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花影(一)

「だぁれ、だ」


 耳元に甘い声がすると同時に、目の前が真っ暗になった。

 不意を突かれた風花(ふうか)親王は、完全にうろたえた。


 しかし、まぶたを覆う柔らかな掌と、焚き染めた香の匂いと、語尾が上がる聞きなれた声で、悪戯者の正体はすぐに知れた。

 風花はいささか邪険に、その掌を振り払った。


 目前には、満開の八重の花を咲かせた妹背(いもせ)の桜が、匂い立つ春の王のように立っている。その梢には、かすかな霞をまとった満月がかかり、白砂の庭を銀色に輝かせていた。

 そして、舞い散る花びらの中に……。


 すでに、あの女の姿はなかった。



 花の香匂う、弥生。

 四神相応の山背の地に都が造営されてから数代の帝の治世を経た、秋月(あきづき)帝の御世。都の北端に位置する御所の最奥部、大小十二の殿舎群を擁する内裏では、帝主催の花宴が賑やかに催されていた。


 内裏の主殿である紫宸殿の方角から、風にのって舞楽春鶯囀(しゅんのうてん)を奏でる管弦の音が聞こえてくる。多数の皇族や貴族を参集させた絢爛たる色彩と音楽の饗宴は、宵に入ってまさにたけなわというところだ。

 成人を祝う加冠の儀とともに立太子の儀を終えて東宮になった風花親王は、宴の主役のひとりだった。だが、客人たちの絶え間ない追従に辟易し、酒に酔ったふりをして宴席を抜け出し、人気のない清涼殿の板張りの縁側で一息つくつもりだった。

 そこに、その女がいたのだ。


 夜の闇に溶ける黒髪と、月の輝きを写し取ったような白い顔。

 身に纏うのは、まさに桜花を思わせる衣装だ。薄緑から少しずつ色の濃くなる衣を五枚重ねて濃緑に至る萌黄の五衣と、表地の白に下地の紅が透けて見える桜花の小袿(こうちぎ)

 そして、舞い散る花びらに抱かれるように、彼女は妹背の桜を見上げていた。


 その横顔を一目見た途端。

 風花は、心の最深部を激しく揺り動かされた。

 初めて会ったはずだ。なのに……。

 記憶には、その存在がすでにあった。

 いつか必ず、自分の半身と出会える。なぜかはわからないが、それは幼い頃から、いつも心の奥底に潜んでいた思いだ。

 そして、それはいま目前にいる人のことだと、風花は思った。

 やっとあなたを見つけた、と。


 まるで風花の思いに応えるように、女はゆっくりとこちらを向いた。

 お互いの視線が交わる、その刹那。


 悪戯者の手によって、彼女の姿は覆い隠されたのだった。

 それは、ほんのわずかな時間だった。にもかかわらず。

 彼女がたたずんでいた妹背の桜までは、ほんのわずかな距離だった。それなのに。

 風花は、あらためて白砂の庭を見回す。左右の端にある一抱えほどの群竹まで、一望のもとに見渡せた。人が身を隠せるほどの草木も植わっておらず、満月の月明かりもあるというのに。

 彼女を、見失ってしまった。



「ねえ……だぁれだ」


 耳元で、再び甘えた声がした。耳にかかる吐息が、くすぐったい。

 風花は、ため息を落としてから背後を振り返る。

 そこには、思ったとおりの人物がいた。少女らしさが残る整った顔の中で、愛らしい目が無邪気に笑う。

 風花の異母妹、橘花(きっか)内親王だ。風花とは、同じ乳母のもとで育てられた幼なじみでもある。

 その橘花も、今日、女子の成人の儀式である裳着を終えた。

 昨日までは子供の身なりで御所を走り回っていたが、今は母方の右大臣家が用意した豪華な衣装を身につけていた。緑の薄衣一枚の単に、濃淡の違う黄色の衣五枚を合わせた山吹の匂の五衣を着た上から、浅紅と黄を重ねた綾織の花山吹の小袿を羽織っている。童顔の彼女に相応しい仕立てだったが、それでも、そもそもが大人用の衣装であり、まだ少女らしさを過分に引きずっている橘花には、いまひとつ馴染んでいなかった。

 風花は、悪戯者の異母妹に向かって口の端を上げる。


「見知らぬ女だ。おまえ、だれだ」

「ううっ、風花兄さん、ひどいよ」


 口をとがらせる橘花を無視して、風花は、縁側から庭に降りるための階段に腰を下ろした。

 あれは、いったい誰だったのか。

 思いを巡らせる風花の背後から、白檀の匂いがした。そして、ひとりの男が風花の隣に座ると、その口から詠うような言葉が漏れ出した。


「月光に映える白い肌、夜風に揺れる漆黒の髪。かの者は、春の夜の妖艶たる幻か、はたまた花神や天女の類か」


 その男が身につけているのは、藍色の直衣だった。

 直衣は、身頃も袖もたっぷりとした恰幅のある上着で、襟元から覗く衣と膨らませた袴の赤色が、その男の洒落っ気を物語っている。直衣は男子の略装だが、上着を官位に合わせた色の物に代えて持ち物を整えれば、正装である衣冠とみなされる。その程度の違いでしかないが、直衣で御所の内裏を闊歩できるということは、帝の特別な許可を得た者か、もともと特別な身分の者でしかありえないことであった。

 風花は、精悍なその横顔に呼びかける。


初瀬(はつせ)、おまえも見たんだな。いったい誰だ、あの女は。それに、どこへ行った?」


 ほんのりと上気した顔を風花に向けた初瀬親王は、意外そうに肩をすくめた。


「そんなことは、こっちが聞きたいぞ。雲隠れにし夜半の月かな、というやつだ。とんでもない美人だったな。兄上こそ、熱く見つめあっていたのに、知り合いではないのか」

「いや……」

「そうか。それにしても、今宵の宴に似つかわしい、まるで花のような小袿だった。あの仕立て、並ではないぞ」


 初瀬が女の衣装を褒めるのを、風花は初めて聞いた。

 たしかに彼女の衣装は、貴重な綾織の布地を惜しげもなく使ったものではあるが、女たちの楽しみである色目の美しさを競うことなど眼中になく、ただただ桜花の美を写し取るためだけに揃えられたものだろう。それはつまり、他者と争う必要がない身分であることを示している。


「花よりほかに知る人もなし、だよ。二人して、なによ。橘花のことは、無視ですか」


 耳元に騒々しく何かが聞こえるが、風花の関心はそこにはなかった。

 すぐにでも、声をかけるべきだった。

 その後悔が、風花の心を占めていた。


 ⁂


 彼女は。

 風に揺れる薄紅の花びらを、見上げていた。

 そして、思う。


 これが、妹背の桜。

 私と、まだ見えぬ「あなた」との、運命(さだめ)を示す八重の桜花。


 その名が示す運命に導かれて、私はいまここにいる。

 けれど、舞い散る花びらの行方が定まらないように、私の未来もまた風の行方しだいだ。

 そのとき。

 花散らしの風が、私の髪を揺らせ、その思いを運んできた。


『やっと、あなたを見つけた』


 そして、まなざしを投げたその先に……。

 私も、あなたを見つけた。


 その姿は、白くて美しかった。

 私に向けられたまなざしは、熱くて清らかだった。

 一瞬が、永遠に思えた。

 そして、月の光に縫い止められていた、私の時間が動き出した。


 けれど、私は……。

 目を閉じて、願う。そして、あなたに問いかけるのだ。

 この身に深く刻まれ、この身を満たす穢れで……。


 あなたを汚しても、いいですか。


 ⁂

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