花影(四)
夜は、すっかり更けていた。
月は中空にあり、春の霞をまとっている。
午後から続いた花宴もおひらきとなり、御所は余韻を残しつつも静まりはじめていた。
風花は、ひとりで清涼殿に続く渡廊下を歩いていた。
久々の深酒に酔っているが、とてもこのまま眠る気にはなれない。
ここの庭で、あの女を見かけたのだ。
妹背の桜の下にいた、あの女。
清涼殿は帝の私的な居所にあたる御殿だから、帝の妻子ら天皇家の者か、一部の高級貴族しか立ち入ることはできない。だが風花の知る限り、天皇家の者にあんな女はいない。やはり花宴に招かれた客が、迷い込んだのだろうか。
あれから、配下の舎人に見張らせたが、御所からは退出していない。どこかにいるはずだ。
庭の向かい側には、仁寿殿が夜の底にその巨体を横たえている。
内裏の殿舎は、大きさの違いこそあれ、どれも同じ木造高床式の建物だ。夜空に溶け込む桧皮葺の屋根を何本もの太い柱が支え、欄干を配した縁側がぐるりと周囲を取り巻く。
軒から垂れる土壁の下には、木材を井桁に組んだ格子が、屋外と屋内を隔てる壁の代わりに横一列に並んでいる。上下に分かれた格子は、上側の一枚が外側に吊り上げる形で開かれているが、屋内に灯火はなく暗闇が広がるだけだった。
渡り廊下の向こうには、皐月になると見事な花をつける、飛香舎の藤棚が目に入ってきた。
紫宸殿からかなり奥まった位置に建っているこの小ぶりな殿舎は、藤棚の美しさから藤壷とも呼ばれる。他の殿舎から立ち入りがしにくいこともあってか、帝は大津宮から上洛した咲耶にここを占有させていた。それは特別待遇であり、そのこともまた、咲耶を孤立させる原因になっていた。
昨夜の面会を思い出し、風花の胸が高鳴る。
顔も見られなかった母が、ここにいるのだ。できることなら、顔を見て話しがしたい。
それが知られれば、父から叱られるだろうが、かまうものか。
風花は、そう心に決めて、藤壷の庇をぐるりと一回りする。
庇は屋内にある廊下で、磨き上げられた板張りの床が、燈火のほのかな灯りに照らされて、うら寂しく光を放っていた。
居室のある母屋との間を仕切る襖障子は、どこもしっかりと締め切られていて、物音ひとつしない。こうも用心が行き届いていては、風花がつけいる隙もなかった。
今宵は、ついていない。そう諦めかけたときだった。静まり返った殿中に、微かな人の気配がした。
風花は、物陰に身を隠し、息を潜める。
ほどなく、衣擦れの音とともに、鈴の音のような女の声が聞こえてきた。
「照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧月夜に 似るものぞなき」
声の方向を伺うと、扇をかざした女が、ほの明るい月光を浴びてたたずんでいた。
萌黄の五衣に、桜花の小袿。
風花の胸が大きく弾む。
あの女だ。ここで出会えるとは。
風花は、足早に近づくと、女の袖を掴んで抱き寄せた。
「あっ……」
女の口から、微かな吐息が漏れる。その身体からは、優しく甘い香りがした。香の匂いではなかった。
「だれか……」
助けを呼ぼうとする女の唇を、風花は自分の唇でふさいだ。
その瞬間、風花の中で何かがはじけた。おびえたように身を硬くしている女から唇を離した風花は、激情のほとばしりをなんとか押さえながら語りかけた。
「静かにして。……桜の庭で、会いましたね」
はっとしたように風花を見た女の身体から、強張りが解けていった。
「では、あなたは風花……さまですね」
名を知られていたことに驚いたが、思えば今宵の宴席に呼ばれた者なら、知っていても不思議ではない。
風花は、女を抱き寄せて、その耳元にそっとささやく。
「そうです。だから、安心してください」
風花は、空いていた小部屋に女を連れ込み、襖障子を閉めきる。
いかにも粗野な事の運びだが、自分でも逆らえない何物かが、風花を突き動かしていた。
部屋の中は、燈火がひとつあるだけなので、手探りをしなければならないほどに暗い。女の白い顔と衣装だけが、橙色の燈火に照らされて、かろうじて見えていた。
帯を解こうとする風花の腕を、細くて白い女の手が阻んだ。
「いけない……わ」
風花は、その手にそっと自分の手を添える。
「私は本気です。遊びではない」
それは、風花の本心だった。
いまこの場でこの女を抱きたい気持ちと、これから先もこの女を守りたいという気持ちが等しく心にあった。それは、掌に柔らかな裳の衣が触れた瞬間、怒りにも似た征服欲として一気に風花を飲み込んだ。
乱暴に腰紐を解いて裳を剥ぎ取り、投げ捨てる。この女が、裳を着けていることが、なぜか許せなかった。
そのまま、激しく唇を重ねる。
「あ……んっ」
女も、もう拒む様子はなく、ためらいがちにも風花の求めに応じた。
女の吐息が熱を帯び、それとともに強くなる芳香に包まれて、風花はあっさりと理性を放棄した。