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白虹(一)

 風花は、目を覚ました。

 初夏の早い朝が、襖障子の縁に訪れていた。

 隣では、桜が安らかな寝息を立てている。


 昨夜、取り乱した桜を、風花は時間をかけて宥めてから、抱きしめた。そして、桜の求めるままに何度も愛し合った。

 それで、桜は落ち着いたようだった。桜が寝入るまで、風花はその身体を優しく抱いていた。

 桜と話したことがきっかけになったのか、久しぶりに、子供のころの夢を見た。


 そういえば。

 風花は、気づく。

 大津宮に滞在したとき、桜はどうしていたのだろう。一度も、顔を見なかったような気がする。

 あらためて考えてみれば、それもまた不思議なことだった。


 ううん、という声がして、桜が目を覚ました。


「お兄さま……。桜は、夢を見ました。子供のころの夢です。ああ、夢でよかった」


 風花は、桜を抱き寄せた。

 優しい花の香りに包まれる。今ここに、たしかなぬくもりとともに、愛しいひとがいる。

 風花は、それでじゅうぶんだと思い直した。


「私も、夢を見たよ。目が覚めて、桜がいた。うれしかったよ」

「お兄さま、桜をひとりぼっちにしないと、約束してください」

「わかった。約束する」


 立ち上がろうとした風花の袖を、桜がぎゅっと掴んだ。

 ふるふる、とその髪が揺れた。


「行かないで、ください」


 風花は、もう一度桜を抱きしめる。できることなら、いつまでもこうしていたい。しかし、ここが禁制の場所である以上、それはかなわぬことだった。

 いつか必ず、と風花は心に決める。

 必ず、桜と一緒になるのだ。



 夏の盛りのその日、帝はいつものように朝食を摂っていた。

 ところが、その途中で事件が起きた。

 膳に一通の文が添えられていた。それを読んだ帝は、安濃と初瀬を呼んだ。


「おまえたちは、どう思うか」


 帝の問いかけに、安濃が即答した。


「斎王の地位にある妹との密通など、東宮であっても許されることではない。処罰しなければ、臣下の者どもに示しがつきませんぞ」


 初瀬は、すこし考え込んでから、言葉を選ぶように答えた。


「とはいえ、斎王との姦通にせよ実妹との姦通にせよ、律令に罪と定められているわけではない。処罰をする根拠がありません」


 うむ、と答えた帝の顔に微かな安堵の色が浮かんだことを、初瀬は見逃さなかった。


「そうなのだ。それゆえ、そなたらの意見を聞きたい。どうすべきと思うか」


 帝の問いを深読みすることもなく、安濃は強硬な態度を崩さなかった。


「東宮は官職にもついている以上、父上のご威光が世に試されることになります。処分が甘ければ、臣民のそしりを受けましょうな」


 帝は、苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、「そなたはどうだ」と初瀬の答えを促した。

 初瀬は、帝がどういう答えを望んでいるのか、探りを入れるようにゆっくりと答えを返した。


「安濃兄上の言い分はもっともだが、今回は処罰は無理だと思う。罪のない者を恣意的に罰したりすれば、律令による統治が成り立たなくなってしまう」


 初瀬の意見は、安濃の気分を逆なでしたようだった。安濃が、語気も荒く言い返した。


「そんな理屈はどうでもいい。そなたは、非常識な行いを見過ごせというのか。これは、天皇家の恥だぞ」


 安濃の言葉に、初瀬は腕組みをして考え込む。


「兄上は理屈ではないと言われるが、私は感情で判断すべき問題ではないと思う。いかがですか、父上」


 初瀬の言葉を受けて、帝が重い口をようやく開いた。


「初瀬の言うとおりだ。今、我らに必要なのは、冷静な判断と対応だ」


 さて、と言葉を切った帝は、ひとしきり兄弟の顔を見た。


「我ら皇族にとって、いちばん大事なものはなんだ、安濃」

「権威ですな」

「そうだ。ならば、その権威は何によって裏付けされていると思うか、初瀬」

「……血統ですか」


 いかにも、と帝は頷く。


「我らはこの国に降臨した神の血統を受け継ぐがゆえ、この国の統治者たりうるのだ。だが、いまや我ら天皇家の血統に臣下の血が混ざり、薄くなりすぎている。ここで希薄化を食い止めねば、天皇家の権威にも影を落としかねぬ。……吾の本音を言えば、桜を還俗させて、あの二人を娶せてやってもよいと思っている」


 帝の言葉に、安濃は肩をすくめた。帝の本心を聞いた以上、その表情にもう怒気はなかった。


「仰る意味はわかりました。されど、いくら天皇家の者とはいえ実の兄妹での婚姻など、受け入れられない者は多いはず。ましてや、いずれ皇后となることを考えれば、なおさらだ」


 初瀬もまた、帝の意見には反論を唱えた。


「政治的にも拙いと思います。天皇親政を標榜する風花兄上が実妹を皇后とすれば、臣下の不安と不信はいやがおうにも高まります。かといって、風花兄上のことだから、桜がいるのに臣下の娘を妃に迎えたりはしないでしょう。これでは、天皇家と臣下は分断されてしまう」


 二人の息子に反論された帝は、しばらく沈黙した後で、大きくうなずいた。


「そなたたちの意見は、よくわかった。たしかに、風花と桜のことを公に認めるわけにはいかぬようだ。とはいえ、あからさまな処罰もできない。これは、吾にも非のあることなのでな」

「では、お咎めなしになさると」


 安濃の問いに、帝はうむ、とうなずいてから何かを思い切ったように答えた。


「表立った処罰はせぬ。東宮を処罰すれば、世が乱れる原因になろう。あれは生真面目な性質ゆえ、思い余って謀反など起こされてはたまらぬ。我らの前で詫びさせ、それで終わりにする。かわりに桜を伊勢斎宮に預ける。こうなってはもう、誰との結婚も望めまい。ならば、都を離れた地で生涯を神に捧げる方が、まだ幸せというものだ」


 帝が口にした伊勢斎宮は、天皇家が崇拝する主神を祀った伊勢神宮に奉仕する斎王のための宮で、都と伊勢神宮との中間地点に設置されている。街道には関もあり皇族や貴族であっても、通行や斎宮への出入りは厳しく監視されている。そこに預けられるということは、事実上、いかなる男性との関係も絶たれるということだった。

 安濃は苦い表情で、初瀬は変らず冷静な顔でうなずく。


「いずれ、正式に沙汰をする。ご苦労であった」


 帝の顔には、憔悴したような陰りがあった。

 初瀬は言い知れぬ不安感を抱いたが、それが現実のことになるのは意外に早かった。

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