流離(二)
「ずいぶん邪険な扱いだな。だが、これを見てもまだそんな態度ができるかな」
安濃は、懐から文を取り出して、橘花に寄越した。
「このようなもの」
文を投げ捨てようとした橘花に、安濃は薄笑いを浮かべた。
「おっと、粗末に扱うなよ。風花親王の命に関わることが、書かれておるのだからな」
風花の名前が出た途端、桜が口を開いた。
「お兄さま? 風花お兄さまが、どうしたの」
ふん、とひとつ鼻を鳴らしてから、安濃は答えた。
「伊予国で、反乱が起きた。風花親王は懲りているのか、加担はしていないらしい。だが、反徒どもに捕らえられているということだ」
橘花は、安濃の目論見が読めた。なんと、卑劣な……。
「桜。おまえの返事によっては、風花親王を救い出してやってもいいのだぞ」
「私に、どうしろと……」
「言うまでもなかろう。そなたは、このようなところに埋もれているべき女ではない。帝の妻こそ、ふさわしいのだ」
桜の顔色が、さっと変わった。その瞳には、激しい拒絶の色が浮かんでいた。
「聞きたくないわ。……出て行って、今すぐに」
「怒った顔も美しい。風花親王が夢中になるのもわかるわ。……今すぐに返事をしろとは言わぬ。ただ、私の気が変らぬうちにな」
それだけを言い残して、安濃は部屋を出て行った。
桜の目は手紙に釘付けだった。
「お兄さま……。桜が悪いの? どうして、桜の……うぐっ、くっ」
桜は、突然顔をしかめて、涙を浮かべた目で橘花を見る。
「お願い……外へ」
またか。
橘花は懐紙を数枚手渡すと、桜のそばを離れて部屋を後にする。
それと同時に、激しく咳き込む声が聞こえた。そして、嗚咽の声がする。
桜はこうしてときどき激しく咳き込み、そして血を吐くことがあった。
「すこしでも、何か食べてね」
橘花には、それ以外にかける言葉がない。
「……ありがとう」
部屋からは、か細い声がした。
しんしんと雪が降り積もる御所の庭を見ながら、安濃は親族に向けて、衣通桜内親王を妻に迎えたいと告げた。
最初に口を開いたのは、初瀬だった。
「兄上、恥ずかしくないのか。……いや、正直に言って軽蔑するぞ」
「黙れ、初瀬。年が明ければ、私は帝になるのだぞ。私のすることに口出し無用だ」
まだ何か言いたそうな初瀬を、菜香皇太后が制した。
「わたくしも、反対です。あのような穢れた女を、后になどと。もっとそなたに相応しい女は、いくらでもいるはず」
にべもなくはねつける母に、安濃は懇願する。
「母上、どうか桜を娶ることを許してください。吾は、ずっとあれを好いていたのです」
「あの女には、卑しい血が流れている。実の兄との密通だけでは飽き足らず、そなたが帝になりそうと見るや、色仕掛けで篭絡したのでしょう。それくらいのことは、平気でする女です。そんな女を、大事な息子の后になど、できるはずがありません」
菜香は、徹底的に桜を貶めた。
「母上、それはあまりな仰りようだ。桜は、断じてそのような娘ではありません。今回のことは、安濃兄上が策略を巡らせたのです」
初瀬は、つい立場を忘れて桜を擁護してしまっていた。
「お黙りなさい、初瀬。おまえには関係のないことです。いいですか、安濃。おまえは、わたくしの実家である息長一族を背負う帝になる身なのですよ。皇女を妻にしたいなら、橘花がいるでしょう。あの娘なら、右大臣家とのつながりを深める役にも立つ。……ともかく、あの女だけは、絶対にこの母が認めません」
菜香の言葉に、安濃と初瀬は同時に表情を曇らせる。
「桜は、嫡流天皇家の最後の皇女です。そして、父上が賀茂斎院を再興するために選んだ巫女でもある。吾は、そういう血筋の女を妻にしたいのです」
安濃は、桜の容姿だけでなく、その出自の良さにも目をつけていたらしい。
だが、菜香は安濃の言葉を薄い笑いで切り捨てた。
「嫡流? あの女が、嫡流天皇家の皇女だなどと、お前は本気で思っているのですか」
「母上、今更なにを仰るのですか。桜の母親である咲耶が、嫡流の瑞葉帝の皇女の木花開耶内親王であることは、皆が暗黙のうちに認めている事実ではありませんか。だから、その血を引く桜は……」
安濃の話を皆まで聞かず、菜香は高笑いをした。
「なんとお目出度い息子だこと。いいでしょう。それなら、わたくしが教えてあげましょう、あの者たちの真実を。……帝が咲耶を入内させた直後から、わたくしは、瑞葉帝に仕えていた側近の者を探し出しては、大金を与えて木花開耶皇女の消息について問いただしました。そして、ある薬師から決定的な情報を得たのです。木花開耶皇女は、生まれてまもなく死んでいました。つまり、咲耶が木花開耶皇女だということは、ありえないのです。わたくしがそのことを帝に問い正すと、帝はこう答えました。『咲耶が木花開耶皇女だと言ったことは一度もない』。これでわかったでしょう、あの女は、嫡流天皇家の血など引いていないのです」
菜香は、そこで安濃と初瀬を見渡すと、言葉を続けた。
「それから、もうひとつ。むしろ、こちらの方が重要でしょう。わたくしが、あの女が穢れた者だと言った、ほんとうの理由を教えてあげましょう。それは、なにも実の兄と密通したからだけではありません。今から、八年ほど前のことです……」
そのころ、御所に不思議な噂が流れていた。帝の最愛の妃である咲耶が、すでに亡くなっているというのだ。
「それならば、帝の大津宮へのお通いが続いているのが妙ですわ」
「人づてに聞いたのですが、咲耶さまの後に、また若い妃を迎えられたのだとか。それが、十歳になるかならないかという娘らしく……」
「帝が幼女好みという噂は、本当でしたのね。咲耶さまをお召しになられたときも、たいそうお若かったらしいし」
女房たちの噂話は、やがて菜香の耳にも入った。
菜香は、何かあると直感した。帝が菜香や御所の者たちに隠れて、大津宮で何をしているのか。今まで放置してきたが、それを調べる時期が来たということだろう。
菜香は、信頼の置ける舎人数人に、内密に大津宮の様子を探るよう命じた。
舎人たちは、十日ほどで調査を終えて帰還した。
「それで、噂の真偽はどうであったか」
菜香の質問に、舎人の長が答えた。
「この十日間の調査から判断して、咲耶さまの不在は確実だと思われます。それと、確かに十歳ほどの娘がおり、帝の……その……お相手をしていました。秘密裏にその娘と会見して素性を尋ねると、自分は帝の子で、名前は桜である、と答えました」
菜香は、しばし絶句した。
噂を確かめるために送り込んだ密偵たちは、とんでもない情報を掴んできたのだ。
事情を問い詰める菜香に、しかし、秋月帝は平然として答えた。
「咲耶は、療養のため実家に下がらせている。桜は、吾と咲耶の子であり、やましい関係はない。体が弱いゆえ、いままで表に出していなかっただけだ。成人したら、賀茂斎王にするつもりである」
菜香は、疑いながらも、帝の言葉を否定することもできず引き下がった。
――今はまだ、動くべきときではない。
そう判断して、沈黙を守った。
それから数年後の春、大津宮において、桜に対する裳着と内親王宣下の儀が執り行われた。
正式に天皇家の一員である内親王に列せられた桜は、咲耶の称号も受け継いで、衣通桜内親王と名乗ることになった。そして、勅使をもって、賀茂斎王に決定したことが伝えられた。
「……あとは、お前たちもよく知っているでしょう。お前たちは、咲耶を見たことがありますか。わたくしは、一度もありません。帝は、風花親王の立太子の儀に咲耶を呼んだということになっていますが、宴席には姿を見せていない。そして、帝が亡くなったいま、咲耶はどこにいますか。帝の葬儀にも顔を出さず、その消息すらわからない。つまり、こういうことです。咲耶はずっと前に死んでいる。そしてあの女は、その身代わりなのです……」




