水月(一)
「皆に紹介しておこう。吾の新しい妻、咲耶だ」
そう言って、秋月帝はその娘を抱き寄せた。
朝議に参じていた重臣たちは、いっせいに息をのむ。
美しい……。
萌黄の小袿を身にまとい、その少女は、咲き初めの花のように帝の腕の中にいた。
雪のように白い肌、漆黒で濡れたように艶やかな髪、涼しげな瞳に、柔らかに色づいた小さな唇。造化の神に愛されたとしか言いようがないほどの美貌だ。
それに若い。いや、幼いと言った方が正しいだろう。だが、帝はたしかに、妻だと紹介したはずだ。
重臣たちの困惑を他所に、帝は満面の笑みだった。
「どうだ、美しい娘だろう。義父の茅渟親王の末の娘でな、今年で十五歳になる」
嘘だ、いくらなんでもそれは無理がある。
皆が、一様にそう思った。
たしかに、そこはかとなくだが色香のようなものも漂わせてはいる。しかし、どう見てもまだ幼女の域を出ない。十五歳と帝は言うが、十歳がいいところだろう。
「咲耶、皆に声をかけてやるといい」
はい、とささやくような声で答えたその娘が、帝の膝から立ち上がる。
それでも、敷物の上に胡坐をかいた帝より、頭ひとつ高いだけだった。
「咲耶と申します。このたび縁あって、帝にお仕えすることになりました。どうか、お見知りおきを」
小鳥のさえずりのような声だったが、その挨拶はしっかりしていた。
帝に言い含められているのかもしれないが、見かけの幼さに似合わず如才ないものだった。
「では、これで吾は下がる。皆、大儀であった」
帝は立ち上がると、朝議の終了を告げた。
咲耶の手をとり、几帳の奥に消える姿は、まるで父娘のようだった。
帝の行為は、御所に波紋を広げた。
律令では、女は十三歳にならなければ婚姻できないとされている。帝がそれを乱して、年端もいかない少女を妻に迎えるというのだ。天皇家の者が、臣民の法たる律令を守らなければならないということはないが、公然とそれを犯す者は歴代の帝にも少なかった。
咲耶という、その少女の素性もまた問題になった。
帝は茅渟親王の末娘というが、それがごく最近に養子縁組した娘だということは、すぐに知れた。
ならば、あの少女の正体はいったい誰なのか。
「御名前から察するに、先の瑞葉帝の皇女、木花開耶さまではなかろうか。それなら政敵だった方の娘であるし、出自を偽るためにお人好しの茅渟親王さまの手を借りたのもうなずける」
「しかし、かの皇女はおそれおおいことだが、ほんとうにお生まれになっていたのかどうかもわからぬ方だ。それを今さらというのは、いささか無理があると思うが」
左大臣と右大臣が、深刻な表情で語り合う。
とくに右大臣は、帝に娘を入内させているだけに、あらたな妃の出現は気になるところだ。もし、かの姫が瑞葉帝の皇女であるなら、格の上では臣下の出の妃では比肩のしようがない。
うむ、と唸ったあとで、左大臣がぼそりとつぶやいた。
「としごろだけでいえば、あの御方ならちょうど合うのだがな。八花内親王さまに面影がよく似ておられるようだし……」
その名が出た途端に、右大臣の顔色が変わった。
八花内親王は、東宮のままで不慮の死を遂げた宇治雪親王の年の離れた妹で、人並み外れた美貌の皇女であった。賀茂斎王を務めていたが、亡き宇治雪親王の遺言に従って異母兄の大鷦帝の妃に迎えられたのだった。
しかし、権勢の絶頂にあった大鷦帝と数十歳も年下の八花内親王の結婚は、不幸な結果をもたらした。皇后の岩乃媛は、抗議のために御所を出てしまい、大鷦帝は後ろ盾であった皇后の実家の葛城一族からの支援を受けられなくなり、その権勢に陰りが差すことになった。しかも、大鷦帝と八花内親王は不仲であり、兄の遺言だけで妃の地位を得て皇后を追い出した女だと、後ろ指をさされることになった。
苦渋の日々を送る八花内親王はやがて、帝の皇子のひとりと許されぬ関係になった。それが秋月皇子――後の秋月帝だった。
秋月皇子は、宇治雪親王の皇子であり、大鷦帝から見れば甥だった。宇治雪新王の死後、その遺言で大鷦帝の皇子の列に加えられたが、有力な後ろ盾がいなかったため、親王宣下もなく、宮中にあっても陽の当たる場所には出ることがなかった。
似たような境遇であったことで、二人は惹かれあい、それが不義の関係に繋がったとされているが、甥と叔母とはいえ齢は近く面識もあった二人は、宇治雪親王から結婚の許可を得ていたとも言われている。
密通の事実を知った大鷦帝によって、秋月皇子が御所を追われたことで、その恋には終止符が打たれた。
事件のあと、八花内親王の消息はふっつりと途絶えた。緘口令があったためだが、大臣たちは、八花内親王が密かに女児を産み、産後の肥立ちの悪さが原因で亡くなったこと、生まれた子は天皇家の籍に入ることも許されず、名もない臣下に引き取られたことを承知していた。
「あの御方の存在は、天皇家の暗部だ。軽々しく口にしてはなりませぬ。……ともかく主上は、咲耶さまは茅渟親王の末娘だ、と仰せなのだ。そのお言葉を信じることが、我らにとってもいちばん都合が良い。ならば、そういうことで良いではないか」
右大臣の一言に言葉を返す者はいなかった。
だが、男たちはそれで納まっても、納得できない者もいた。皇后の菜香は、当然のように帝に詰め寄った。
「正妃になさるのであれば、あの娘の素性、今度こそ明かしていただきます。いったいどういう娘なのですか」
「そう気色ばむな。咲耶の素性を知って、どうしようと言うのだ」
帝は、皇后の問い詰めに、問いを返した。
「どうもいたしません。私は、あの娘の正体が知りたいだけです。まさかとは思いますが、あの……」
皇后の言葉をさえぎって、帝が高笑いをする。
「正体も何も、咲耶はそなたの妹ではないか。それに、あれを吾に献上してくれたのは、そなた自身なのだぞ」
夫のしらじらしい言葉に、菜香は唇を噛んだ。
「あれは……」
それは、つい先日行われた新嘗祭でのことだった。
祝いの舞を奉納した菜香に、帝は、舞を終えた後には娘を奉る決まりのはずだと注文をつけた。それは、舞姫自身を帝に捧げるという意味の宴席での戯言であり、すでに妻の地位にいる菜香にとっては無用のことであった。
しかし、帝は執拗にそれを求めた。
居並ぶ群臣は、帝の悪酔いだろうと思っていた。
しかし。
菜香は、しぶしぶといった様子で言上した。
「処女を奉りたいと存じます」
帝は、したり顔で聞き返した。
「その処女とは、誰か」
菜香は、誰もが耳にしたことのない、菜香自身もその時まで知りもしなかった、その名を告げた。
「咲耶。……私の妹です」