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流離(三)

 菜香の話は、安濃と初瀬には、大きな衝撃だった。

 安濃は、すっかり顔色を無くしていた。指先も、すこし震えている。

 だが初瀬は、菜香が、桜を口汚く罵りながらもすこしも晴れ晴れとした顔をしていないことに気づいた。

 桜を貶すことは、そのまま帝を貶すことになる。それは、母も本意ではないのだろう。


「母上、いくら桜をお嫌いになっているからと言って、証拠もないのにそこまで貶めては、亡き父上がお怒りになります。実の娘と、そのような……」


 初瀬の言葉に、菜香は目を閉じて、長いため息を落とした。


「……たしかに、初瀬の言うとおりです。わたくしも、そのようなことは信じたくありません。この話しは、無かったことにしましょう。ですが、あの女だけは許しません。安濃、わかりましたか」


 念を押すような菜香の言葉に、しかし安濃は頭を横に振った。


「母上、吾の一生のお願いです。どうか、桜を……」


 なおも食い下がる安濃に、菜香はしかめた顔で言い放った。


「どうしてもあの女が欲しいというのなら、約束なさい。たとえ幾人の子ができようと、いっさい天皇家の籍には入れぬと。それならば、そなたも帝になる身。その程度の女遊びは、大目に見てあげましょう」




 伊予国守が率いる反乱軍が、伊予国府を陥落させたという話が風花の耳に入ったのは、勧誘を受けてから一月ほど後のことだった。

 国守が話していたとおり、瀬戸内の海賊も味方についたらしい。

 風花は、各所の反政府勢力を糾合することに成功した国守の手腕に感心するとともに、あっけなく抵抗をあきらめた国府軍に失望した。


 都にいたときにはわからなかったが、地方の統治のたがはかなり緩んでいた。

 伊予の国でも、国守は税をごまかして私腹を肥やしていたし、本来は皇族の財産であるはずの封戸や私部を半ば私物化している者も少なくなかった。

 早急に手を打たないと、王朝の支配は有名無実化してしまうだろう。

 風花は、ふっと自嘲の笑みを漏らす。いまさら、何を考えているのか。


 館の庭先では、戦勝の祝宴が催されていた。

 宴といっても、管弦も舞もなく、ただ飲み食いして騒ぐだけの野卑なものだった。どの顔も、目前の勝ち戦と酒に酔っているが、これで中央政府と本格的に事を構えてしまったのだ。いずれ王朝の正規軍も出てくるだろう。秋月帝が作り上げた正規軍は、地元の農民兵で構成されている国府軍とは格が違う。指揮を執る将軍がよほどの無能でなければ、寄せ集めの反乱軍などすぐに撃滅されてしまうだろう。

 もっとも、今の安濃政権下に、まともな戦略眼を持っている人物がいるかどうか心許ないが。



 風花は、宴を横目にして部屋に戻る。

 簡素だが粗末ではない机の前に座り、燈火を引き寄せて書に目を落とす。

 ただ文字を追っているだけで頭に入ってこなかったが、こうでもしていないと気が滅入るばかりだった。


 そのとき、風花の耳に、妻戸を叩く微かな音が聞こえた。注意していないと、外の騒音にかき消されてしまいかねないような音だった。

 風花は、襖障子を開けて庇に出る。

 目を凝らして見ると、妻戸の隙間に何かが差し込まれていた。文だった。

 部屋に戻って、封を切る。女文字の文には、微かに香の匂いが残っていた。風花は、別れ際に見せた異母妹の泣き顔を思い出す。


「橘花か……。ありがたいな」


 文には、朝廷や都の様子が事細かに書かれている。あいかわらずの情報通のようだ。桜の許にも、足しげく通ってくれているらしい。


「桜……」


 目を閉じると、その姿がはっきりと心に浮かぶ。

 しかし、最近では、その姿が儚く感じられるようになっていた。桜の身の上に、何かが起きているのではないかと、風花は漠然とした不安を感じていた。


 気を取り直して、橘花の文に目を通す。

 読み進むうちに、風花の手は震えだした。

 度重なる安濃からの求愛、封戸の没収、内侍の追放、食事もまともに摂れず嘔吐と喀血を繰り返す日々。

 そこに綴られていたのは、あまりにも痛々しい桜の姿だった。


 風花は、自分の甘さを見せ付けられたような気がして、手紙を握りつぶした。

 流されるのは自分だけで食い止めて、桜は都に置いておけば安全だと、勝手に思い込んでいた。国守に誘われたときも、桜が許されて伊予まで来てくれるかもしれないと、自分に都合のいいことばかりを考えていた。


 桜、すまなかった。

 風花の心に、激しい後悔とともに、たぎるような思いが湧き上がってきた。

 伊予を脱出して帰京し、力づくでも桜を奪還するのだ。

 その決断が、遅きに失していることもわかっていた。密通が発覚した段階で、あるいは大津宮に立て篭もる前に、それをなすべきだったのだ。

 国政の実権を握って帝の位を得れば、桜も自分も幸福な結末を迎えられる。そんなことに心を奪われ、いちばん大切なものを置き去りにしてしまった。

『お兄さまがいればそれでいい』という桜の言葉が、今更のように風花を苛んだ。


 もはや、一刻の猶予もない。明日、いや、今すぐにここを脱出するべきだ。

 立ち上がりかけた風花は、手紙に続きがあったことを思い出した。

 丸めた文を広げて、続きを読む。桜の様子を記した後に、一首の歌が添えられていた。それは、あまり上手とはいえない、ありふれた内容の恋歌だった。しかし、風花は、これには何か意味があると直感した。

 歌を何度か読み返すうち、風花は気づく。最初の文字と最後の文字だけをつなぎ合わせると、そこにまったく別の言葉が浮かび上がってきた。


「う、ま、に、み、や、こ、み、ち、あ、り」


 そして、風花は思い出す。伊予国の東部にある宇摩郡には、橘花の私部がある。これは、そこに行けば都に戻れる用意がしてある、という意味ではないのか。

 真偽を確かめる方法も時間もない。橘花の配慮と、自分の勘を信じるだけだ。

 狩衣に袖を通し、護刀を掴む。戸口から、中庭の様子を伺う。庭先で繰り広げられている宴はたけなわで、酔いつぶれている者も見えた。

 風花は、足音を忍ばせて裏口へ向かった。

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