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流離(四)

 安濃は、不器用なやり方ではあったが、彼なりに一途に桜を愛していた。安濃が権力を志向したのも、手の届かぬものを手にするための手段だったと言える。安濃にとって最大の誤算は、ようやく手にした地位と権力が、彼の目的を達成するものではなく、阻害するものになってしまったことだった。

 親族会議を終えた安濃は、その足で桜のいる部屋に向かった。


 部屋の隅に所在無げに座っている桜は、まるで人形のように生気がなかった。安濃は、吐き捨てるように告げる。


「これで、そなたは一生、日陰者だ。私のお情けで、生きながらえさせてはやろう。正式な后にと思ったが、それがかなわぬとなればもう我慢する必要もない。今すぐ、私の女になってもらおう」


 安濃の雑言を、桜は黙って聞いていた。


「ふん、そうして澄ましていられるのも今のうちよ。さあ」


 ずかずかと桜に歩み寄った安濃は、その手を掴んだ。


「あ……。やめて……」

「大人しく私のものになるなら、風花親王も救い出してやる」


 安濃は、そう言うと、桜を荒々しく抱きしめた。


「嫌。あっ、く……」

「ふふっ、かわいい声で鳴くものよ」


 桜の嗚咽を嬌声と勘違いした安濃は、さらに腕に力を込める。

 華奢な桜の身体が、その力に抗しきれずに仰け反る。腹部への圧迫は、今の桜にとっては耐え難い苦痛だった。


「ぐう、ふっ……」


 桜は、吐きそうになるのをこらえながら、安濃の束縛から逃れようと身体を捩る。

 しかし、腕力でかなう相手ではなかった。抵抗すればするほど、桜を締め付ける腕に力が加わっていく。

 桜は、もう耐え切れなかった。


「う、うえぇぇ」


 涙とともに、桜の口から、大量の液体が噴出した。

 それは、すぐ近くに迫っていた安濃の顔面を濡らした。


「な、なんだ、これはっ。おのれ、どこまで私を虚仮にするかっ」


 安濃に突き飛ばされた桜は、板の床を転がり、几帳にぶつかって大きな音を立てた。うつ伏せに倒れた桜の黒髪が、乱れて流れた。


「それほど、この私が嫌か。よかろう。その嫌な男に抱かれて、泣き喚く姿を見るのも、また一興というものよ」


 安濃は、帯を解きながら桜に近づいた。しかし、その足は、そこで止まった。

 苦しそうな息遣いをしながら半身を起こした桜の手に、小刀が握られていた。薄暗い部屋の中で、その銀色の刀身だけが浮かび上がって見えた。


「ほう、そんなものでどうしようというのだ? この私に、抵抗しようとでも言うのか」


 安濃は、桜を見損なっていた。ただ美しいだけの女だと、高を括っていた。

 だが、桜の瞳に宿った光は、仄暗い闇を宿していた。ふんと鼻を鳴らした桜は、小刀を自身の白い喉元にあてがった。


「その汚らわしい手で、わたくしに触れるというのなら、今ここで自ら命を絶ちます。あなたのような者の情けを受けてまで、生き延びようとは思いません」


 その言葉は、安濃の感情を一気に沸騰させた。それまで鬱積していた思いが、口をついて出た。


「なぜおまえは、いやおまえたちは、それほどに……。私の奈方姉上は、久坂親王の慰みものになっているというのに。おまえたちだけが幸せになることなど、この私が許さぬ。桜よ、おまえは絶対に、風花親王には返さ……ぬ……」


 桜の闇をまとった眼差しが、安濃を射すくめた。

 言葉尻を濁して口を噤んだ安濃に、凛とした桜の言葉が突き刺さる。


「戯言は、そこまでです。今すぐ、ここを出てお行き。さもなければ……」


 喉に小刀の切っ先が食い込む。白い首筋を、一筋の赤い血が流れ落ちた。

 安濃は、戸惑いを隠せなかった。この儚げな女のいったいどこに、これほどの激しさが潜んでいたのか。


「待て。いや、そんなことが、できると思うのか。こ、この私が、そんな脅しに……。そうだ、風花親王の命はどうなってもよいのか、え、どうなのだ。……そうとも、おまえは私には逆らえないのだ」


 呂律の怪しい言葉をつぶやきながら、安濃はまた一歩、桜に近づく。


「心配するな、おまえのことは奈方姉上だと思って、優しくしてやる。だから、な。そんなものは、引っ込めろ……」


 だが安濃の歩みは、再び止まった。そしてその直後、安濃は瞠目した。

 小刀を喉に突き立てたまま、桜が哄笑したのだ。あはははは、という笑いは、甲高い響きを残した。


「おまえもそうか。やっぱり、私は誰かの代わりなんだ」


 深くえぐられた喉から、鮮血がしたたる。柄を伝って床に落ちた血が、赤黒い染みをいくつも作った。


「ああああ、もうっ。なんて穢いのかしら。ねえ、こんな穢いものを見ても、何も思わないの?」


 非難とも自虐ともつかない言葉が、桜のゆがんだ口から流れ出す。

 安濃の脳裏に、卑しい血、という菜香の言葉がちらつく。


「何を……言っているのだ」


 呆然とする安濃を無視するように、桜は血に濡れた掌を開いて見せた。


「これをご覧。私の中には、こんな穢いものが満ちているのよ。あはっ、そうか。こんな私だから、誰も私のこといらないんだ。いつも、誰かの代わりなんだ。あはは、あはっ」


 桜の指が、震えながら安濃を指した。


「おまえは、私が欲しいの?」


 桜の白い指が、安濃をはずれて虚空を何度も指す。


「……おまえも、そう、おまえも。この私が欲しいの? それとも……」


 だが、次の瞬間には、うっと言葉を詰まらせ、その目から涙があふれ出した。


「ごめんなさい、ごめんなさい。桜は悪い子です。いいつけは守ります、約束も破りません。わがままも言わない。だから、桜を見てください。桜を一人にしないでください。そこに、そこにいるのでしょう。お父さま、お兄さま。私は、ここにいるの。私は、桜なのっ」


 泣いているのか、嗤っているのか。

 なにかに取り憑かれたように身体を震わせながらわめき散らす桜に、安濃は恐怖した。


「ま、待て。もう……」


 やめろ、と告げようとした安濃の目前で、その惨劇は起きた。


 突然、桜の身体が折れ曲がった。

 胸を押さえ、げほげほと咳き込む。呼吸もままならないのか、ひいひいと悲鳴にも似た喘ぎを上げながら、湿った咳を繰り返す。


「……す……けて、……おにい……さ……」


 その言葉が終わらないうちに、ひときわ激しい咳とともに、泡立った鮮血が桜の口から吹き出した。

 安濃は、動転した。目前には、血だまりに倒れ伏した女がいた。その手には、血に濡れた小刀が握られたままだった。


「ひぃぃ」


 安濃の口をついて出た悲鳴は、かすれてうわずっていた。


「わ、私は、何もしておらんぞ。お、おまえが勝手に……」


 安濃は、後ろも見ずに部屋から逃げ出す。

 なぜ、こんなことに。

 清涼殿へ続く渡り廊下を足早に歩きながら、安濃は後悔にも似た自問を繰り返していた。

 桜を愛していただけなのに……。

『安濃兄上が悪いのです』と罵る、初瀬や橘花の声が聞こえたような気がした。

 私のせいではない、安濃は誰にともなく言い訳をする。風花親王が悪いのだ。彼がいなければ、桜はきっと。

 そう思うと、何もかもが憎くなった。風花親王だけでなく桜も。


 安濃の脳裏に、今は政敵の妻である奈方内親王の顔が浮かぶ。

 そうだ、私には姉上がいるではないか。今の私なら、姉上を取り返すことくらい造作もない。ならば、あんな女はもう……。


「誰かっ」


 安濃は、大声を上げる。


「誰かあるっ。あの女を、桜を今すぐに御所から叩き出せ。あのような者、都の外に打ち捨ててまいれっ」

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