流離(五)
山の端に、月が昇った。
闇が切り開かれ、風花の目前に街道がはっきりと見えてきた。
細くて険しい山道だが、この先にある峠を下れば、あとは平坦な道が宇摩郡まで続いているはずだ。
国守の館を抜け出してから、三日が過ぎていた。
風花は、目立つ昼間を避けて、なるべく夜間に行動することにしていた。だが、そのことがここで裏目に出てしまったようだ。
風花の行く手に、一人の男が立ちはだかっていた。
男は、みすぼらしい身なりに相応しい下卑た風貌だったが、その手には不相応に立派な剣を握っていた。
風花を見とめて、それでも身元を確認しないところを見ると、追っ手ではないようだった。
ならば、追いはぎ、ということか。
夜間の山道とはいえ、ここは国府が管轄する街道だ。そこに、堂々とならず者が現れるようでは、道中の安全が保証されているとは言い難い。
桜を呼び寄せるようなことをしなくて良かったと、風花は妙なところで胸をなで下ろす。
見たところ、賊は一人のようだ。
金目のものを渡して通してもらうのが上策だが、あいにく風花にはそんなものの持ち合わせはなかった。
風花は、狩衣の袖を腕に巻きつけ、剣を抜いた。こちらが武装していることを知れば、あるいは退散するかもしれない。
しかし、風花の読みは外れた。ぐふっと鼻を鳴らした後、男は風花に切りかかってきたのだ。
男は、風花が構えた剣に狙いを定め、自分の剣で薙ぎ払う。腕力に勝ると踏んで、風花から剣を奪うことに目的を絞ったのだろう。
見た目と裏腹に、合理的な判断ができる男のようだった。
男の繰り出す剣戟は重く、風花は受けるだけで精一杯だった。一歩、一歩と後退を余儀なくされる。このままでは、いずれ腕力が尽きて敗北するだろう。
剣を握る風花の右手が、痺れてきた。そこを、ひときわ強い一撃が襲った。
一瞬、体勢を崩す。頃合と見たのか、男が攻撃を変えた。
風花の胸を狙った突きを、繰り出してきたのだ。風花は、咄嗟に剣を左手に持ち替え、がら空きになっている男の腹部をめがけて、一筋に突きを入れた。
それは、父から密かに教えられた、一撃必殺の剣法だった。
風花は、右足に激痛を感じた。
男の剣が、風花の太股を切りつけていた。見る間に血が噴出す。かなりの深手だった。
だが、風花は手ごたえを感じていた。風花の剣は、男の腹を深々と抉っていた。こちらは、明らかに致命傷だった。
男は、断末魔の叫び声を上げながら倒れ、そのまま動かなくなった。
見上げた梢のはるか彼方に、冴え冴えとした満月が浮かんでいた。
美しい、と。大木の根元に倒れこんだ風花は、ひとときだけ今の状況を忘れる
だが、右足の怪我の痛みが、風花を現実に引き戻した。
傷口からは、じくじくとした痛みとともに血が流れ続けていた。
血が流出しすぎると人は命を落とすと、御所の薬師から教わったことを風花は思い出す。狩衣の袖を裂いて傷の上を縛ったが、出血は止まらなかった。
身体がとてつもなく重くて、気力もくじけそうだった。
もう、いいではないか……。
そんな声が、どこからともなく風花の心に忍び込んできた。
風花の心の奥にあった大事なものが消えかけたとき、御所で受けた父の叱咤の言葉が、鮮やかによみがえった。
『腑抜けるのも、いい加減にしろ。口先に綺麗ごとを並べるよりも、誰からも桜を守れるだけの力を得よ。欲しいものを得るためには、大事なものを守るためには、手を汚すことを恐れるな、泥をすすることを厭うな』
風花は、歯を食いしばる。
父上。私は、なんとしても生きます。桜とともに……。
土に手を突き、立ち上がろうとする。
だが、その目に映る世界は傾き、枯葉の中に倒れ臥した。
震える腕を伸ばして、土を掴む。
けれど、身体はもう、少しも動かなかった。
その名を呼びたかった。
なのに、声すら出なかった。
懐に忍ばせていた、桜の扇を握りしめる。
涙があふれた。
頬を伝う涙だけが、暖かかった。
桜……。
⁂
夢中で歩いていた桜は、ふとその歩みを止めた。
一面の雪野原が、中空にかかる寒月に照らされて、銀色に輝いている。彼方の山際には、人家の灯りだろうか、小さな朱色の点が心細げに瞬いていた。
御所の藤壺で、安濃と対峙した後のことを、桜は覚えていなかった。
気がついたら、都の出口にある羅生門の外に、小袿姿のままで横たわっていた。着衣に乱れはなかったから、安濃に身を汚されることはなかったようだ。
桜は、安堵した。
しかし、その顔にはすぐに自虐の笑みが浮かぶ。
何を、いまさら……。
帰る場所は、どこにもなかった。
そして、行くべき場所も、はるかな彼方だ。
それでも、桜は、また一歩を踏み出す。
愚かなことだと、わかっていた。その足をどれだけ動かしたら、あの人の許にたどりつくというのだろう。
新雪を踏む素足は赤く腫れ上がり、もう冷たさを感じることはなかった。
さっきまで寒さに震えていた身体が、今は妙に熱を帯びていた。
一歩、また一歩。あの人に近づこうとするたびに、桜の身体は熱く、そして重くなる。
次の一歩を踏み出そうとした足が雪にとられて、桜は力なく膝をついた。
雪に触れた部分は、一瞬だけ冷たさを感じたが、すぐに感覚はなくなった。
腰まで雪に埋もれた桜に、清冽な月光とともに、白い大きな雪片が降り注いだ。
桜の胸を、激しい痛みが襲う。こみあげてくる熱いものを、桜は押しとどめようとする。
けれど、それはかなわなかった。
純白の上に、たくさんの紅い花が咲いた。
嫌だ。こんなの、もう嫌だ……。
私は、どこにも行けず、なにものにもなれず、ここで消えるのだ。ただ、穢れだけを残して。
ならば、いっそ何も残したくない。
天から舞い降りてくる、白い華よ。どうか、その冷たく清い棺で、この身も心も覆い隠してください。喜びも怒りも哀しみも、みんな包み込んで、私のすべてを、白く塗り替えてください……。
桜の心の奥にあった大事なものが消えかけたとき、大津宮で父の腕に抱かれながら聞いた言葉が、鮮やかによみがえった。
『人の身では、白くありたいと願っても届かぬ。ただ、負わされた深き業の色に染まりながら、ひとときの命を花と咲かせ、やがて散り果ててゆくのが、人の運命なのだ。桜花は、まさしく、人そのもの。おまえも、その命の限り、見事に咲き切って見せよ』
桜は、痺れる手を胸の前で合わせる。
お父さま。桜は、生きたいです。お兄さまとともに……。
雪に手を突き、立ち上がろうとする。
だが、その目に映る世界は傾き、雪原に咲いた紅い花の中に倒れ臥した。
震える腕を伸ばして、雪を掴む。
けれど、その身体はもう、少しも動かなかった。
その名を呼びたかった。
なのに、声すら出なかった。
懐に忍ばせていた、風花の扇を握りしめる。
涙があふれた。
頬を伝う涙だけが、暖かかった。
お兄さま……。
⁂
雪が、舞い落ちる。
『いつも思っていた』
それは、静かに、冷たく、降り積もる。
『この世界のどこかに、あなたがいる』
でも、まるで桜の花びらのようだと。
私は思った。
『いつか、かならず……』
「桜」
「お兄さま」
やっと、あなたと……。




