水月(三)
近淡海を遠くに見晴るかす野原に、馬のいななきが響き渡り、続いて色とりどりの衣装に身を包んだ数十人の一団が現れた。
秋月帝が主催する鷹狩りに集まった人々だった。皆、袖の肩口から大きな切れ目が入った動きやすい狩衣を着ていた。
秋月帝は、武帝の異名を持つほど武道に秀でていた。
鷹狩りを好み、春と秋に大々的に行われる他に、小さな狩は毎月のように行われていた。狩りは軍事訓練を兼ねていたため、参加者には、必ず自ら武器をとって狩りを行うことが義務付けられていた。
当然のように、帝自身も、狩衣の上に武具を装着し、馬に騎乗していた。
狩りに適した地は都の周辺にいくらでもあったが、行き先は決まって近江国だったので、咲耶のいる大津宮に逗留することが目的でもあったのだろう。
一団のなかに、八歳になったばかりの風花皇子の姿があった。
「どうした、風花。そなたは吾の子であるぞ。馬にくらい乗れずに、なんとする」
初めて騎乗した馬の上で、身動きがとれない風花に、帝は檄を飛ばす。
必死に手綱を握り締め、なんとか鼻面を皆に合わせようとするが、馬の方も乗り手が初心者と知ってか、なかなか言うことをきかない。
風花は、顔を紅潮させながら、必死でもがく。しかし、焦れば焦るほど上手く行かないのは、何事においても同じであった。
半刻ほどかけて、風花はようやく馬に言うことを聞かせられるようになった。
「では参るぞ。風花、吾について参れ」
「はい父上」
帝の号令で、鷹狩りが開始された。
貴族たちの間を抜けて、帝は馬を進める。
風花は、そのすこし後ろに馬を並べた。馬上にいる父の姿は、本当に活き活きとしていた。その大きな背中を見ながら、風花は、自分もいつかあのようになりたいと思うのだった。
帝が馬脚を早め、風花との間に開きができた。後を追おうとしたそのときだった。
風花が乗った馬の目の前に、一匹の猪が飛び出してきた。驚いた馬は狂ったようにいななき、前足を跳ね上げてあさっての方向に走り出した。
風花は振り落とされまいとして、手綱にしがみつく。とてもではないが、言うことを聞かせられそうになかった。
無我夢中で、どこをどう駆けたのかわからなくなった。風花は、なんとか堪えていたが、暴れ馬の上に子供がそう長く乗っていられるはずもなかった。徐々に、腕に力が入らなくなる。
何が起きたのか、わからなかった。空が下に、地面が上に見えた。次の瞬間、全身に痛みが走った。
そして、風花の意識は途切れた。
「この子の手当ては、私がするわ」
耳元で、小鳥の囀りのような声がした。
額に冷たくて柔らかな手が触れ、甘い香りが鼻をくすぐった。
風花はいつの間にか、柔らかな寝具の上に寝かされていた。おそるおそる目を開ける。白い手が見えて、その向こうに若い女の顔があった。
風花の胸がどくんと波打った。普段から美しい女たちは見慣れていた。しかし、このひとの前では、美しいという言葉さえ色あせて見えた。
「お目覚めかしら?」
女の問いかけに、風花は小さくうなずく。
「怪我が軽くてなによりだわ。足をくじいているみたいだけど、二日もすれば歩けるようになるわ。だから、それまでは大人しく寝ているのよ」
このひとは、誰だろう。
風花が疑問を口にする前に、そのひとが優しく告げた。
「帝のお供をしてきたのね、風花」
風花は驚いた。
私には面識はないのに、このひとは私が誰であるかを知っている。しかも、皇子である私を呼び捨てにするとは。いったい、何者なのだろう。
しかし、このひとのそばにいると、なぜか安心する。
あなたは、誰ですか。
そんな簡単な問いが、何故か口にできなかった。口にしてしまえば、何か大事なものを失うような気がした。
風花は、はい、と答えてから、ぐるりと周りを見回す。見覚えのない部屋だ。どうやら、ここは御所ではないようだった。
しかし、この部屋の造りは御所に負けないくらいに見事なものだった。
「あの、ここはどこですか……」
風花の問いに、そのひとは柔らかな笑みで答える。
「安心なさい。ここは大津宮。あなたの生家よ」
大津宮という言葉が出た途端に、風花の不安は消えた。
自分が大津宮で生まれたということは、父から聞かされて知っていた。ならば、心配することはない。
「帝には使いを送ってあるから、じきに来られるはずだわ。今ごろ、あなたをお探しのことでしょうからね」
このひとは、どうやら父とも知り合いらしい。
女官が膳を運んできた。食べ物の匂いで、風花は空腹であることに気づいた。
「食事を差し上げましょう。起きられるかしら」
はい、と答えて、起き上がろうとした風花の身体に、痛みが走る。そして、再び床に倒れこんだ。
だが、その身体は、温かなものに抱きとめられた。見上げると、すぐ近くにそのひとの胸があった。それは、なんだかとても懐かしいものだった。
気がつくと、風花はその胸に抱きついていた。
「あらあら。甘えん坊さんね」
そのひとは、嫌がりもせず、風花を抱きしめてくれた。
甘い香りに包まれて、風花は痺れるような眩暈を感じる。このまま、いつまでも抱かれていたいと思った。