妹背(四)
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彼女は、野宮の祭殿にいた。
宴席で告げられたことが、彼女の耳と心に木霊していた。
『好きなの、風花兄さんが。だから、今夜、告白するんだ』
彼女は、思う。
あの子の告白に、お兄さまは、どう応えるのだろう。私は、どうなるのだろう、と。
暗闇がいたたまれず、灯明を点す。
供物を整え、神酒の蓋を取る。幣を振り、鈴の音で気を清めてから、二礼し二拍手。次は、祝詞の奏上だ。そらんじているはずなのに、間違えそうになる。心が、ここにないからだ。
どうにか祈祷を済ませ、神前を辞する。
扉を開けて縁台に出る。
仰ぎ見た夜空には、銀の砂を撒き散らしたような天の川があった。
天にはあれだけ星があるのに、地は闇に閉ざされていた。
闇は怖い。私が闇に溶けて、闇とひとつになる。それは、私が、私でいられなくなるということ。
竹林を抜ける風が、さやさやと音を立てていた。それは、まるで私の名を呼ぶ、お兄さまの声のよう。
もっと、私の名を呼んでください。そのときだけは、私が私でいられるから。
『桜は、兄さんに幸せになってほしいよね。だったら……』
私は、衣装を脱ぎ捨てた。
色とりどりの薄衣が、はらはらと縁台に落ちる。一枚ごとに、私の心身を縛るものも、一緒に脱げていく。けれど、身に着けていたものがすべて無くなっても、私自身というくびきを無くすことはできなかった。
風に舞い上がった蛍の燐光が、私の素肌をほのかな青緑色に照らす。
この身体にはもう、お兄さまが深く刻み込まれている。だというのに、なぜ、私はこんなにも不安なのだろう。
『……邪魔しないでね』
あの子の言葉が、私を打ちのめした。
それは、私にもわかっているのだ。お兄さまの存在は、私を不安にさせる。お兄さまを思えば思うほど、私の心の闇は深くなり、この身の穢れを思い知るのだ。
ねえ、あのひとのことは、どうするの。
もうひとりの私が、私に問いかける。
私を慈しみ、私に限りない愛を注いでくれるあのひとを、裏切り続けるの?
だって、と私が言い訳をする。
あのひとは、私を見てくれないの。あのひとが愛しているのは私じゃない、あのひとが抱いているのは私じゃないのよ……。
だからこそ、たしかなものが欲しい。
たとえそれが、この心の闇を深くし、この身の穢れを増やすものでもかまわない。
あのひとを裏切ったときから、私の心はもう壊れていた。
そして、この世に生を受けたときから、私の身は穢れていたのだ。
だから、私が私だというたしかな証を、この心とこの身に刻み付けて欲しい。
あなたが私の運命なら、あなたのその手で。あなたが私の運命でないのなら、いっそ他の誰かの手で……。
私は、その夜、ひとつの賭けをした。
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橘花の告白は、可愛いと言っていいほどの純真なものだった。
風花は、驚きながらも、やはりそうだったかと腑に落ちる部分もあった。だが……。
「よせ、橘花」
風花は、その思いをはねつける。なぜか、無性に腹が立っていた。
「橘花は本気だよ。兄さんは、橘花のこと嫌いなの?」
嫌いなはずがなかった。
だというのに、この嫌悪感はなんなのだ。
裏切られたような気がした。今日の今日まで仲のよい兄妹だと思っていたのに、私は女であなたは男ですと宣告され、それを認めるかどうかの選択を迫られているような気がした。
言うまでも無く、橘花は、理想的な結婚相手だ。
気心も知れているし、上手くすれば右大臣家の勢力を取り込むこともできるだろう。
だが、こうして親密に酒を酌み交わす仲ではあっても、幼いころから兄妹としてじゃれあってきた橘花は、風花にとって恋愛や結婚の相手にはなりえなかった。むしろ、実妹とはいえ生まれてから一度も会ったことがなかった桜の方が、恋愛の相手として自然に受け入れてしまう自分がいた。
「おまえのことは、好きだよ。でも……」
それは男と女の間の感情ではないのだ、と言おうとして、風花は言葉に詰まる。それは風花の偽らざる心境だった。なのに、なぜだろう。何かがひっかかる。
ならば、私は桜を選ぶのか。
だが、お互いの立場を思えば、それはできない選択だ。
たとえ理想の恋人であっても、桜の気持ちは拒絶するべきなのだ。
自分の気持ちを偽ってでも許された相手を選ぶのか、それとも、自分の気持ちに正直になって許されざる相手を選ぶのか。
その葛藤が、風花を沈黙させる。
「夜桜の君……桜がいるからでしょ」
いきなり図星を指されて、風花は言葉を失う。皆の前では、そんなそぶりを見せないようにしていたつもりだったが、女の直感は思いのほか鋭いようだ。
「兄さんを好きになったのは、橘花の方が先だったんだよ。小さなころから、兄さんだけを見ていた。兄さんに気に入られたくて、今まで頑張ってきたのに、なんでいまごろ現れた桜なの? 桜は兄さんの本当の妹だよ。好きになったって、それでどうするっていうの。それでも兄さんは、桜がいいの?」
橘花が、風花の胸に飛び込んできた。細くてしなやかな腕が、風花の背中に絡みつく。吐息が、ほんのりと甘い酒の香りを含んでいた。
「……兄さん、桜を抱いたんでしょ。だったら橘花も抱いてよ。そしたら、橘花の方がいいってわかるから。桜なんかに、絶対に負けないんだから」
堰を切ったような橘花の求愛に、しかし風花の胸はどきりともしなかった。
風花は、震える妹の身体に、そっと袿を羽織らせる。
「すまない。私はもう、桜の他に欲しいものはないのだ」
風花は、口をついて出た自分の言葉が、胸にすとんと落ちてきたように感じた。それでやっと、自分の本当の気持ちがわかった。
橘花の目から大粒の涙が落ちた。
「ひどい、ひどいよ、兄さん……。橘花をもらってくれないの? 橘花には何もくれないの? たった一度でもいいのに……」
風花は、泣きじゃくる妹を抱き寄せる。
橘花は、風花の腕の中でしゃくりあげながら、ひとしきり何かをつぶやいていたが、やがて落ち着いたようだった。
「橘花は兄さんのこと、大嫌いになりました。すごく泣かされたから、仕返しをしてあげる。あのね、安濃兄さんが桜を狙っているよ。せっせと文を書いていたし、お父さまに話をするつもりみたい。あぁあ、いっそのこと安濃兄さんが桜をさらってくれないかな」
異母妹の精一杯のやせ我慢に、風花は心の中で詫びる。
「きつい仕返しだったよ。おかげで、私も橘花を大嫌いになれそうだ」
「兄さんも桜も、ばかだよ。兄さんは橘花となら、桜も安濃兄さんや初瀬兄さんとなら、皆に祝福されて幸せになれるのに。どうして、ふたりとも不幸になる道を選ぶのよ」
橘花の言葉は、たぶん正しい。それは、風花もわかっていた。
だが、それでも私は……。
「たぶん、それが私たちにとって、いちばん幸せになれる道だからだよ」
風花の答えに、橘花は深いため息を落とした。
「本当に、ばか……。さっさと、桜のところに行っちゃえ」