白虹(五)
朝議の席での安濃親王の発言に、多くの臣が、やはりそうなったかと思った。
そもそも、今回の事件を過大に取り上げて、風花東宮を追い込むように仕向けたのだから、反撃を受けて当然だった。
ただ、すでに多数派工作は終わっており、右大臣を含めた安濃勢の動きは迅速だった。
安濃の檄が飛んだのが朝で、その日の夕刻にはすでに軍勢は大津宮を囲んでいた。もともと準備はできていたのだから、当然といえば当然のことだった。
だが……。
背後に近淡海を背負い、東国への街道を睥睨する高台に建設された大津宮は、難攻不落の城砦の様相を呈していた。
正面から攻め立てれば、大きな犠牲を出すことになるだろう。しかも、いざとなれば背後の近淡海を利用しての脱出も容易い。いくらかでも戦闘経験のある者なら、いや素人であっても、その配置の巧妙さはすぐに理解できた。
だから、安濃の軍勢は、決定的な攻め手を欠いたまま待機するしかなかった。
夏だというのに、その日は冷たい雨が降っていた。
初瀬は、白く煙る近淡海を眺めながら無念の臍を噛んでいた。
あのとき、風花兄上を引きずってでも自分の許に連れていき保護しておけば、こんなことにはならなかったのに。
だが、今は済んだことを後悔しているときではない。なんとかして、戦端が開かれないようにしなければ。血が流れてからでは、もう取り返しがつかないのだ。
安濃が輿の中から命令を下す。
「皆の者、この氷雨に濡れていたくなければ、大津宮を攻め落とすことだ。さあ行け」
「兄上、待ってくれ」
初瀬は、とっさに安濃を止めた。目算があったわけではない。ただ、時間を稼ぎたかった。
「ここで父帝の血を受けた兄弟が戦に及べば、必ずや世間のそしりを受ける。そうなれば、日向宮の久坂親王も黙ってはいないだろう。ここぞとばかりに、帝位継承に名乗りを上げるかもしれない」
「では、どうしろと言うのだ、初瀬」
苛立ちを隠せない安濃に向かって、初瀬はあえて余裕のある笑顔を作って見せた。
「私に任せてくれないか。風花兄上の心根はよく知っているから、説得して降伏させる。戦って双方の兵士に無駄な犠牲を出すこともあるまい」
うむ、とひとつ唸った安濃は、近くに従えていた右大臣に意見を求める。
その姿を見た初瀬は、風花がやろうとしていたことの意味がわかった。たしかに、このままでは政が臣下によって牛耳られてしまうだろう。
「初瀬親王さまの仰ること、ごもっともでございます。臣は感服いたしました」
右大臣の見え透いた口上に安濃は大仰にうなずき、まるではじめからそうするつもりだったかのように告げた。
「初瀬、そなたに任せる。東宮を説得してまいれ」
武装を解いた狩衣姿で、単身、大津宮に乗り込んだ初瀬は、拍子抜けするくらい簡単に、風花との面会を果たした。
「やはり、そなたが来たか」
そう言う風花もまた、狩衣に身を包んでいる。戦の準備というほどの物々しさは、おおよそ感じられなかった。
初瀬の顔を見た風花は、ふうっと、ひとつため息を漏らし近淡海を見晴るかす縁台に誘った。
目の前の庭には、桜の巨木が植わっていた。今は、青葉が雨に濡れている。
「こうしていると、花宴の夜を思い出すな……。大津宮の装備を頼りにして来たが、こちらはあまりに無勢だ。とても、安濃たちを止められまい。それに……」
初瀬に振り向いた風花は、清々とした笑顔を浮かべた。
「夢に現れた父上に、きつく叱られた。私がなすべきことは、兄弟で争うことではない。安濃に伝えてくれ。私は降伏する。ただし条件がある。私と桜の生命を保証して貰いたい。さもなければ、私の命とともに三種の神器は消滅することになる」
「兄上がそのつもりなら、問題はない」
初瀬の返事に、風花は小さくうなずく。
「ときに……桜は、どうしているだろうか」
初瀬は、橘花から聞き知った桜の様子を話した。
「御所の藤壷で謹慎中だが、内侍どのもついているし、桜を罪に問うという話しは誰からも出ていない」
「そうか、よかった」
風花は、それで安心したようだった。
「俺は、できるだけ兄上を擁護するつもりだ」
「ありがたい。だが、無理はしないでくれ」
「心配するな、兄上。いくら安濃兄上でも、この私まで敵にまわすつもりはなかろう」
風花東宮は、初瀬親王の仲裁に応じる形で安濃親王の軍門に降り、一滴の血も流れることなく乱は終息した。
それから数日を待たずして、風花親王は廃太子のうえ伊予国に流罪、桜内親王は還俗のうえ御所に幽閉という処分が、安濃親王の口から言い渡された。
風花が伊予国への出立つ朝、初瀬と橘花だけが見送りに出ていた。
馬の支度を整える舎人を見やった後、風花は初瀬に告げた。
「初瀬、おまえが頼りだ。安濃を、いや、この国を護ってくれ」
「わかった、兄上。いつか必ず、都に呼び戻す。待っていてくれ」
兄弟は、固く握手を交わす。
初瀬の横では、橘花が何かを堪えるような顔をしていた。風花が声をかけると、その大きな瞳から涙が零れ落ちた。
「兄さん、ごめんなさい。お祖父さまが、兄さんを陥れたのね……」
橘花は、とめどなく流れる涙を拭おうともしなかった。
「気にするな、橘花。おまえのせいではない」
「必ず帰ってきてね。橘花は、ずっと待っているから」
異母妹の髪を優しくなでた後、風花は二人に頭を下げた。
「初瀬、橘花。おまえたちにこんなことを頼める筋合いではないのだが……桜を頼む。桜は、あまり強い女ではない。支えてやる人が近くにいないと、あいつは……」
「わかっているつもりだ。兄上」
初瀬はうなずいたが、橘花は嫌々をするように首を振った。
「そんなの、嫌よ」
「すまない橘花。だが、おまえしかいない」
「兄さんの、ばか」
泣きじゃくりながら、橘花はこくんとうなずいた。
「では、な」
風花は、馬の鞍を掴んでひらりと騎乗した。馬上の狩衣姿は、こんなときだというのに凛々しく見えた。
「手間をかけさせてすまぬが……」
風花は、馬を引く舎人に声をかけた。
「藤壺の近くを通ってくれぬか」
舎人に引かれた馬が、藤壺に差し掛かる。
風花は大きく息を吸い込んだ。
「桜っ」
風花は、声を限りに叫ぶ。
頼む、届いてくれ。
ほんのわずかの沈黙の後。
「……お兄さまっ」
どこからかはっきりしないが、痛切な声が聞こえた。
「桜を置いて行かないで。桜のそばにいてくれるって、約束したのに。お願い、桜も連れて行って」
風花の胸が、ずきりと痛む。
私は、何か大きな間違いをしたのではないか。
「必ず迎えに来る。私を信じて待っていてくれっ」
「ひとりになるのは、もう嫌なのっ。寂しいの、怖いの。桜をひとりぼっちにしないで、お兄さまぁ」
長い髪を振り乱して泣きじゃくる桜の姿が、脳裏に浮かぶ。
風花は、こみ上げてくる涙を必死でこらえた。手綱を取る舎人が、袖で涙を拭った。
騒ぎを聞きつけた検非違使たちが、何事かと集まってきた。
「親王さま、お静かになされませ。……おい、早くお連れせよ」
検非違使たちに急き立てられた舎人は、馬の鼻面を門に向けた。
遠ざかる藤壺に向けて、風花は声を振り絞った。
「桜っ、たとえこの身は遠く離れようと、私たちの心はいつも共にある。そなたはけして、ひとりではない。ひとりではないぞっ」
「お兄さまああっ……」
桜の絶叫を背に受けて、風花は御所を後にした。
都大路に、秋風が吹き抜けていた。