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流離(一)

 開け放した格子から吹き込む風が、頬に冷たかった。

 風花は、首を巡らせて部屋の外に目をやる。夕暮れ時で、遠くに見える山の紅葉を、西陽が鮮やかに照らし出した。館の板葺き屋根の影が長く伸びて、砂利を敷き詰めただけの庭先に、昼と夜の境界を引いていく。その先には、建物も疎らな野原が、茫漠とした広がりを見せていた。

 鮮やかな朱色を空に残したまま山の端に一気に落日する都とは違って、ここ伊予国温泉郡の日暮れは、いつ果てるともわからぬ曖昧模糊としたものだった。

 まるで、今の自分のようだと、風花は自嘲する。


「では、どうあってもご賛同いただけぬと……」


 風花の正面に座る男が、しわがれた声で言った。

 浅黒く厳つい風貌の割には背が低く、冴えない印象の初老の男だが、その目だけはぎらついた生気を放っていた。


「無論だ。そなたも、国守の身でありながら謀反を企てるなど、なにごとか」


 伊予国の国守を務めるこの男は、風花が配流されてからというもの、折々に挨拶と称して顔を見せていた。食えない印象の人物であるにもかかわらず、部下や民衆からは信頼を寄せられているようだった。


「何ゆえでございますか。たしかに大津宮では失敗なされたかも知れませぬが、こたびは違いますぞ。瀬戸内の海賊どもも、我らに味方すると申しておりまする。殿下が立って頂ければ、必ずや簒奪者から帝位を奪還できまする。そうなれば……」


 意味ありげな国守の笑顔に、風花はふっと苦笑を漏らす。


「桜も取り返せる、と言いたいのか?」

「それは、言うまでも無きことでござります。……たいそう美しい妹君さまだという噂は、この田舎にまで聞こえております」


 ここぞとばかりに、国守は膝を詰めてきた。

 風花は、それを片手で制する。


「私は、桜のことは誰よりもよく知っている。桜なら、私が許される日まで、待ち続けてくれるだろう。あるいは、幽閉が解かれたら、この伊予の国まで追って来てくれるかもしれない。それに、私もかつて東宮であった身だ。国の安寧を揺るがすような企てに、加担するわけにはいかぬ」

「いたしかたありません。では、我らの企てが成るまで、この屋敷にいらして頂きましょう。少々ご不便をおかけするが、危害は加えません。それにしても……」


 国守は、のそりと席を立つ。そして、風花を見下ろすようにその言葉を口にした。


「実の妹と、というのは、それほどによろしいものなのですか」


 風花は、反射的に国守を見た。その顔には、下卑た笑顔が浮かんでいた。

 湧き上がってくる怒りを抑えて、風花は聞き返す。


「何が言いたいのだ」

「親王さまは、我らが思っていたより、まともなお方でした。そのお方を色に狂わせるほどです。やはり、ご兄妹で、というのは格別なのでしょうなあ。身体がしっくりと合うのですかな」


 それまで冷静だった風花の頭に、一気に血が上る。


「無礼なことを言うな、下郎がっ」


 国守を罵りながらも、風花はそれを思い出してしまった。


 花宴の夜、激情の赴くままに桜を抱いたあのとき、はじめて身体を重ねた相手とは思えないほどに、身も心も一つに溶け合った。

 それは、それまでに関係を持ったどんな女からも得られなかったものだった。だからこそ、風花は桜を理想の恋人だと思ったのだ。それは、同じ父母から生まれた実の兄妹だからこそ得られる、心も身体も満たされる深い絆なのかもしれない。


 だが、それを下衆の勘ぐりで汚されることは、風花には許せなかった。


「お前などに、私たちのことが分かるものかっ」


 激昂した風花の剣幕に、さしもの国守も一歩下がる。


「おっと、これは恐ろしいお顔だ。ですが親王さま、我らのような下賤の者が考えるのは、所詮その程度のことでございます。ましてや、親王さまや内親王さまと面識のない民衆などは、事件をおもしろおかしく言い立てるもの。このままでは、親王さまや内親王さまの汚名を晴らす機会は永久にございませんぞ。そのあたりを、よくお考えくださりませ」

「くどいっ」


 脈なしと判断したのだろうか、国守の顔に、冷めた笑みが浮かぶ。


「お気が変られましたなら、いつでもお声をお掛けください」


 そう言い残して、国守は部屋を出て行った。

 風花は、ひとり言を漏らす。


「反乱などと、途方もないことを。……桜、どうしているのか」


 折からの北風に乗って、雪の一片が舞って来た。



 都に、初雪が降った。

 橘花は、食事の膳と火桶を用意して、藤壷の一角にある部屋に向かっていた。

 つい今しがた、伊予国にある橘花の私部からの使者が、風花親王の様子を知らせる文を携えてきた。文には、温泉郡に配流された風花が国守の館でつつがなく過ごしていることが、書かれていた。


 橘花は一安心したが、その文には気になる情報も含まれていた。

 温泉郡の国守が、朝廷に対して良からぬ動きを企てていると言うのだ。もし反乱でも起こすつもりなら、風花は格好の旗印になる。場合によっては、早く手を打って、風花の安全を確保しなければならないだろう。

 しかし、対策を練るためには、まだ情報が少なすぎた。

 橘花は、とりあえずその件を胸に納めることにした。


 襖障子を開けて、部屋に入る。

 しんと静まり返った部屋の片隅、寝具の上に臥している桜が、乾いた咳をする。

 膳を据えてから、橘花は桜を抱き起こして背中を優しくさすった。

 もともと、食の細いひとだった。それが、ここのところ、さらにひどくなっていた。出されたものには、ほとんど手をつけなかった。だというのに……。

 桜が、口を押さえながら身体を折る。

 橘花は、すばやく手桶を差し出した。桜は、黄色みがかった水のようなものを吐いた。もうその腹中には、戻すものすらないのだろう。


 橘花は、桜の背中をゆっくりとさすり続ける。

 何日も沐浴をしていないはずなのに、桜の身体からは、ほんのりと甘い香りがした。それこそ、このひとが衣通姫と呼ばれる所以だということを、橘花は身近に接するようになって初めて知った。


 しばらくすると、桜は顔を上げて橘花を見た。

 やつれ気味ではあったが、涼やかな瞳とつややかな髪、そして透き通るような白い肌は、今でも余人の追随を許さない美しさを保っていた。


「何か食べる?」


 橘花の問いかけに、桜は軽く首を振る。


「喉を通らないわ、何も……」


 いくら不義を働いたとはいえ、酷い仕打ちだった。橘花は、悔しい思いをかみ殺す。

 風花が流罪になった直後から、安濃はしつこく桜に言い寄ってきた。

 もちろん、桜が応じるはずがなかった。すると安濃は、桜の封戸をすべて没収してしまった。それはすなわち、生活する糧を失うということだった。

 自由に出歩くことはできないとはいえ、桜には皇族としての普通の暮らしは保障されていた。それを支えていたのは、秋月帝から与えられた封戸からの収入だ。本来なら桜の個人財産であるそれを、安濃は賀茂神社への寄進という名目で没収したのだった。


 政治的な後ろ盾のない桜は、拒否することもできなかった。何人かいた女官には暇を出した。ずっと桜の面倒を見てきた内侍だけは、自力で桜の世話を続けていたが、それも家族ともども国守赴任という名目で遠海国に送られてしまった。

 今や桜の身の回りの世話をするのは、橘花ひとりだった。

 できることなら、風花のいる伊予国か、内侍のいる遠海国に送り届けてやりたいが、この状況では無理な相談だ。しかも桜は、今……。


「おや、橘花じゃないか。桜の見舞いかね」


 思いに耽っていた橘花の耳に、その声が聞こえた。いつの間に入ってきたのか、安濃の姿があった。

 橘花は、その顔を睨む。


「なにしにきたのよ、安濃兄さん」

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