妹背(二)
ゆっくりと巻き上げられる御簾の向こうから、薄紅から濃紅に至る衣三枚と白の衣を重ねた撫子の五衣に、白の唐衣、同じく白の裳を身につけた小柄な少女が姿を現した。
三人の親王が、それぞれに息を飲む。
風花は、今更ながら、自分の不明を後悔した。
妹がいるということが知れた時点で、もうすこし深く洞察すればわかることだった。正装ではない小袿で清涼殿の庭を歩けるなど、天皇家に匹敵する身分の者でなければありえないことではないか。そして、秋月帝の皇女の中で、あの時点で面識のなかった人物は一人しかいないのだ。
斎王は、真っ直ぐに風花を見ていた。
風花は、思わず斎王から目をそらせた。
やっと再会できたというのに……。
途方に暮れる風花に、斎王がふっと笑った。
「このような草深いところまで訪ねてくださり、ありがとうございます。……風花お兄さま」
野宮に夜の帳が降りたころ、風花は斎王からの呼び出しを受けた。
それを伝えにきたのは、斎王に仕える内侍だった。内侍とは、本来は帝の側近に仕える高級女官のことで、帝と臣下の者の取次ぎをしたり、後宮の式典などを取仕切る役職の者だ。帝は、そのなかでもとくに優秀で信任も厚いこの者を、斎王が幼少のときからその専属女官としていたという。
風花は応じるかどうか迷った。
そもそも、面会の後に行われた打ち合わせを、体調の不良を訴えて早々に切り上げさせたのは斎王だった。それを、今になってどういうつもりなのだろうかと思いつつも、彼女の気持ちを確かめるいい機会だという思いもあった。
結局、面談を承諾し、内侍に伴われて斎王の寝所に出向いた。
斎王は、褥の上に座して風花を待っていた。
こころなしか疲れているように見えたが、透き通るような肌と宵闇のような髪は艶やかで、むしろ色香が増したように感じた。
風花が座ると、斎王は、けほっと軽い咳をしたあと笑顔を浮かべた。
「わがままを言ってごめんなさい。お兄さまと、ゆっくりお話しをしたいと思ったの」
「それは、私も同じだが。その、大丈夫なのか? ……斎王さま」
風花は、とるべき距離を図りかねていた。
「桜、でいいわ。今日みたいに、人が多いと、ちょっとね。桜は人付き合いが下手だから、疲れただけ。内侍が心配しすぎなのよ」
「ですが、斎王さまはお身体が弱いですから」
そばに控えていた内侍が、ぴしゃりと答える。
父帝の信任が厚い女性だと聞いている。安心して娘のことを任せているのだろう。
「内侍どのがそばにいれば、安心できますね。妹も……桜も、心強いことでしょう」
「まあ東宮さま、お上手ですこと。主上によく似ていらっしゃるわ」
その言動には、長らく帝に仕えていた者らしい貫禄があった。
「ねえ内侍。せっかくお兄さまが来られたのだから、すこし遊びたいわ。いいでしょう」
明日は早いのにとか、子供ではないのですよとか言い募る内侍に、桜は目元を潤ませた。
「桜の病は、気晴らしをしないと治らないのに。内侍のいじわる」
「ああもう、わかりましたから。そんな涙目で、すがるように見ないでくださいな。すこしだけでございますよ」
内侍は釘を刺したつもりだったのだろうが、桜は弾けたような笑顔を浮かべた。
そのあどけない笑顔に、風花はまた戸惑いを覚える。夜桜の君として愛し合った情熱的な女性と、目の前で笑う少女が、同じ人物であるということが信じられなかった。
「ねえ内侍、お菓子を持ってきて。桜、お腹が空いたわ」
「えっ……あら、そうでしたわね。気が利かなくて、申し訳ありません」
内侍は、風花に意味ありげな微笑を投げてから廊下に消えた。その足音が遠ざかると、静寂が訪れた。
「お兄さま」
桜がその沈黙を破った。
「ようやく、二人きりになれました。こうしてまたお会いできるとは……やはり、お兄さまが言ったとおり、浅からぬ縁があったのですね」
内侍に甘えていたときとは違う、落ち着いた口調だった。大人びたその声音に、風花はたしかにこの人が夜桜の君だと実感する。
「あのとき……桜は、わかっていたのか」
桜が無言でうなずく。
顔にかかる長い黒髪の下で、そうでなければ身体を許すはずがない、とその目が語っていた。
「私は、知らなかった」
「なにをですか」
「桜のことを、何も」
燈火の炎が揺れて、桜の顔の陰影が変わる。少女の貌が、女の貌になった。
「知っていたら、抱かなかった?」
そう問いかける艶やかな唇と、微かに震える白い喉元に、風花の視線が釘付けになる。
「いや違う、そうではない。だが……」
上手く答えられない。考えがまとまらない。
桜から漂う芳香と妖艶な色香が、風花の理性を根こそぎ奪っていく。
「桜を抱いたことを、後悔しているの?」
風花は、首を振った。
「後悔などしていない。ただ……上手く言えない。正直、戸惑っている。私はどうするべきなのだろうか」
「お兄さまは、どうなされたいのですか」
桜の言葉が、耳に痛かった。
「それが、わからないのだ。私は、卑怯な男なのかもしれない。あのときの約束を……。だが、桜は私の実の妹だし、賀茂斎王だ」
逃げ口上だと、風花は思った。私は、そんなことを伝えたかったのか。いや違う、という心の声がした。
「桜は女だから、殿方のお考えはわからないわ。でも桜は、お兄さまを愛しています。お兄さまを桜だけのものにしたい。桜はお兄さまだけのものになりたいのです。だから……」
廊下から、衣擦れの音が聞こえた。内侍が、茶菓を整えて戻ってきたのだろう。桜が風花の目を見つめたままではっきりと告げた。
「桜は、お兄さまがいればそれでいい」