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花影(五)

 庇の格子が、微かに白くなってきた。そろそろ、夜明けも近い時刻だ。

 風花は、けだるいまどろみの中にあった。


 夢うつつのような一夜だった。

 何度も、身体を重ねた。すべてを与えつくし、すべてを与えられた、そんな満足感があった。


 だが風花は、満足感とともに、やるせない気持ちも抱いていた。

 女が立ち上がって、衣装を整える。略装の小袿とはいえ、ここまで乱れたものを着なおすのは、一人では難しいはずだ。だというのに、女は優雅な仕草で、五衣を整えていく。

 手馴れているな、と思いながら、風花は声をかけた。


「どうか、名を教えてください。またお会いしたいのです」


 女は、無言で首を横に振る。長い髪がさらりと揺れた。

 なぜいまさら拒むのか、風花は女の態度が理解できなかった。


「一夜限りのことにしたいと言うのですか。言ったでしょう。私は、そんなつもりで貴女を求めたのではありません」


 少しむきになってそう告げた風花を、女は険しいまなざしで睨みつけた。


「それは、私も同じことです。誰とでも褥を共にするような女だと、思われたくはありません」


 女の言葉に、風花はたじろぐ。

 見た目のなよやかで儚げな印象とは反対に、芯は強そうだ。


「では、なぜ」

「故あって、私は名乗れません」


 女は強情だったが、風花に引き下がるつもりはなかった。


「貴女とは、浅からぬ縁を感じる。なのに貴女は、朝露のように私の前から消えてしまうというのですか。名前がわからなければ、訪ねていくこともできない」


 女の顔から険しさが消え、微かな笑みが浮かぶ。

 しかし、その眼差しは、まるで値踏みするように風花を見据えていた。


「私が名前を教えないまま、あなたの前から消えたとしたら、草を分けてでも探してはくださらないというのですね。それなら、私のことなど儚く消える草の露と思って、このままお忘れください」


 見事な切り返しに、風花は言葉に詰まる。


「……これは、私の方が言い方を間違えました。私が貴女を探し回るようなことをすれば、やがてはそのことが人の口の端に上るでしょう。つまらない噂話が、貴女を傷つけるかもしれない。私は、貴女のことが大事なのです」


 風花の言葉が終わらないうちにも、殿中に人の気配がしはじめた。

 御所の貴人に仕える女性である女房たちも、そろそろ起きだしてきたようだ。早く退出しないと、彼女たちの目に留まってなにかと面倒だ。


「早くお出にならないと、夜の闇がすっかり消えて、身を隠すことができなくなりますよ」

「ならばせめて、扇を取り替えてください。これは、私の気持ちとして。そちらは、この出会いの証として」


 風花の申し出に、女はようやくうなずいた。


「必ず、貴女を見つけ出す」


 風花はそう告げると、名残を惜しみながら退出した。



 それからというもの、風花の心は、あの女のことでいっぱいになった。

 いままで風花が出会った女性が、すべて色あせて見えるほどの相手だった。あれほどの美貌と才気でありながら、いままで人の噂が立たないのがいかにも不思議だった。


『本気でないのなら、このまま忘れてください』


 恋の駆け引きにしては、彼女にずいぶんと分が悪いように思える。それだけ、自分の魅力に自信があるということだろうか。

 風花は、清涼殿の渡廊下で見かけた橘花に声をかけた。


「昨夜の花宴に、見知らぬ女がいた」


 橘花は、にこりと笑って、自分を指差す。


「おまえじゃない」

「昨日は、そう言ってたのに。なによ」


 そっぽを向いて膨らませた彼女の頬を突いて、こちらを向かせた。橘花はすこし不機嫌そうな表情だったが、風花は気づかないふりをした。


「妹背の桜の下に立っていた女だ。おまえも、見ただろう」

「……ううん」


 橘花が首を横に振る。だが、浮かべた居心地の悪そうな表情で、風花はいまの否定が嘘だと見抜いた。


「とても美しいひとで、萌黄の五衣に桜花の小袿を着ていた。誰だろう」

「だから、知らないって……」

「なら、これはどうだ?」


 風花は、手元の扇を広げて見せた。桜の三重がさねで、色の濃い方に霞む月が描かれており、それが水面に写るという趣向の絵柄だ。珍しい図柄ではないが、まさしくかの女を象徴するものだと風花は思った。

 橘花は、扇の面を指でさらりと撫でた。


「いいものだよ、これ。こんなの、橘花も持ってない。でも、なんで兄さんが、女物の扇を持ってるの」

「それで、心当たりは?」


 一瞬ためらった後で、橘花が首を振る。


「なくは、ない。でも……」


 なぜか言葉尻を濁して、話しにくそうにしている。橘花にしては、めずらしいことだった。


「いや、いいんだ。引き止めて悪かったな」


 そう言いながら、風花は橘花の髪を軽くなでた。

 いつもなら、くすぐったいよとおどけるはずの橘花が、びくりとその身体を強張らせた。


「あ……やだ。……どうして」


 戸惑いの眼差しを風花に向けた後、橘花はうつむいた。

 小さな身体が、小刻みに震えていた。

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