子の貫徹した気丈ぶりは緊張を余儀なくさせた。調度のとれたアンティークの品々や、流れているけだるいジャズなども一切なかったことにするほどのものだった。

 私にはこの沈黙があまりにも歯がゆいものだった。私ではなく、この眼前の女生徒が私を誘ったのだから、さっさと本題を切り出して欲しいと切に願った。しかし西園寺礼子は、例の目で私を射止めてくるだけだった。

「学校の方は、君、どうだい」

 とか、そして緊張に負けてそんな言葉が飛び出た。

 西園寺礼子はそれすら、なかったことにした。見事に何も答えないのである。

 やはり命のやりとりである。

 軽い口ぶりをすら許されないらしい。

 西園寺礼子は、引き続き私を見続けた。

「いや、何。私は今日別段体調がどうのこうのというわけでは決してなかったんだけどね」

 私の精神性とは何だったのか。

 緊張に負けた私は、勝手に弁舌を巻き始めた。

「どうも、学校というものを疑問視するというか、結構……ほら、退屈でしょう。君が学校を退屈かどうか、とか。知らないけれど、私は退屈でしてね。ええ。つまりどうでもよくなってきてね。やけ、というか。放蕩でもしてやるか、とか。そんな具合でしてね。だから君、私のことを例えば心配……だなんて思ってないだろうけれど、クラスメイトの一人として突如学校を休んだ放蕩人間のことなど、別段気にかけなくてもいいのではないか?」

 私がこの時感じたことを、比喩を用いて記してみよう。例えば、アフリカの平原で、何か草食動物……カピバラのような、ああいった無垢な動物が戯れていて、そこに百獣の王、ライオンが登場した。しかしカピバラは今までライオンを見たことがなかった。カピバラは一瞬だけ身の危険を察知するのだが、見なかったことにする。しかしその後すぐに一瞬だけ察知したその感情が膨れ上がっていくのを感じて、逃げる。今私は、逃げる前。つまり感情が膨れ上がっているカピバラと同じような感覚なのである。もっとまずいのが、今この目の前にいる女生徒が百獣の王なのか、つまり捕食者足り得て、私を補食するような存在なのかわからないということだった。カピバラはライオンをライオンを肉食動物であり、百獣の王であり、食物連鎖の頂点にいる歯向かうことの許されない存在であると、一目見て本能的に察することは出来るけれど、私は西園寺礼子と相対して、この女生徒が一体何者なのか、やはりまるで、てんでわかっていないのである。

 危機感だけは、しかしありありと私の中で生み出された。

 さっさと帰るべきである、とすら思った。帰宅し、直ちに何もなかったことにして、テレビを前に夕げを楽しみ、家族と談笑。これ即ち日本的風景。

 空想に逃避した私に放たれた西園寺礼子の言葉は、たった一言だった。

 ツカレテル。

 と西園寺礼子はまず言った。

 疲れてはいない。

 と私は返した。

 ツカレテイル。

 と西園寺礼子は再度言った。

 言い直した。

 ずる休みの類だ、と私も言い直した。

 つ、か、れている。

 と西園寺礼子は三度目の正直を期待するようにまた言い直した。

 君がか?

 と私はこのやりとりのどうしようもなさを見つけて解釈を変更しようとした。

 気がついていた。

 もしかしたらそうなのかもしれない、として私はある一つの仮定を導き出していたのだが、しかしそうあってはならない、そう解釈してはならないというこれまた危機感が、私を制した。

 ただやっぱり西園寺礼子は私のそんな感情の類など一切気にもせず、懇切丁寧に説明をするのだった。

「何かにトリツカレテイル、という表現は理解出来るだろうか」

「ああ。そういうことを言いたいのか、君は。だったら例えば……」

「郷田さん。よく、聞いて欲しい」

 私をさん付けする西園寺礼子の距離感はまるで他人に心を許していないように思えた。が、今はそんなことどうでもよかった。私は逃げ出したかった。私はカピバラなんだ!

「君は取り憑かれている。霊的なものに。心当たりはない?」

 私は私の仮定が、すべて当たっていたと、すなわちツカレテイルといのが憑かれているだなんて仮定が当たっていたと、ここでようやく得心したのだった。

 アイスコーヒーと、アイスカフェオレです。

 と、にこにこしながら飲み物を持ってきたマスターもまた、私の苦悩などを知らないだろう。誰か私に逃げ道を用意してくれないか。そんなことを考えていても、またマスターはにこにこして去っていくのだった。

「霊的なもの、と。つまり君はそういう、ものを、が、霊とかの類が、私に取り憑いているのだと、そう言いたいんだね」

 ようやく理解できたか、とばかりに小さなため息を西園寺礼子はついた。

「その通り」

 万に一つ、たどり着きたくない、正解だった。

 しかしそういう段になって私の頭に立ち上ってきた疑問はあった。一体なぜ……もうこの際認めるけれど、あの覗きから端を発した一連の霊的現象を知っているのか、ということ。

 そしてもう一方で立ち上ってきた感情というのは、西園寺礼子に対するありがたさだった。とても冷静に考えれば、私は誰にも話せないであろうこの話を、打ち明けることがどうやら、出来るらしいという事実。

「私は霊能力者だ」

「ちょっと待て。待つんだ。落ち着こう。いいか? 実は私は最近取り乱しっぱなしでね。もうこれ以上びっくり箱から仰天するようなものが出てきてもらうと困るんだ。つまり呼吸するが如く当たり前に取り憑かれているだとか、霊能力者だから、とか言われても、私は困り果てるしかないのだけどね」

「どれだけ紆余曲折を経て説明をしたとしても、行き着くところは同じだ。認めたくないというのはわかるけれど、突きつけられる事実は同じ。だから早く言った方がいいというのが私の考え」

 吐き捨てるように、彼女は言ったわけではなかったが、しかしひとまずの慰めを期待していた私にとって、彼女のその言葉は吐き捨てられたようなものと同義だった。

「なぜ、わかるんだ」

 もう西園寺礼子には紆余曲折を経るのが無用だと理解した私は、今度は彼女流に、ストレートに疑問を問いただした。

「霊能力者だから。というのが答え。霊能力者についての説明をしたところで、あなたは腑に落ちないと思う。色々とこねくり回した挙げ句、事実を認めるのを先延ばしにすると思う。それは無用の産物だと思う」

 ぴしゃりと、精神的な退路を、西園寺礼子は断った。

「事実を考えて欲しい。あなたは心当たりがある。取り憑かれているという。私はそれを言い当てた。つまりそれは霊能力者の存在を肯定していることになる。だから説明は不要だと思う。私の目的はただあなたが遭遇した霊的な存在をどうにかする、ということ。その目的さえ果たせればいい」

 今度は、ありありと言葉を吐き捨てた。言外に、つまり霊能力者としてその霊的なものをどうにかしたい。お前の感情など知ったことではないし、ひいてはお前すら、実はどうでもいいというふうな印象を受けたのは私の勝手ながらの邪推だろうか。諸君等だけはどうか私に味方して欲しい。

 言葉を見失ってしまう。そう言われて、いったい何を返せばいいのだろうと考えていたた私を待たずに、西園寺礼子は続けた。

「だから私の質問に答えて欲しい」

 どうせ何もわからないのだから、黙って馬鹿みたいに、私の質問に答えればいいんだよ、このぬけさく。と聞こえたのは、やはり邪推だろうか。

 そして西園寺礼子の取り調べは始まった。

「まず、君は霊を見たのか?」

 有無を言わさぬ強烈な口調だった。冤罪人が取り調べを受けたら今の私のような気持ちになるのだろう。違いない。

「見た」

「最初は、どこで?」

「最初は……」

 もう馬鹿みたいに答えていようと考えていたのだが、答えに詰まった。

 言うわけにはいかない。

 例え西園寺礼子がこれから先、いけすかないながらも私の悩みを除去してくれる存在であろうとも、言うわけにはいかない。

「嘘は、つかないで欲しい」

 西園寺礼子は私の心を読めるのだろうか。先回りしている。すべてお見通し、とばかりのあの目。戦慄する。が、落ち着け、私。私の心を見透かしているのであれば、このような尋問をする必要がない。

「言えない」

 嘘ではないだろう。

「かなり、個人的な事情がある。黙秘権を執行する」

 西園寺礼子のことをまるで知らないが、しかし言ったら。言ってしまえば、間違いなく、私を侮蔑するだろう。侮蔑し、もしかしたら見放して、もがき苦しみ、地獄に堕ちて死ね、と、そのくらいは軽く言ってくるかもしれない。なんて怖いことだ。あの霊より恐い存在になってしまうのではないだろうか。

 西園寺礼子は黙って頷いたが、不承不承といったふうだった。私の事情など知ったことではないというのが本音だろう。

「では、何回」

「二回だ」

「最近のことか」

「先週の金曜から。計二回」

「二回目はどこで?」

「中庭。2ーAの扉を出てすぐの窓から見えた」

「一回目と場所は異なるのか?」

「違う」

「その存在はどのような形をしていた?」

「人間だった。若い、同い年くらいの女生徒。ほとんど、人間と同じ、というか、最初は人間だと勘違いしていた」

「ではなぜ霊とわかった?」

「二回目に会った時、飛んでいたから」

「そのほか、特徴的な出で立ちは?」

「そうだな。うちの学校の制服を着ていた。だから私は最初、この学校の生徒だと考えていた」

「繰り返して聞くが、一回目も、二回目も、変わりなく人間の格好を?」

「間違いない」

 ここまでで、一段落した。西園寺礼子は、眉間にしわをよせて、何事かを考えているように見える。いったい何を考えているのか。私はやはり質問をする権利を持ち合わせていないように思えたので、口をつぐんだ。

 深刻、なのだろうか。

「接触は? つまり話しかけたり、話しかけられたりは」

「ああ、そういえば」

 思い出す。

 最初に出会った……遭遇してしまった時のことを。

「ナンジナゾヲトケ。何時。じゃない、汝、謎を解け。だったか。そうだ、思い出した。確かそんなことを言っていた」

「謎?」

「謎、と」

「それ以外は? こちらから話しかけたことは」

「いや、ない」

 西園寺礼子は、一通り逡巡するような素振りを見せて、手帳を取り出した。私のことなど気にせず、そのビジネスマンが使うようなシステム手帳に何事かを書き始めた。どうやら彼女は左利きらしいというどうでもいいことを発見するので、私は精一杯になっていた。

「わかった。もしまたその霊と遭遇した場合、あるいは、精神的、あるいは肉体的に、体調を崩したと感じたときに、私に連絡をして欲しい。直ちに。私から聞きたいことがあった場合には、こちらから連絡をする」

 そそくさと連絡用メールアドレスを渡されて、「メールは出来るな?」と子供に問いただすように訊かれた後に、「このことは他言しないように。つまり私と会ったこと、私と会話した内容全てを」と去り際にそう告げられた。

 言ったら、呪い殺すぞ。

 そう聞こえた。はっきりと。

 実験用のモルモットにでもなった気分だった。はたまたテレビのドッキリショーにでもひっかかったような。

 霊的存在?

 霊能力者?

 ふざけている。

 あんなものと遭遇していながら、私はなおも、何かの間違いであって欲しい、とそう願った。

 全部、嘘でしたなんて言ってくれないかと、にこにこしたマスターを見て思ったのだけど、そんなことを言ってくれる人はやはり、どこにもいなかった。

 店を出た後に、今一度西園寺礼子に問い正してみる。

「本当に私は霊に取り憑かれている、と。君はわかるのだな?」

 西園寺礼子は、無言で頷き、そして去っていった。

 取り残された私は、再度、日常への復帰を祈るばかりだった。

 

   ・


 脱力感と恐怖が融合して発せられたのは、怒りだった。その怒りのおかげで、様々な感情を忘れ、心地よさを覚えていたものだから、純粋な怒りとはまた違うような気もしていて……いや、はっきりと言えばもう何が何だかわからなくなっていた。どこにいても、苛立ちは舞い上がるし、学校を休んだとしても、恐怖が払拭されることもなかったのである。感情の整理は、この緊急の事態に追いつかないようなのである。

 しかし。

 西園寺礼子。

 あの野郎。

 野郎である。貴婦人、乙女、淑女、など、あらゆる女性を尊敬した名称はあの野郎にあてはまることはない。いったい何だというのだ。人のことを言えたものではまるでないのだが、もう少し友好的な態度をとればいい。私ですらそう思うのだから、度が過ぎている。度が過ぎて狼なのだ。

 西園寺礼子といえば、しかし今日も冷徹そのものだった。教室最奥の窓際で一人ノートを眺めて勉強をしているらしいそのさまは誰かから見れば、ともすると優雅な振る舞いに見えるかもしれなかったが、しかし私にとってみれば、調子に乗りやがって、という具合に映る。だいたい、何様なのだ。霊能力者? だから何だというのだ。知ったことではない……と強気に出れればいいのだが。そういうわけにもいかないものだから、やきもきするのだ。

 私はかの霊、あるいは霊的現象のことを忘却するために、西園寺礼子に意識を向け続けていた。

 そして放課後。

 私はいきり立った。

 西園寺礼子の席までたどり着き、そしてこのように進言した。

「時間はあるだろうか。昨日のこととは関係ないが。質問があってね」

「断るわ」

 私は、願わくば紳士でありたいというのは、覗きという行為をした人間の言い分ではない、と諸君等は宣うかもしれぬ。

 しかし覗きというのは、それ自体秘匿されていれば、誰も傷つくことはない。だからこそ、紳士的といえば紳士的とも言えなくはない、のだと考えている。

 願わくば、紳士でありたい。

 が、私の紳士道は木っ端みじんに粉砕された。最近、私の色々は粉砕されすぎている。

 殴りたくなったのだった。

 断るわ?

 はぁ、そうですか。

 それを断り、あげくの果てにとっつかまえて尋問し返そうかとすら思ったのだったが、颯爽と西園寺礼子は去っていった。去り際に、「何かどうしても伝えたいことがあるのならばメールで」と添えて。

 粉塵。

 窓から入り込む風は、粉塵となった私を散り散りに飛ばしていく。

 やるせない私は今度は怒濤の勢いで下駄箱へと向かった。下駄箱に何があるわけではないが、この感情をどうにかするべく、下駄箱を蹴りたくもなった。彼女は確かに私を助けてくれようとはしているらしいが、どうにも気に食わない! でも決別したら、助けてくれないだろう!

 その時である。

「あ、たくみんじゃん」

 萌木蜜柑だった。

 苛立つ私の清涼剤、とは決してならなかった。彼女はクラスのアイドルとして自らを認識しているだろうけれど、私はきゃぴきゃぴした今時の女子高生を清涼剤として見出すほど、愚かではないのだ。どの口が言うって?

「ええい」

「ええい?」

「いや。こちらの話だ」

「今から帰るの?」

「え? あ、まぁ。帰るが」

「へぇー」

 じろじろと私を見てくる萌木蜜柑。どうでもいいけれど、女性につま先から頭まで見られると、品定めされているような気持ちになってしまう。

「一緒に帰らない?」

 戸惑う。

 どういう計算だろう、と思った。

 萌木蜜柑についても、私は何一つ知らない。親密度など、世間話をしようとも、まるでないとすら私は考えている。一方の萌木蜜柑だって、そんなもの微塵もないと考えているだろう。彼女がどれだけクラスのアイドルをやろうが、心の底では一考にすら値しない人間、というのは存在しているに違いない。

 私はその一人じゃないのだろうか。

「ねぇ、どうなの」

「わかった」

 断るわけに、いかなかった。

 前述したとおり、私は紳士なのだ。誘われて、無下にするということも出来まい。

 熱病患者のような下校風景を見出さぬよう、細心の注意は払おうかとは思う。それに、今は一人になりたくないというのが、実のところの心境なのである。縋ることのできるものには縋っておこう。


「あー、今日は夕日がきれいだねぇ」

「そうかもしれない」

 傍から見れば、クラスのアイドルと下校を共にする男。羨ましがられるのかもしれない。私とて平時であれればそのような心境を僅かながら持てていたかもしれぬのだが、今日は状況が違った。

 覗きから、西園寺礼子との邂逅。その一連の流れを経験した私は、猜疑心を帯びていたし、心から萌木蜜柑との下校を楽しめないでいた。むしろ、心底どうでもいいな、とまではいかないけど、恐怖を緩和する程度の人間、としかとらえきれずにいた。

「たくみんは、なんでそんなに仏頂面なの?」

「君、言いたいことを言うのだね」

「もっとさぁ、笑った方がいいよ。笑った方が」

「世の中生きていると、笑えないことも出てくるというのが、事実のようだよ」

「スマイルスマイル」

 えくぼをつくって、その両頬に人差し指を当てる萌木蜜柑。

 悪いな。一般男児ならまだしも、私はそんなことで魅了されない。

 しかしなぜだろう。

 この時の私と言えば、不穏さを感じ取っていた。あの霊と遭遇するのではないか、そんな予兆が、どこか頭をかすめた。

 結果的に、その予兆は半分当たり、半分外れた。

 私としては幸運にも、あの霊に遭遇することはなかったのだから、半分とはいわず、もう丸ごとよかったね、と祝福出来ることだったのやもしれぬが、半分だった。もう半分は、また私を脅かしたのだった。カムバック日常とは嘆きけれど、もう戻れぬのだと、私は日常に戻れぬのだと、せり上がる恐怖を堪能するほかなかった。否、堪能する余裕などない。


「じゃあ、ここでお別れだね」

 萌木蜜柑と何気ない世間話を交わした後で、ついに別れの時間がやってきた。別に寂しくはない。なぜなら明日もまた私の席の隣にいるだろうから。

「ああ、それじゃ」

 私と萌木蜜柑は沈みゆく夕焼けを背景に別れた。

 振り返ると、彼女は何も考えていなかったのだな、というふうに思う。ただ暇だったから、一緒に帰る相手がたまたまいなかったから、私を誘ったというただそれだけのようだった。

「ねぇ、やっぱり暇じゃない?」

 萌木蜜柑が、私の目の前に再び現れた。

「たくみんのさ、寂しい後ろ姿っていうのかな。それを見てたら……」

 同情した、とでも言いたげだった。事実彼女は私に哀れむような目線を投げかけたのだった。

「君も知っているだろうが、私は一人でいても、そこまで寂しいわけではないし、むしろ心地よさを覚えることのほうが多いものだ」

「ええーでもさ、でもさ、普通の高校生って言ったら、帰りにスタバとかマックとか寄ってお喋りするもんでしょ?」

 言えない。

 あの西園寺礼子とそのお茶とやらをした挙げ句、さんざ苛ついて今日に至っているなどとは。

「それは、そういうのを好む人がやればいいと私は思う」

「でもやったことないでしょ」

 そういう萌木蜜柑はどこか魅惑的だった。ごくり、と私は思わず生唾を飲んでしまうのはなぜなのか。

「いいじゃん。じゃ、スタバ行こうよ。私も今日たまたま暇なの。たくみんのこと、もっと知りたーい」

 それは本気なのか。

 本気で私のことを知りたいと?

 思わぬものが出てくるぞ。霊とか。

 ええい、恐いもの知らずめ。

 私は萌木蜜柑との同行を余儀なくされた。

 次なる恐怖がそこに待ち受けているとも知らずに。


   ・


 萌木蜜柑が指定した場所はJR大船駅のスタバだった。

 どうせなら行ったことのない場所に行こう、ただしスタバで、という姿勢は女子高生らしい発想といえる。私達は電車を乗り継いで、その駅を出たすぐのスタバに入店した。平日の昼間、放課後、ということで混雑を予想したのだったが、チェーン店ならではの混雑ぶりというのはそこになく、萌木蜜柑が「特等席じゃーん」と呼ぶに相応しい、最奥の席へ案内された。

 笑みを振りまく萌木蜜柑は、うれしげである。私にそんなに価値はないということと、一緒に楽しむどころではないということは、あらかじめ言っておきたいことだった。

 飲みものを持って席について。

 開口一番、萌木蜜柑はこんなことを聞いてくるのだった。

「たくみんはさ、好きな子とかいないわけ?」

 思わずコーヒーを吹きかける。

「いないな」

「ええー。だってさ、私たち高校生だよ? 高校二年生だよ? ここで恋愛しないと、お化けみたいなおっさんになっちゃうよ? ほら、スーツ着た、腹がでっぷり出たエロおやじみたいなさ」

 またしても吹きかけてしまう。お化けにはなっていないが、お化けには遭遇しているんだ、こちとら。

「ほったはれた、きゃっきゃうふふ、人間同士のあれやこれやに、私は現在の所興味がないのだよ」というのは本心だった。人間と霊のあれやこれやに悩まされているのだから。

「え? もしかしてこっち系?」

 と手の甲を頬に当てる萌木蜜柑。

 こいつはコーヒーを吹かせに来ている。飲み物を口に含むのに注意せねばならぬな。

「違う! それは私の名誉を恥辱するようなものだぞ」

「へぇー。そうだよね。こっち系なわけないよねー」

「全く」

 この時、この瞬間まで。

 私と萌木蜜柑は一介の高校二年生だった。

 大して親密なわけでもないが、とりあえず一緒に下校してみた高校二年生だった。

 次の一言を聞くまでは。

 

「だったら、覗きなんてするわけないよね」

 

 そうそう。

 私があっち系だったら、覗きなんてするわけない。

「そうそう」

 までしか口に出すことは出来なかった。私があっち系だったら、と言い出そうとした所で、強烈な違和感に苛まれた。

 血の気が引いていく、という経験をこの数日間のうちに、私はどれだけ経験したというのだろう。

 私がこのとき最も恐怖を覚えたのは、萌木蜜柑がその事実を知っている、ということでは決してなかった。あるいは覗きがばれてしまった、ということでもまたなかった。

 萌木蜜柑の、その目である。

 先ほどまで、天真爛漫で、可憐で明るい、クラスのアイドルとしてしか私に写っていなかった彼女の目は、一転していた。目、というか、目つき、というか、目の光り、というか。目に存在しているありとあらゆる雰囲気のようなもの、と呼べばいいのだろうか……は、本当に例えが浮かばないものだし、こう例えてしまうのは彼女に失礼なものだと考えたけれど、もうそれどころではないので言ってしまうと、ヤのつく人のような、極道系の人間が見せるような目つきをしていたのだった。

 それすらも。

 つまり極道系の人の目、という例えの方がどことなく柔らかい表現になる位には、彼女、萌木蜜柑の目というのは、深い、あまりにも深い人間的な深淵を潜めていたのだった。それは人の持つ、闇なのかもしれない。

 私はせり上がる恐怖の前に、なにも言うことはできないでいた。冗談ではなく、失禁しかけていたし、足がかくがくと震えていた。半分は恐怖と言ったがあれは嘘だ。すべて、丸ごと恐怖に飲まれた。

「郷田君さ」

 変わって欲しい。戻って欲しい。

 いつものあの、萌木蜜柑に。

 萌木蜜柑。

 その名に相応しい存在に。

 私の願いは、水泡に帰した。

 萌木蜜柑の目は、極道も退ける程の、いや、なんなら人でも殺しかねない座った目で、私を見続けるのだった。

「私、気になってたんだ。結構。あ、勘違いしないでね。別に、男性として気にかけたというわけではないから。何って。私が話しかけても、そっぽ向くし、ぜんぜん、心開いてくれないから。ぜんぜん、ね。何してるのかなって、思ったんだ」

 ごそごそと、ポケットからスマートフォンを取り出す萌木蜜柑。

「で、やっぱり気になったからね。私。郷田君のこと気になったからね。なにしているのかな、って思ったんだ。クラスメイトとして、クラスの委員長として、気になるじゃない? いや、別に郷田君を尾行しただとか、そういうわけじゃないよ? いつも何しているのかなって。最初は図書館に行くのかな、とでも思ったんだけどさ。ちょっと様子が違うし、おかしく見えたものだから、心配になったの。大丈夫かな、って。そしたら、部室棟の裏側にいくじゃない? 部活でもやったのかな、って思ったのだけど。これ」

 そう言って見せてきたのは、まず動画。

 その動画には、私が部室棟裏側にたどり着いてからの一部始終が克明に、明々白々に映像として収められていた。

 私であると、わかる。

 これは郷田巧であると、わかる。

 でしょ?

 と萌木蜜柑はその目で言っているように見えた。

 続いて写真。

 ズームする機能でもあったのだろうか、私の…………覗き穴を覗いている、その顔が何十枚も撮影されていた。

「こんなことしているんだ、って私残念に思ったんだ。別に、こんなもの撮る気はなかったんだよ? でも、いけないことだから、ね?」

 汗。この汗は冷や汗、なのだろうか。冷や汗ともまた違う、私はこの短き生の中で出したことのない汗を、出していた。そんなことを言って、なんとか笑おうとしている私なのだが、全く頬はぴくりともしなかった。

「これからさ、郷田君は、私の言うこととか、聞いた方がいいんじゃないかなって思うの。ううん、ぜんぜん。あんまり気にしないでいいんだよ。たまに私が話しかけたらさ、愛想よくして、くれるよね?」

 諸君等なら私を受け入れてくれるかと思うから告白しよう。

 失禁した。

 これは事実だ。そんなことで胸を張りたくはないが、やけくそである。声高に主張してみよう。私は失禁したのだ、と。

 ……開き直っても、心の傷は癒えそうになさそうだった。

 とはいえ、なに。大洪水ではない。しみだよ、しみた程度だよ、本当。本当だぞ。

 私は、ひとまず頷いた。

「いいんだよ? 私は郷田君のことも全部許すし、男の子だもの。仕方ない部分はあると思うから。やってしまったことは仕方がないと思うんだ。けれど、女の子の気持ちも考えよ?」

 私は頷いた。

 今度は五度ほど。

「うん。郷田君はさ、そこに罪悪感ってあるの?」

 私は頷いた。

 ゆっくりと、一回。

「そっか。そうだよね。郷田君だって、いけないことってわかってたんだ。だったらさ、ちゃんとその罪、償わないといけないよね?」

 私は頷かなかった。

 頷く気力が、なくなっていた。

 頭には、もう解放して欲しいという懇願がただあった。

「返事、しようよ」

 はい。

 私はあらん限りの力で、ようやくか細くそう返答した。

「うん。じゃあ、私と一緒にその罪をどうにかしないといけないよね? 郷田君も、その罪悪感を一生、生涯、背負ったまま生きてはいけないでしょう?」

「はい」

「じゃあ、どうやってする? どうやって罪を償うの?」

 頭はからっぽだった。解放してください。解放してください。解放してください。解放してください。四度ほど私は唱えた。

「郷田君。私、郷田君のためを思って言っているの。ちゃんと考えようよ」

 何も言えない。

「じゃあさ、こうしない? 郷田君は、私の言うことを聞くの。罪を償うために。覗かれた女の子に、今更覗いたなんて言って、罪滅ぼしがしたいです、なんて言ったら、すごいショック受けちゃうし、受け入れてもらえないよ。女の子の気持ち、考えないと。それに郷田君自身も、この先学校でやっていけなくなっちゃうからね。だから私のこと、代わりだと思って。郷田君に覗いた女の子だと思って。そう思ったら、どんなことも聞かないといけないって思わない?」

 この時私が見たのは悪夢だった。

 当然今もなお、悪夢を見ているのだが、未来における悪夢を、今この瞬間に見たのだった。

 だから、はいとも言えなかったし、頷くこともできなかった。

 もしここで私が抵抗しなかった場合、待ち受けている未来というのは、極端に言えば……いや、極端でなく死ぬことよりもひどいことのような気がした。

「ねぇ、どうなの? 郷田君たら。ちゃんと自分のことだし、自分で考えよ? 別に私、郷田君に何かひどいことをさせようという気はないよ? 郷田君が、とてもかわいそうだから。不憫に思えたから、提案しているだけなんだけどなぁ」

 見えてしまったもう一つの未来があった。これは実は、見えなくてもよかったのかもしれない。

 その未来とは即ち、ここで断った場合のことだった。

 犯罪者として、この街を亡霊のようにうろつき……家族にも知られ……

 どちらがより恐ろしいのか。それは知る由もなかった。一つだけわかっていたことは、この前の敵、そう、敵と呼んでいい。いや、化け物か? とにかくこの萌木蜜柑を敵として敵に回してはいけないということだった。

 結果的に私は承諾した。

 はい、と言って頷いた。

 一方の悪夢を選択し、一方の悪夢を捨てた。いや、実の所ずっともう、私の人生は悪夢なのかもしれなかった。

 私が承諾したことで、晴れて、というべきか、またその一瞬の対照がひどく恐ろしかったのだけど、極道系の闇を潜めた目は消えて、いつもの、クラスのアイドル萌木蜜柑に戻っていた。

「じゃ、まずこれ戻そっか、郷田君」

 と言って、萌木蜜柑はテーブルの上にあったそのお盆を指さした。

 はい。

 私は声にならない声で返事をして、有無を言わさないその命令に服従し、悪夢と絶望を再確認した。

 スタバでこのような悪夢を見る高校生は、あとにも先にもどうか私だけであって欲しい。


 帰り際だった。

 萌木蜜柑は私にこう言ってきた。

「別に今日、特別なことは起きてないよね。私、これから郷田君の手伝いをするだけだよね?」

 あの目で。

 その目はもう止めて欲しい、と進言するわけにもいかず、私はまたか細く返答をするほかなかった。


   ・

 

 諸君らは、仮面の告白という作品をご存知だろうか。かの三島由紀夫の処女作である。誰もがある意味では共感できない自らの感受性を、誰もが真似できないであろう文章表現で、津々浦々に綴った私小説的な文章である。私小説的な文章、というのは、果たしてあれが私ごとなのか、謎めいているからである。ほぼほぼ、私ごと、なのであろうが、全てが全てとは、私は思えないでいる。仮面の告白の醍醐味はその感受性と文章表現にあるとは思えど、しかし一番の妙といえばその冠された表題であると思うのだ。仮面とは何を意味しているのか。記されたそれは、果たして虚偽なのか。虚偽があるとしたら、どこまでなのか。それとも、人間は仮面を被っていて、その一枚下にはどれほどの深淵が潜んでいるのか、という疑問を投げかけるための表題なのか。初めて読了した時、私はそのように戸惑い、三島と対話したのを覚えている。

 ああ、三島よ。

 今ならわかる。

 と言うと大変おこがましいので。

 わかった気になった。

 としよう。

 人間は、嘘や、嘘でないなどと。あるいは、これが真実であるなどと。そのように、括り、囲って語れぬほどの茫漠とした、言いようのない暗がりを秘めているのだと。

 そのような気持ちで仮面、という言葉を冠したのではないか。

 

 そして私の恐怖の学校生活が始まった。いったい誰が想像できただろうか。このような有様を。

 前方の虎。

 ではないな。

 左方の萌木蜜柑。

 後方の西園寺礼子。

 そして、どこかにいるらしい霊。

「おはよう」

 萌木蜜柑は登校するとアイドルフェイスで私にはにかんだ笑顔を見せた。その皮一枚、仮面の奥にはとんでもないものが潜んでいると知っているのはこのクラスで私だけだろう。というか、私だけであって欲しい。

 私の恐怖とは裏腹に、その日は平和に終わった。

 どころではなく、それから一週間程が経っても、私は平和を堪能することができていた。

 人間の片鱗は、萌木蜜柑に残っていたらしいのだ。私は内心、一体どのような要求をされるのだろうか、と戦々恐々としていたのだけど、金品の類を要求されたり、あるいは私を使役せしめて犯罪行為をしたりだとか、玩具のように虐げるということもまた、なかった。

 逆にそれが恐くもある、といえばそうなのだが、彼女にとって私とは、もしかすると何か非常時の駒のようなものなのかもしれなかった。困ったら、とりあえずあいつを使おう、と。

 しかし一方が落ち着くと、今度はもう一方が何かことを荒げてくるというのが、今の私なのであった。平和を堪能する暇などない、とばかりに、西園寺礼子が放課後私の元に近寄ってきて、こう告げたのだった。

「時間、いいかしら」

 私は頷く他なかった。やはり拒否したところで、問題を先延ばしにする他ないのだろうから。


   ・


 西園寺はこう言った。

「学校に来て欲しい」と。

 この言葉の意味を、最初は飲み込めたものの、次の瞬間によくわからなくなっていた。

「学校には既にいるじゃないか」という疑問。

「夜。夜、校門の前に。時刻は二十三時。それでは」

 やっぱり私には何を聞く権利もないらしかった。

 正気の沙汰ではない。どれほどの狂気を私はこの身に浴びるというのだろう。

 二十三時といえば、とうに仕事熱心な教師も帰宅しているだろうし、私も就寝の準備を始める頃合いだ。明日は土曜日だから、夜更かしをすることはあろうが。

 私に拒否は出来なかった。ここで断れば、やはり私が見た霊の問題は解消できないのだろうから。それに、西園寺礼子が言った通り、私があの霊に遭遇したことを言い当てた時点で、彼女が霊能力者らしいという裏付けは出来てしまっているのだ。インチキくさくても、苛立ちがあっても、従うほかない。

 私は仕方なしに、堪能した平和を放り投げて家族には早めに就寝することを告げてから、ひっそりと家を出ることにした。

 夜道もさることながら、本当に西園寺礼子と正門で落ち合った時もまた、恐怖に身を包まれた。

 学校の怪談やら、都市伝説やら、という話を萌木蜜柑としたのが脳裏をよぎる。そして私が見た、霊の存在も。

 西園寺礼子は何も言わずに頷いた。察しろ、とばかりに。何も察せない私は、彼女が夜の学校に忍び込むのを見て、引き続き忍び込むのだった。こみ上げてくるのは悲しさだった。悲しい。涙が出てきてもおかしくはないほどの気持ちだった。なんだって西園寺礼子と夜の学校に忍び込まなくてはならないのだろう。

 懐中電灯一つで、暗闇の廊下をずいずいと歩いていく西園寺礼子の背中を追って、2ーAの教室に辿り着いた。本日二度目の登校である。

「適当に座って欲しい」

 そう言われ、私は自らの席に座り、そして教壇に立つ、我、教師なり、とでも言わんばかりの西園寺礼子を見た。こうやって相対すると、私はいつぞやのアンティーク喫茶でのことを思い出して、苛立ちが再燃してくるのを感じた。

 音。

 教室の時計が、かちこちと音を立てている。

 この夜の教室では、こんな音ですら、独特の響きを持ってくる。不気味だ。もう警備のおじさんもいないのだろう。この教室にいるのは、私と、西園寺礼子と、あと、いるのであれば、霊。不気味だ。それに、西園寺礼子はいつ私を置いて去っていくかもわからない。私はいつでも走る準備はしておこうと、椅子の下でアキレス腱を伸ばした。

「あれから、霊的な存在は見ていない。そうだな?」

「ああ。一体なぜかは私が知る由もない。というか、そろそろ説明して欲しい。君は私をまるで路傍の犬ぐらいを見つめるが如く観察してくるけれども、私とて人間なのだ。こんな妙なことに巻き込まれてしまったのだから、それを知りたいという人間的欲求を承認してくれてもおかしくはないのではないか?」

「一週間が経過した今、話さなくてはいけないと、感じてはいた。今日は諸々の説明もしたいと思っている。霊的な現象というのは理解されにくく、前提から拒む人間が多くいるが、君は実際に霊的体験をしたから、これから行う話そのものを拒絶することはないだろう」

「ああ。拒絶しない。飲み込めるとも。今の私は何が来たとしてもてんで恐くないよ。だいたい私はね、人より勉学を積むこと、新たな知的好奇心を紐解いていくことに、何ら抵抗はない人間だからね。というかね、君、まずこんな夜に呼び出した理由から説明して欲しいよ。ああ、君の言い分はこうだろう。私は霊能力者でございます。あなたは悪霊に取り憑かれました。あなたが悪いです。夜に説明もなく学校に来るのはあなたの責任です。私は助けてあげるだけです。とね。勘弁して欲しいよ。私が嫌いな職業の人間の一つに医者というのがあるけれど、君はそれに似てるね。偉そうに人を診るけれど、その実精神的な癒しというのはまるで出来やしない。何者かになった気でいるに違いないや」

 言い切ったとき、私の勘違いだろうか。西園寺礼子が微笑したかのように思えた。だが勘違いだったらしい。すぐにまたモルモットを見る目つきをしてきた。

 賭けだった。

 私が従属するのは萌木蜜柑だけでいい。

 もう、相手のペースに巻き込まれるのはごめんなんだ。

 西園寺礼子は私がそのように激昂するのも想定内、と言わんばかりに冷静な口振りを見せた。

「わかった。説明をする。夜に呼んだ理由は、少しばかりあとのことになるが、承知してもらいたい。まず私のことについて、話そう。君が私を不審に思っているだろうし、恐らくだが、今後少し、君とは付き合わなくてはならない。ただ、これから話すことは他言無用、ということは、もう一度釘を刺しておきたい」

「わかった。話さない。話さないよ。だいたい、私が君のことについて話して一体何の得があるというんだ」

 西園寺礼子は黙って頷いた。私が信頼されたのかは、わからなかった。

「あと、君はその霊的な現象をどうにかしたい、という気持ちは、あるね」

「それは答えを窮する質問だ。なにせ、実害がない、というのが現状なのだし、最近は遭遇もしていない。こういった状態が続けば、私はそのうち、霊的な現象に遭遇した、という事実はあったにせよ、気にすることなく生活を送ることが出来るかもしれないと考えているよ」

「いや、その可能性は少ない」

 そこはおべっかでも、そうだね、と言って欲しかった。どうしても西園寺礼子は私に安息して欲しくないご様子である。

「とにかく、解決したい、と。そうは思っているのだな?」

「ああ。そうだね。そうだよ」

 私は若干ふてくされた。

「わかった。そう思うのであれば、私を、信頼して欲しい。私が君を信頼するように、君も私を信頼、出来るな?」

 はい。

 それ以外の返答が出来ただろうか? もはや命令である。

「まず私は霊能力者と言ったが、君は霊能力者と聞いて、一体何を思い浮かべる?」

「何をって……その、今、ぱっと思い浮かんだのは、陰陽師、みたいな。失敬。どうだろう。その方面の知識には疎くて」

「陰陽師、ね。では陰陽師を例に出そう。君は陰陽師についてどれだけ知っている?」

「安倍晴明という単語と、悪霊を退散していたらしい、ということぐらいのものだな」

「安倍晴明、か。確かに日本においてはその陰陽道において名の知れた存在かもしれないが。君は陰陽師が日本固有のものだと、思っているか?」

「違う……のか? 確か、平安時代だったか。安倍晴明のような陰陽師が活躍したと。それで政治にも入り込むほどの力を持ったと。歴史の教科書に乗っている程度の知識しかないのだが、イメージとしては、日本人が八百万の神々と共に見出した、一つの宗教的な形態、価値観と……思っていたのだが」

「無論、日本的な陰陽師は、日本固有のものではある。だが、陰陽道は輸入されたものであり、決して日本に起源を持っているわけではない」

「陰陽道」

「安倍晴明の活躍した平安時代は、大体西暦800年から1200年だが、陰陽道はその三千年ほど前……つまり遥か昔かの中国大陸を起源にしていた、とされている。正確にはわからないところだが」

「紀元前から、ということか?」

「そうだ。原始、といっていいほどの、まだまだ社会も、人類も未発達の状態で、陰陽道は形成された。最初は、その信仰に名称はなかったものだと思われる。信仰をつくろうという目的よりも前に、そういった信仰がどうしても必要だったからだ。それが徐々に形を伴い、経験の中から反省的に理論が積み上げらられ、君の言葉を借りるならば、宗教的な価値観、が加わったものが、陰陽五行説とされる。これは聞いたことがあるか?」

「なんとなく。いやどうだろう。なんとなくもわからないかもしれない」

「天体の観測を軸とした総合的な占術がまとめられたものだ。陰陽五行説が、中国の周という王朝の時代に易経として、体系化された。時間の経過と共に、段々と中国で陰陽道として醸成されていき、百済から日本へ輸入され、平安時代で花を咲かせ、そして安倍晴明のような人間が出てきた、というわけなのだよ」

「なるほど」 

「安倍晴明のような、日本の陰陽師が具体的に何をしていたか、知っているか?」

「悪霊退散、ではないのか?」

「そうだ。穢れたものを、払い清めることが、彼らの主たる役割だった。平安時代。まだまだ文明の未発達な状態で、人々はなおのこと自らを苦境へと陥れるものと立ち向かわなくてはならなかった。穢れ、とは様々なものを指していただろうし、容易に特定は出来ぬのだが、主には人にまつわる、精神的な、あるいは肉体的な病だったとされる。あの時代、間違いなく人々は死に隣接して生きていただろう。その恐怖は、人間を蝕み……そして結果的に人知を超える存在。例えば、鬼、といったような。そんな存在すら、現実にいるのだと。そして遭遇してしまうといった状況をつくりだしていただろう。だからこそ安倍晴明のような神秘的な、宗教的な救済を見出し、必要とされた。そこに解釈を与えるために」

「人智を超える存在」

「そこで視点を、先ほどの紀元前の、原始的な社会に戻してほしい。古来より、陰陽道だけでなく、ありとあらゆる場所で、世俗的な信仰というのはされて、そしてつくられている。その目的は、先程も言った通り、信仰をつくるためではない。理解できぬことを解釈するために、まずなければならないものとしてつくられるのだよ。人々は、その自然な脅威にまず怯えただろう。説明のつけることのできぬ、大雨、雷、台風、噴火……などに。科学のない社会ではまるで解すことの出来ない、不思議な現象だったに違いない。安倍晴明をはじめとする日本の陰陽師も、穢れという、人間の解釈を飛び越えたものをどうにかするために、解釈を与え、穢れを清めた。その本質的な動きは、時代を経てもなお、変わらないといえる。言ってしまえばその不思議な現象、存在をどうやって処理するのか、説明を施していくのか、というのが陰陽師を初めとした、様々な外法使い、霊能力者の役割だ。数多いるその他神秘的な役割を自称している人間の全てが広義にその役割を担っていると言えるだろう。私もその一人だ」

「君は陰陽師なのか?」

「陰陽師ではない。詳しくは言えないのだが、その霊的な存在を除去する仕事を請け負っている、という家計にいる。私の正体、というか、霊能力家業における私については、あまり詮索しないで欲しい。言ったような、不思議な現象、霊的な現象をどうにかする霊能力者の一人であるという解釈で構わない」

「それは……わかった」

 渋々というところだが、越えてはいけない線のようだった。それはやはり、有無を言わさない態度だったものだから。

「霊的な現象、というのは? 君のいう不思議な現象とまた違うのか?」

「ああ、霊的な現象とはすなわち、広大な不思議な現象の中にある、自然科学では説明のつかない現象を指している。君が見た霊も、自然科学では説明がつかない。だろう? ひとまず、私についてはそういった現象をどうにかする霊能力者であると理解して欲しい。霊能力者、という存在について、そして霊能力者としての私に対する理解はこれでできただろうか」

「大体、ということではあるがね」

「大体で構わない。説明を続けよう。今度は君の状況についての説明だ。今、君はその不思議な存在、つまり私が霊と呼んでいるそれに遭遇した」

「ああ。霊能力者の君は、そんな私を助けてくれるのか?」

「そう急くな。順序立てて説明する。その霊は、なぜ君の前に姿を現したのだろう、という問いを投げかけよう」

「そんなことを言われても、私にはわからない。検討がつかない」

「そう。問題はそこにある。不思議な現象、霊的な現象というのは、起こり得る原因が、必ずある。広く言えば、関係性の中に。霊とは、関係性から生じるのだというのが、私の導き出した一つの結論」

「関係性」

「例えば、かつて妖怪を初めとする不思議な存在、霊的な存在が多くいたとされる平安時代から江戸時代においては、今のように文明的に発達した光源がなかったし、どころかあらゆる場面で暗闇を筆頭とした自然的な脅威のほうが勝っていた。科学も近代と比較すればまるで発達していないと言えるだろう。そんな中、人々はあらゆる場所に妖怪を見た。鬼を見た。霊を見た。お化けを見た。あらゆる神々を奉った。霊能力者が現れた。これはなぜか。一重に置かれた環境、そして共有される伝承、伝説、民話、口話。人間的な感情。これら様々な、人と、環境における、関係性がその霊が存在するのだという信憑性を裏打ちし、結果的にその存在を確立したからだ。そして霊は、目の前に現れるようになった」

「待て。妖怪だとか霊だとかの違いは何なんだ?」

「違いはない。いずれも不思議な現象を説明するためのものだ。私は総称して霊と呼んでいる。それらを妖怪、として扱う人間もいる。単純な考え方と、不思議な現象にどう接近するか、というスタイルの違いだ。全部霊だと、私の前ではそう解釈して欲しい」

「つまり、ほとんど呼び名を変えただけ、と」

「そうだ。続けるぞ。その関係性の上に、霊が存在するという考えは、現代においても変わっていない。例えば、トイレの花子さんを知っているか?」

「知っている。有名な……怪談というよりも、私はおとぎ話の類であると感じていたが」

「あれに近いものに私も遭遇したことがある」

「頼むから今、この時間にそんなことを易々と言わないでくれるか」

 もう恐いから、とかそんな泣き言を言ってはいけないようだった。何事もなかったように、西園寺礼子は話を続けた。

「トイレの花子さんに必要な環境とは何だと思う?」

「出会いたくもないがな。まずトイレだろう。そして夜、じゃないか?」

「そうだ。夜、そして名前の通りトイレ。加えて観測者側には、その伝承を知っている、ということと、トイレの花子さんに対するイメージ。それに対する人間的な恐怖。それが存在するであろう、という信仰心が結びついているとなお遭遇しやすい」

「なるほど」

「これだけの遭遇要因が整わなければ、トイレの花子さんには出会えないのだ。実際に現代、トイレの花子さんのような存在は、ほとんど霊として存在していないのだがな。私が問題にしたいのは、君はこういう経験をしていない、ということなのだ。なんら環境が整っていない。にも関わらず、霊と遭遇してしまった。重ねて言おう。ここに問題がある。霊的現象と遭遇する前に、必要な条件と、限定された環境が、必要になってくるはずなのに。君の場合はどうだろう。時間は昼にも、夕方にも出てくる。トイレの花子さんのように、想像しやすい偶像があったわけではない。それなのにはっきりと君の前に姿を現し、しかも語りかけてきた」

「いや、待て。私は都市伝説を知っている。この学校を取り壊すとき云々だとかの」

「君はそれで恐怖したか? いや、恐怖でなくてもいい。途方もない感情を巡らせたか? こんな怪物が出てくるやもしれぬと、身を震わせたか?」

「それは……正直に言えば、ない」

「都市伝説、あるいは怪談だったり、なんなら噂話でもいい。そんなものはどこにでもある。大切なのは、それにどれだけ感情を抱いたのか、ということなのだよ。いや、感情だけではない。関係性というだけでもない。様々な要素が複合的に絡み合った、きわめて限定的な条件において、霊的現象というのは発生する。君のような、至極どうでもいいな、という感想を抱いて都市伝説を右から左へ流した人間が、この学校にどれだけいるのかを考えてほしい。彼らには、君のような霊は見えていない」

「私だけに、見えているのだと」

「そうだ」

「それじゃあ、やはり私だけが霊に取り憑かれているということになるのか」

「そのようだ。当初の私の考えでは、他の人間にも見えているものだと踏んでいた。もしそうであれば、君が出会った霊は、私の予測では軽いもの。君が害を被ってしまうようなものではない、と考えていた」

「考えて、いた」

「ただ様子が違う。君だけしか見えていないようなのだ。こうなると、軽いものではない可能性が出てくる」

「なぜだ? なぜ私だけだと重くて、みんなが見えていると軽いのだ」

「私の経験的な憶測だ。地縛霊、という言葉を知っているか?」

「知ってる。それはわかるぞ。ある特定の場所にいる霊のことだ」

「地縛霊は、怨念を持って、あちら側から人間に接近してくる類の霊だ。それが限定された土地の中で現れる」

「怨念? ちょっと待ってくれ。今までの話だと、あたかも人間側がその霊的現象を起こす引き金になっていたと、君の話では私はそのように読みとれたけれど。怨念だなんてものの存在があるのであれば、話は違ってこないか? つまり、関係性だとか、なんだとかの話が」

「説明をしそびれたな。人間の解釈や信仰が関係性を構築し、霊的現象を導き出す場合がある。それは人間が先行する場合だ。しかし霊界から、霊的現象が先行して現れる場合というのも、あるのだよ。いや、あるようなのだよ。それが、霊的な民話を生み出す、ということも」

「馬鹿な。それじゃあ、霊界だなんてものを信じなくちゃいけないってことなのか?」

「はっきりと言えば、どちらが先で、どちらが後か、なんてことはわからない。それは霊的現象の根元とも言えるのかもしれないが、永久に終わらないイタチごっこのようなもので、実はどちらの解釈でも問題はない。じゃあトイレの花子さんが霊界のような、超越的な世界からやってきたのか、あるいは人間が関係性から見出した、伝承的な霊なのかということが判別できないようにね。だから、その点に関しては深く追求すると、はまってしまうし、むしろ君は考えなくていい。ただ、君が見たように、霊はいるんだ。それは即ち、霊界……つまり、人間界以外の、超越的な世界の存在も肯定せざるを得ないだろう。違うか。それは一度霊に遭遇さえしてしまえば、人間が先か、霊界が先か、なんてことを考えるよりも、霊は確かに存在しているのだから、霊に遭遇してしまった人間にとって、霊界はあるのだと……確信出来ずとも、ある可能性は極めて高いのだと、そのように事後的に、帰納的に、肯定出来る。そうだろう?」

「君はつまりこう言いたいのか。霊を見たんだから、もう何でもありえる、と」

「なんならその解釈で構わない。だからこそ、数多いる霊能力者は何でもありのその世界を、自分なりに解釈する。君もそのように構えていて欲しい。続けても構わないな?」

「構わない」

「私の、いや、私たちの解釈では、地縛霊というのは、その霊界から怨念を持ってあちら側から接近してくる霊だ。これは、観測者が多いのが特徴でね。よくある都市伝説が蔓延っていて、それが冗談のようであっても、あちら側から語りかけてくる、関係性を持ってくるものだから、見ざるを得ない、と。だからやりやすい。私も十中八九見ることが出来るだろうし、そうすれば除霊も簡単に行えるからだ。だから、地縛霊というのはすぐにいなくなる。私のような霊能力者がすぐに対処するからね」

「それが、違う、と」

「そうだ。地縛霊では、ない。一週間が経過しても、他の観測者はいない。するとどうなるか、君だけと関係性を持っているということになる。訊くが、話したような何か霊的な信仰だったり、強烈な感情の経験をしたことはあるか?」

 つい最近、あるにはあった。

 萌木蜜柑の件である。

 ただそれは、あの霊と出会ったあとのことだった。その前に、私がトイレの花子さんのような存在を盲目的に信じていたか、といえば信じていないし、考えもしなかった。

 私は首を横に振った。

「そうだろうと、思う。だから今回の霊は、あちら側から、霊界から語りかけている。関係性を構築しようとしている。これを何というのか、私たちは憑依霊と、そう呼んでいる。呼んで字の如く、そのままだ。取り憑かれている」

「待て。本当にそうなのか? なにせもう一週間会っていない。むしろ相手は私のことなど忘れているのではないか? どこかに行ってしまったということはないのか?」

「そこは断言が出来ないのだが。基本的に、忘れる、忘れない、という話ではないのだ。実体的な霊が見えた場合、すでにその人間と、霊の関係性が、何らかの形で結実して具体化している。その関係性を解きほぐさない限り、あるいは解明し、問題を究明しない限り、一方的に消えることは、ない可能性が高い」

「じゃあ、今もなお、取り憑かれていると」

「そうだ」

「しかし悪さはしていないように思うのだが。つまり、邪悪な何かを、私はあの霊から感じ取っていない。これから悪さをする可能性があるとでも?」

 むしろ人間の邪悪さの方がよほど堪えたのだが。

「悪性にもなりうるし、無害なものでもあるし、また善いものを提供してくれる可能性もある。今の段階だとわからない。今は無害なものでも、未来において変貌するかもしれない。だから、いない方がいいんだ。そんなものを抱えて生きるよりも、普通に、生きたいだろう」

「ああ! 普通! よく言ってくれたね、君。そうだ。私は普通に生きたい」

「脅すわけではないのだが、心して聞いて欲しい。君自身なんら人間的な感情を抱いていないにも関わらず、その自律型の自由奔放な、環境も時間も問わないであろう、霊が見えている。見えてしまっている。君だけに。これは強力な霊である可能性が高い。霊界から一方的に関係性を構築出来るような類の霊であると考えられるからだ」

「強力な霊。どうすればいいんだ。一体」

 こうなるともう、神様、仏様、西園寺礼子様、という具合になってきて、私は手をこすりあわせて信心深く、彼女と接するしかなくなる。苛立ち? 滅相もない。

「憑依霊のような存在は、必ずあちら側で目的を持っていることがほとんどだ。ここで君が聞いた、あの言葉が思い出されないか?」

「汝、謎を解け」

「その、謎を、君に解かせるために、君の前に現れ、関係性を構築し、憑依した。今回の件は、これで大体の説明はつくと考えられる」

「私が謎を解かなくてはならない、と。君はそのように言うのだな」

「そうだ。ただ問題があるのは君も理解しているだろう。謎とは一体何なのか、ということだ」

「確かに。謎を出される前に謎と言われても、検討がつかない」

「だから今日、ここに来てもらった。夜、この時間、ここに」

「一体何をするつもりだ」

「呼び出す。その霊を。そして何が目的なのかを、問い正す」

「そんなことが出来るというのか」

「私も霊能力者の端くれだ。降霊式というのは聞いたことがあるか。こっくりさん、というのがあるが、あれは集団の中で関係性を構築し、こちらから一方的に霊界へと語りかけるような、一つの降霊式だ。ああいうことを、これからすると思ってくれて構わない」

「待て。待ってくれ。放っておくということはできないのか?」

「進展がない、今だからこそ、なのだよ。強力な霊、だとしても今は無害。だからこそ今呼び、今対処する。言ったとおり未来において何が起きるかわからないのだ。私はもとより一週間経って何も起こらないという事態が発生した場合は、そのようにすることにしていた。恐いか?」

 恐い。

 恐くないわけがないだろう。

 もうすぐ、0時だぞ?

 夜の学校だぞ?

 こっくりさんのようなことをすると思ってくれて構わないって? ばかを言うなよ。恐いのだよ、それが恐いのだよ。

 ただこういう時に見栄を出すのが私の悪い癖である。西園寺礼子は霊能力者だから涼しい顔をしているというのはわかるにせよ、女性の前で屈する姿を見せるわけにはいかない。

「恐くは、ないな。もっと恐いものというのは、人間だと最近身にしみて思ったものだし、私が最初出会った時、二回目に出会った時。いずれも驚きではあったが、明確な敵意は存在していなかったように思うし」

「それなら問題はないな」

 そこで西園寺礼子は、私に微笑を投げかけてきたのだったが、彼女には失礼だが、とてつもなくぎこちないもので、笑ってやるから、安心しとけ、といったような微笑みにしか見えなかったので、私は笑えなかった。

「降霊式をやる前に、一つ肝に銘じておいて欲しい。霊は、合理的に説明がつかない。今私が言ったことすべてを覆す可能性を秘めているのが、古来より続く不可思議な現象であり、霊的現象なのだ。むしろこうやって言葉で説明したことなど、何ら意味をなさない、という認識の方が正しい。結局の所、不思議な現象はあるのだ。色々と説明しても、説明しきれないものは、ある。だから、これから先。何があっても、動じるな、とは言わない。動じてもかまわない。しかし、覚悟くらいはして欲しい。わかるな?」

「私が先ほど言ったことを忘れているな。今の私は何が来たとしてもてんで恐くないよ。本当だ、本当だとも」

 諸君等には私のこの二度吐いた台詞をよく覚えておいていただきたい。これまでの私を踏まえて、この前言を撤回するかどうかというのを、よく吟味して頂きつつ、次なる展開をご覧になって頂きたい。

 西園寺礼子は、着々と準備を進めた。

 彼女がしたことと言えば、まず三つほどの机を教壇の前に集め、そして何やら私には理解できない類のもの……呪術的な用具だと思われるが、を置いてうんうん唸っていた。

 極めつけに、驚いたのが着替えてくると言って、事実巫女が着るような、あの装束を着てきたのである。黒い帯ではあったので、どこか禍々しさを感じてしまった。普段では絶対に見ることの出来ないであろう、西園寺礼子の姿その姿に、私はどぎまぎするのだが、一瞬で霧散したのは言うまでもない。

 始まろうというのだ。

 暗黒の儀式。

 ではなく、例の降霊式とやらが。

 妙な息苦しさが、夜の学校にいるおかげで助長される。

「準備はいいな?」

「準備も何も、これから何をするのか。というか私に役割はあるのだろうか」

「所定の儀式というのは、全て私が成し遂げる。君はただ念じていてくれれば、それで構わない。あの霊に会いたい、と。謎を聞かせて欲しい、と。それ以外、思い出せることを思い出しながら、その霊の存在をここに顕せるような想像をして欲しい」

「うむ……わかった」

「これは、失敗すれば、実の所成功だ。この降霊式で霊が降りてくることがなければ、君の言うとおり、霊は君から姿を消したということになってくる。可能性は少ないが、一応希望を見せておこう」

「ああ。あと、一つだけ聞いてもいいか。色んな前口上抜きにして、もし、霊が害をなすものとなってしまった場合、私はどうなる? 最悪の場合、だ」

 気を遣わなくてもいい。

 と言う前に、彼女、西園寺礼子はこう答えた。

「最悪、死ぬ」と。

 齢一七。

 郷田巧。

 まさか死の宣告を施されるとは思いもしなかった。数多いる文学人を尊敬している私だがしかし死の覚悟は出来ていない。そんな精神性は私にはない。まだ生きてない。十分に生きたとは、全く言えない。一体私は人生のどれだけのことを知っているというのだろう。急に怖くなってきた、が。ここではまだ、私は前言を撤回しない。受けて立とう、降霊式。怖くなんて……ないのだから。

「それを防ぐために、私がいる。始めるぞ」

 そして西園寺礼子は、何やらわけのわからぬ、呪文のようなものを唱えた。宗教に明るいというわけでは決してないのだけど、それは例えばお坊さんの念仏というわけでもなかった。どこでも聞いたことのないような、彼女独自の呪文のようだった。なにやら妙な植物を振り回しているのを見て、私は思わず笑いたくなる。祈祷士かよ。しかし笑えない。笑えば彼女を侮辱することになってしまうし、自らの身に起きていることを考えれば、笑えないな、として心の中で呆れるように笑う他ない。

 そして教室の窓ガラスが割れた。

 余すことなく、一つ残らず、教室の窓ガラスが粉砕した。

 破片はこちら側に飛び込んできた。幸い怪我はなかった、なんて喜ぶことはできなかった。

 私は叫ぶのを必死で堪えた。なぜならこれすらも、降霊とやらに必要な、通過儀礼なのかもしれぬと思ったからだった。

 が、堪えることが出来るわけもない。

 一瞬後に、叫んでいた。

 ふざけてる。

 私は恐怖のあまり、西園寺礼子に飛びついてしまった。これは日本男児にあるまじき行動だが、誰が私を責められるというのか。何が起きても恐くない? ふざけるな。窓ガラスが全壊するなんて、誰が想定しうるというのか。前言撤回!

 慌てふためく私とは対照的に、冷静沈着な装いと、加えて変化しない表情を保つ西園寺礼子。一体どのような修羅場をくぐりぬければ、そのように感情を殺す境地にたどり着けるというのだろうか。辿りつきたくなどは決してないが。

 彼女は黙って頷いてから、私にこう告げるのだった。

「理由はわからない。通常では起こりえないことが起きた。降霊式は取りやめ、直ちに帰宅する」

 軍隊か?

 ここは敵陣か?

 手榴弾が投擲されたのか?

 直ちに帰投するのか?

 戦争を知らぬ我が身が、戦争体験をしたと、後世に伝えても、ばちはあたらないのではないだろうか、とは思う。

 私と西園寺礼子は、そして駆け抜けたの。

 戦場から帰投する兵士が如く、廊下を駆け抜け、階段を駆け下りた。

 失敗をすれば実のところ成功、じゃないのか?

 私の脳裏にかすむのは、覗きの罰というのはこんなにも重いのか、ということと、ちらりと見えた西園寺礼子の下着だった。この非常時にそんなものが見えて浮かれているのだから、これからもこの罰は継続されるのだろうと、私は眠れぬ夜を過ごした。


   ・


 月曜日。

 何食わぬ顔をして登校した私のクラスは阿鼻叫喚といった様相であった。

 実際のところ、クラスの窓ガラスがどうなろうが、知ったことではない人間というのが大半なのだろうが、驚嘆なのはその割れ方であった。

 ガラスの破片が、こちら向きに飛んでいたということが情報として知れ渡ってしまっている。それ即ち、この二階の2ーAの教室では考えられないことで、怪奇現象なのではないかとの憶測が立っているのを聞いて、私は頷いた。事実である。怪奇現象に一言一句、間違いがない。

 一体何が起きたのか、私は休日にメールを、西園寺礼子に送ったのだったが、彼女から帰ってきたメールには「しばし待ってほしい」としかなかった。推測するに、彼女も予測していなかった事態が起きたのだろう。

「これは、一体」

 私はわざとくさく、わなわなとそんな台詞を吐いたのだった。

「ねぇ、これ。ヤバくない?」

 背後に萌木蜜柑が立っていた。

「そのよう……だ。ですね」

「なに敬語使ってんのよー」

 ばしりと、背中を叩かれる。無性に痛い。サンドバッグ代わりにされたのだろうか、というのは考えすぎだろうか。

「一体誰がこんな意味のないことをするのだろう。尾崎豊も仰天するに違いない」

「そうね。もうはっきり言えばやりすぎよねぇ。でもおかしくない? ここ、二階だっていうのに、ガラスが全部こちらに飛んできてたって」

「何かそういう割り方があるのだろうか」

「犯人はきっとさ、超鬱憤が溜まっていたんだと思うよ。苛々しちゃって、どうしようもなくなっちゃったんだよ」

「そうなのだろうか」

 適当にごまかしておこう。

 萌木蜜柑は窓ガラスが全壊していようが、今日も好調にアイドルをしていた。

 私としては、あれ以来脅迫まがいのことはされていないので、恐怖というのは割合払拭されている。この窓ガラスが全壊したことと比較すれば、彼女の恐怖など果ての彼方だった。

 しかし。

 一服している諸君等には申し訳ないが、もう恐怖はステレオ状態で私の左右から飛び交ってくる。

 放課後だった。事件は現場ではなく、放課後に起きるらしい。

「たくみんさ。今日、放課後残れる?」

 アイドルフェイスで、私は萌木蜜柑にそう問われた。断ることは出来なかった。


   ・


 屋上、である。

 男同士の喧嘩というのが屋上で行われること多いらしいと知っていたのだが、いじめに似たようなことも屋上で行われるのを、私は聞いたことがあった。

 これから行われるのは、いじめに似た何かだと、私は覚悟した。なに、窓ガラスが割れた後だ。何が起きてもてんで……

「わー、屋上気持ちいいね」

 歯につくような台詞だった。つまり、台詞じみた台詞というか、これからお前をしばき上げる前のプレリュードだと言わんばかりの薄気味悪さを覚えるような棒読みの台詞だった。

「郷田君さ、ちょっと来なよ」

 我が校の屋上には、その端っこの方に、我が校のシンボルとも呼べる江ノ島の海岸をモチーフにしたオブジェが存在している。一目見れば、まぁ大体飽きるであろうその存在の裏側には、誰にも目につかないような、つまり私が覗きを敢行した場所のような隙間が存在していた。

 いやな予感はずっとしていたものの、私はその隙間に入り、この前見た西園寺礼子の落ち着きぶりを思い出した。あの境地になろうと、空想を巡らせていた。

「お話、しようよ」

 と言った萌木蜜柑の目は、既に例の目になっていた。

 かつあげや、暴行よりも酷い、精神的侮辱というのが、これから始まるような、そんな気がした。

「郷田君さ、金曜、土曜、日曜、何してた?」

 意外な、質問。

「普通に帰って、寝て、家にいた、ました」

「へぇ。そうなんだ。どう? 罪悪感、消えた?」

 罪悪感を感じるどころではなかったのが正直なところなのだが、首を横に振った。

「そっか。郷田君、さっきからすごい緊張してない? 別になんか変なことするわけじゃないから、安心してよ、別に、変なことするわけじゃないから。でもさ、正直に、私の聞くことに、答えてくれる?」

 私は頷いた。

 嘘をつくことなど、ありはしない。かたく誓ったその決意は、しかし十秒後に、粉砕した窓ガラスが如く木っ端みじんになる。

「西園寺さんと、何かした?」

 私は一瞬固まる。

 硬直。

 しかしその一瞬後に、首を横に振った。

 怪しまれは、しなかっただろうか。

 嘘をつかなくてはならなかった。

 あの夜のことすらばれたら。

 私はもう、私でいられなくなる、とすら思えたから。

 まず、西園寺礼子から見放されるだろう。口の軽い、嘘吐きは地獄に堕ちろ、と。見放され、痴漢であると罵られる。霊と萌木蜜柑との終わることのない悪夢を見続けるはめになってしまう。

 加えて窓ガラスを間接的にも全損した犯人であるとして、萌木蜜柑に脅迫のネタにされて、私は今後、一生涯彼女に人生を掌握されることとなり、どこかでそれを告発され、ひいてはクラスの人間にも、家族にもばれて、人生の暗闇をさまようはめになるだろうと。

 そんな未来が頭をよぎった。

 ここで脅しに屈するわけには、絶対にいかない。

 西園寺礼子との秘密は、絶対に守り通す。彼女はなぜかは知らないが、今では救世主。メシアなのだ。その差し出された手を、なかったものにすることは、絶対に出来ない。

 萌木蜜柑は、私の目を見続けた。

 私は屈しなかった。嘘をついている人間の目を、しなかった。

 貴様、霊は見たことがあるか? 私はある。だから貴様には屈しない。

「そっか。いや、私さ、西園寺さんには、一目置いているの。だって、クラスでずっと一人じゃない? 委員長の私としては、どうしても気になる存在というか、さ。私、以前話しかけたことがあるの。西園寺さんに、そしたら冷たくあしらわれちゃってさ。なんていうの、つっけんどん、ってやつなのかもしれない。あれ以来、ちょっと、気になってさ」

 どうやら、アイドルであり、クラスの委員長である彼女は、クラスのすべてをその手中に収めたいようだった。つまり、彼女のことを好きじゃない人間というのをゼロにしたいというのだろう。

 誰にもなびかない西園寺礼子のことだ。無視くらいはするだろう。そしてそんなことをされた萌木蜜柑は彼女にご執心というわけだ。

「ねぇ、本当に、何もなかったの?」

 胆。

「私、郷田君のこと、信じていいの?」

 圧力。

「嘘はついていない。大体、私と西園寺礼子のどこに接点があるというのだ? 事務的な会話をした記憶しかないが」

 私は萌木蜜柑風に表現するならば、つっけんどんにそう答えた。

 萌木蜜柑。

 西園寺礼子。

 どちらに操をたてるか、なんてことは聞くまでもないことだった。

 ぱぁっと。

 萌木蜜柑はアイドルフェイスに戻った。

「ありがとう。私、たくみんのこと信じる。あの時のは、事務的な会話ってやつだったんだね。それじゃあね」

 私はどうやら信頼を勝ち取ることが出来たらしかった。

 嘘は言ってない。

 西園寺礼子との会話は、なんなら全部事務的な会話だとしてもよかった。金曜日の夜のことも。


 私は直ちに帰宅した後に、メールでこのように西園寺礼子に告げておくのを忘れはしなかった。

『西園寺礼子さん。お元気ですか。私は元気ではないです。例の一件はどうなったのか、なんて件は、あなたからの続報を待ちますが、一つだけ言っておきたいことがあります。教室で私に話しかけないで欲しい、ということ。いや、正確には萌木蜜柑の前で私に話しかけないで欲しい、ということ。一体どうして、と疑問に思うのかもしれませんが、説明すると非常に長ったらしく、また理解しがたい事態となってくるため、割愛致します。決してあなたが嫌いになっただとか、そんなことでは決してありません。むしろ感謝していますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します』

 送信と、ほぼ同時に、メールを一通受信した。

 私は携帯電話、ならびにスマートフォンを所有していないため、超おんぼろパソコンの、かつて流行した動物がメールを運んでくれるあのソフトウェアで、亀が運んできてくれたメールを開封した。

「例のことも含めて、色々と。平日は立て込んでいて、厳しいものだから、今週の土曜日、あるいは日曜日、もし時間があるのであれば、今度は夜中とは言わない。午後にでも会うことは出来ないだろうか? 休日だし、リラックスでもしながら」

 とのこと。

 リラックスでもしながら。

 少し、西園寺礼子らしくない言葉で、引っ掛かりを覚えてしまい、返事が中々書けないでいたのだが、なんとか執筆し、私は再度亀にメールを運ばせることとした。




   ・


~~~~ 


 あなたはあまりにも頑固ですね、と家族が言った。頑固です、と私も答えたかったにせよ、言えないでいた。頑固であったのならば、どれだけ楽に肩の荷を降ろせたのだろう。頑なに守るべきものがあるのであれば、とても心地がよくなれるのではないのか。私の守るべきものとは、その実なにもないのだから。誰かに頑固と言われるまでにひたひたと意志を感じ取れるように見えているらしいけれども、その実は空虚でしかないのである。空虚さを頑固に貫いておりますといえば、嘲笑は免れないだろうし、何より、そんなことでは自らが自らを嘲け笑い、失望してしまうだろう。私は自身が空虚であると理解しているのだから、殻を被り、どこか演技のように、喜劇のように振る舞うのである。空虚さに手繰られた傀儡として、私は時間を送り、日々を生き、人生を辿っているように思う。


 意気込んで見せても、空虚さに戻ってくるというのは間違いがない。それを儚いのであると呼ぶのだろう。私は私を傀儡であると理解しながら、その糸を手繰っている存在に憎しみを抱きつつもありがたさを覚えてはいた。けれども人と話せば話すほどに、今度は空虚さが濁ってしまうというのを感じた。塵が積もって、その空虚さが鈍く、重くなり、正か負なのかと言えばどうにも負にしか感じられぬ、と。理解したことといえば、どうやらやはりこの空虚さこそ、私を私たらしめる正体と根元であり、糸で私を繰っている正体もまた、この空虚さなのではないかということである。色のない、空白を、無と呼ぶのであり、このなにもない私こそが、私なのである。理解されぬのだから、仕方なし。ずっとこのまま漂っていればよいのではないか。私の空虚さを信じれば信じるほど、辿れば辿るほどに、私は私を私として世界に君臨させることができていたのだが、同時に見えてくる景色もまた、空虚なものと化していた。それは空虚であり、色のない世界であった。気がつけば毎日のように眺めていた夕日でさえ、果たしてどのような色なのか、目を凝らしてみてもわからなくなってしまっていた。他人の容姿も、話している言葉も。そのほとんどが、ずっと色のないものになっていた。意味を解することも出来なくなっていた。この事態を私は冷静に眺めていたのは、こうであって欲しいと願っていたからだろう。まるきり空っぽになった私が、今度は世界を空っぽにしてみせて。包み込んでいた殻は、世界を覆う。そして私の手にしていた空虚さは、私だけでなく、世界を満たす。意味も、価値も、ないのだという終焉。そうすれば私は私を。この傀儡のような私を、どこまでも、どこまでも許すことが出来るのであろう。なぜなら。なぜなら。意味など、ないのだから。


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   ・こころ・


 休日の晴天といえば、何かを祝福してくれてはいるように思う。この稲村ヶ崎駅というのは、晴れやかになると海岸に向かう観光客やサーファーで賑いを見せる。まだ穏やかな春ではあるのだが、この時期に海に繰り出す人間も多くいるのだ。

 私はそんな観光客に紛れて、一人稲村ヶ崎駅で待ち人を待っていた。ゆっくりと、江ノ島電鉄の車両がごとごと走って行くのを見ながら、私もまたそのような心地を保とうとしたのだが、妙に落ち着かないのはなぜなのだろうか。

 まさか熱病患者でもあるまいし、休日クラスメイトに会うというだけで、一体なんだって鼓動を速めなければならないのか。大体、これはやはり事務的な用事だし、そもそも、何か特別な意味があるわけでは決してない。

 雲一つなかったものだから、男女のあれこれする、乱痴気騒ぎにはもってこいではあったのだけれど、今日のこの日が乱痴気騒ぎをするためにあるなどと、私は全く考えていない。それは向こう側も同じで、もう、そんなことを思う隙など一部もない。私は私の恐怖を取り除きたいだけだ。

 窓ガラス全壊事件に怯えていた私だが、霊は姿を現してこない。このまま消え去って欲しいと願っているものの、どうあれば完全に消えてくれるのか、やはりわからないでいる。

「時間だ」

「うわっ!」

 背後から突然の声。

「君! 何をする。不意打ちをする時は言ってくれないと、今の私の心臓は……」

 てっきり江ノ電を使って来るものだと考えていたから、奇を突かれてしまった。

 それにしても、西園寺礼子の姿。

 私は彼女が軍服でも着てきてもそれを受け入れるつもりだった。私服にミリタリー要素が含まれてても、納得できるものだから、ついついその方面のファッションを想定していたのだが。

 ワンピース、である。

 まさか。

 麦わら帽子に、水色のワンピース。純白の、小高いヒールに、こじんまりとした、お弁当箱でもいれるような、橙の色みがある革の鞄。

 鼓動が、速まる。

 違う。決してなんだかの胸騒ぎがしたわけではなく、また窓ガラスが全壊するようなことが起きてしまうのではないかと、危惧したからだった。おかしくないか? その格好? と、私は聞けないでいた。おかしくはない、のである。むしろファッション誌に出てきてもおかしくはない格好ではある。ただ、想定していなかったのだ。冷徹で、合理的で、軍隊の上官のような彼女のワンピース姿など。

「時間、遅れただろうか。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている」

「あ、いや。失敬。なんだかいつもと雰囲気が違うものだから」

 といった私も、実は自らが出来る最高のファッションをしてきたというのだが、本日の西園寺礼子の……なぜかあまり彼女にこういう言葉を使いたくない自分がいるのだが、可憐さと比較すると、しようのないものだった。

「休日だから。休日くらい、休日の気分が味わいたいと思ってね」

 出で立ちもさることながら、冷徹さしかないいつもの表情は、相変わらず冷徹ではあったものの、どことなく柔和といえば柔和と、言えなくもないような、微細な表情の変化が、本日の西園寺礼子にはあった。どことなく、頬も朱に染めているような……いや、これはメイクなのか?

「それは、そうだが」

 私は西園寺礼子という存在が、ますますわからなくなっていくのを感じた。初めて仮病の時に訪ねてきたときに彼女に向けた感情と今の感情。比較しても、何がなんだかわからなくなっている。

「行きましょう」

「え? ああ。しかし今日はどこへ?」

「休日らしいことを」

「休日らしいこと」

 話が、少し見えなくなっている。

 私は今日、例の話。あのとき窓ガラスが割れたことも含めて、私に憑依しているであろう霊について話す気概でやってきたというのに。

 これでは。

 これでは乱痴気騒ぎをしようかという事態になってくるではないか。考えすぎか? 落ち着け私。

「何かしたいことないのか、君は」

「私が?」

 思えば、私の休日と言えば、家で本を読むか、本屋に行くかの二択だった。改めて休日らしいこと、などと聞かれても思い浮かぶ選択肢というのがまるでない。

「そうだな……すまない、まるで何も思い浮かばない」

 情けない男が、情けなく女性に謝罪をするという光景が、そこにはあった。

「いや、私のことは気にしなくていい。その、君が、西園寺……君、さん、が、休日を謳歌したいというのであれば、その休日らしい休日をあれこれするために、私が同伴しないでもない。なに、これは私なりの礼だと考えて欲しい。君には既に借りがあるからね、そう。借りが。大体、あんなものに遭遇してから、食事を取る気もなくなっていたというもの。どういう計らいかは知らぬが、君が来てくれたおかげで、まぁそこそこの安心は出来ているものだから」

 そしてその時、私は見てしまったのだった。

 西園寺礼子の笑顔を。

 初めて見るような、純粋な笑みだった。

 可憐な、というのは、彼女の冷徹さと対比して初めて出てくる感想でもあるが、私は何だか、どうしようもなくなった。いたたまれない、というのが正直なところで、この沸いて出た感情をどう処理してよいものだか、戸惑ってしまった。

「そう、それじゃあ、適当に歩きましょう。この辺りは、結構歩くだけで好きなものだから」

「そう、だな」

 稲村ヶ崎と、私と、西園寺礼子。

 彼女の姿はどことなくこの街の風景に重なっていた。海と、情緒と、文学と、歴史と。

 彼女は何を眺めるでもなく、ぼんやりとした表情でのんびりと歩いている。やはり何を考えているのかわからない。霊能力者の日常や休日など、誰が知るというのか。

「風が気持ち良い」

 彼女はそうでなくても、私は何か喋りたくて仕方がなかった。沈黙に耐えられないというか、こういう乱痴気騒ぎめいてきては色々と困るのだよ。わかるか。しかし一体何を切り出そうか、迷った。気にかかるのは窓ガラス全壊事件の詳細なのだが……

「君は普段何をしているのだ? この稲村ヶ崎で」

 幸いにも、休日らしい会話を、西園寺礼子がしかけてきた。

「普段は本を読んでいるな」

「本」

「ああ。敬愛すべき、文学人や、思想家たちの本などをね。何、知識なんかを披露するわけでもないけれど、自らの勉学のために、粛々とね。潮風に吹かれてね。君は、本を読むか?」

「あまり読まない。実用書の類を手にすることの方が機会としては多い」

「そうか。ではこれを機に小説でも手にとってみてはどうだろう。本屋にでも足を運ぶとしようか? 私が思いつく休日の行動といえば、そんなものしかないものだから。あ、いや。興味が沸かないのなら、構わないが」

 意外にも、西園寺礼子は晴れやかな表情を見せた。今日の天気にぴったり来るような、表情。

 そして、行きつけの本屋に辿り着いた。この古書t店は毎度のこと客がおらず、一体どうやって利益を上げているのかわからない。主たる収入源は私なのではないかと疑うほどである。その割にはどこから引っ張ってきたのかわからない本を仕入れてくるのでミステリアスである。

「ここに、いつも来るのか、君は」

「左様。わからないか、君には」

「何がだ?」

「息遣いだよ。本が、作家が、読んで欲しいとがささやいてくる。聞こえないか?」

 きょとん。

 西園寺礼子はまるで理解できないふうだった。

 まぁ、そうだろう。簡単に理解してもらっては困るというものだ。いくら霊能力者といえども。私とてここに通い詰めてようやく聞こえるようになったというもの。

「どの本にも、どんな本にも、込められた想いがあるというもの。どれだけ浅はかで、しようのなく、自らの好みに合わないものであっても、作者の伝えたい願いというものは少なからずあるだろう、と思う。その文字の連なりと、本の中にね。だから、聞こえてくるように思えるのだよ、私には」

 きょとん、が聞こえてきても、なぜか私は嫌な気にならなかった。むしろこの古書店の魅力を西園寺礼子に伝えてみたくなってきたのだった。

「どれ、君。何か最近読んだ本はあるかい?」

「夏目漱石の、こころ」

 私は棚にそのなりを潜めていたこころを手にし、彼女に手渡してから、こころにおける熱弁を振るった。どうぞ、彼女にも漱石の息遣いが聞こえるように、と。

 それは押し付けがましいものなのかもしれなかった。だが、こころは話しがいのある小説の一つで、むしろ話せる相手を探していたのかもしれなくて、私は漱石が描いたこころの機微というのを自己解釈でしゃべり続けた。なんだか間が恐かった、というのもある。西園寺礼子は、黙ってKがどうしたこうした、明治時代がどうしたこうした、漱石の人生がどうしたこうした、私の役割がどうしたこうしたを聞いてくれた。

「ということなんだよ。つまりあれは明治時代の転換というのを表しているようにも、見えてね」

 呼吸は荒れていた。久しぶりにこんな会話……でないか。演説が出来た。案外私は選挙に出馬すれば、うまい演説が出来るかもしれない。

「君は、本が好きなのだな。とても」

「考えるまでもない問いだね。私は文学が好きだね。読んでいる、その時だけは、言葉に出来ないのだが、楽しいし、愛おしい。さらに、自分を少しだけ許すことが出来るのだ。こんな私でも、なんて卑下はあまりしたくないのだけどね。このような感覚を、誰かに理解して欲しいとは、到底思わないけれど」

 思わないが、話し相手くらいは、しかし欲しいとは、思っているのだが。

「息遣いは聞こえてきたよ。この書店のものではなく、君のならば」

「それは呼吸が荒れているからか?」

「そうかもしれないな」

 西園寺礼子に、伝えることが出来たかはわからずとも、私は満足していた。それは西園寺礼子も同じようで、一通り私達は古書を眺めてその店を出ることにした。

 次に赴いたのは、あの地下で営みを続けているアンティーク喫茶だった。彼女も私も、そういえば居心地がよかったという意見が一致したのである。そういえば、ということで、あの時店にいたときは居心地のよさなどというものは、まるで感じることが出来てはいなかったのだが。

 にこにことしたマスターが今日も私達を出迎えてくれた。今日は休日だからか、少しだけ賑いを見せている。

「私にとっては、なんだか遥か昔にここに来たように思う」

「非日常的なことを経験したからかもしれない。時間の感覚が、少しおかしくなっているのかもしれないな」

「この先……どうなるのやら」

 ことの詳細についてぜひ知りたいのだが、西園寺礼子から、なぜその話をしてこないのか。そこに理由はあるのか。普段と今日の雰囲気や言動もまるで違うわけだし、私はどうにも、不用意に尋ねることを躊躇ってしまっていた。

「こころというのは、難しいものだと、私も思う」

 西園寺礼子は珈琲を啜りながらこころの話を続けてきた。

「誰かと触れ合うには、言葉が必要で。言葉で伝えても、全部は伝えきれない。わかって、もらえないときだってある。むしろ、言葉にすればするほどに、誰かとの距離を感じる。だから、辛くなったり、寂しくなったりも、するのかもしれない」

 彼女は何気なく言ったことなのかもしれなかったが、はっとして耳を傾けている自分に気が付く。

 今言われたことを聞いて、私は少しだけ西園寺礼子に近づけたような気がしたのだが、気がしただけだった。

 その、距離を感じる理由や。

 寂しさの理由に。

 私は触れられることが出来ないのではないかと思えたから。

 私だけでなく。

 他の誰もが。

 それは教室で彼女がそうさせているように。

「君には、信念のようなものがあるか?」

「信念?」

「こころの中で、立てている。その人にしかない、価値観だったり、生き方だよ」

「愚問だな。私はこれからも世界の文学を愛し続けるだろう。欲しているのはそれだけではなけれど、これだけ非日常が続くものだ。そんな日常が戻ってくれば……この江ノ電界隈で小説を片手にのんべんだらりと生きていくことが出来る日常というのが戻ってくれば、そのありがたみがわかると思っている。これが果たして信念なのかは、わからないが」

「聞くまでもなかったな」

 見せた、見せてくれた、西園寺礼子の笑顔は、すぐに消えた。今日、彼女を纏っていた弛緩した空気も同時に消え失せた。

 そこにいたのは。

 目の前にいたのは。

 いつもの。

 学校での。

 西園寺礼子だった。

 私は構えた。そんな彼女が、もう休日は終わりだと。リラックスする時間は終わったのだと、態度を持ってして私に告げたように思えたから。

「あの時、窓ガラスが割れたのは、全て私のせいだ。失敗であり、失態。言い訳はしない。やるべきことを、やりそびれていた。だから、ああいった事態が引き起こされた」

「そう、なのか」

「少し驚かせてしまったかもしれないな。すまない」

「なぜ謝る」

「いや。こちらの都合だ。謝るということだって、一方的なものさ。自らを満たすためのね」

「君は……一体なんだって私に手を差し伸べてくれるのだ?」

 私はずっと聞きたかったことを、聞いてみた。

「霊能力者だから、という答えが、一番近いものなのかもしれないな」

「霊能力者は、万人を救わなければならないのか?」

「そういうわけでも、ないな」

「ならば私を見放すという選択肢もあった」

「そうだな。その選択肢は、あった」

「じゃあなぜ? 私とて見放しても構わなかったのではないか?」

 西園寺礼子は、私の問いに、黙って珈琲を啜るだけだった。けだるいジャズは今日も流れていたのだけど、やはり効力はなかった。

「こちらの、事情だ」

「そうか」

 決裂したわけでもない。

 決裂する何かが、最初からあったわけでもない。

 けれど。

 何かの縁でこうして出会っているわけなのだから。

 少しくらい打ち明けてくれても。私が文学を好きなように、君がどういう人間なのかを、教えてくれたって、よいのではないか。何が起こるというわけでもないが。

 どうやら彼女のこころには、触れられたくない領域がやはりあるのかもしれない。それは私とて同じなのだが。あるいは誰にでもあるのかもしれないのだが。西園寺礼子は……穿った見方をすれば、それが人よりも大きいのかも、しれない。

 かも、しれない。

 人のこころは、わからない。

 私だって自分についてさえ、まだよくわかっていないのだ。

 揺れ動く、こころをどう捉えていくのか。

 よりも前に、霊をどうやって捉えていくのかの方が、今は先決なのかもしれないが。


 帰り際、西園寺礼子はこんなことを言った。

「いつか、聞いて欲しい。今日君が私にしてくれたような話を、私もいつか出来るようになるかもしれないから」

 沈む夕日を背に。

 その顔は、教室の西園寺礼子だったのか。

 霊能力者としての西園寺礼子だったのか。

 休日の、普段では見られなかった、リラックスした西園寺礼子だったのか。

 夕陽の逆光で私には判別がつかなかった。


   ・


 眠れない。

 理由は色々とあるし、どんどん複雑になっていく。まさしく漱石のこころのように、というほど状況は全く類似していないのだけど、こころはしかし揺れている。

 この揺れている理由というのが、いまいちよくわからなくて、最近の恐怖体験ともまた、違うように思う。

 霊。

 萌木蜜柑。

 西園寺礼子。

 私がこんな高校二年生になるとは、誰が想像したろう? 望んではいないはずだ。決して。

 気にかかるのは、今日の西園寺礼子だった。

 明らかに様子がおかしかった。考えるべきは彼女のことでなく、やはり私に取り憑いている霊のことだというのに。

「わからない!」

 私は叫ぶようにして、口走った。実際に叫ぶと、母などが何事かと駆けつけてくるもので、叫ぶに叫べなかった。

「わからない」

 もう一度。

 言って。

 は、いない。

「わからないのだ、私も」

 これは独り言ではない。

 天井から、声。

 今度は叫んだ。しかと叫んだ。絶叫した。奇声をあげた。顎が外れかけた。

 天井のそれは、けたけたと笑っていた。

 霊、だった。

 あのときの、霊。

 それは確かに浮いていて、私を見つめていた。

 三度目の到来。

 不用意。

 不用心。

 私のこころは、かくて粉々になりかけた。

 やはりこいつは、私に取り憑いていたのだ。近くで、この目で見て、ようやく自らの状況を再確認出来た。そうだ、私は霊に取り憑かれているのだ。こいつ……この野郎……

「何をそんなに慌てている」

 呼吸が、おかしくなる。母親が駆けつけてくる音が聞こえた。

 巧、何事なの。

 いや、ゴキブリが出ただけです、と私は怒鳴りつけた。

「ゴキブリだなんて、失礼な」

 大丈夫です! もう逃がしました! と、私はなんとか母をやりこめて、この天井のものを見られないようにした。

「平気だ。汝にしか我の姿は見えぬようだからな」

 母親が階段を下りていく音が聞こえて、私はもう一度深呼吸した。逃げ出すわけにはいかなかった。すべての元凶を。正確には、私が覗きをしたことが元凶とも思われるが、こいつをもうすべての元凶とすることにして終止符を打ちたい。

 西園寺礼子が言っていたことを思い出した。次霊に遭遇したら、敵対はせず、可能な限り、コミュニケーションを取り、その目的を知るべし、と言うこと。

 私は畳みかけた。

「君、霊なのだな?」

「いかにも」

「私に憑依している」

「いかにも」

「何の目的でだ」

「知らぬ」

「知らぬ?」

「知らぬのだ」

「名前は?」

「知らぬ」

「謎とはなんだ」

「知らぬ」

「私の名前はなんだ」

「知らぬ」

「窓ガラスを割ったのは君か」

「知らぬ」

「一たす一は」

「三」

 人をあしらうのが上手な霊のようだった。私は人間の尊厳をどうにかこの霊にぶつけたいと思い、憑依霊だとか、というかこいつが霊だとか、敵対するなだとかの助言を一切忘れてその怒りの丈をぶつけた。

「君、一体霊だかなんだか知らないけれど、こっちはいい迷惑しているんだよ! ああ、悪かった。百歩くらい譲って私が覗きをしたことが悪かった。それは認めよう。だがね、君、もう私は十分に罪を償ったものだと考えているから、私の目の前から即刻消えたまえ、悪さをせずにな」

 焦燥感を抱えた私とは対照的に、霊は落ち着き払った様子で返す。

「消えられるものならそうしている。でも消えぬのだ。この世ならざる身のまま、な」

「……どういうこと、だ? 君自身が君の意志で私に憑依しているというわけでは?」

「そうなのかもしれぬし、そうじゃないかもしれぬ。突然だが、汝は霊になったことがあるか?」

「ない。あるわけがない」

「そう。我もじゃ。初めて霊になった。だから一体なんだって汝に取り憑くのか、検討がつかない。この汝とか、我とかという口振りも、霊とはそのようなことを言いそうだからやっているだけのことであって、特段深い意味はない」

「繰り返し聞く。君は君自身の意志で私に憑いているのじゃないのか?」

「わからぬのだ。わかるのは、我がこの世ならざる身であるというだけ。それ以外は、何もわからぬ。この霊体になる前に、一体何をしていたか、ということもな。しかしお主に何かを感じているものだから、こうして姿を現すことが出来ている」

「君は、無害なのか?」

「それもわからぬ」

「一体私はどうすればいいというのだ」

「汝、謎を解け、と我は言ったな。それはつまり、我がこうしている理由を探って欲しいのだ」

「どうやって?」

「それから探って欲しい、というべきか」

「何のヒントもない、というのであればそれはウォーリーのいないウォーリーを探せみたいなものじゃないか。推理小説だってね、読者とフェアになれるように、作者必ずヒントを出してくれるんだぞ」

「ヒントはあるぞ。まず、汝」

「私?」

「どうやら汝にしか我の姿は見えていない。となると、やはり汝自身がヒント足りうるという結論は出てこよう」

「私、自身が?」

「むろんそうでない可能性もある。我とて、誰でもよかったのではないか、とも感じておる。ただ、汝はこの部屋にあるような、小説の数々が好きなのだろう」

「ああ。好きだとも」

「そのお主と、お主の部屋にある本を見て、何か思うところがあるのだな」

「君も、文学を?」

 一体どれだけ話し相手に飢えているというのだろう。霊を相手取って文学トークに話を咲かせようというのか。慌てて自制する。

「いや。例えば君の本棚にあるものを見ても、何も思い出せぬのだよ。よぎるのは、少しの懐かしみだけ。ただこの懐かしみというのは、恐らく我を紐解いていく上で非常に重要なものになってくるとは、思うのだよ。汝の前に姿を現したことも含めてね」

「文学的に繋がったとでも?」

「その表現はよくわからぬし、なんだか薄気味悪いから同意はせぬ。同意はせぬが、しかし現時点で汝の前に姿を現した理由として、妥当なものをあげるのであれば、その限りであろう」

「ただそれがわかったからといって、私に一体何が出来る? 念仏を唱えるように、小説を読んでみるか?」

「それも含めて、我の謎を汝に解いて欲しい。願わくば、我の存在をなくして欲しいというのが正直なところだ」

「存在を、なくす。つまりそれは霊であることをやめて、成仏をする。したい、と。そういうことなのか?」

「成仏、と。そう呼ばれるものなのかはわからない。だが、この身のままではあってはならぬとはわかる。汝としか、会話が出来ぬようだし、汝にしか我は見えぬようだからな」

「しかしどうすればいいというのだ……はっきり言って、突きつけられているのは無理難題としか思えないのだが」

「一つ、提案しよう。汝と我の繋がりとは、小説であり、文学である。とは汝も言った通りだ。その文学を持って、どうにか活路を見出して欲しい」

「他には何か思い出せるものがないのか? つまり君が人間だったころがあるというのであれば、その時のことを知って、打てる手段というのが見いだせるかもしれぬというもの」

「思い出せない。何かが出てくるような気もしているが、どうしてもそれにはとっかかりが必要な気がするのだ」

「それに、文学を用いろと」

「それだけではなくてもいいのかもしれぬが、しかし発見できた繋がりとはそれのみであろう」

「とはいえ……」

「すまない。もう時間のようじゃ」

「時間?」

「どうやら汝の前に姿を現すことの出来る時間は限られているようでな。またこちらから姿を現せる時に、現そう。それでは」

「そんな勝手な! こんな無理難題を押しつけて、はいさようならということなのか」

「無理は百も承知。託したぞ」


 そう言って、その霊は消えた。

 言うだけ言って……

 一体私が何をしたというのだろう。覗きはしたが、覗きとこの霊に関係性はないようではないか。

 私にあの霊を成仏させる責務が一体どこにあろうというのか。このまま放置して、勝手に成仏を待つ、だとか、そんなことではいけないのだろうか。

 眠れぬ夜は更けていく。

 あの霊自体がそこまで脅威になるということを感じなかった部分は一安心、ではあるのだが、霊と遭遇したところで、段々慣れてきてしまっている自分がいるのが、どことなく空恐ろしく感じた。


   ・


「やはり、強力な憑依霊だ。早急に手を打ったほうがいい」

 私の、この霊はもしかすると悪い奴ではないのかもしれない、という願望も虚しく、西園寺礼子はいつもの厳しい表情でそのように言うのだった。

「言ったように、これからその憑依霊がどうなるかは、わからない」

「無害であっても、害になりうると」

「何も思い出せない、というのは今だからこそ。人間の形をしているのだから、生前人間であったことは間違いがない。そして霊になった。霊界から接触してくるほどの怨念を持っている。これは前に説明した通りだ。怨念というのが、他人に害をなすほどの未練であるのか、どういう性質のものかはわからないにせよそういったものが発現してくる可能性というのはある」

「私だって、早急に手を打ちたいのはあるよ。もう二度と現れて欲しくない。だからってあんな滅茶苦茶な論法と、どうしようもないヒントで謎は解けない!」

「落ち着くんだ。私も考える」

 西園寺礼子は黙りこくった。

 真剣に考えているようである。

 霊能力者である彼女しか見いだせない結論があると思われたので、私もまた、沈黙で応えた。

「君がしたいこと、というのはなんだ? 何かあるか。例えば君が文学において、某かの未練や、探求欲というのがあるのであれば、それを実行した方がいい。霊と、君のその未練というのが結びついている可能性があるからだ」

「私が、したいこと?」

「例えば、小説を書く、とか」

「いや。この前も言ったとおり、私は読むのが好きなのだ。読んで、自分の考えを巡らせたり、あるいは発想を変えたり、時代考証したり、とか。そんなところで、小説を書きたいというわけではない」

 いつだったかに書いてみたことはあったのだが、長くは続かなかった。才能というのがこの世に存在するということを、私はあの時知ったのだった。

「他には?」

「そんなこと言われてもだな……」

 未練。

 私は文学が好きなのだったし、未練もなにもない。むしろその存在がなかったのならば、早々に息絶えていただろう。読むことでただ充足している私に未練などない。

 いやしかし。

 未練の、ようなもの。

 思い出すのは、私が第一文学部の歓迎会に顔を出した時のことだった。

「あった。未練、ではないが。これは欲求なのだが、私は……もっと話したい、と考えていた。その……文学について、色々と」

 なにせ霊とまで文学の話をしようとした手前である。その欲求は確かにあったものだったし、否定できない。

「では部活に入ってみればよいのではないか」

「それは第一文学部のことを言っているのか?」

「もちろん」

「残酷だよ、君。その提案は。いくらなんでも。私はあんなところに入り浸りたくはない」

「どうしてだ」

「あれはね、文学的な場所ではない。かつて文豪は、サロンでその知性をぶつけあったのを知っているだろうか。もし私がさあ文学について話そうとあんな場所に行ったのであれば、かえって逆効果だよ。恨み辛みも増えるし、なかったはずの未練が出来てしまう恐れだってあるね」

 と言って、私は後悔する。

 西園寺礼子は私のために進言してくれているというのに、ごうつくばりの私が顔を出した。

「でも、その話はしたいのでしょう。私にこころについて話してくれたように」

「そうさ。そうとも」

「だったら、創るという手段が、ある」

「創る? 何を」

「部活動。生徒手帳は持っている?」

「持っているとも」

「二四ページを開いてみて」

 入学以来一度として開いたことのない生徒手帳を、私は言われたとおりに開いた。

「読んでみて」

「ええと……我が校は、生徒の健全な発育を志すと同時に、高校時代における自由な精神性の発達もまた、志します。そのため、生徒の自由な活動、主に文化的な創造行為をここに許諾します。文化的な表現、そして考える場を提供すること、そして生徒の主体性を尊重した活動を、提供します、と」

「続いて25ページにはこう書いてある。自由な活動を保証するための、創部行為について、と」

 部員五名。

 顧問。

 その設立理由と、計画書の提出。

 これらが部活動を設立する主な要件だった。

「こんなに、緩いのか」

「そう。部活動の設立は、わりとすぐに出来る。ただし、人員が不足した場合や、何か問題が起きた場合などは、すぐに廃部になってしまうようだけど。実際に、この生徒手帳に書いてあることを見て、部活動を創った人間のことを、私は知っている」

「私にも、出来ると」

「出来ないことはないはずだ。文学の話をする、という行為でどういう部活を創れるのか、なんてことは考えなければならないけれど」

「それで悪霊は退散するのか?」

「もちろんそれで、除霊されるということはないかもしれない。ただ、なにかよい影響を霊に与えることは出来るかもしれない」

 私の心が、躍るのがわかった。

 どれくらいぶりだろう。このような高揚は。ずっと、ずっと諦観を抱いていた、高校生活にどこか光が射したかのようにさえ思えた。霊に取り憑かれている。そんなことも忘れて……とはいえないけれど。

 でも出来るのだ。

 そうか。なかったら創ればいいというのは簡単な発想ではないか。

 これで、出来るというのか。

 私が思い描いていた、熱病行為でなく、知性を重ね合い、切磋琢磨する光景というのが創り出せるというのか。

「よし、やってみよう。やりたい。是非やってみたいと、そう思えたぞ!」

「急に、元気が出るのだな。でも、色々と考えなくてはならない」

「そうだな。提出書類や、顧問はまぁなんとかなるだろうが、しかし一番窮すると思われるのが、部員の獲得かもしれぬ。この学校に、どれほど知的な人間がいるのかは私は知らぬが、そこらのへべれけ人間では、除霊もうまくいかないではないか?」

「へべれけ人間というのはよくわからないが、君がそう思うのであれば」

「先を見据えなければならないな。部活をただ創ったとしても意味をなさぬ。私の除霊。さらに先にあるのは、恒久的な文化的部活動の設立だものだから、まず……」


 そして私は西園寺礼子と下校を共にしながら、自らの熱きパトスについて一方的に話し続けた。

 私は浮かれていた。

 浮かれることくらいは、さすがに許されてもいいと考えていた。

 ただ。

 ただ私は何も考えていなかったのである。

 この創部行為が。

 また新たな悪夢を引き出すとは。

 全く。

 考えてもせず、浮かれていた。

 へべれけ人間といったが、実はあれは私自身のことだったのかもしれない。

 私を責められるか?

 平和を謳歌していた人間が、泣き面にヘヴィ級ボクサーのパンチを浴び続けていたのだ。そこに一筋の光が見えて浮かれてしまうのは、高校二年生の男児として、もう責められないのではないか?

 とかく私は目に光を宿し、その創部行為をすることとしたのだが……




   ・


~~~~   


 けれども、計ることの出来ない疑問が深い意識の中で残滓として残っているのが、その内わかってきた。その残滓を振り払う何かというのを、私は探しながら毎日を送っていた。完全に決着をつけなければならないという使命感が私を動かした。糸で私を繰る正体が、私を強く、強く動かした。どの景色も白と黒に見えるが、これはまだ全てそのように染まりきっていないらしいようなのだ。さまようのは私と、私の魂。今日も今日とて同じ景色がある中で、私は偶然にもそれを見つけた。それは、無色の中にある、有色。決してわかりやすい色で灯されていたわけではなかった。白なのか、黒なのか。灰色なのか。目を凝らして見てみると、うっすらと見たことのない色があった。それが何色なのかはわからなかった。絵の具をごちゃまぜにしてひたすらに薄めたような色だった。私はもう人を人として見ていないことに気がつく。色として。生物でない、強ばった官能と精神が生み出す空虚さに塗りたくられた色として見出していたのだった。まさかとは思えど、そこに白と黒以外の色があるとは思えなかった。声をかけるよりも前に、ずっと私は目を凝らし続けた。人に。ではなく、その色に。観察の結果は間違いがなくて、どうにも空虚さ以外の何かを抱えていそうなのであった。最もその色もまた、空虚さを抱えているようであったので、では一体なにが真新しいのか、新鮮な色なのかというのが私にはまるきりわからないでいるのだった。不可思議な現象が起こっているのを見て、私はその矛盾へと飛び込む決心をする。


~~~~




   ・孤島の鬼・


 地獄絵図、という言葉を聞いたことがあるだろうか。

 その言葉の通り、現世における地獄のような状態のことを、「これは地獄絵図のようだ」と表現してみることがある。

 大抵は当然比喩でしかない。

 地獄など存在せぬという前提の元、しかしその上で地獄という言葉を使わなければ言い表せぬものを地獄絵図という言葉を使ってみて表現したりする。

 私などは地獄絵図、と聞くとまず思い出されるのは乱歩の長編小説、孤島の鬼、である。一夜にして白髪になってしまうほどの経験というのを読者にまでさせてしまうその語り口と、魅せ方は読み終えた後、時間が経過しても色褪せない強烈さを伴っている。頭がくらくらしてしまうほどのもの。あの孤島での光景と、起きたこともしかり、だが、乱歩における怪奇小説の醍醐味とはやはり人間の描き方であろう。それは孤島の鬼でも変わらずに、人間の異常な振る舞いや、乱れた感性を軸に、その地獄絵図が形成されるのである。人間とはやはり末恐ろしいものだから。

 地獄。

 私は地獄に行ったことはないが、その存在というのは、ああいった霊を目撃したことで、もしかしたら存在するのではないか、と考えてるようになっていた。

 もしあるのであれば、それはそれは恐い場所なのだろう。

 ただ今の私といえば、そのどこかにあるかもしれないな、なんて想像上の地獄に考えを巡らせてはいない。

 想像上、ではないのだ。

 この現世が地獄なのではないか、と考えている。そのような論旨をぶつけてくる人間を何度か見たことはあったのだが、高校二年生の私と言えば、まだまだ未来において何かが待ち受けていると期待していたものだし、それを即ち希望と言っていたものだったから、現世が地獄だなんて思いもしなかった。

 けれど、やっぱりその論調に、賛成をするのかもしれなかった。

 しなくてはならない事態。

 この地獄。

 今、現在。

 私が味わっている、この地獄。

 それを、その状況を諸君等に説明する前に、私は二人の人物について、描写し、紹介しておかなくてはならない。

 まずどうでもいい方、というと彼に対してひどく失礼な物言いなのだが、二人のうちどちらがどうでもいいか、という二者択一を迫られるとなると、彼の方、とはなってくる。彼の方もまた、私のことを実のところ気にも留めてはいないだろうから。お互い様だろう。そういう間柄でもある。

 懇意にしている人物がいると言ったのを、諸君等は覚えているだろうか。

 それがこれから紹介する、彼のことだ。

 彼の名は、東航平という。名前は平凡だが、その頭の中は平凡ではない。

 彼との出会いは図書館だった。

 私は図書館に行くことが多い。昼休みなどは特にだ。大体、窓際の、自ら特等席と呼んでいる、日当たりのよい場所で昼食後にお気に入りの本を読んでいるのだが、ある日、その特等席の前に、一人の人物が座っているのを見た。私はがらがらの図書室の中で、あえて顔を突き合わせて本を読むのがなんだかひどく滑稽なように思えたのだけど、特等席でなければ昼休みを満喫したように思えないような気がして、彼の存在を気にせずその席に座った。

 その時目の前にいたのが、東航平だった。

 彼とはクラスが違う。2ーBの生徒なのだが、その時の私は彼の存在をまるで知らなかった。上履きの色で、二学年の人間だとは理解していたものの、見ない顔だな、転校生か? とさえ感じ、訝しみながらその人間を眺めていた。

 手にしている本は、有名なサイエンスフィクションの本だった。私はSFについては全く疎い人間なので、その本について言及することは差し控えるが、SF好きならば誰もが知っているような本だったらしいと、後になって知ることとなる。

 怪しんでいた私だったのだが、こいつもまた、本が好きなのだな、同類め、としてにこやかに本を読むことにした。

 のだが、何やらうるさい。

 ぶつぶつ何かを言っているのだ。

 神聖な図書室で! という大義はなかった。私は私の昼休みが汚されるのがひどく不愉快だったので、注意を促した。

「君ね、もう少し静かにするといいよ」

 しかし、東航平はその独り言を辞めなかった。というよりも、全く私のことなど気にもかけてないし、注意した内容も耳に入れていないようなのだ。私の存在を、認識してすらいなかっただろう。

「おい」

 何度呼びかけても同じだった。

 そこで私は気がつく。

 この人間は、没入しているのだと。

 本を読むことに、あまりにも熱中しているのだと。

 それだけの集中力を持った人間というのを、私は今まで会ったことがなく、奇異の目は、段々と好奇の目へと変貌していった。

 その日は呆れたように彼を観察し、何も会話をすることがなかったけれど、時間を置いて、図書館で彼を目にすると、話しかけるようになっていた。彼もまた、快く、ではないけれど、本について話す人間を求めていたらしく、私との会話に応じた。

 彼はやはり、SFをこよなく愛する人間だった。

 SFはどうにも苦手であるけれど、しかしやはり本好きの人間に悪い奴はいない。あれだけ集中するくらいだ。私と東航平は、図書室で気がつくと会話をするような間柄になっていた。

 大体、彼の話はこの程度でいいだろう。要するにSF好きの、本好きの、私と相性がいい人間と心得ていてくれればいい。この地獄においては、完全に仲間であるし、味方でもあるとは思っているが、彼は恐らく、SF以外はどうでもよいとすら考えていて、私もまた、会話はしようとも、SF以外、として認識されてはいようものだから、緊急時の助けなどは期待が出来ない存在である。

 さて、もう一人、どうでもよくない方の人間について話したいと思う。

 ただこの人間の描写をするに当たって、私はまた諸君等に愚かな一面を見せなくてはならないこととなるが、ご容赦頂きたい。一つの告白であるし、懺悔でもある。

 しかし羞恥心など。

 そんなことがどうでもよくなるくらいに私は地獄に墜ちてしまったので、つらつらと告白をしよう。


 彼女の名は、来栖京香という。

 彼女もまた、クラスが違う。

 2ーCの生徒だ。

 彼女、来栖京香は学年のマドンナである。 

 黒髪のポニーテール。

 ほどよく成熟したバスト、腰つき。

 誰もを受け入れるであろう、母性を感じさせる笑顔。

 さらには文武両道。

 弓道では、大会を優勝した経験もあり、表彰されたことは記憶に新しい。テストでも学年一位を穫ったことがある。

 乙女らしさを含めて、彼女、来栖京香は完璧な存在であるといえる。多くの男児が、彼女に告白をしたという噂を耳にしたことがあったが、すべての男児は玉砕の憂き目にあった。その理由もまた、風の噂で耳にしたのだが、既に婚約者が決まっているから、らしい。

 推測ではあるが、良家の子女なのだろう。我が校は偏差値高けれども、決してお嬢様学校ではない。なぜ私学を選ばなかったのか、という理由はよくわからないが、その振る舞いはもうお嬢様を越える、お嬢様以上の何かだ。京香というその名前の通り、京都の香りがこちら側にまでしてくるほどだ。

 言ってみれば、彼女は既にすべてを手にしているような、そんな存在であった。

 正直に告白しよう。

 私とてその彼女にほんの一瞬魅了されたことがある。。

 あれは高校一年のころである。

 一年のころもクラスがまた違ったから、彼女の存在は噂ばかりでしか知らなかった。

 ただ、一目見たときに、すべての男児がそうであったように、やられた。

 すぐに頭をふるい、熱病を取り払った私。仮になんだかんだ魅了され続けていたとしても、私の身に余るし、しかもこぶつきであるということを聞いて、接近をしようということは、まるでしなかっただろう。ただ、もし。何かの間違いがあれば、私は熱病にかられていたのかもしれぬ。いや、ただひととき、一度だけ、私は彼女に対して熱病を持って眼差しを向けていたかもしれない。恥ずべきである。私はあれだけ熱病患者を馬鹿にしていながら、一瞬であっても、疾患していたという事実を、ここに告白する。愚かなり。我。

 加えて愚かなことといえば。

 …………

 ……

 いや、告白しよう。

 覗き、だ。

 なぜ覗いていたのか。

 それは、彼女の裸体を、下着姿を見たかったからである。

 私があの時覗いていた部室は、来栖京香の所属する弓道部のものである。

 そう、狙っていた。

 願わくば来栖京香の裸体をみたい、と。心から願っていた。

 どうしようもなく、愚かな人間なのである。

 どうでもよくない方。二人目。

 来栖京香とは、クラスのアイドルであり、かつての想い人である、という認識で構わない。


 さて、これで地獄絵図を示す前の下準備は整った。

 勘の鋭い諸君等なら既にお気づきかと思うが、この二人がなぜ登場してくるかと言えば、部活動を設立するためである。最も、この二人が私を地獄へ突き落とすというわけでは、決してないのだが。


 少しだけ、現在より時間を巻き戻そう。

 西園寺礼子と私で、放課後の図書館で。創部にあたって会話をしていた時まで。


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