水月(四)
帝が風花を迎えにきたのは、それから一刻ほど過ぎたころだった。
横になっている風花を見下ろした帝は、豪快に笑った。
「心配させおって。大事ないか」
「はい、父上」
「足をくじいておるのなら、動かさぬ方が良いな」
帝は、傍らに座っているそのひとの顔を見て、微かに笑った。それは、御所では見たこともない笑顔だった。
「しばらく、そなたに預ける。だが……」
そのひとも、微笑を返す。
「わかっているわ。大丈夫よ」
「うむ……すまぬ」
風花は、父が謝るのを初めて見た。しかも、このような若い女性に。
驚きとともに、得体の知れないざわつきが胸に広がるのを感じた。
「風花、話がある」
改まった父の言葉に、風花は、もぞもぞとしながらも起き上がる。足首に、ずきりと痛みが走った。
「そのままでよい」
足を投げ出したままの状態で、父の顔を見る。そこには、都で執政するときの帝の顔があった。
「この大津宮は、万一のときに備えて作らせた宮である。御所に比べて規模は小さいが、必要なものはすべて揃えてある。これは、吾の物であり、そなたの物だ。このこと、よく覚えておくがいい」
「はい」
風花には、父の言っていることの意味が、半分も理解できなかった。しかし、これは大事な話しなのだと思った。
「うむ……。それからな」
帝の顔は、父親の顔に戻っていた。それを見たあのひとが、くすりと笑った。
「ここは、そなたが生まれたところだ。すこしの間だけだが、ここの者どもに甘えてくるがよい」
それから、風花は三日ほど大津宮で過ごした。
その間ずっと、宮の人々は、なにくれとなく風花に構ってくれた。それは、皇子と臣下というより、もっと親密な何かを感じさせた。
宮のそこここで、風花に注がれる視線を感じた。
とくにあのひとは、沐浴から食事の世話まで、ほとんどをその手でしてくれていた。御所ではそれぞれに担当の者がいるので、風花にとってそれは新鮮な出来事だった。なにより、そのひとが風花を見るときの暖かな眼差しは、それまで誰からも受けたことのないものだった。
痛みが引いて歩けるようになると、風花はそのひとにずっとついて歩くようになっていた。そのひとは、嫌がりもせずに、風花を連れて歩いてくれた。ときおり握る手の、冷たくて柔らかい感触は、いつしかあたりまえのようにそこにあるものだと思えていた。
人里離れた場所にある大津宮の夜は、御所に比べて闇の気配が濃厚だった。風花は、右手に感じる温かさをしっかりと握り締める。
「まだ、眠れないのね」
もうすっかり聞き慣れた、優しい声がした。
「はい……ごめんなさい」
「ふふっ。謝らなくていいのよ。朝まで、こうしていてあげるから」
隣の寝具にいるそのひとが、風花の手をぎゅっと握ってくれた。暗闇に対する恐怖も不安も、それで消えた。
風花が大津宮で過ごすようになってから、毎晩そのひとは添い寝をしてくれていた。御所では、乳母にすらそんなことはしてもらった記憶がない。
明日には都に帰らなければならない。眠ってしまうのは惜しかったが、やがて睡魔がゆっくりと風花の意識を飲み込んでいった。
しかし、そのまどろみは、苦しそうな喘ぎ声で破られた。
「……ぐっ、うう」
目を開けると、その人が床に手をついて苦しんでいた。
激しく咳き込み、丸めた背中が上下に揺れる。
風花は、飛び起きて、その背中に手を当てた。どうしたらいいのか、わからなかった。
そのひとが、涙を溜めた目を風花に向けた。
「大丈夫よ。心配しないで……いいわ」
風花は、そのひとの肩にそっと袿をかけた。
「優しい子ね。ありがとう、楽になったわ」
そのひとは、胸を押さえながら、いつもの笑顔でそう告げた。
だが風花は、急に不安になった。このひとと別れたら、もう二度と会えないような気がした。
それから朝まで、風花は一睡もできなかった。
都からの迎えは、予定通りに訪れた。
風花は、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを、必死で堪えた。人前で泣いたことが父に知れたら、きつく叱責されるからだ。
しかし、それでも、このひとと別れる辛さは、とうてい堪えられそうもない。
「これでお別れですか」
風花はそのひとに問いかけた。宮の女たちが皆泣いている中にあって、そのひとだけは微笑んでいた。
「はい。もう、お行きなさい」
風花は、涙をこらえてうなずく。そして、勇気を振り絞って尋ねた。
「あなたは、誰ですか」
そのひとは答える代わりに、庭の桜の古木に歩み寄ると、咲き誇る花のついた枝を手折った。差し出された桜の枝を、風花は受け取った。
「また、お会いできますか。いつか、この桜の下で……」
風花の言葉に、そのひとがかすかにうなずいた。
ちょうど吹き抜けた風に、花びらがいっせいに舞い散る。そのひとの瞳からこぼれた一滴の涙が、笑顔を伝って落ちた。
風花は、そのひとに背を向けた。こらえていた涙が、あふれた。
大津宮で暮らしているのは生母の咲耶だということを、風花は十歳の誕生日になって、初めて父から知らされた。
あれから、あのひとと一度も会っていない。父は、ときおり狩と称して大津宮へ通っているが、風花を伴っていくことはなかった。
あのひとの夢を、よく見た。抱きとめてくれた腕、柔らかで温かかった胸、ほんのりと甘い香り、そして優しい眼差し。母とは、ああいうものか。そう思うとき、風花は人知れず涙で枕を濡らした。重臣たちを従え、この国を統べる父を尊敬していたが、自分から母を奪ったことだけは許せないと思った。
「父上」
風花は、政務を終えたばかりの父を呼び止めた。
「なぜ、私の母上は、いつも大津宮におられるのですか。どうして、会いに行ってはならないのですか」
父は、風花を清涼殿の庭に連れ出した。
そこには、桜の巨木が植わっていた。春になると、御所で最初に花を咲かせる、妹背という名の桜だった。
「これは、吉野山に二本並んで生えていたものを、吾がここと大津宮に、それぞれ運んで植えさせたものだ」
風花は、大津宮にあった桜の古木を思い出した。すこし、胸が痛んだ。
「吾は、この妹背の桜を見るたびにそなたの母を思っておる。吾とて、意のままにならぬことはあるのだ……」
父は、最後に「許せ」と言った。それは、父が初めて風花に見せた弱さだった。
風花は、これからはもう、母のことは話さないようにしようと思った。