表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/27

水月(四)

 帝が風花を迎えにきたのは、それから一刻ほど過ぎたころだった。

 横になっている風花を見下ろした帝は、豪快に笑った。


「心配させおって。大事ないか」

「はい、父上」

「足をくじいておるのなら、動かさぬ方が良いな」


 帝は、傍らに座っているそのひとの顔を見て、微かに笑った。それは、御所では見たこともない笑顔だった。


「しばらく、そなたに預ける。だが……」


 そのひとも、微笑を返す。


「わかっているわ。大丈夫よ」

「うむ……すまぬ」


 風花は、父が謝るのを初めて見た。しかも、このような若い女性に。

 驚きとともに、得体の知れないざわつきが胸に広がるのを感じた。


「風花、話がある」


 改まった父の言葉に、風花は、もぞもぞとしながらも起き上がる。足首に、ずきりと痛みが走った。


「そのままでよい」


 足を投げ出したままの状態で、父の顔を見る。そこには、都で執政するときの帝の顔があった。


「この大津宮は、万一のときに備えて作らせた宮である。御所に比べて規模は小さいが、必要なものはすべて揃えてある。これは、吾の物であり、そなたの物だ。このこと、よく覚えておくがいい」

「はい」


 風花には、父の言っていることの意味が、半分も理解できなかった。しかし、これは大事な話しなのだと思った。


「うむ……。それからな」


 帝の顔は、父親の顔に戻っていた。それを見たあのひとが、くすりと笑った。


「ここは、そなたが生まれたところだ。すこしの間だけだが、ここの者どもに甘えてくるがよい」


 それから、風花は三日ほど大津宮で過ごした。

 その間ずっと、宮の人々は、なにくれとなく風花に構ってくれた。それは、皇子と臣下というより、もっと親密な何かを感じさせた。

 宮のそこここで、風花に注がれる視線を感じた。

 とくにあのひとは、沐浴から食事の世話まで、ほとんどをその手でしてくれていた。御所ではそれぞれに担当の者がいるので、風花にとってそれは新鮮な出来事だった。なにより、そのひとが風花を見るときの暖かな眼差しは、それまで誰からも受けたことのないものだった。


 痛みが引いて歩けるようになると、風花はそのひとにずっとついて歩くようになっていた。そのひとは、嫌がりもせずに、風花を連れて歩いてくれた。ときおり握る手の、冷たくて柔らかい感触は、いつしかあたりまえのようにそこにあるものだと思えていた。


 人里離れた場所にある大津宮の夜は、御所に比べて闇の気配が濃厚だった。風花は、右手に感じる温かさをしっかりと握り締める。


「まだ、眠れないのね」


 もうすっかり聞き慣れた、優しい声がした。


「はい……ごめんなさい」

「ふふっ。謝らなくていいのよ。朝まで、こうしていてあげるから」


 隣の寝具にいるそのひとが、風花の手をぎゅっと握ってくれた。暗闇に対する恐怖も不安も、それで消えた。

 風花が大津宮で過ごすようになってから、毎晩そのひとは添い寝をしてくれていた。御所では、乳母にすらそんなことはしてもらった記憶がない。

 明日には都に帰らなければならない。眠ってしまうのは惜しかったが、やがて睡魔がゆっくりと風花の意識を飲み込んでいった。

 しかし、そのまどろみは、苦しそうな喘ぎ声で破られた。


「……ぐっ、うう」


 目を開けると、その人が床に手をついて苦しんでいた。

 激しく咳き込み、丸めた背中が上下に揺れる。

 風花は、飛び起きて、その背中に手を当てた。どうしたらいいのか、わからなかった。

 そのひとが、涙を溜めた目を風花に向けた。


「大丈夫よ。心配しないで……いいわ」


 風花は、そのひとの肩にそっと袿をかけた。


「優しい子ね。ありがとう、楽になったわ」


 そのひとは、胸を押さえながら、いつもの笑顔でそう告げた。

 だが風花は、急に不安になった。このひとと別れたら、もう二度と会えないような気がした。

 それから朝まで、風花は一睡もできなかった。



 都からの迎えは、予定通りに訪れた。

 風花は、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを、必死で堪えた。人前で泣いたことが父に知れたら、きつく叱責されるからだ。

 しかし、それでも、このひとと別れる辛さは、とうてい堪えられそうもない。


「これでお別れですか」


 風花はそのひとに問いかけた。宮の女たちが皆泣いている中にあって、そのひとだけは微笑んでいた。


「はい。もう、お行きなさい」


 風花は、涙をこらえてうなずく。そして、勇気を振り絞って尋ねた。


「あなたは、誰ですか」


 そのひとは答える代わりに、庭の桜の古木に歩み寄ると、咲き誇る花のついた枝を手折った。差し出された桜の枝を、風花は受け取った。


「また、お会いできますか。いつか、この桜の下で……」


 風花の言葉に、そのひとがかすかにうなずいた。

 ちょうど吹き抜けた風に、花びらがいっせいに舞い散る。そのひとの瞳からこぼれた一滴の涙が、笑顔を伝って落ちた。

 風花は、そのひとに背を向けた。こらえていた涙が、あふれた。



 大津宮で暮らしているのは生母の咲耶だということを、風花は十歳の誕生日になって、初めて父から知らされた。

 あれから、あのひとと一度も会っていない。父は、ときおり狩と称して大津宮へ通っているが、風花を伴っていくことはなかった。

 あのひとの夢を、よく見た。抱きとめてくれた腕、柔らかで温かかった胸、ほんのりと甘い香り、そして優しい眼差し。母とは、ああいうものか。そう思うとき、風花は人知れず涙で枕を濡らした。重臣たちを従え、この国を統べる父を尊敬していたが、自分から母を奪ったことだけは許せないと思った。


「父上」


 風花は、政務を終えたばかりの父を呼び止めた。


「なぜ、私の母上は、いつも大津宮におられるのですか。どうして、会いに行ってはならないのですか」


 父は、風花を清涼殿の庭に連れ出した。

 そこには、桜の巨木が植わっていた。春になると、御所で最初に花を咲かせる、妹背という名の桜だった。


「これは、吉野山に二本並んで生えていたものを、吾がここと大津宮に、それぞれ運んで植えさせたものだ」


 風花は、大津宮にあった桜の古木を思い出した。すこし、胸が痛んだ。


「吾は、この妹背の桜を見るたびにそなたの母を思っておる。吾とて、意のままにならぬことはあるのだ……」


 父は、最後に「許せ」と言った。それは、父が初めて風花に見せた弱さだった。

 風花は、これからはもう、母のことは話さないようにしようと思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ