花影(二)
ふん、と橘花が鼻を鳴らした。
「せっかく、いいこと教えてあげようと思って、追いかけて来たのに」
橘花が、拗ねた声を出す。
そろそろ相手をしないと、あとが大変になりそうだ。
「それなら、座れよ」
風花が声をかけると、橘花は途端に破顔して「どいてよ」と言いながら初瀬を押しのけ、風花と初瀬の間に腰を下ろした。
「お話し、聞いてくれるの?」
「で、なんだ」
相手をしてもらえたことがうれしかったのか、それから橘花は、後宮での恋愛話しや市井に流れている噂話などを得意げに披露した。
ひとしきり話し終えると、橘花は、どうだとばかりに薄い胸を張った。
「兄さん、今すっごく失礼なこと考えてたよねっ」
頬を紅潮させながら、橘花は風花にからむ。
外見も中身も、まだまだ子供だな、と風花は思う。
だが、橘花は腰の後ろに裳を付けていて、白い薄衣が上着よりも長い裾を引いていた。裳着のときだけの特別な装いだった。橘花の身体の動きに合わせて、大きな襞がひらひらと開閉する。
初瀬が、その薄衣をつまみ上げた。
「おまえ、一人前に裳を付けることになったんだから、すこしはおしとやかにしろよ。せっかくの衣装が、泣いているぞ」
橘花の小袿は豪華ではあるが「うちぎ」という名が示すとおり、もともとは部屋の中で着用することが前提の普段着だ。本来なら今日のようなはれの日には、小袿ではなく打衣と表着という二枚の衣を重ね着して、その上に上半身だけの上着である唐衣をはおり、裳を着用して唐衣裳装束で臨まなければならない。橘花が内親王――高位な女性であるからこそ、許されている装いだった。
風花は、ふと思う。
そういえば、あの女も小袿姿だった。ならば、大臣の娘くらいの身分だろう。それに、裳は付けていただろうか。裳を付けるということは、女子の成人を表すだけでなく、しかるべき相手を見つけて結婚させることを、その娘の親が表明する意味も併せ持つ。
風花の胸が、すこしざわついた。
裳の裾をいじる初瀬の手を払いのけながら、橘花が文句を言う。
「初瀬兄さんだって、今日、風花兄さんと一緒に加冠してもらったんでしょ。橘花と同じじゃない。それより、邪魔しないでよね。せっかく、風花兄さんと二人だけでお話ししようって思ったのに」
橘花の反撃を受け流すように、初瀬は扇で膝を打った。
「そうそう、忘れるところだった。兄上……」
言いかけたところで、はっとしたように言葉を切ると、初瀬は改まった調子で「東宮」と言い直した。
「いままでどおり、兄上と呼んでくれ。なんだか面映い」
「わかった、兄上。……父上が、舞をご所望だ」
風花たちの父は、この御所の現在の主にして、政治軍事両面からこの国を統べる帝だ。在位十八年、当年とって四十六歳はすでに初老といっていい年齢だが、未だに衰えを感じさせず、多方面に渡ってその絶倫ぶりを発揮し続けている。
橘花が、とっておきの話しだよ、と言いたげに声を潜めた。
「ねえ、知ってる? 今夜の宴には、お父さまの大事な人も招かれているんだよ。大津の離宮からね」
風花は、昨夜、父とともに面会した女を思い出した。
父の最愛の妃であり、風花の母親、衣通咲耶だ。
「衣通」というのは敬称であって、彼女の美貌が衣服を通しても輝くように見えるという意味がある。
咲耶は、近江大津の離宮に隠棲していて、滅多なことでは都には出てこない。息子の風花の加冠と立太子の儀があるので、特別に呼ばれたのだ。
だというのに、許されたのは、夜間のしかも御簾を挟んだ一言二言だけのやりとりだけだった。それが、はたして母子の面会といえるものなのか。
いまさらながら、風花はやるせない気持ちになった。
「おかげで、わが母上の機嫌がとても悪い」
独り言のように、初瀬がそう漏らす。
初瀬の母は、帝の正妻菜香皇后だ。だから、風花と初瀬は、母親が違う兄弟ということになる。それでも、生まれた日が近いこともあって、幼いころから実の兄弟のように仲が良かった。
だが、子供たちの仲が良いからといって、その母親たちの仲も良いとは限らない。帝の妃や愛人たちの中でも、咲耶はとくに爪弾きにされていた。
その不和は、風花が立太子したことで決定的になった。だから、今夜の祝宴も、咲耶は欠席していた。
風花が宴席を抜け出したもうひとつの理由は、それだった。
だが、帝である父が主催する宴であれば、東宮の自分がいつまでも座を空けているわけにもいかない。
「舞ならば、おまえの方が上手だろうに」
風花は、立ち上がりながら初瀬にそう言った。
「いやいや、昨年の紅葉賀の折に、兄上と私で舞った青海波は、いまだに人々の口に上っているのだ。あのときの兄上は、横で一緒に舞っていた俺も見とれたほどだった」
初瀬の上手い世辞に、橘花が応じる。
「うんうん、そうだったね。橘花も、久しぶりに風花兄さんの舞を見たいなぁ」
二人に促されて、風花は紫宸殿に足を向けた。