1.プロローグ/彼女が患う病の名は
彼女は確信していた。己こそが選ばれるべき存在である事を。いずれは、喚ばれるはずの存在である事を。その為の研鑽は、日々一切の妥協なく行ってきたのだから。
それ故に彼女は、その<非日常>を知覚するなり待ち望んだ展開がついに始まったのだと悟ったのだ。圧倒的な喜びが彼女の身を震わせ、彼女は高らかに宣った。
「異世界の皆さん、こんにちは! 私が伝説の勇者です! 皆様、私がやって参りましたからにはどうぞご安心下さい。必ずや悪の魔王を打ち倒して、皆様の安寧の日々を取り戻して見せましょう!」
*
目の前を歩く彼女は、向けられる羨望の眼差しに一切頓着する様子も無く、颯爽と廊下を進む。すらりとした足が優雅に歩を進めれば、長い黒髪が揺れ周囲から恍惚ともとれるため息がもれた。
そんな周囲を魅了する彼女の名前は、藤野桜。彼女を形容する言葉は沢山ある。
曰く「眉目秀麗」曰く「才子佳人」曰く「磊落不羈」等々。誰もが美辞麗句を並べ奉る。生家も歴史有る名家でその跡取りたる彼女は、客観的にそうお目にかかれない完璧な令嬢と言えるだろう。唯一つの、欠点を除いて。
彼女は病に掛かっているのだ。とは言っても、別に体が悪い訳ではない。そう、唯一の彼女の欠点それは――
「ねぇ、大和君」
くるりと振り向いた彼女が囁く様に声を掛けて来た。内緒話でもするかのように、手を口元に添え上目遣いにこっちを見ている。実にあざといポーズだ。
しかし、それが素の行動であることを知っている俺は努めて平静に返事をする。
「どうした、桜」
正直に言って、この時点で嫌な予感が拭えなかったが、先を促すと彼女はにっこりと綺麗な微笑みを浮かべて言ったのだ。
「私ちょっと呼ばれているようなので、異世界に行って来ますね」
――以上の会話からご理解頂けるかもしれないが、彼女は重度の厨二病患者なのである。
いせかいにいってくる……聞き間違いもしくは誤変換の可能性を疑って言葉を反芻してみるも、どうにも上手く咀嚼出来ない。おかしいな、日本語じゃないのか。仕方が無いので、言葉の咀嚼は放棄しよう。いつもの事だ。さりとて、このまま何処かへ行かれるのは困るので彼女の手を掴んで言う。
「はいはい、生徒会の仕事が終わったらな。テスト明けで仕事が溜まってますよ、生徒会長様」
そして、そのまま彼女の手を引いて生徒会室へと連行したのだった。彼女は促されるまま着いて来るも「まおうをたおさねば」「ゆうしゃとしてのしめいが」と謎の言語を零している。
また、周囲の生徒達からは「大和……また藤野さんに気安く触りやがって……」「副会長だからと許されんぞ」「闇討ちしかあるまい……」等という声が漏れていたが、気にしてはならないのである。あー、あとそこの君は物騒な事は止める様に。頼むから。
*
場所は変わって、生徒会室。桜は手際良く仕事を片付けて行く。こうやって何事もそつなくこなす様を見ると、やはり言動以外は本当に良く出来た人間だと思う。繰り返すが、言動以外は。
その厨二病な言動も、不思議な事に極身近な者にしか認識されていないらしく、完全無欠な存在として周りからは扱われている。何とやらは盲目なのか。生徒会長としての人気は歴代でもで群を抜いているらしい。果てにファンクラブなるものまで発足され、日々彼女を崇拝しているのだとか。
そんな桜と俺は、他の役員達がまだ揃っていないため只今二人きりの状況。一般的にカップルでもない高校生の男女が二人きりなんて居心地の悪い思いをするのかもしれないが、言ってしまえば俺と彼女は幼馴染の関係なので、慣れきってしまった空気にそんな居心地の悪さなんてものは感じない。彼女の仕事ぶりを眺めるに俺の手は必要無い様で、手持ち無沙汰な俺はお茶でも淹れようと席をたつ。
誰が持ち込んだのかは不明だが、生徒会室には電気ケトルが置いてある。それでお湯を沸かし、今日は家からこっそり拝借しておいた秘蔵の茶葉を丁寧に蒸らして抽出する。俺の淹れたお茶が好きだと言ってくれた彼女の為に、特別美味しくなるように。
お茶の準備を整えて、ちらりと彼女を見やる。
もう仕事は片付いたのか、彼女は窓から外を眺めていた。
開け放たれた窓から風が入り込み、彼女の長い黒髪とカーテンを揺らす。
窓の外から射し込むオレンジ色の光が、彼女の白い肌を照らし、陰影を作る。
――その光景は一枚の絵の様に美しく、息をのむ。普段見慣れているはずの彼女は、やはり、どうして美しく、そして心臓に悪い。どきどきと、脈打つ心臓に静まれと命令するが、治まる様子は無く、表面上の平静を保つので精一杯だった。
お茶を乗せたお盆を持ったまま立ち尽くす俺に彼女が気付く。小首をかしげて何かを口にしようとしたが、ちらっと外に目を向けてふるふると首を振る。俺の居る場所からは、何を見ているのかは分からない。彼女が少し困った様に微笑んで言った。
「ごめんなさい、大和君。私、行かなくてはなりません」
その言葉と同時に、突風が窓から侵入しカーテンを大きくはためかせる。強い風で反射的に閉じた目を開けた次の時に、其処に居たはずの彼女の姿は無かった。
「桜……?」
黄昏色に染まる部屋で、俺の言葉への返事は無かった。
風に煽られたカーテンがぱたぱたとはためく音だけが聞こえる。