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水月(二)

 呆気にとられている群臣を尻目に、帝は満足げな笑みを浮かべ、菜香はうつむいて身体を震わせていた。


「あれは、父からの命令だったので、不承ながら従っただけのことです。でなければ、顔も素性も知らぬ娘を、妹などと言いましょうか」

「あのような年端もいかぬ小娘に、嫉妬でもしておるのか」

「いいえ。帝が、私の実家がどこであるかをお忘れになっているのが悔しいだけです」


 菜香皇后は、いわゆる烈婦であった。

 陰謀によって命を狙われた秋月皇子を迎え入れたのは、政界進出を目論んでいた息長(おきなが)一族だったが、その急先鋒が秋月皇子と同い年の菜香だった。菜香は、大きな器量を持ちながら失意に沈んでいた秋月皇子に、積極的に接近した。そして、秋月皇子の妻になった菜香は、父の茅渟親王をはじめとした息長一族の持てる力を総動員して、秋月皇子を帝位に押し上げた。

 秋月帝にとっては大恩のある妻だったが、ことあるごとに恩着せがましく言われることには、うんざりしていた。


「吾とて、嫡流天皇家の者たちから受けた仕打ちを、忘れたわけではない。吾がいまの地位にあるのも、そなたや義父殿の援助があったればこそだからな。だが、咲耶が誰の子であろうと、それとは関係のないことであろう。そなたも、あの無垢な姿を見ればわかる。あれに、なんの罪や咎があろうか」

「そのお言葉……。では、咲耶は木花開耶内親王だということですね」


 皇后は、何かを確かめたいようにしつこく問い返す。

 その目的は、帝もわかっていた。彼女の産んだ息子、安濃親王はいまだに立太子していない。自分より出自の良い女が皇子でも産むようなことになれば、たとえ皇后や長子といえども立場が悪くなるのは明白だからだ。


「そのようなこと、どうでもよいではないか」

「帝が、どのような娘を後宮に迎えようとかまいませんが、正妻は私であることは、お忘れなきよう」


 帝は、食い下がってくる皇后に、強い口調で言い切った。


「咲耶のことがそれほど気にいらぬのなら、あれは立后しないと約束しよう。御所には置かず、大津の離宮に住まわせる。それで良いな」


 大津離宮――通称大津宮は、かつて都が置かれていた近江の地に建てられた離宮だ。

 秋月帝は、ここに女官や舎人など数十人を置いて、咲耶の身の回りの世話と警備に当たらせた。

 宮の台所には、都や東国から運び込まれた食材の数々が、御所でもかくやというほど常備されていた。また、警護の舎人たちには最新鋭の武器が与えられており、その在庫も都の兵庫に劣らぬものだった。

 それらは、寵妃ひとりを住まわせるには、あきらかに過分な配置であった。離宮の名を借りた軍事要塞というのが大津宮の本来の役目であろうことは、誰の目にも明らかだった。


 宮の主殿は、近淡海を見晴らす高台に立っており、縁台からの眺めは四季を通じて明媚だ。

 その縁台に、二つの人影が寄り添うように座していた。

 夜半の空には、煌々たる満月が浮かび、近淡海のさざなみが月光を受けて、金砂銀砂を撒き散らしたようだった。


「そなたは、吾にとって誰よりも大事な者だ。なればこそ、後宮の者どもの好奇の目の中に置くのは忍びない。ここは、御所にも引けをとらぬほど安全な場所だ。なにより、ここならこうして邪魔も入らず会うこともできる」

「はい。でも、ひとりでいるときは寂しいわ」

「それは、すまぬ。……今宵はすこし冷えるが、お腹の子には障らぬか」

「大丈夫よ。私も、この子も」


 そう言って、彼女は愛おしそうに大きく膨らんだお腹をさする。

 帝は、その肩をそっと抱き、再び近淡海に視線を投げた。この国を統べる者ではなく、一人の男としての、ささやかな幸せをかみしめながら。



 翌年の春、咲耶は出産を果たした。

 その日は、弥生のはじめにしては寒く、咲き始めた桜を凍てつかせるように、冷たい風に雪が舞っていた。

 生まれたのは、肌の白い子だった。帝は、その容姿とその日の天気にちなんで、皇子に風花と名づけた。


「ご両親の良いところを合わせたような皇子さまですこと」


 帝の隣で風花皇子をあやしている内侍は、帝がまだ日の当たらない皇子であったときから仕えている女性だ。


「それから、桜さまですが……」

「その名を、みだりに口にしてはならぬ。誰が聞いているとも限らぬからな。……それで、あれの様子はどうだ」


 帝は、産後の経過が思わしくない妻の容態を尋ねた。

 それまで晴れやかだった内侍の表情が、翳りを帯びる。


「はい。今すぐどうということはありませんが、薬師の見立てでは、お命を縮めたことに間違いはないだろうとのことです。それから……もう、子は望めないだろうと」

「そうか……そなたが頼りだ。これからも頼むぞ」


 帝は、そう言って内侍の肩を抱き寄せる。

 内侍は、周囲に誰もいないことを確かめてから、主に身体を預けた。


「はい、心得ておりまする。ただ、あれほどの御方なのに、日の当たる場所に出られないのかと思うと、あまりにお可哀想で。主上、やはり桜さまをわたくしの娘にしていただけませぬか」

「いくらそなたの頼みでも、それは聞けぬな。桜のことは、吾に考えがある。悪いようにはせぬつもりだ」


 帝の言葉に、内侍はすこし安心したようだった。


「さて、吾はそろそろ都に戻らなければならぬ。産み月に入った菜香が、大津にばかり行くなとうるさいのでな」



 帝が風花を都に呼び寄せたのは、その年の夏だった。

 まるで少女と見まがうような見目麗しい皇子の登場に、御所は騒然となった。


「なんと美しい皇子さまか」

「帝に似ていらっしゃるのは勿論だが、目元の涼やかさは咲耶さまに似ていらっしゃるのだろう」


 お世辞抜きの賞賛が、御所でささやかれた。

 風花皇子は、今や帝の寵愛を一身に受ける咲耶が産んだ男子だ。しかも、おそらくその血筋は天皇家の嫡流に当たる。先の瑞葉帝には皇子がいなかったから、もっとも正当な天皇家の後継者でもある。

 容姿を含めて、御所の期待を一身に集める皇子だと言っていい。


 だが、その一方で、それを手放しで喜べない者もいた。

 言うまでも無く、正妻の菜香だ。菜香は、安濃皇子の立太子を一日伸ばしにしてしまったことを後悔した。


 安濃皇子は、秋月帝がまだ流浪の皇子だったころに授かった長男であり、秋月帝の即位と同時に立太子していてもおかしくないはずだった。安濃は、端麗な顔立ちの帝の子にしては容姿に劣り、文武も凡才であった。

 しかし、それでも人に劣後するような皇子ではなかった。安濃を立太子させないのには、他に理由があるというのが、御所の者たちの一致した意見だった。そして、それはいつしか、安濃が秋月帝の子ではないという憶測を呼んでいた。

 世間の狭い御所で、そんな中傷が菜香や安濃皇子の耳に入らないはずがなかった。

 菜香は、やっきになって安濃の教育に取り組んだが、逆にそれは安濃の凡才ぶりを示すことになり、安濃もまた自棄になって荒れた日々を過ごすようになっていった。

 そんな状況で、自分より血筋の良いであろう咲耶に皇子が生まれた。このままでは、後から現れた咲耶にすべてをさらわれかねない。

 今までやってきたことが、すべて無駄になってしまうのか、と思うと菜香はいたたまれなかった。


「安濃は、どこか」


 菜香に問いかけられた女官は、それが、と言葉尻を濁した。菜香は、その意味をすぐに察した。


「また奈方のところにいるのですね……。話しがあるから、二人を呼んできなさい」


 奈方内親王は、秋月帝と菜香の間にできた最初の子で、穏やかな性格の皇女だった。奈方は弟の安濃皇子をかわいがり、安濃も彼女には懐いていた。最近では、安濃はいつも奈方のところに入り浸って、遊び呆けている有様だった。

 菜香は、生まれたばかりの初瀬皇子を抱く。初瀬は、秋月帝に似た凛々しい顔立ちをしていた。


 私には、三人の子がいる。あんな小娘になど、負けるものか……。

 わが子たちを、必ず日の当たる場所に出して見せる。

 菜香は、そう思うことで、くじけそうになる自分の気持ちを鼓舞するのだった。

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