01
それは最初は小さな仔犬だった。黒っぽい影のように人の後をついてまわる得体のしれない生き物、それが第一印象だった。
『ハロー、ブラックドッグ』
金色の目をした女の子が、腕を伸ばして犬を撫でる。
「触らない方がいいよ」
『なぜ?』
「それは悪いものだから」
親が言っていた、先生が言っていた。クラスメイトが馬鹿にした。それはそういうものだった。
『アハハ』
女の子は朗らかに笑って、
『うそつき』
と言った。
その女の子は、私と同じ顔をしていた。
日が昇る前に目を覚ます。私達、退魔の一族は人の営みの前に先んじて行動を起こす。
人より後手に回ればそれだけの悪影響とやらが社会に出るとか云々、しかめ面のお年寄り方が唾を飛ばさんと捲し立てるのだった。
黒い装束を着て白い面を被る。部屋の窓を開けて屋根の上に乗ると、まるで忍者のようだとおかしな気分になるが、ピィピィと他の退魔師の召集の笛の音を聞くと雑念は霧散する。
足音を消して笛の音の方角に屋根伝いに走る。赤い光を纏う異形が人の寄り付かない建物の影や行き止まりに溜まっているのが見えた。
面倒だな……。
そう思って、しまったと気付いた時にはもうあの黒い犬の影が一足早く異形に喰らいついて呑み込んでいた。私の処理すべき仕事をこの黒い犬が奪うのは常だった。
幼い時から傍にいたそれを指して、一族の者は嫌悪とも怒りともつかぬ顔で私を責めた。お前の心が弱いから付け込まれるのだ。すぐに追い払いなさい、と言って。母がその筋のものではないかと、一時疑惑を持たれたりもして周囲の者のみならず肉親すら冷たい眼差しでこちらを見ていたのを覚えている。
あっちへ行けと命令しても、ふと犬の姿を探せば足元に居る。黒い犬の影が消えることはなかった。周りにいい顔をされないまでも、黙認されているのが現状だ。
《バウ!》
犬が吠える。異形を平らげ、尻尾を振っている。この犬は私に忠実過ぎた。私の望みを口に出す暇もなく叶えようと行動する厄介者。
《バウ!》
だからこうして吠えて、私の前を走り、笛を吹いた退魔師の元へ先導する。私が余計な手間を掛けなくてもいいように。他の退魔師達は、お前を堕落させるのがそれの狙いだと言う。私もそれには同意見だった。
「下がれ」
命令すると、クーンと鳴いて犬の姿が掻き消える。犬は妖魔ではなく、精霊に近いものであると推察されている。退魔師の対象ではない。この犬を私が自身の力で追い払った時、退魔師として一人前と認められるだろうと曾祖父が言っていた。
消えたように見えても、よく目を凝らすと足元で並走する黒い犬が見える。一人前になるにはまだ道のりは遠そうだった。
「遅い!」
笛を鳴らした退魔師がこちらに向かい叱責する。退魔師の多くは白い面で顔を隠している。しかし、素顔が見えなくとも知り合いであるため、誰が誰であるかは体格や声ですぐに知れる。三人の退魔師が外装工事中のビルの上で待っていた。私が最後だ。
「妖魔がいたから処理に手間取った」
簡潔に遅れた理由を述べるものの、態度が和らぐ気配はない。
「それは皆同じである。どうせギリギリまで寝こけていたのであろう」
そういえば時計を見ていなかった。心当たりがあったので黙ってしまう。今日の夢見があまりよくなかったのだ。
この笛を鳴らした退魔師は、私と同じ年代ではあるが人の上に立つ者として将来を嘱望されていた。なので、年近い者として、また退魔師として彼女を支えるよう私は周りから煩く言われていた。
しかし、実際はこうして彼女が迷惑を被っているような図が度々で、呆れと若干の咎める視線を浴びるのが普通であった。
「もうあと一年もすれば、お前は成人の儀を受けなければならない。自覚はあるのか?」
きっと彼女は仮面の下で目をつり上げているだろう。私達、退魔師は十五の年で成人の儀を行う。十五の年を潜り抜けたのなら、そこらの有象無象の異形だけでなくより危険な名付きの妖魔や、禍霊の化生を相手にする事になる。
はっきり言って、私のような未熟者には荷が重く御免被りたいのが本音であった。
「聞いているのか!」
「聞いてるよ。それより朝日が昇る前に先に仕事を済まそう。話は後で聞くから……」
「お前はそうやっていつも逃げる……!」
彼女は不満を隠す事はないが、退魔師の役目を遂行 する事に決めたようだった。
「いつも通り、二番と三番は西と南へ、私と四番は北東を廻る。では散開」
青年の二番と少年の三番が仮面を縦に揺らして南西に駆け去る。一番の彼女と四番の私達も北東、彼女が北に、私が東に開くようにして走り出した。
何の抵抗もない赤い光を纏うぼうっとした異形を、短刀で斬りつけて消滅させる。割り当てられた当番の日には、こうして凶事の芽を摘むのが義務付けられている。
彼女が一度笛を鳴らす。南西の方からも笛の音が一度返ってくる。一度の笛は異常なし。二度の笛は異常あり、召集を求める音。
十分間隔で鳴らし合い、互いの無事を確認する。
東の空が明るくなってきた。三度の笛が南西から届く。彼女も三度笛を鳴らして応えた。
三度の笛は解散の合図だ。
「四番……」
私は笛の音に従い家路につく。
「おい!」
《バウ!》
私の代わりに犬が返事をして、彼女はまた怒っているのだろうなと後ろは振り向かずに思ったのだった。
制服を着て、学舎に向かう。お役目の日に迎える朝は、晴れ晴れとした気分にはなれず足元ではしゃぐ犬が一段と鬱陶しくなる。妖魔を喰うと、こいつは元気になるのだ。それはあまり良いことには思えない。
通う先は退魔師に理解のある学校であり、多少の融通が効く。それならいっそさぼってしまってもよさそうだが、すぐに退魔師の一族の方へ連絡が行くのでむしろ窮屈であった。融通が効くといっても退魔師のお役目に対してのみであり、個人の失態の一つでもすれば一族全員に知れ渡るかもしれない危うさがある。学校側の好意と退魔師の利害が一致して、いっそ害悪と呼んでしまっていい監視下に自らの身を晒さなければならなかった。
とはいえ、私は白い目で見られる身。そこまで気にする必要はない。気にしなければならないのは……
「おはようございます」
校門の前に立つ先生に女子生徒が挨拶をする。花の咲くような笑顔を浮かべている。一番である。
「おはよー、おはよぅ、はよーっ!」
先生も無闇に笑顔を生徒達に振り撒いて挨拶をする。頭の中を通り抜ける声が非常に鬱陶しい。
「ちゃんと睡眠取ってるかー? ほら、おはよー!」
「おはようございます……」
陽の気に溢れていて、黒い犬もこれにはたじたじである。校門を抜け、先生から前に目線を戻すと彼女が待ち構えていた。
「三耶麻、後で話を聞くと言っていたな?」
「冴、あー……言ったけど早く教室に行かないと……」
「許可は取ってある。お前の根性を叩き直してやるからこい!」
袋に入れてある長い鉄の棒を眼前に突き付けられた。彼女の武器である。人より魔に狙われやすい一族の者が武器を己の目の届かぬ所にやることはない。武器が手元にあるか否かで死活に関わるのだ。
有無を言わさず彼女が武道館の方へ歩き出す。それにしたって彼女のように目立つ得物を持つ者は少ない。生活する上では全くの邪魔になるからだ。
武道館の扉の鍵を彼女が開ける。畳の匂いと少しの埃っぽさ。靴を屈んで脱ぐと、目の前には鉄の棒。
「ちょっと……」
「しぃっ!」
一呼吸もなく後ろへ半歩、ビュッと空気を斬って棒が過ぎる。彼女の放り出した鞄がドサリと音を立てた。静寂を閉じ込めた彼女の瞳が次の手を示唆する。
「はっ」
私は詰めた息を吐いた。胴を狙った彼女の鉄の棒が空振る。
音もなく息を吸って二歩距離を進めた。それと同時に腰に隠し提げていた短刀を取り出す。
彼女の顔の前に短刀の刃を向けた。
「ちっ」
苦々しげな顔。不意打ちが失敗したのだ、気も悪くなるだろう。冴が下がり、彼女の有利な間合いを保つ。油断なく構えているが、私に攻める気はない。
「真面目にやれ」
「やっているけれど」
「お前は敵に刃を向ける時さえ何か別な事を考えている。そんな事ではこれから先、怪我では済まんぞ」
それは違う。そもそも、これから先の事など私には関係ないのだと言いたい。精々、今日のようなゴミ掃除を仰せつかうくらいだろう。
「紬様が退魔師を集めている。古くなった破魔札の綻びにより、多くの忌地で妖魔が勢いづいているそうだ」
「ここ百年で退魔師の数が半数も減った。遊ばせる人員は無い」
「猫の手も借りたいってわけ?」
「お前は犬だろう」
《バウ!》
犬が返事をした。
「……そうだね。いくら人が少ないといっても、私のような半人前には関係ないよ」
挑発は見え透いていて効果がない。冴も分かっているのだろう、動かない私に鉄の棒を降りかかってきた。
振るう棒にスピードがのってきて、避けるのが難しくなっていく。僅かな隙をつこうとしても、間合いを詰める前に逃げられる。非常に面白くない運びで、どちらが先にミスをするのかの勝負になっていた。
学校のチャイムが鳴る。
「ここ授業で使うんじゃないの?」
「貸し切りにしている」
なぜこの学校は退魔師の横暴を許すのか……。十数年前に学校絡みで妖魔を祓ったとかの経緯があるにしても、生徒の意見を一朝の内に通すとは。
「私は冴のようにするつもりはないよ」
冴が踏み込んでくる。私も合わせて一歩を踏む。お互いの間合いに入った。
先に届く。そう誤認させる距離で、私の肩を強かに鉄の棒が打った。
「……。」
痺れるような痛みに膝をつく。
「まだだ」
冴はまだ私を痛めつける気なようだった。続けてもろくなことにならない。次の私の当番は三日先、冴は毎日街の掃除に出ている。訓練だとしても、誉められた行いではない。彼女も激しく息をし、体力を消耗していた。それでも私に立つように彼女は促す。
確かに油断や気の弛みも良くないが、前提として体調を万全にしなくてはいけない。これでは本末転倒、お役目に影響が出てしまう。
立ち上がらない私に鉄の棒が振るわれる。黒い影が走った。
「……っつ!」
彼女が引き倒される。黒い犬が彼女の左足首に食らいついていた。
「やめろ!!」
彼女の靴下が赤く染まる。黒い犬が牙を立てたらしい。私の声に消されるようにして、犬の姿が霧散する。
「犬め」
忌々しげに彼女が呟く。彼女には珍しく周りが見えてなかったらしい。血がじわじわと流れ止まらない。畳に血が滴る。
私は壁際に座った彼女に動かないように言って靴下を脱がした。牙が深く食い込んだらしく、流れる川のように血が筋をつける。
無地のハンカチをスカートのポケットから取りだし
傷口を圧迫する。
「あれがごめん」
「いい。あしらえない私も悪いんだ」
そのまま小休憩の流れになりそうだった。どっちにしろ血の跡を片付けなければならない。
足に手を当てたまま、犬の姿を探す。
ピチャリと水音がする。
「あの犬、人の血を飲むのか? 精霊に近いものと聞いていたが」
不快を隠さず、彼女が言う。黒い犬は点々と滴った血を舐め取っていたのだった。
ピチャリ、ピチャリと、まるで見せつけるような様だった。黒い犬のような影が赤い舌を掬い取るように動かし、更に赤い冴の血を絡めるようにして飲んでいるのだ。
退魔師の一族に流れる血は、妖魔を誘う。だからこそ、退魔師は退魔師にならなければならなかったのだと誰かが言っていた。そう、退魔師の才に恵まれる者には際立ってその兆候がある。
冴のこの甘い匂いのように。
「三耶麻?」
「……血が止まったね」
「ああ、それじゃあ続きを」
「動かずにちゃんと治した方がいいよ。せめて血の匂いがしなくなるまではね。明日の当番、私が代わるから」
「いや……」
「あれのせいだから責任は取るよ」
「三耶麻!」
言葉を遮られた冴が咎める。出来ればいいたくなかったが、しょうがない。
「冴、足もそうだけど血の匂いがすごくするよ」
彼女の顔がしかめっ面になる。あの黒い犬も匂いに誘われて牙を立てたのだろう。
妖魔を祓うどころか、呼び寄せてしまうのは頂けない。今の彼女は花の蜜のようなものだ。
彼女の匂いは本当に強い。今まで、これといった妖魔が寄り付かないのが不思議なくらいだ。
「犬の真似はよせ……」
「何が?」
「無自覚なのか、いつも人の体を嗅ぎまわって変態のようだぞ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「お前はあの黒い犬にそっくりだ」
冴が目を閉じる。血を失って疲れたのだろう。呼吸が穏やかな寝息に変わる。
手に握っていたままだった血の滲むハンカチに目を落とす。冴の甘い匂いがした。そっと舌を出して舐めてみると、鉄錆びの味がして、黒い犬と私が似ているなんて嘘だと思った。




