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白虹(三)

 返事はなかった。だがそれこそが肯定の証であると風花は思った。

 胸の奥が熱くなり、涙が出そうになった。長年のあいだ求めてやまなかった人が、すぐ近くにいるのだ。その顔を、その姿を、直接この目で見たい。

 しかし、今はそれもかなわぬことだった。

 風花は涙をこらえて、尋ねた。


「父上が、亡くなったと聞きました」

「はい」


 そのひとの答えは、簡潔だった。風花は、気になっていたことを告げる。


「私のせいかもしれない……」

「いいえ、それは違いますよ。帝は、命数を使い果たされたのです。長い間、ご苦労をしてこられた方です。もう、お疲れだったのでしょう」


 それが風花への思いやりなのか、帝の妻たる者の心がけなのかは、わからなかった。ただ、その言葉には、長年連れ添ってきた人を見送る優しい響きがあった。

 気持ちが軽くなった風花は、見えない相手に対して、居住まいを正す。桜とのことについて、父と母には謝罪すべきだと今になって気づいた。


「母上、申し訳ありません。私のせいで、桜を不幸にしてしまいました。でも、私は桜が欲しかったのです」


 許しの言葉をもらえるとは、思っていなかった。

 だが、それでもなお、そのひとの言葉は思いがけない鋭さで、無防備な風花の心を抉った。


「あなたは、本当に桜を愛したのですか」

「……っ」

「母の代わり、だったのではないですか」


 その言葉で、風花の心中で何かが音を立てて噛み合った。

 野宮で褥を共にした後、桜が告げた言葉と、桜が流した涙の意味が、はっきりと理解できた。

 そして、自分が桜にどう答えるべきだったのかも。


「違います。桜との出会いが、母上とお別れしたときの裏返しだったと気づいたのは、桜を好きになった後でした。桜に母上の面影を重ねなかったと言えば、嘘になります。ですが、私は桜を愛したのです。他の誰でもない、桜をです。……ああ、あのときなぜそれを言わなかったのか」


 襖障子の向こうで、そのひとが声を詰まらせたのがわかった。そして、震える声がした。


「よかった……」


 短い沈黙の後、そのひとは決然とした声で告げた。


「わたくしは、もう行きます」


 突き放されたような、否、別れを告げられたような気がして、風花は襖障子に手をかける。できることなら、そのひとにすがりつきたかった。いつかのときのように、柔らかなその胸に抱かれ、甘い香りに包まれたかった。


「私を置いて行かれるのですか。父上も、そして母上も。私はまたひとりになるのですか」


 ごとっと、戸が音を立てた。そして、絞り出すような声がした。


「あのひとは、もういないのです。これからは、あなたがあのひとの代わりを務めなければなりません。そして、あなたはもうひとりではない。わかりますね」


 風花の脳裏に、愛しいひとの姿が浮かんだ。途端に、胸が熱くなり、全身に力が漲った。風花は袖で涙を拭うと、姿勢を正した。


「……はい。私には、桜がいます。私は、桜を守らなければなりません」


 しゅっという衣擦れの音とともに、戸の外のひとが立ち上がる気配がした。


「そうです。だから、たとえ誰があなたを責めようと、わたくしは……桜は、あなたの味方です」


 風花もまた、立ち上がった。

 自然に、頭が下がっていた。そして、その頭を上げた後は、もう何も恐れまいと決心した。



 帝の急死。それは、誰にとっても突然のことであった。

 だが、そのときに備えていた者と、不意にそのときを迎えてしまった者との間には、大きな差があった。


 帝の喪は、正妻である菜香皇后が取り仕切った。そして、その傍らには常に安濃親王の姿があった。

 菜香は、ことあるごとに安濃に意見を求めた。それに対して、安濃は、常に的確な回答を出した。それは、あたかも安濃親王が中心になって、亡き帝の弔いを進めているように見えた。

 そして風花は、完全に蚊帳の外に置かれていた。あからさまといえば、これほどあからさまなやり方はなかった。


 天皇親政を政治的信条に掲げる風花は、政治的には群臣との間に距離を置いていた。

 その隙間にも、安濃は入り込んできた。安濃は、精力的に貴族の間を渡り歩き、左右大臣の孫娘ともよしみを通じていた。

 それは、まさに秋月帝がやったことと同じだったが、帝がそれらの力を上手く利用していたのと異なり、安濃は彼らに懐柔され利用されていた。



「安濃兄上は、私に変わって帝になりたいのだろうか」


 風花は、寝そべったままで桜の髪をなでた。さらりとした手触りが心地よかった。

 謹慎を解かれた風花は、早速、野宮に戻っていた桜の元に忍んで行った。

 もう会えないと思っていただけに、再会できた喜びはひとしおで、風花と桜はお互いを激しく求め合った。


 身体の熱が冷めると、風花の脳裏を現実の問題が掠めた。

 そして、知らず知らずのうちに、桜を相手に思いを語っていた。


「だが、あれでは臣下の思うままだ。安濃兄上にだけは、帝位を渡すわけにはいかない。私は、しばらくの間、東宮のままで政治をしようと思っている。父上を見ていてわかったことだが、帝というのは存外と窮屈なもので、やりたいこともやりにくいのだ。ある程度は自由が利く東宮であるうちに臣下を掌握し、誰の力も私に及ばなくなったときに帝の位に就く。そうしたら、必ず桜を后に迎えるから」


 髪をなでられた桜は、くすぐったそうに目を細めた。


「ありがとう、お兄さま。でも無理はなさらないでください。桜は、お兄さまがそばにいてさえくれれば、それで……」


 桜の言葉をさえぎるように、部屋の外から声がした。


「斎王さま……、斎王さま……」


 内侍の声ではなかった。

 風花は、唇を噛む。

 どうするか。

 女官の一人二人なら、脅して黙らせることもできそうだ。

 しかし、桜は、慌てた様子もなく、落ち着いた声でささやいた。


「その几帳の影に隠れてください。あとは、桜がなんとかします」


 風花が衣服をかき集めて几帳の奥に滑り込むのとほぼ同時に、襖障子が開いて女官が一人現れた。


「騒々しい。何ごとか」


 桜の凛とした声に、女官が畏まったように答える。


「は、はい。おそれおおきことながら、野宮に侵入した者がおります。斎王さまには、お変わりございませんか」

「わたくしは、なんともありません。何者ですか」

「それが……」


 女官は、そこで言葉を濁す。


「斎王さま、失礼いたします」


 突然、男の声がした。野宮を守護する、検非違使の一人だった。

 昇殿を許されている以上は高位の者だろうに、斎王の寝所に押し入って来るとは不躾な者だと風花は思う。


「これは、……お加減でもお悪いのですか」


 男は、桜の紅潮した顔を見ていぶかしむように尋ねた。


「斎王さまはお身体が弱いと、内侍さまから聞いております。おい、おまえ、斎王さまのご様子を見てくれ」


 廊下から女官が入ってきて、桜の手を取った。熱でも測ろうとしたのだろうが、その拍子に桜の着物から、風花が身につけていた男物の帯が落ちた。

 それを目ざとく見つけた女官が、眉をしかめる。


「これは……」

「なんでもありません」


 桜は、そう言って女官の手を振り払った。


「そういえば、ご着衣に乱れが。……そちらに、どなたかおられますね」


 女官がついに風花に気づく。


「斎王さま、ご免くださりませ」


 男が、几帳を引き倒した。

 風花は、扇で顔を隠したが、いまさら隠し通せるものでもなかった。


「誰か」


 人を呼ぼうとする男を、風花は押し留めた。


「静かに。人を呼ぶ必要はない。私は、東宮の風花である。知っておろうが、桜斎王とは兄妹である。ここで、昔語りをしていたのだ。何か、不都合があるか」


 風花の言葉は、完全な開き直りだった。

 男も女官も唖然としながら、風花と桜を交互に見ていた。

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