妹背(五)
風花は、その足で桜の寝所へ向かった。
下弦の月の薄明かりが、白砂の境内を青白く輝かせていた。聞こえるのは、微かな風の音だけだった。
桜の寝所がある社殿に着いたとき、欄干に脱ぎかけられた装束が目に入った。その横手にある妻戸もすこし開いている。桜のしたことだと、風花は直感した。
妻戸を開けて庇に入り、ほのかな灯火が漏れている部屋の襖障子を、迷わずに開いた。
そこには、一糸も纏わぬ姿で寝具の上に座している桜がいた。
うつろだったその眼が、風花の姿を映した瞬間に、光を宿したように見えた。そして、その唇から、「やっぱり」とささやくような声がした。
「風花お兄さまだったのですね、桜の運命は。……今宵、誰も来なければ、それも桜の運命。そして、どなたかがおいでになれば、それもまた桜の運命だと思い決めていました」
桜の言葉は、まるでこうなることを望んでいたかのようだった。
「待っていてくれたのか、私を」
風花の問いかけに、桜はふっと自嘲する。
「はい。桜は、斎王として失格ですね……」
目の前には、成熟した女の裸体があった。しかし、風花の視線は、桜の眼差しに絡めとられていた。
「お兄さまも、お気づきでしょう。桜は、もうとうの昔に、いえ最初から斎王になる資格などない女なのです。神に嫁ぐには、この身も心も穢れすぎているの」
あの花宴の夜、風花は気づいていた。
桜は、処女ではなかった。公には未婚ということになっているが、たしかに斎王になる資格は満たしていない。だが、だからと言って、潔斎の最中だった桜を犯したことを正当化できるわけもない。
「すまない。私のせいだ。あの夜、私は桜に無理強いをしてしまった」
「どうして、お兄さまも謝るの? そんなこと、どうでも……」
そこで言葉を飲み込んだ桜は、ゆっくりと風花の胸に頬を寄せた。
「ううん。やっぱり、お兄さまのせいよ。だから、もう一度桜を抱いてください。その手で、すべてのものから桜を奪ってほしいの」
二つの影が、揺れながらひとつになり、夜の静寂に沈んでいった。
「……ねえ、風花お兄さま」
まどろんでいた風花の耳に、ささやくような桜の声が聞こえた。
風花は、重いまぶたを持ち上げる。
板戸のわずかな隙間から、微かな光が漏れていた。格子から差し込む青白い月光が、桜の姿を照らし出す。満ち足りたようにうっとりと細められた瞳が、穏やかに風花を見つめていた。
「眠れないのか?」
風花のささやきに、桜は恥ずかしそうに目を伏せた。風花は、右手を差し出して、桜の手を握る。
「朝まで、こうしていてあげよう。だから、安心して」
「お兄さま……」
言葉を詰まらせた桜を抱き寄せようとした、そのときだった。
つないだ右手の、柔らかくて、すこし冷たい感触が風花の記憶の深い部分を刺激して、思わず、あっと声を出しそうになった。
「桜、すこし、話していいか」
「はい」
「こうしていると、思い出すことがあるのだ」
風花は、その話を切り出す。
「母上のことを、聞かせてくれないか……」
桜の顔に、困ったような表情が浮かぶ。
しかし、それにはかまわずに、風花は続けた。
「桜は、大津宮でずっと母上と一緒だったのだろう。私は、幼いころに一度、顔を見ただけなのだ。先日、父と一緒にお会いしたが、御簾ごしに一言二言声をかけてもらっただけで、顔も見ることができなかった。ご病気と聞いたが、そんなにお悪いのか」
一気にまくし立てた風花に、桜はすこし辛そうに答えた。
「ごめんなさい、桜もよく知らないの……会ったことがないから」
それは、あまりに意外な答えだった。
都と大津に離れ離れの自分はともかく、いくら病を得ていたからといって、同じ屋根の下で暮らしていた母と娘が一面識もないというのは、いかにも異常なことに思えた。
想いを巡らせる風花の様子を伺うように、桜が尋ねた。
「お兄さま。桜は、そのひとに似ていますか」
「そうだね、言われて見れば、桜はあのころの母上に似ていると思う」
そう言いながら、風花は懐かしい母の記憶をたどっていた。甘いような、酸っぱいような、胸を締め付けられるような、不思議な気持ちだった。
その淡い記憶の中から、風花はそれを思い出した。
「それと、そう……香りが」
「香り?」
「ああ、そうだ。思い出したよ。桜は、母上と同じいい香りがする」
桜が、わずかに身じろぎをしたように見えた。
「――れて、いると思ったのに」
その声は小さくて、聞き取れなかった。
何か、と風花が問いかけようとしたときだった。
「だからですか」
桜が、毅然と言い放った。
「あのひとと桜が、似ているからですか」
突然のことに風花は戸惑う。
桜は、真剣というより何か不機嫌な様子だ。母と似ている、と言われたことがそれほど気に障ったのだろうか。
違う、と言おうとして、風花は言葉に詰まる。
では、私はなぜ桜を好きになったのだ。
運命の出会いだと思った、あのとき。
だが、違う、という心の声がする。あれは、あの場面は……。
大切なことを思い出せないもどかしさに、風花は黙り込む。
風花の答えを待たず、桜がつぶやく。
「お兄さまも、私のことを……」
「桜?」
つないでいた手が解かれて、桜が身体を起こした。
そして、そのまま風花の胸に崩れ落ちるように抱きついてきた。まだすこし汗ばんだままの桜の肌のぬくもりとともに、風花はその柔らかな重みを受け止める。
「ねえ、お兄さま。桜だけを好きだと言って。あのひとのことなんて、忘れて。もう嫌なの。私が、私でいられなくなるの。私を、私でいさせて。桜にはもう、お兄さましかいないの」
いったん言葉を切った桜は、何かに気づいたように、身体を震わせた。
「どうして、こんなことに……」
熱くて深い桜のため息が、風花の胸をくすぐる。
「桜、どうしたのだ」
風花は、桜の耳元でゆっくりと呼びかけ、その背中に腕を回す。
しかし、風花の手がその肌に触れる直前に、桜はのけぞるように上体を起こした。
「私も、同じだ……」
固く閉ざされた桜の目から、涙があふれ出した。
その雫は、桜の頬を伝い、風花の胸に落ちた。ほの温かい雫は、風花の肌の上ですぐにそのぬくもりを失くした。
桜の喉が、くくっと鳴く。押し殺したその笑いは、やがて空笑へと変わった。
「あはは、あはっ。あはは、は……っ、くっ、ううっ」
泣き笑いを浮かべた桜の顔を、風花は呆然と見上げる。
ついさっきまで、あれほど安らかな時を分かち合っていたのに、いったい何があったというのだ。
「こんなことして、良いわけがないのに……」
桜が、なにかを嘲笑しながら、涙をしたたらせた目で風花を見た。
「ねえ、教えてよ。私は誰なの。誰のための、誰でいればいいの。お兄さま……お父さま」