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石仏(いしぼとけ)

作者: 矢積 公樹

 激しい雨がようやく止み、筧からの水音が小さくなっていた。花江は窓から空を見上げた。雲はなおも厚く空を覆い、隙をみてはまとまった雨を注ごうとしていた。予報どおりね、電車は止まらないかしら、と独り言をつぶやいて、すぐに外の物音に耳を澄ませた。聞こえてきたのは男の声で、どうやら二人らしい。寺の入口の砂利を踏みしめて少しずつ歩いてくる。彼女は事務所のドアを開けて寺の入口に向かった。

 二人の男は彼女を見つけると軽く会釈した。

「ようこそ、この雨の中をお越しいただきまして。」

「どうも、おじゃまいたします。しばらく拝観させていただきます。」

 背が低いほうの男が穏やかに言う。若々しい顔をしているが、少し白髪の混じった髪からすると齢は30歳くらいだろうか。もうひとりの男は背が高く肩幅もはっていて、齢は同じぐらいだろうが、顔立ちが違うので兄弟や親類ではないだろうことはすぐに分かった。彼は先ほどから着ているデニムジャケットが濡れて冷たいとしきりにぼやいているのが耳に入った。

「雨が降るのは分ってたんやから、ええ服着てくるほうがアカンのやないか。」

 背の低いほうの男が冷ややかに言う。

「んなこというたって、大阪から出てくるってきいたら三宮あたりで落ち合うもんやと思うやないか。それを、なんでまたこないな」

 背の高い男が少しむきになって反論するが、花江のほうをちらと見るとばつが悪そうに口を閉じた。

 背の低い方の男は何も言わず「順路」の小さな矢印型の看板が立てられた石畳を歩きだした。それを見てすかさず、

「おい、潤二じゅんじ、帰りの電車の時間は分ってんのか?」

 背が高いほうが声をかけた。潤二は振り向きもせず、首を横に振りながらさらに先へと歩みを進めた。あいつぅ、と舌打ちする男に花江はおずおずと、

「あの、北条駅からの電車ならあと1時間半ぐらい後ですよ。」

 と話しかけた。

「そうっすか…僕は明石のほうに向かうんですけど、あいつは」

 そのとき、潤二が男に大きな声で呼びかけた。

「おおい、あきら

「なんや」

「この近くのたいこ弁当でめしおごってやるから、少し待っとってくれ。」

 ええ、なんや、もっと他にあるやろぉ、と晃がぼやくが潤二は振り向いて先に進んでいった。まるで学生どうしのような屈託のないやりとりを聞いていた花江は思わず笑ってしまった。名古屋の大学に通う息子の顔がふと浮かんだ。

「こちらにお越しいただいたのは、お連れさんのご希望ですか。」

 花江に訊ねられ、晃は困ったような、呆れたような笑いを浮かべた。

「あいつ大阪に住んでるんですけど、久しぶりに遠出がしたいって急に昨日言いだしてきてね、加古川で待ち合わせるって言うから、なんかおかしいなとは思ったんですけど、まさかここまで足を延ばすとは思わんくて。こちらに受付事務所があることすら聞かされてないんです。てっきり無人かと」

「そうですか、昨日は大阪からの団体さんが来はりましたけど…もちろんバス旅行です。明石と大阪に住んではる人どうしやったら、普通は三宮ですよね。さっきの雨はどこかでやり過ごしたんですか?」

「ええ、途中でホームセンターに逃げ込みました。それでもけっこう濡れて、傘とタオルを買わなあかんようになって…」

 いわゆる爆弾低気圧の発生は昨日の天気予報でも伝えられていたのだが、少し前の風雨は台風以上の激しさだった。寺の事務所が2回ほど停電し、雨が上がった頃には市役所の担当者が心配して花江に電話を入れたほどだった。4月のはじめとはいえ雨上がりの風は冷たく、事務所のストーブは今日も朝から赤々と炎をたたえていた。

「せっかくですし、お茶でも淹れましょうか。しばらくお待ちになって下さいね。」

 花江はそう言い残して事務所へ入った。晃は所在なく来観者用の小さなベンチに腰を下ろして、潤二の様子を見るともなく見ていた。

 潤二は境内を足早に一周したらしく、今度は石仏の並ぶ列を順に眺めていった。しゃがみこんで顔を覗きこみ、軽く手を振れて彫りの深さを確かめ、さらにはその背面を見るためにヒョイと伸び上がった。足元には苔が敷き詰められるように生えており、晃が見ているあいだにも潤二は3回ほど転びそうになった。高価そうな黒い革のブーツはたちまち泥があちこちに付いたが、彼は一向にかまう様子もなく黙々と石仏を眺めていった。

 晃が、苔に足をとられないよう気をつけながら潤二に歩み寄る。

「なぁ、ここ、五百羅漢っていうんやろ?ホンマに500体あるとは思えんけど、それにしてもそんなペースで仏さんの顔を見てたら」

「だいたい450体らしいわ」

 潤二の声は淡々としていた。

「そんなにあんの?」

「そや。だから探しがいがあんねん。」

「あのなぁ、お前」晃がいらだってきた。

「いくら昔のツレやからって、程度っていうもんがあるぞ。ただ石の仏さんの顔を見るっていうだけのために、わざわざ時間と金を使って来る必要あんのか?」

 潤二がしゃがんだまま晃の顔を見上げた。近くの梢から落ちた滴が潤二の額に降りかかった。

「ばあさんがな」

 潤二は石仏に向きなおって小さな声で言った。

「写真でも撮ってこいって言ってきたんか。」

 潤二は首を横に振る。じゃあなんで、と言いかける晃に潤二は眼を閉じて言った。

「去年の11月、ちょうどお前と会ってた頃にな、死んだ。」

 晃が思わずええっと大きな声を上げた。潤二は少しうつむいていた。

「じゃあ、葬式には」

「出てへん。親父にはあとで散々文句を言われたわ。」

「そんな…お前が18までおった家で、一緒に生活しとったおばあさんやろ…両親が離婚したからっていうても…」

 潤二はなおもうつむいていた。その首筋に視線を落としながら晃は続けた。

「お前はもともとおばあちゃんっ子だったって、自分でも言ってたやんか。お父さんに内緒でおばあさんが書留で送ってくれた小遣い、オレに半分くれて、それでオレ、あんときのバイクのジャケットが買えたんやで。覚えてるか?」

 潤二はうつむいたまま、黙ったままだった。

「お前、何があったんや?」

 わずかに風が吹き、濡れた木の葉が潤二の手の甲に落ちた。それをそっと苔の生えた上に置いて、潤二が口を開いた。

「オレは変わっとらんよ、何も。」

 立ち上がって、半歩横に動いて隣の石仏の正面に立った潤二が続ける。

「大学をやめて大阪に移ったのが22やろ、それから13年も経ってな」

 潤二はひと息入れた。なにやら言いづらそうで、口調は沈んでいた。

「いろいろ分かったことがあんねん…ばあさんや親父と一緒におったら分からんかったことがな。」

「それって、家を出て行ったおふくろさんから聞いた、っていうことか」

「ああ、まあな…他にも兄貴や、他の親類からもな。」

にしたってお前、と続けようとする晃に背を向けて、数歩ほど離れたやや新しめの石仏に眼をやりながら潤二が言った。

「ここの言い伝えって知ってるか?」

「そんな、知らんよ。来るのも初めてなのに」

 そこまで言って、あ、と晃は声を上げた。

「そうえば、お前は学生時代にこの辺りを運送の仕事で走ってたっけな。その途中にでも寄ったんか?」

「いや、ない。仕事のルートはかなりかっちり決まっとったからな。でも」

 潤二は隣の列に移動していた。

「道路標識にちょこちょこ出てきたし、今の仕事の取引先でここの出身の人がおってな…お国自慢いうのか、五百羅漢なら場所知ってますって言うたら大喜びしてはったわ。」

 先ほどのように石仏に向かってしゃがみこみ、潤二は少しのあいだ口に手をあててその顔を凝視した。

「で、言い伝えって、何や?」

「さっきの事務所に行って、パンフレットかなんかもろうてこいよ。有名な話やから書いてあるはずやで。」

 潤二は再び黙りこんだ。ああもう、何やねん、と晃はぼやいたが、先ほどの石畳を引き返して事務所に戻った。花江は彼の姿を見ると顔をほころばせ、どうぞ、少しぬるくなりましたが、といって湯呑を渡した。受け取った晃は、

「あの、こちらのパンフレットかなにかってあります?」

 と訊ねた。花江は、ええ、ちょっと待って下さいね、といって事務所に戻ろうとするので慌てて晃はそれを引き留めた。

「あの、ここの言い伝えっていうか、有名な伝説ってあるんですか?」

「え?ええと、伝説ねぇ…昔からよく言われてるのやったら」

 花江が言いかけて、晃の肩越しに潤二の様子を探る。

「お連れさんは知ってはるのかしら。」

「ええ、あいつはね。どうも下調べしてきたみたいで。」

 そう、と花江はうなずく。

「別に、怖い話とか、幽霊とかではないんですよ…なんせこれだけの石の仏様でしょ。」

 花江は湯呑を少しすすって続ける。

「この仏さん達の中に、親や兄弟、自分自身に似た顔が必ず見つかるっていうんです。」

 晃は思わず潤二の方を振り向いた。彼は次の石仏の前に向かうところだった。

「なんせ理由も分からず、年代もばらばらな、造られた場所さえも違う石仏さんがたくさん集まっているんでねぇ…あんまりにも謎めいているんで、いつのまにかそんな噂っていうか、伝承が出来たんでしょう。」

 潤二は先ほど眺めた列を、今度は背面から確かめるために苔の上を慎重に歩を進めていた。

「ただ、特に古い石仏さんの中には鎌や杖に似せた十字架を背負ったのがいらっしゃるんですよ。これがね、隠れキリシタンの信仰の証拠じゃないかって…この辺りは姫路や神戸からここまで落ちのびたキリシタンの隠れ里だったっていう説もあるとかで、今でもたまに研究者の方が、フィールドワークでしたっけ、見学にいらっしゃいますよ。」

 私は大阪のなんで詳しくは言えないけど、と前置きして花江は続ける。

「この辺りは田んぼに水を引くにも大きな河が無くて、昔から溜め池をたくさん造らなきゃいけないような土地だったんですね…キリシタンとかは別にして、ホントに隠れ里っていうか、外からは謎めいて見えてたみたいです。」

 花江は晃の湯呑に番茶を注いだ。

「お連れさんはその話を聞いてこちらにお越しいただいたんでしょうか?」

「ええ、どうやら…」

 晃は口を濁し、番茶を飲み干すと潤二のもとに向かった。

 潤二はとある石仏の前に立っていた。視線はその後ろにある背の低い木に注がれていた。晃は声をかけようとして思いとどまった。

 木々の枝を掃うように風が吹き、滴が散った。

「見つかったか?おばあさん」

 潤二の答えは無かった。

 彼はしばらく俯いていたが、ふと顔を上げたかと思うと、晃のほうに振り返った。

「なぁ、頼みがある。」

「なんや」晃は答えながら身構えた。

「この仏さんの写真を撮っておいてくれ。」

「な、なんや急に。スマホならお前も持ってるやんか。」

「オレのケータイ、最近調子悪くてな。お前ので撮って、あとで送ってくれ。」

「んなこと…」

「この前自慢しとったやんか、お前のより画素数多くてキレイやねんぞ、って。」

 皮肉めいた笑いを浮かべた潤二の顔を見て、しゃあないな、とつぶやいた晃が胸ポケットからスマホを取り出す。水たまりを避けながら潤二が手招きするほうに行くと、後ろに濃い緑の厚い葉をつけた木を背負った石仏があった。

「ちょうどそこから仏さんを撮ると、後ろの椿の花が一輪、フレームに入るやろ。」

 潤二の言葉を頼りにアングルを決める晃の眼に、鮮やかな紅色の花が入ってきた。先ほどの雨に濡れた椿の葉はより深い緑をたたえ、苔むした石仏になだれかかるようだった。その中の枝に咲いた花は、しかし次に吹く風にあえなく落ちそうに揺れていた。いつになく緊張しながら晃がシャッターボタンを押す。と、はたして次の瞬間に吹きつけた風は椿を揺らし、先ほどの花は枝から落ちた。苔の上に落ちたときのひめやかな音が晃には聞こえたような気がした。

「撮れたか。ありがとな。もうええで。行こうか」

「あ、うん、ちょっと待った。」

 晃はその場にしゃがみこんだ。どないしたんや、という潤二の声に答えもせず、スマホを地面に向けて彼は5度ほどシャッターボタンを押した。

「お前の構図もええけどな」

 潤二にスマホの画面を見せながら晃が笑う。

「オレが昔、一眼レフ持ってたの、忘れてたやろ。」

 勝ち誇ったように言う晃が5枚の画像を示す。彼は潤二が指した椿の、その花が苔の上に落ちた様を限界まで近づいて写していた。水を含んで艶やかに、鮮やかに光る苔の緑と、開ききった椿の紅の花びらのコントラストは秀逸だった。

「ええやんか、それもあとで送っといてくれよ。」

 潤二の顔に笑みが戻り、晃も肩の荷が降りたような気がした。

「事務所に寄ってこいよ。おばちゃん、お茶淹れてくれてるで。」

 そうか、と事務所へ続く通路を歩きだす潤二に、後ろから晃は言う。

「な、今度はバイクで来ようぜ。」

 潤二は肩越しにちらりと晃の顔を見た。潤二からの返事を待たず晃は続けた。

「タンデムはちょっとしんどいかもしれんけど、なんやったら大阪まで拾いに行ったるよ。今のバイクはお前と乗ってた頃よりも小さいけど、それでもこのお寺ぐらいだったら」

「心配すんな。」

 事務所の前で花江から湯呑を受け取って、潤二は笑った。

「免許なら、有る。オレがお前を乗っけて走ってやってもええで」

「な、え、えぇ…お前、そんな話してなかったやんか、いつの間に」

「しかもなぁ、大型やで。お前の今のヤマハの400だってイケるし、用意してくれるんやったらハーレーだってな。」

「なんやもう、早よ言ってくれよ。それやったら、今度空いた時間で走ろうや。大阪でも神戸でも、姫路でも、どこでもええし。お前もまだこの辺りの土地勘があるんやったら走りやすいやろ?」

 勢いよくまくしたてる晃を視線で制して、潤二が苦笑いした。

「あんな、免許は取ったけどバイクはまだ持ってないねん。ペーパーライダーや。」

 あぁ、なんやねん、とうなだれる晃を見て潤二は声を上げて笑った。近くで雨に落ちた葉を拾っていた花江も小さな声で笑った。雲が切れ、春の日差しが戻りはじめた。

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