水月(五)
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彼女は、いつも思っていた。
私は、ひとりぼっちじゃない、と。
この世のどこかに、あなたがいる。
たとえ、私とあなたの間にどれほどの隔たりがあろうとも、私はいつか必ずあなたと巡りあうのだ。
それを運命だと憧れることも、宿業だと諦めることもできただろう。
でも、そんなものを超えたところで、私たちは、お互いを求め合うのだ。
きっと、私たちは、二人で一人なのだ。たとえるなら、翼を片方ずつしか持たない鳥のようなもの。二人一緒でなければ、正しくこの世にあることができないもの。
だから、私には、まだ見ぬあなたのことがわかる。
あなたも、私を求めている、と……。
私の周囲には、いつも女性しかいなかった。
皆、私を大事にしてくれたけど、奇異なものを見るような視線をいつも感じた。
だから、私が心を許せるのは、いつも優しくしてくれる内侍と、ときどき来てくれるあのひとだけだった。
私は、ある日、内侍から立ち入りを止められていた場所にこっそりと出かけた。
それは、子供なら誰でも持つであろう、小さな好奇心だった。
そこには、見たことのない女の人たちが、たくさんいた。もうすぐ朝食の時刻だからだろう、おいしそうな匂いが満ちていた。
だから、そんな話が耳に届くほど、その場に深入りしてしまったのだ。
「えっ、ここのお姫様って、忌み子なの?」
そして、それは不意打ちのように、私の耳に入ってきた。
「そうだよ。生まれちゃいけない、忌み子、穢れ子なのさ。だから、あんなに可愛らしい姿をしているけど、畜生と同じ汚い血が流れているんだよ」
私は、あわてて物陰に隠れた。胸が、どきどきした。
「お姫様」というのが、私のことだというのはすぐにわかった。けれど、そのあとがわからなかった。
ただ、それがいい意味ではないらしいことは、私の幼い知恵でも理解できた。女の人の話し方が、嫌な感じだったからだ。
不意に、涙が溢れた。
悲しくて、悔しくて。私はその場を後にした。誰にも見つからないように、こそこそと、まるで逃げるようにして。
部屋で泣いていた私に気づいた内侍が、どうしたのかと尋ねた。
私は、正直に答えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
いいつけに背いたこと、行ってはいけない場所に行ったこと、そこで見聞きしたことを泣きながら、謝りながら、私は話した。
すべてを話し終えたとき、暖かくて柔らかいものが私を包んだ。
「泣かなくていいの、謝らなくていいのよ。姫様は、そんなお方ではないのだから」
内侍の大きな胸に抱かれて、それでも私は、泣いた。
声の限りに、涙の限りに。
それからしばらく経ったころ、あの女の人たちの姿が宮から消えていた。
病気で死んだ、という話を耳にした。そして、宮にいる女の人たちの顔から、笑顔が消えた。
きっと、私のせいだ。
それから、私は耳と目と口を閉ざすことにした。
何を聞いても、何を見ても、誰にも話してはいけないのだ。
久しぶりに、あのひとが来てくれた。
たくさん甘えた。いっぱい優しくしてもらった。
「では、な。くれぐれも、人には会わぬように」
そう告げて、あのひとが背を向けた。
行ってしまうのね、また。
「行かないでください」
そう訴えるだけで、あのひとは私を抱きしめてくれる。その力強い腕に抱かれるのが、なによりも幸せだった。
けれど……。
「また、近いうちに来る。身体をいとえよ、桜」
行ってしまうのだ、やはり。
「桜」と呼ばれるたびに、私は切なくなる。
それは私の名前だけれど、あのひとがその名前を呼ぶときに、私の向こうに誰を見ているのか知っているから。
私は、あなたしか見えません。
私には、あなたしかいません。
だから、私を……私だけを見てください。
ある日、都から見知らぬ男の人たちが来た。あのひとが、会うな、と言っていた人たちだと思った。
でも……。
私は、あのひととの約束を破った。
あのとき、私はあのひとに、なにを求めていたのだろう。
まだ、ほんの子供だった私は、あのひとを困らせて、気を引きたかっただけかもしれない。
私が約束を破ったせいで、あのひとは窮地に立たされた。
だから、あのひとは、きっと私を叱るだろう。でも、それでもいいと思った。叱る言葉でもいい、責める言葉でもいい。それは、他の誰でもない、私に向けられたあのひとの気持ちなのだから。
けれど、あのひとは、私を叱らなかった。
それは、あのひとの器量であり優しさだったのだと、今ならわかる。でも、未熟だったあのころの私は、それを、あのひとから見捨てられたのだと思ってしまった。
だから、私はあのひととのつながりが、もっと確かな絆が欲しいと思った。
あの春の日。私はあのひとの腕に抱かれて、庭の妹背の桜を見ていた。
この桜の古木は、春になると、あでやかな八重の花を咲かせる。そして、ひとしきり咲き誇った後、白砂や苔の上に薄紅の花びらを散らせる。
「妹背の桜は、散り際も美しいな」
あのひとは、そっとつぶやいた。
私は、この花が嫌いだった。私の名、私の存在、私の穢れを思わせる、その花の色が嫌いだった。そして、誰かの形見としての『桜』であることが、いちばん嫌いだった。
風に吹かれて、花びらが舞う。
「桜なんて嫌い。この花の色が気持ち悪いわ。私は白砂のような白がいい」
そう言った私を強く抱きしめながら、あのひとは話してくれた。
「人の身では、白くありたいと願っても届かぬ。ただ、負わされた深き業の色に染まりながら、ひとときの命を花と咲かせ、やがて散り果ててゆくのが、人の運命なのだ。桜花は、まさしく、人そのもの。おまえも、その命の限り、見事に咲き切って見せよ」
その言葉は、胸に響いたけれど、理解できなかった。
わかりません、と首を振ると、あのひとは淡く微笑んだ。
「それは、おまえがまだ子供だということだ……」
そのときのあのひとの笑顔を、私は忘れることができない。
喜んでいるのか、悲しんでいるのか、笑っているのか、泣いているのか。どうすれば、人はこんな表情ができるのだろう。あのひとが、とても遠くに感じた。それは、私には絶対に触れることができない笑顔なのだと思った。
その瞬間、私の中に、ひとつの火が点った。
ちがう、とわかっていた。けれど、その火はどんどん燃え上がった。もう、心も身体も、私の言うことをきかなかった。
だから、私は……。
そうすることを、選んだ。
それだけが、あのひとと私の絆になると信じて。
その夜、私は寝所で休んでいるあのひとの許に赴いた。
空には、小さな白い満月が浮かんでいた。
「どうしたのだ、こんな時刻に」
あの人が、優しい声をかけてくれた。涙があふれそうになった。
「もう、休みなさい。夜更かしは、いけない」
私は、黙って首を振った。そして、あのひとの大きな胸に抱きついた。暗闇の中で、私の鼓動とあのひとの鼓動がひとつになった。
そして、私は初めての契りをあのひとと結んだ。
私の人生で、いちばんの幸せと、いちばんの悲しみを知った夜だった。
近淡海が、黄金色に染まった。
いろいろなことを思い返しているうちに、気づけばもう、ずいぶん時間が経っていた。
あと半刻もすれば、日が暮れるだろう。
吹き渡ってくる風はすこし冷たいが、火照った心を鎮めるには、ちょうど良い。
あのひとと逢瀬を過ごした後は、いつもこんな感じだ。
昼間は、まだいい。夕方になると、心がそぞろになる。今日は、とくにひどかった。胸のあたりが熱くて、部屋にいることができなかった。
庭にある妹背の桜は、今年も満開の花を咲かせている。
この桜にはつがいの木があって、それは御所の庭に植えられていると聞かされてきた。
明日、私は都に上る。そして、あのひとが思いをこめて育んできた、もうひとつの花と対面することになるだろう。
縁台から、庭に下りてみた。
素足に触れる白砂が、すこし痛くて冷ややかで気持ちが良かった。
着物の裾を引きずることになったけれど、妹背の桜に歩み寄って幹に触れた。指先に残るすこしざらついた感覚が、あのひとの腕に似ていた。
『すまない』
私を抱くたびに、あのひとは謝る。とても辛そうな顔で。その言葉を聞くと、幸せだった時が崩れていく。
やめて。どうして謝るの。私、悪いことをしているの?
『忌み子、穢れ子』
その言葉が、私を苛む。
やっぱり、そうなんだ。だから、私は……。
あのひとが、私に賀茂斎王になれと言った。
この身に穢れを抱えた私に、清浄なる巫が務まるはずがないのに。
けれど、あのひとがそれを望むなら、私は従おう。たとえ神の怒りに触れて、この身が滅びることになろうともかまわない。
そのまえにひと目でも、「あなた」に会えるのなら……。
えっ。
私は、軽い眩暈を感じた。
「あなた」に会えるのならって、なに?
刹那、胸が苦しくなった。締め付けられるようで、そして熱くて。
身体から、力が抜けていく。もう、立っていられない。
世界が、ゆっくりと崩れ落ちていく。
妹背の桜にすがりつくようにして、私はその根元に倒れ臥した。
萌黄の小袿が、長い黒髪が、白砂の上に乱れて流れる。
苦しい、苦しいの。誰か、助けて。
お父様……。
……「あなた」。
風が吹いて、桜の花びらを散らせた。
真っ白な肌に、漆黒の髪に、薄紅の花弁が一枚、また一枚と舞い降りる。
涙で滲んで、よく見えない。
でも……。
私は、初めて、散華を美しいと思った――。
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