花影(三)
宴席が設けられた紫宸殿には、衣冠に身を包んだ貴族の男たちや、唐衣裳装束のあでやかさを競う貴族の女たちが、それぞれに席を占めていた。
身分の高い者は、殿中の庇や縁側の席を、昇殿が許されない身分の者たちは、左近の桜が咲く広大な白砂の庭に席が与えられていた。
紫宸殿の周囲を巡る欄干からは、錦の直垂が何枚も垂れ下がり、庭の宴席の周囲には、色とりどりの縦縞模様の幕が張られている。
あるかなきかの夜風をはらんで、直垂や幕がゆらゆらと揺れる。庭のそこここに立っている篝火の松明が、ときおり弾けてぱちぱちという音ともに火の粉を散らせた。
人々の前には、贅を尽くした酒肴の膳が供され、舞台では管弦の曲に合わせて舞楽が演じられていた。
今はちょうど、六人の舞い手による春鶯囀の舞が終わったところのようだ。
風花は、居並ぶ人々に視線を走らせる。だが、あれほどに目立つ身なりであるにもかかわらず、あの女の姿を見出すことはできなかった。
落胆しながら、風花は、紫宸殿の中央に設えられた一段高い席である高御座に座している父、秋月帝の前に進み出た。
堂々たる体躯に端正な顔立ちの帝は、黄櫨染という濃い黄褐色の直衣を着用していて、威厳とともにえもいわれぬ滋味をかもし出していた。
帝は、風花の顔を見ると、目尻に深い皺を刻みながら、待ち兼ねたというふうに、挿頭にする桜の枝を差し出した。
「戻ったか、東宮。そなたは咲耶に似て華がある。また、舞を見せてくれぬか」
そう告げる帝の声は、どこか誇らしげだ。
だが、帝の左側に座した菜香皇后は不機嫌そうに口を引き結んでいた。齢四十六、整ってはいるが老いの目立ちはじめた顔の中で、大きな目が険しい色を浮かべて風花を睨んでいる。
そして、帝の右側の席は、座るべき者がおらず、この賑やかな宴席に不似合いな一点の翳りのようにそこにあった。
風花は花を受け取ると、冠に刺して帝に一礼する。
正面の階を降り、舞い手たちと交代して舞台に上ると、春鶯囀の一節をゆったりとひとさし、舞って見せた。
宴席に集う人々から、いっせいに嘆息が漏れた。
「なんと華やかな。桜の花も、霞んで見えますな」
「華やかなだけではない。文武両道に優れ、立太子と同時にながらく空席であった知太政官事になられた。あの若さで、帝の政をお支えするというのだから、頼もしいかぎりではないか」
「いずれからお妃を娶られるのか。ああ、私にも娘がおれば」
追従口を聞き流して風花が席に戻ると、隣から険を含んだ声がした。
「あいかわらず、たいそうな人気ですな。東宮さま」
見ると、胡坐をかいた威丈夫な男が、杯をあおっていた。厳つい造りの顔全体が、すでにかなり赤い。
「安濃兄上……」
菜香皇后を母に持ち、風花より先に生まれた安濃親王は、本来ならば東宮になるべき皇子だった。そのせいで、風花の立太子が決まってからというもの、この兄の物言いにはどこか嫌味な響きが含まれていた。
とはいえ、酒席での戯言に対して、まともに言い返すのも無粋なことだ。風花は、話をそらすことにした。
あたりを見回すと、橘花が帝の前にちょこんと座って酒を注いでいた。帝の目元が、これ以上はないというくらいに緩む。
「酒が過ぎると、また橘花にからかわれますぞ」
冗談めかした風花の言葉に、なあにこれしき、と言って安濃は袖をまくる。赤銅のような腕が現れた。同時にぐらりと上体が傾く。
「おっと、これは……。大臣どもに付き合って、いささか飲みすぎたか」
「兄上、差し出がましいが、臣下の者たちと親密になりすぎぬ方が良いのではないか。父上も心配しておられる」
安濃が大臣たちと必要以上に親交を深めていることに、風花は釘を刺す。
天皇家の権威は高いと言っても、最近の臣下の増長には目に余るものがあった。安濃はそれを知ってか知らずか、大臣たち、とくに右大臣からの供応を受けることが多かった。噂では、女との仲も取り持ってもらっているようだ。
「わかっておるわ。そなたのような若造に、あれこれ言われる筋合いはない。そなたこそ、気を付けた方が良いぞ。父に官職をねだったそうだが、政などに首を突っ込むと、思いがけぬ落とし穴もあろうからな」
安濃が言っているのは、知太政官事の官職のことであった。
知太政官事は律令が制定された頃に、帝の政を補佐する皇族が就いた官職であった。律令に規定されていない令外官ではあるが、建前上は左右大臣と同格以上であり、大きな発言権を持つ。
帝は、臣下が政治の実権を独占することを嫌い、まずは東宮の風花を太政官府に食い込ませることにしたのだ。
「父上には、お考えがあるのです。兄上にも、いずれ何らかのお話がありましょう」
「政になど興味はないわ」
「そうも言ってはおれないでしょう。我らが父上をお支えしなくては」
偉そうに、と安濃は吐き捨てた。
「東宮になったとたんに、庶子の分際で嫡子に意見か。つけあがるなよ」
そう言い放ってから、安濃はしまったという顔をした。喧騒にかき消されて、帝の耳には届かなかったようだが、それは暴言といっていいものだった。
「……ああ、やはり酔ったようだ。先に下がらせて頂く」
安濃は、ばつが悪そうに言い置いて席を立った。