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妹背(三)

 賀茂祭の当日は、朝から晴天に恵まれた。

 都の最北端にある一条大路は、祭のいちばんの見ものである勅使行列をひと目見ようと押しかけた人々で、わずかな隙間もないほどの賑わいを見せていた。


 勅使行列は、野宮を発して御所で帝の謁見を受けた後、一条大路を通って賀茂川と高野川が合する地にある賀茂下社御祖神社へ向かうことになっていた。最終的な目的地は、都の北西の郊外にある賀茂上社別雷神社だが、行列を見物する人々はもっぱら一条大路をその場に選んだ。

 広大な一条大路の両側には、貴族たちの牛車や桟敷席が並び、その合間には都の町衆や地方から上洛した者たちがひしめき合っていた。なかには、見物するのに都合のいい場所を巡って諍いや喧嘩をする者もいたという。


 待ちわびる人々の耳に、「行列が来たぞ」という叫び声が聞こえた。

 警備役の検非違使や山城国司らが衣冠を正し、騎乗して行列を先導する。白装束の内蔵寮史生たちが、賀茂大社に奉納する宝物を収めた木箱を担いで行き、馬寮使たちが馬を引き連れて通り過ぎる。ここまででも、すでに行列の人数は数百人を数える規模だ。


 続いて、勅使の一行が現れた。人々は、いっせいに注目する。どこからか、おおっという声が上がった。

 勅使の一行の中央の馬上に、衣冠に葵の葉を飾った風花東宮の姿があった。

 男子でありながら、その風貌は少女を思わせるほどに美麗だ。武具に身を固めた異母兄弟の二人の親王が、随身として東宮の両脇を守る姿も威風堂々たるもので、見物に集まった者たちはただ見とれるばかりだった。


 勅使の一行の後ろに、斎王の一行が続いてきた。白い装束に身を包んだ女たちに囲まれて、二つの輿がしずしずと進んできた。

 前の輿には、唐衣裳装束姿の橘花内親王が、斎王を補佐する采女役として、取り澄ました顔で座っている。愛らしい皇女の姿に、沿道の観客から歓声が上がる。


 そして、斎王を乗せた輿が現れた。

 初めて人前にその姿を見せる深窓の斎姫、春爛漫に咲き誇る花の名を頂くその皇女は、鮮やかな紅白の唐衣裳装束だった。額の両側に長く垂らした白い日蔭糸飾りが、漆黒の髪に映える。透けるような白い顔に、涼やかな目。鮮やかな紅に彩られた、小さな唇。清らかでありながらも、どこか妖しげな艶めかしさをたたえた笑顔。

 人ならざるものをすら思わせるその美貌は、人々を畏敬させ、そして魅惑した。

 あれが斎王、あれが神に愛された処女(おとめ)か……。


 この年の賀茂祭の隆盛ぶりは、斎王衣通桜内親王の神がかった美貌とともに、人々によって語り継がれることになった。



 祭礼が無事に終わったことを祝って、野宮で後宴が催された。

 夜風に、篝火が揺れる。雅楽を奏でる管弦の調べは、境内に木霊した後に、暗い竹林に吸い込まれていく。笹の葉の間には、青緑色の蛍火がひとつ、ふたつと点っていた。


 風花は、明滅する蛍火を眺めていた。

 今日は、無我夢中の一日だった。祭礼の勅使という重役をこなしながらも、いつも桜の姿が脳裏にちらつき、その一挙手一投足が、風花の気持ちを乱し続けた。

 このままで、良いわけがない。答えを出さなければならないとわかっているのに、桜のことを思うだけで、何も考えられなくなる。

 私はいったい、どうしたというのだろう。


「兄上」


 ぼうっとしていた風花を、初瀬の呼び声が現実に引き戻す。


「お疲れのようだな。……あれのせいか?」


 杯に酒を注ぎながら、初瀬は視線を泳がせる。その先を追うと、橘花と話し込む桜の姿があった。


「夜桜の君、だな」

「ああ……」


 風花は、曖昧にうなずく。


「言いにくいことだが。……これきりもう、会わない方がいいと思う」


 そのとおりかも知れない、と風花は思う。

 どれほど恋焦がれたところで、実妹であり斎王である桜と、これ以上関係を続けるべきではないだろう。

 それは、奇しくも昨日、自分自身が語ったことではなかったか。


 それしかないな、と答えようとしたときだった。

 視界の隅に、突然席を立った桜をとらえた。

 桜は、険しい眼差しで橘花を見下ろした後、踵を返して誰にも見向きせずに部屋を出て行った。

 残された橘花は、肩でひとつ息をしてから、こちらに視線を投げてきた。

 風花と目が合うと、その顔に苦い笑いが浮かんだ。

 声をかけようとした風花を見透かしたように、橘花もまた席を立った。そして、小さく首を振ると、桜とは反対側の几帳の向こうに姿を消した。

 主人と、主客の一人が退出した宴席に、気まずい空気が流れる。

 祭礼の疲れもあって、宴はそのままお開きになった。



「兄さん、今夜は飲もうよ」


 酒肴を携えた橘花の訪問を、風花は寝所で受けた。

 まだ宵の口という時刻だし、さきほどの一件も気になる。

 ああ、と答えて風花は彼女と向かい合って座った。

 改めて見ると、橘花はとても愛らしい娘だ。初瀬が妻にしたいと望むのも、わかるような気がする。


「何かな、橘花のことじっと見て」

「いや、なんでもない」


 曖昧に返事をして、風花は杯を空けた。すぐに橘花が酒を注ぐ。


「そうだ、橘花。さきほどは、いったいどうしたのだ」

「ああ、あれ……」


 橘花がため息をついた。


「桜に、いろいろ教えてあげたのよ。橘花の好きな人のこととか、ね」


 なぜそれで喧嘩になるのかわからないが、橘花に思い人がいるという初瀬の言が、本人によって裏付けられた。


 思い人か、と風花は思う。

『お兄さまがいればそれでいい』と桜から告げられたとき、風花は目が覚めたような気がした。だが、その真っ直ぐな思いを受け入れることにはためらいがあった。

 風花は、目の前の橘花を見やる。

 皇女である橘花は、いずれ三人の皇子の誰かと結婚することになる。天皇家や貴族は、血統が薄れたり財産が散逸したりすることを防ぐために、血縁関係者での結婚を繰り返していたからだ。


「ねえ……」


 だが、実の兄妹での恋愛や結婚となれば、風花の知る限り前例はない。身内や臣下がどのような反応をするのか、想像もつかない。兄と妹、そして、東宮と斎王。なにもかも乗り越えて、ひとりの女として桜を愛することができたらどれほどいいだろう……。


「ねえったら。また橘花のことは、無視ですか」


 気がつくと、橘花が拗ねていた。

 風花は、うつつを抜かしていたことを詫びた。


「いいんだけど。……ねえ、風花兄さん。それでね……今日の橘花は、どうかなって」

「どうって、とくにどうということもないが」


 風花の気のない返事に、不満そうな顔をして橘花が立ち上がる。いつもとは違う香の匂いがした。

 橘花は帯を解くと、袿を脱ぎ捨てた。

 風花は、慌てて目をそらせた。


「兄さん、橘花を見て。今日こそはって思って、綺麗にしてきたんだよ。香だって変えたんだから」


 ほの暗い燈火が照らし出した異母妹の裸体は、まだ青い幼さを残していた。桜が咲き誇る花なら、橘花はこれから花開こうとする蕾のようだった。


「……酔っているな、橘花」


 橘花の白いつま先が一歩を踏み出し、風花との距離を詰めた。

 そして、ささやくような甘い声が、風花の耳元で告げた。


「うん、酔ってる。だから言っちゃいます。橘花は、ずっと風花兄さんのことが……」

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