妹背(一)
薫風の皐月。
賀茂祭が、都に夏の到来を告げる。
祭礼に合わせて、長らく空位だった賀茂斎院に、新しい斎王が立った。
都の守護神たる賀茂大神に仕え神事を取り仕切る斎王は、歴代、未婚の内親王が選ばれて務めるのが慣わしだった。
しかし、先代の斎王八花内親王が退任してから二十年ほど経っているが、その間に斎王も立たず、賀茂斎院はこのまま廃れるのではないかと言われていた。
それを復活させたのは、秋月帝だった。
斎王たるべき皇女は、数年前にすでに決まっており、野宮の落成を待っていたという。
その名は衣通桜内親王。
秋月帝と咲耶の間に生まれ、母と同じ「衣通姫」の名を継ぐ皇女で、風花にとっては実の妹ということになる。
なる、のだが……。
賀茂祭の巡行を翌日に控えた日、祭礼の勅使として、風花、安濃、初瀬そして橘花が、斎王である桜内親王のもとに遣わされた。
賀茂斎院の野宮は、上京の一角、紫野に置かれるのが通例だ。しかし、今回は桜内親王のたっての願いで、嵯峨野に置かれることになったという。嵯峨野は、都のある盆地が西の山並みに接するあたり一帯を指す地名だ。その鄙びたたたずまいを愛でる風流人たちが、物見遊山に出かけたり、別荘を構えたりしている土地でもある。
嵯峨御所という離宮もあって、風花も何度か滞在したことがある。
人家も稀な見晴るかす野の道を、風花たちは馬を並べて進む。足元には、初夏の陽を浴びた草花が風になびいていた。
野宮のある竹林に入ったところで、馬上の初瀬が風花に尋ねてきた。
「なぜ今になって、誰も知らなかった内親王がいきなり現れるのだ。これではまるで隠し子ではないか。いったい、どうなっているのだ、兄上」
「それは私が聞きたいくらいだ。私に実の妹がいたなど、知りもしなかった。大津宮で育てられていたというが……」
答えながら、風花は、いたたまれない気持ちを持て余していた。
帝は――父は、時が来れば話すつもりだった、と言うが、納得できる説明はなにもなかった。花宴での母との面会にしても、今回の妹の出現にしても、どうしてこうも私は血を分けた家族と引き離されなければならないのか……。
風花たちからすこし離れたところでは、しかめ面の安濃が、橘花にからかわれていた。
「……ええい、相変わらずうるさいやつめ。日向宮の連中の話しなど、聞きたくもないわ。久坂親王が、なんだというのだ。父上の叔父とはいえ、敵も同然の老いぼれの元に、なにも奈方姉上が嫁ぐ必要などなかろうに」
「安濃兄さんの、ばぁか。橘花の話しは、聞いておいた方が絶対に得なんだよ。お父様はね、奈方姉さんの代わりに、美女として有名な日向宮の日下内親王を、兄さんたちの誰かと……」
橘花は牛車には乗らず、壺装束に指貫を着用して自ら乗馬していた。
そのかしましさが、今の風花たちには、逆に救いになった。
初瀬がやれやれとばかりに、首を振る。
「橘花もあれで、おとなしくさえしていれば、可愛いのだがな」
異母弟が橘花を褒めたのは、初めての事だった。風花はすこし驚いた。
「なんだ、初瀬。おまえ、橘花が好きなのか」
「なぜそうなるのだ。だいいち、あいつには思い人がいるのだぞ」
「橘花に思い人とは、初耳だ。いったい誰なのだ」
初瀬は、あきれたようにため息を落とした。
「げに思うに任せぬは恋の道だな。そういえば、兄上の夜桜の君は、結局見つからずじまいか」
初瀬の軽口に、風花は気色ばむ。
「しまいになど、するものか」
「まあ、そうだろうな。気持ちはわかるが……」
兄弟の会話に「ねえねえ」と割り込んできたのは、またしても橘花だった。
「兄さんたち、なに話してるの」
いつの間にか、橘花が馬を並べて来ていた。安濃をからかうのに飽きたのだろう。
「いや、なんでもない。並ぶと危ないから、後ろに下がれ」
風花が掌をひらひらさせて追い払うと、異母妹はすねたように口を尖らせた。
「風花兄さんは、いつも橘花を邪険にするんだから」
「兄上は、夜桜の君に夢中なのだ。おまえの相手など、できないとさ」
風花の状況と気持ちを代返した初瀬に、橘花は食い下がった。
「そんなの嫌だ。ねえ、夜桜の君って誰のことなの」
風花は、懐から扇を取り出す。あのときから、肌身離さずに持ち歩いているのだ。
それを見た橘花は「ああ」と声を落とした。
「花宴のときのひとか。もう忘れた方がいいと思うよ。……そうそう、桜斎王って、すごい美人なんだよ。兄さんも、びっくりするんじゃないかな。でも、まあ、実の妹だからね」
どこか険を含んだ嫌味を感じる橘花の言葉に、意外な人物が反応した。
「それほどの美人なら、とうの昔に人の口に上っていてもおかしくないはずだ。だが、そんな話は聞かぬ。だいたい、女が美しいと褒める女に、まともな美人がいたためしがない」
安濃の懐疑的な発言からは、おそらく敗北続きであっただろう彼の恋愛経験がしのばれた。初瀬と橘花が、肩を震わせて笑いを堪えている。
「なんにせよ、斎王さまだ。そういう相手ではなかろう」
風花は、そう答えて馬を急がせる。しかし、心の中では、安濃の言葉に相槌をうった。
そうとも、どんな女だろうが、夜桜の君には絶対にかなわないのだ。
嵯峨野の野宮は、清々しい竹林の緑のなかに、ひっそりと建っていた。吹きぬける風の音はさやかで、そこはかとなく漂う清らかな空気が、神聖な場所であることを感じさせた。
野宮は、潔斎中の斎王の仮宮であるから、一代ごとに作り直されるしきたりであり、周囲に小柴垣を巡らせ、黒木の鳥居を立てた簡素な造営の宮だ。白砂の境内に立ち並ぶ板葺屋根の社殿は、白木の匂いもまだ新しかった。そして、そこここに飾られた生花は、ここが女性の取り仕切る宮であることを感じさせた。
御所の紫宸殿を小ぶりにしたような正殿にある斎王の御座所で、兄妹たちは会見することになった。
正殿の母屋の中央、一段高い場所に斎王の御座が置かれ、御簾がおろされていた。賀茂大神を奉るこの社においては、勅使である風花たちよりも、祭事を執り行う斎王の方が上座に着席する。
女官や神官が居並ぶなか、斎王御座の正面に座った風花たちは、威儀を正して一礼する。
普段はふざけた態度の初瀬も、神妙な顔つきで頭を下げていた。橘花も衣装を改めて正装をしていた。
「斎王におかれましては、つつがなくご潔斎を済ませられましたこと、帝に代わりましてお祝いを申し上げます。また、明日の祭礼が滞りなく行われますよう、我ら心をひとつにして賀茂大神に御仕え奉る所存にございます」
風花の奏上が終わると、御簾の向こうで、鈴を転がすような涼しい声が答礼を述べた。
「ご勅使の儀、ご苦労さまにございます。賀茂大神のご加護と帝のご威光によって、このたびの祭礼も無事執り行われることでしょう」
風花は、その声音に聞き覚えがあった。
気のせいか……いや、まさか。
斎王が、お付きの女官に告げる。
「御簾を上げてください。顔を見て、ご挨拶したいわ」