花散(一)
花宴の夜。
妹背の桜は、今年も満開の花を咲かせた。
「春宵一刻値千金、花有清香月有陰。斗酒聚比鄰……」
初瀬帝は、そうひとりごちてから、夜桜と朧月を映した杯の酒を飲み干した。
幾星霜の歳月を経た今でも、花宴に臨めばその胸を去来するのは、あまりにも鮮やかに、そしてあまりにも生き急いだあの二人のことだった。
「歳月不待人……ね。初瀬兄さん、今、何をお考えだったか、当てて差し上げましょうか……」
初瀬の背後から、落ち着いた女性の声がした。
「あれからもう、二十年経ちますのね。安濃兄さんも、菜香皇太后もとうに亡くなられて。あの方たちを知っているのも、私たちだけになってしまいました」
そう話しながら初瀬の横に並んだのは、花橘の五衣と花山吹の小袿を身にまとった橘花だった。すでに女の盛りは過ぎようとしていたが、賀茂斎王として未婚のまま清らかな生活を送ってきた橘花は、齢を重ねた顔の中にも、若いころの愛らしさをじゅうぶんに残していた。
女房の一人を呼んで酒肴を整えるように命じてから、初瀬は、橘花を伴って縁台に腰を下ろした。
「いろいろあったからな。あれから」
そして初瀬は、心の妻ともいうべきこの異母妹とともに歩んできた、波乱に満ちた半生を懐かしく思い出す。
風花東宮の王位継承権を横取りして即位した安濃帝は、ありていに言えば凡庸な統治者であった。その政権は右大臣の傀儡であり、大きな失策はなかったが、たいした事績も残さなかった。
かの御世で唯一と言っていい事件は、初瀬と日向宮の日下内親王との縁談に難癖をつけた安濃帝が、日向宮を襲撃して久坂親王を殺害し、略奪した実の姉の奈方内親王を自らの妃としたことだった。
風花親王と桜内親王の同父母兄妹の情交を非難することで政権を奪取した安濃自身が、同父母の姉と結婚したことは、皮肉な巡りあわせとしか言いようがなかった。
安濃の言行不一致を表立って非難しえた者はいなかったが、秋月帝に仕えていた内侍による今上帝の暗殺という形で、その事件は幕引きを迎える。
こうして、伊予国の反乱も放置したまま、安濃帝はわずか三年でその治世を終えた。
安濃帝が後継者を決めていなかったため、次の帝の決定は難航した。
臣下の専横がこれ以上進むことを憂えた初瀬は、風花東宮の遺言ともいうべき指示を、まさにこのとき実行に移した。
初瀬は、いったん事を起こすと、一切の容赦がなかった。
天皇家であろうと臣下であろうと、政敵は悉く打ち倒した後に帝に即位した。
天皇親政を宣言して政治と軍事の実権を掌握した初瀬帝は、懸案であった伊予国の反乱鎮圧に乗り出した。
このころ、反乱軍の勢力は最大に達していた。伊予、讃岐、阿波の三国を支配し、瀬戸内海の制海権を握っていた反乱軍の勢力が、畿内に及ぶのも時間の問題と思われていた。
反乱軍の撃滅のためには、臣民たちの人心掌握が必要だった。
初瀬は、そこで異母兄妹の悲劇を最大限に利用した。
伊予国に流罪になった風花親王と、その後を追った衣通桜内親王が、反乱軍の手にかかって無残な最期を遂げたと発表したのだ。そして、その敵討ちのために自らが鎮西将軍に就任して討伐の軍を発する旨の詔を出した。
賀茂祭の華麗な行列の記憶も新しかった都の民たちは、勅使と斎王を務めた美麗な親王と内親王がたどった悲劇の運命に涙を流し、初瀬帝の詔に快哉の声を上げた。
こうして出撃した王朝軍の士気は極めて高く、連戦に連勝を重ねた結果、半年を要さずに反乱は鎮圧された。
その後、国守はすべて帝の直接管理化に置き、地方の行政もようやく安定した。
初瀬帝の功績は、巨大だった。
しかし、その強権的な政権運営は、彼の周囲から人々を遠ざける結果を招いた。
初瀬は、その孤独をまぎらわせるために幾人もの女に手をつけたりしたが、誰からも安らぎは得られなかった。
そんな初瀬を、影になり日向になりながら支えたのが、賀茂斎王になっていた橘花だった。
橘花は、初瀬の政策立案のために、その広大な情報網から得られた正確な情報を提供し、行動の後押しをするために、その立場を最大限に利用して賀茂大神の神託を授与した。
こうして歳月は流れ、気がつけば、初瀬帝は秋月帝の在位年数に並んでいた。
やりたいことをやりつくした初瀬だが、いまだに心残りなこともあった。
そのうちのひとつが、この橘花との関係だった。
初瀬は、杯に酒を満たして、橘花に差し出した。
「橘花、いまさらと思うだろうが……還俗して、俺の妻になる気はないか」
杯を受け取った橘花は、ひとしきり初瀬を見つめた後、たおやかに首を横に振った。
「ごめんね、兄さん。橘花には、まだ果たされていない約束があるから。それに……」
橘花が、彼女にしては珍しく、言葉を飲み込んだ。
約束か。
風花兄上、あなたは、本当に罪な人だ。
初瀬は、橘花が待ち続けている人に、心の中で愚痴をこぼす。
こうして、なにもかも兄上が持っていってしまうから、俺は真に欲するものは、何も手にすることができなかったではないか……。
「そうだな。それを言うなら、俺にも果たせなかった約束がある」
そして、もうひとつの心残りが、風花と桜の消息だった。
配流先を脱出した風花親王と、幽閉されていた御所の藤壷から姿を消した桜内親王。二人の消息は、橘花の情報網にさえかからず、折からの動乱によって歴史の闇に埋没してしまった。
初瀬は密かに人を派遣して調査をさせたが、得られたのは断片的な情報だけだった。
それによると、二人は伊予で再会を果たしたものの再び引き裂かれることを恐れて自害した、という話の信憑性がいちばん高かった。しかし、二人は再会を果たせずにそれぞれ亡くなったという話や、二人は再会したあと子を成して伊予国でひっそりと暮らしているという話もあった。
初瀬は、それらの情報をすべて握りつぶした。
「風花兄上や桜の祟りがあるなら、それを引き受けなければならないのは、まちがいなく俺だな。利用するだけ利用して、都合の悪いことは闇に葬ろうというのだから……。だが、それでも俺は安濃兄上を正当化し、風花兄上と桜の恋を罪としなければならない。息長の血を継ぐ天皇家を存続させるために、な」
初瀬の命令で編纂させている史書には、同父母兄妹の親王と内親王が愛し合ったことが、あたかも罪科であったように記述されるだろう。風花東宮は禁忌を犯したからこそ、人望を失い失脚したのだと。だが、彼らを非難することで政権を得た安濃帝が、罪もない者を陥れてまで実姉を娶った事実は巧妙に改竄されるのだ。
自虐の笑みを浮かべた異母兄に、橘花は慈愛に満ちた微笑みを送る。
「風花兄さんと桜は、そんなことを気にしたりしないわ」
そのとおりだと、初瀬は思った。
ならば、もう隠しておく必要もないのかも知れない。
「これは、私の胸に秘めておこうと思っていたことなのだがな。今となってはもう、この過ちも許してもらえるかもしれないから、話しておきたい。……俺たちは、風花兄上と桜が実の兄妹だと信じていたが、それが間違いだったかもしれないのだ」




