本心
不可解だった麗華の行動。その原因のすべてが明らかになる。しかし、時は既に……。
高校生活が始まった。希望と不安の交差する様々な刺激に毎日が満ちていた。新しい生活に忙殺されながらも、麗華のことはいつも念頭にあった。春休みに旅先で別れて二週間余り。電話もまだ掛けていない。
彼女が戻れば連絡があるはずだと言う思いもあった。また、新生活の準備やら男友だちとのどうでも良い約束に付き合わされて何かと忙しかったのも事実だ。
四月も終わり近くになった日曜日、漸く麗華に連絡を取ろうとしていたところへ、直子が突然私の家を訪ねてきた。彼女は、玄関先で挨拶もせず、笑顔も浮かべずに封筒を私に手渡した。
「何、これ?」
「後で開けてください」
直子の表情は深く沈み、それだけ話すのが精一杯の様子で今にも泣き出しそうだ。
「どうかしたの?」
私の問いに彼女はしばらく俯いた後、思い切った風に顔を上げて、
「もう、いないんです、麗華……」
とだけ言い残して俄かに去ってしまった。私は漠とした不安と破裂しそうな心臓の鼓動を感じながら、緊張と不安で震え始めた手先で封筒を開けた。
中には、一束に纏められた数枚の手紙と、紙質の違う一枚の手紙が入っていた。まず、一枚の手紙から読み始める。手紙の送り主は麗華の母親だった。
『突然、このようなお知らせを致しまして誠に恐縮に存じます。しかしながら、いつまでも隠し通せる事でもなく、勇気を奮って筆を執りました。どうかお気を確かにお持ちください。
娘の麗華は、四月十五日の夜、静かに息を引き取りました。死因はALS、筋萎縮性側索硬化症です。筋肉を動かす神経が障害を受けて、次第に筋肉が動かなくなる病気です。
麗華の場合は病気の進行が遅く、呼吸器系等以外は目だった症状は見られませんでした。投薬とリハビリの効果もあったのか、日常生活にも左程支障はありませんでした。
ところが、今年に入ってから呼吸器系筋力の衰えが顕著になって来ました。当然、本人も自覚しておりました。ですから、最後の旅になることを意識しながら、海の見える姉の所へ行きたいと申しました。
娘を手の届かない所に置くのは不安でしたが、最後の旅を楽しんでもらうことを優先し、姉に預けておりました。そこへ、偶然あなたが訪れていらしたことも聞いております。
あなたを責めるつもりは毛頭ございませんから、誤解のないようにお読みください。事実のみをお知らせ致します。
麗華は、あなたが姉の所を去られてから急に病状が進行し、二三日後には呼吸不全で病床に伏しました。私もすぐに駆けつけましたが、娘の体力は日に日に衰えてゆくばかりでした。
娘は動きにくい指で筆を執り、病床で何かを一生懸命に書き続けていましたが、何とか最後まで書き終えたらしく、心残りなく世を去りました。
娘の願いで、あなたを葬儀にはお呼びしませんでした。その代わりに、死ぬ間際まで書き続けていた、あなたへの手紙をお送り致します。
本来ならば、娘がお世話になった内海さんに直接お会いして、お礼と共にお渡しすべきものとは思いますが、まだ気持ちも落ち着かない状態でございます。どうか失礼をお許しください。
また、娘のことは一日も早く忘れて、あなたの人生をしっかり歩んでください』
私は、一気に全身の血を抜かれたような衝撃に襲われた。ただ、何もかもが信じられず、自分の存在すら信じられなかった。ぼんやり立ち尽くしたまま、倒れることすらできなかった。
悲しみも苦しみもない。何度も何度も、手紙を読み返しているうちに、麗華の可憐な姿が脳裏にぽっかり浮かんできて、漸く涙が溢れてきた。
そして、信じたくない気持ちと同時に、不可解だった彼女の行動が次々と思い浮かび、そのひとつひとつの疑念が流れるように溶解していく感覚が腹の底から湧き上がってきた。
私は全身の震えを抑えながら、その場に塞ぎこむ知恵も浮かばずに、立尽くしたままでもうひとつの手紙の束を紐解いた。
『内海さんへ』麗華の手紙の冒頭にはこう記されていた。
『お久しぶりです。お元気ですか?あなたにこのような驚きを与えてしまうことを本当に申し訳なく思っています。ごめんなさい。本当は、このような手紙をしたためるつもりなど、毛頭もございませんでした。このまま、誰にも本心を明かさずにこの世を去るつもりでいました。
しかし、神様が最後に幸福を与えてくださいました。まさか、あなたがここへ来られるなんて夢にも思いませんでしたから……。
私は後何日生き長らえるか、自分でも見当がつきません。衰弱のために毎日少しずつしか書くことができません。もし、途中で終わってしまうようなことがありましても、気を悪くなさらないでくださいね。
私はあなたにお詫びしたい気持ちでいっぱいです。何もかも、ありのままに白状します。私は、あなたのことをずっと愛しておりました。心からお慕いしていました。一年生の頃からずっと見つめていたのです。
そんな私が、あの日突然お知り合いになれて……。私は神様に心から感謝しました。しかも、あなたは私にとても優しくしてくださいました。肩を並べて通学したり、一緒に買物に出掛けたり、あの頃ほど生きている悦びを実感したことはありません。
ところが、幸せなんて長続きしないものですね。ある日、私は激しい貧血に見舞われました。以前から時々はあったのですが、次第に頻度が多くなり更に筋肉痛や関節痛まで伴うようになってきました。
病院をいくつか回りましたが明確な原因はわからず、とうとう大学病院で精密検査を受けました。しかし、そこでも特に異常はないとの診断でした。
私は少し安心して普段どおりの生活に戻りました。でも、念のため激しい運動は止められましたので、バトミントン部は休部しました。
ところが精密検査を受けてから数日後、両親から衝撃的な事実を知らされました。私の病気は、筋力が衰えてゆく難病で治る見込がないこと、しかし投薬とリハビリで何十年も生きられた事例もあることを聞かされ、両親と一緒に病気と闘い、頑張って生きて欲しいと懇願されました。
私は、自分が死ぬのだと言う実感が湧かず、他人事のように両親の話しを聞いていましたが、両親が隠し事をしていることは直感的に感じ取りました。
私は執拗に両親を問い詰め、とうとう全ての事実を聞き出すことができました。私は呼吸器系に障害が出ており、内臓の機能も低下しているために貧血症状が現れる。このまま病状が進行すれば、一年ほどで呼吸不全を起こして死亡する可能性が高い。
これが両親から聞き出した事実でした。それでも私は他人事のようにしか捉えられず、平然として両親の前を去りました。
でも、部屋に戻ってひとりになると、漠然とした実感のない恐怖感に全身の震えが止まりませんでした。膝がガタガタと震えて立っていられず、恐怖と不安で嘔吐しそうになりました。涙など一滴も零れません。泣くと言う行為がどんなに健全な行為であるか、あの時初めて知りました。
それからの数日間、私は苦悩の中で身悶えし続けていました。しかし、その苦しみと反比例するかのように人前では明るく振舞っている自分が不思議でした。
自殺と言う言葉も何度か脳裏を過りました。どうせ一年後には死ぬのだと言う思いが拭いきれません。でも、そんな私の苦悩を感じながらも、懸命に平静を装う母の作り笑顔が悲しいほど暖かくて、切なくて、母が可哀想で。
いつしか、自分でも気づかないうちに私は家族の前で明るく振舞っていました。そうしているうちに、私は病気と闘い、残された人生を精一杯楽しむことが両親への恩返しだと考えるようになりました。
人間はいつか必ず死ぬものです。私は自分にそう言い聞かすことしか心の平衡を保つ術を持ちませんでした。何度も何度も自分に言い聞かせ、病気のことを考えないように努めました。
来る日も来る日もそんな葛藤を繰り返しているうちに、心身ともに疲れ果ててしまいました。でも皮肉なことに、疲れ果てた結果、心が平静に近い状態に戻ることができました。
少し落ち着いた私は、人生の急激な変化に弄ばれながらもあなたのことが気になり始めました。自分の命とは比べようもないことだけど、どうにも気掛かりで仕方ありませんでした。
初夏の頃のあなたとの関係をそのまま続けていればもっと親密な関係になれたと思いますし、健康であった私ならばそうなることを素直に望んでいたでしょう。
私はとても悩みました。勿論、あなたともっと仲良くなりたいと願っていましたし、いつまでも一緒に学生時代を過ごし、その先の人生をも共に歩みたいと希望していました。
でも、本当にこのままで良いのだろうか。私はそんな疑問に苛まれました。ほんの一年先には必ずあなたを苦しめることを知りながら、無責任に自分の欲求を満たすことの罪。
あなたに事実を隠し未来ある普通の女子学生を演じながら、あなたが必ず陥る絶望の落とし穴を掘り続ける自分を醜いと感じました。私の死に突然直面したあなたの心持ちなど、恐ろしくて想像することすらできませんでした。
私の余命は一年と言うことでしたから、翌年の夏までは生きられるはずですが、万一予想よりも早く、あなたの人生を左右する受験前に死んだりしたら、あなたを衝撃の壁に叩きつけ、受験を失敗させて人生を狂わせてしまうかも知れません。
そんな風に考えた私は、あなたとの交際を絶ち切る決心をしたのです。身勝手な憶測で結論を出してすみません。私から絶交しなくても、あなたから嫌われる運命だったかも知れませんよね。
心のどこかでは、私と絶交したあなたが私のことなどさっさと忘れてくれることを願っていました。それがあなたにとって一番衝撃が少ない結末ですから。
ひとりよがりのひとり芝居だと笑って頂いても結構ですよ。浅知恵だったかも知れませんが、とにかくあなたの人生を狂わせたくなかった。それが全てです。
あなたには私の行動がさぞ不可解で、気を悪くされたことと思います。私は、その全ての謝罪をここにさせて頂きたいのです。
恋人の作り話しをしたり、あなたを無視したり、不自然なまでにあなたを避けたり、友人の前であなたの悪口を言ったり、随分あなたのプライドを踏みにじりました。
簡単に許して頂けるような罪だとは思っておりません。しかし浅はかな私には、そうすることしかできなかったのです。あなたのためにできることを他に思いつかなかったのです。
今すぐあなたの前に駆けつけて、両手を着いて謝罪したい気持ちでいっぱいです。本当にごめんなさい。
あなたも気付かれていたかと思いますが、自分の余命を知ってからの私は自分でも驚くほどに変化しました。強くなった反面、冷淡にもなりました。
でも、突然死を告知された上に、大好きな人から離れなければならなかったのですから、どうか大目に見てくださいね。
あの頃の私……。そう、あなたと知り合った頃の私は、とにかく自分の気持ちに素直な人間になろうと努めていました。ひねくれたり、意地を張ったりすることを極力避けていました。清純な少女の印象を周囲に与えるような、そんな女でいたいと思っていました。
そんな私があなたと交際を始め、あなたのことを色々観察しているととても可笑しくて、何度もこっそり笑っていました。
あなたは意地を張るために生きているのかなと勘繰りたくなるほど意地張りでした。男の誇りだとか、焼魚は小骨を取るのが面倒たとか、色んな文句を並び立てて自分の素直な感情をいつも抑えているような……。本当は焼魚も好きでしょう?
そんなあなたを、いつかは変えて差し上げたいと思うほど、自分に対しても周囲に対しても、私は素直であろうと努めていました。
しかし、そんな私が急変しました。そもそもあなたから離れる行為自体が素直な気持ちに反しています。そして周囲に嘘を吐き続けることも本意ではありませんでした。
いつの間にか嘘を吐くのが当たり前になり、素直な自分を表すこともできず、本来理想としている人物像がどんどん遠退いてゆきました。
そして、不本意な生き方を続けるストレスに苦悩しても、その原因は全て病気、そして死と言うものに結び付いてしまいます。その都度絶望に直面する私は自暴自棄になり、自己嫌悪に陥り、或いは周囲の人たちを傷つけることで幾分かの鬱憤を晴らすこともありました。
当然のことながら、周りの人たちにも私の変化は敏感に伝わってゆきます。私は自分の理想から離れ、周囲のお荷物に落ちぶれてゆく自分を認識していながら、心のどこかでそのことに快感すら覚え始めていました。
あなたとこの島で再会した時、正直なところ大変悩みました。あなたは受験を終えられたので、もう全てを打ち明けて嘘から開放されたいと言う欲求もありました。真実を打ち明けて謝罪したいと言う気持ちでいっぱいでした。
しかし、全てを打ち明けたところで二人して何の希望も持てず、ただ、削られてゆく命を、失ってゆく時間を耐えるだけの辛い余生となってしまいます。
それよりも、あなただけでも希望を抱いて、私との幸福な関係が将来も続くのだと言う、ごく当たり前の感性を以って私に接して欲しいと願いました。
簡単に言うと、二人の一年間をやり直したかったのです。あなたが受験を終えられて最悪のシナリオが消えた安堵感がありました。ですから、あなたと出会った時に戻って最初からやり直し、普通の恋人たちが体験するごく平凡な日常を残りわずかな期間の中で過ごしたいと考えたのです。
その結果、最後まであなたに直接謝ることもできず、さりとて、病気を知る前の素直な自分に戻り切ることもできず、この島で過した期間にも、あなたにとって不可解で嫌な女の醜態を見せてしまいました。本当に申し訳ないと思っています。
去年の秋頃から、あなたはよく校舎の窓からぼんやりと外を眺めていらっしゃいました。あれは多分、暖かな頃の楽しかった思い出を、背中合わせになる肌寒い季節から振り返っていらしたのだと思います。
これは決して外れていないと思います。なぜなら、私も同じことをしていましたから。そんなあなたの姿を見つける度に、背中から心臓に杭を打ち抜かれるような心痛を感じずにはいられませんでした。
しかし、実際のところ私も同様に辛かったのです。好き好んであなたを嫌った振りをしていたのではありません。あなたのために、何もかも仕方がなかったのです。私には、そうする以外に思案はありませんでした。
あの夏祭りの夜のことを覚えていらっしゃいますか? 御存じのとおり、あの時持ち出した過去の恋人なんて架空の人物でした。
この嘘の理由はもう繰り返す必要はないと思います。この件に関しても、あなたがここに滞在している間に素直に謝りたかったのですが、なぜか頑なになってしまって素直になれませんでした。
この島であなたと再会したばかりの私は、なぜだかあなたに対してとても反抗的な態度を取ってしまいました。自分でも良くわからなかったのですが、不思議なくらいに本心とは裏腹な言葉ばかりを口にしてしまいました。まるで、あなたを嫌っている振りをしていた頃のように。
でも、今にして思えば、単にあなたに甘えたかっただけなのかも知れませんね。恐らく、あなたに再会できたが故に、私が心の隅に追いやっていた死への恐怖が動き始めたのでしょう。
正直なところ、あなたに何もかも白状して泣きすがりたかったのです。すがりついて救いを求めたかったのです。あなたに力一杯抱き締められて、死神の強大な力から守って欲しかったのです。
勿論、あなたにそのような力がないことは承知していましたし、あなたと平凡な人生をやり直すと決めた以上は秘密を打ち明けることもできません。そのジレンマに苛ついて、あなたにストレスをぶつけていただけなのです。
ただただ、今はご迷惑をお掛けしたことをお詫びすることしかできません。扱いにくい女だったでしょ?ごめんなさい。
この手紙は、あなたと過ごした部屋で綴っています。勿論、ここに寝たきりです。入院して命が助かる訳でもないので、わがままを言ってここに置いてもらっています。
そう言えば、この部屋であなたにぶたれましたね。また忘れましたか?あの時は、あなたに甘えているなどとは露ほどにも思っていませんでした。
ただ、あなたに腹が立ってしようがありませんでした。あなたが余りに時間を無為に過ごされていたものですから、時間のない私にとってはとても許せない心持ちでした。
あなたは受験を終えて中学を卒業し、束の間の息抜きに来られていたのですから至極当然のことなのですが、そばにいる私には歯がゆくて腹立たしいことでした。
夜空の闇と海の闇。あなたは無限の奥深さを持った夜空の闇が好きだと言われました。あの言葉も私の癇に触る言葉だったのかも知れません。
今となっては、あなたにぶたれたことも良い思い出です。でも一番素敵な思い出は、やはり、最後の夜、星空に見守られながらここであなたにキスされたことです。私は本当に嬉しかったのです。
好きと言われたことも幸福でした。後でも書きますが、夏祭りの時に告白された時はとても複雑な気持ちでした。でも、今回は心底素直に喜べました。とても嬉しくて幸せで、今の自分は世界で一番幸福だと感じました。
しかし、幸福を感じた分だけ、同時に悲しくもなりました。こんなにも早くあなたの心に近づけたのに、同時に私の死にも近づいている。刻一刻とあなたとの別れが近づいている。あなたとの距離が近づいた分だけ死に近づいている。
涙が止まりませんでした。驚くほどたくさんの涙が流れました。全身が熱くなって、軽くなって、こんなにも柔らかくて暖かな幸に包まれているのに、どうして涙が溢れるのだろうかと不思議に思いました。幸福を感じれば感じるほど悲しくなるのです。
好きな男性にキスされた少女はみんな、こんな感情になるのでしょうか。そんな思いとは裏腹に、もうひとりの冷徹な私は、もう二度とあなたにキスされることは無いと直感的に悟っていました。
あの日の朝、途中で散歩を止めたのも実は体調が悪くなったのが原因です。ですから、もう二度とあなたに会えないと言う予感が全身に満ちていました。
涙が止めど無く溢れて来て、あなたに顔を見せることができませんでした。遠くの漁火をじっと見つめて、海風で涙を乾かすのが精一杯で、ありがとうのひと言も言えませんでした。
本当は、あのままあなたの胸にすがりついて、思い切り泣いて、全てを告白してしまえばどんなに楽になるだろうかと、波の音に惑わされるように、何度も何度も誘惑に負けそうになりました。
でも、何とか頑張りました。案外、私も内海さんと同じくらいに頑固なのかも知れませんね。
病床に着いてからと言うもの、私は過去を振り返ってばかりいます。もっとも、それしかできないのですが……。
春休みに部活のメンバーとサイクリングに出掛けて、初めてあなたと知り会えましたね。実はね、私はあなたが来ることを知っていたのですよ。
直子さんと河口さんが上手く計画してくださったのです。偶然なんかじゃありませんよ。以前から、私はあなたにすごく興味を抱いていて、そのこと知った直子さんがひと役買ってくれたのです。
私は、どれほど彼女に感謝したことでしょう。あなたは私の期待どおりの方でした。とても優しくて、たくましくて、ちょっぴり格好良くて。口下手なのが意外でしたけど。
できるなら、もう一度あの山に登りたいですね。あの湖に舟を浮かべたいです。そして静かな春の湖面で長閑な陽射しを浴びて、希望に満ちた新芽の香りを肺いっぱいに吸い込んで心を洗いたい。暖かな優しい春風で身体を洗いたいです。
お祭りの日、神社近くの路地であなたに好きだと言われた時には全く動揺してしまいました。本来なら、幸福感で満たされるはずなのですが、皮肉な運命を恨む気持ちでいっぱいでした。
前述したとおり、あなたをお誘いしたのは、交際を絶ち切るためだったのですから。つまり、あの夜は既に自分の病気のことを知っていたのです。
もう少し早く、あなたがあの言葉を告げてくだされば、健康で平凡な女子として、告白を受ける喜びを体験することができましたのに……。本当に神様は意地悪ですね。
私の計画では、あの夜に別れの言葉を投げ掛けるつもりだったのですが、あなたに先を越されてしまいました。愛の告白をされた後に冷厳な宣告ができるほど強い女でもありません。
でも、このままではいけないと思い、歩きながらあれこれ思案した結果が、月並みだけど架空の恋人でした。今から思うと、冷酷な女になりきってはっきりと別れの意思を伝えるべきでした。
私が婉曲的な意思表示をしたために、あなたを迷わせ苦しめてしまったと思います。本当にごめんなさい。
その後、私がどんなに冷酷な態度を取ったのかは、わざわざお伝えするまでもありませんね。でも、中途半端な態度では私の意思をわかってもらえないと考えました。
また、私自身が忘れられないとも思いました。一切口も利かない程に徹底しないと、私の決意が揺らいでしまいます。それでも、堪え切れずに何度か話掛けてしまいました。そんな時は、喜びと後悔が交差して余計に落ち込んでしまいました。
人間は、死を覚悟すると綺麗な心になると言われます。私の命の火も後わずかです。私も心が落ち着いて、何にもこだわらなくなってきました。
こう言う精神状態を綺麗な心と表現するのでしょうか。よくわかりません。でも、元どおりの私、いえ、それ以上に素直で正直な気持ちになってきたと感じています。
正直な気持ち。本心が私を支配し始めたように感じます。何にも拘泥しない純粋な心で自分を見つめた結果、私は恐ろしい自分を見出してしまいました。決して、自分では認めたくない恐ろしい真実に気付いたのです。
当然ながら、私にもやりたいことがたくさんありました。夢や希望みたいな漠然とした期待もありました。しかし、その全てを放棄しなければなりません。
勉強などしても何の役にも立ちません。走りたくても無理はできません。運動も止められました。大好きなバトミントンも諦めました。
残された人生を有意義に過ごそうと努めるほど、何が有意義なのかわからなくなります。時間を大切にしようと考えるほど、大切にした時間で何をすれば良いのかわからなくなります。
生きていることの喜びを感じて神様に感謝すればするほど、この喜びを失うことに絶望を覚えます。そんな迷いや、欲望を満たせない不満が、私の身体の中で日増しに積み重なっていきました。音が聞こえるくらい、ずしずしと積み上げられていきました。
そんな状態でどうやって精神の均衡を保っていられるのでしょうか。精神に異常をきたしたとしても不思議ではありません
しかし、私は何とか正常な精神状態を保つことができました。決して私は特別な人間ではありません。人並み以上に強靭な精神力を持っている訳でもありません。ただ、私には、その積もりに積もった不満を晴らす術があっただけなのです。
つまり、それはあなたの存在そのものでした。私があなたに冷たく接すると、あなたはそれに応じて悲しみました。廊下ですれ違いざまに窓の外に視線を外し、あなたを軽く無視しただけであなたは深刻に悩んでいました。
私があなたを避けると、深く、深く苦しむのがわかりました。そして、ほんの少し愛想良くするとあなたはとても喜ぶのです。
あなたの心持ちなど手に取るようにわかりました。感情をそのまま表情と態度に表す方ですから。私の思いどおりにあなたが反応することがとても気晴らしになったのです。
つまり、あなたは私の玩具でした。考えてもみてください、自分の人生が残り少ない状況に追い込まれているのに、他人のために自分を犠牲にできる時間はいったいどれほどだと思いますか?
わずかな時間であれば、私もそんな気持ちになったり、自己犠牲の行動を取ったりすることもできます。しかし、ずっとそんな気持ちを持ち続けられる人は本当にいるのでしょうか?
あなたが悲哀に満ちた表情を浮かべて窓の外を眺めている時、確かに私は胸を割かれるような苦痛を覚えました。しかし、同時にこの上ない快感をも実感していたのです。
勿論、私にも良心はあります。そんな冷酷な自分でありたくないという虚栄心もあります。あの時、本当に快感を覚えていたのかどうかも今となってはわかりませんし、潜在意識であれば自覚することも無かったでしょう。
実際、つい最近まで何の疑問も抱かなかったのですから、こうして告白しているたった今もまだ葛藤を続けています。考え過ぎだと言う思いもあります。しかし、あなたを苦しめ、傷つけ、玩具のように弄んで不満を晴らしていた、そんな私がいなかったと断言することもできません。
こんなにも醜い心をあからさまにしてしまっては、きっとあなたに嫌われることでしょう。それでも結構です。漸く、自分の本心を理解したような気がします。素直になれました。清鈍という言葉に憧れていた自分を今は嘲笑しています。
もう、そろそろ書き終えなければなりません。気持ちを綴ればまだまだ綴り足りませんが、そんな体力も気力もなくなってきました。最近では死に対する恐怖感も薄れてきました。
身体は滅んでも、魂は生き続けると言われます。そうなれば、私はあなたのそばにずっといます。私の声があなたに届かなくても結構です。そばにいるだけで十分です。今度は私が無視される番ですね。
また、見栄を張ってしまいました。どこに死を恐れない人間がいるのでしょうか。私は最期くらい正直でいたいと思います。ですから本音を吐きます。
死ぬのは嫌です。絶対に嫌です。もう一度あなたに会いたいのです。会って抱きしめて欲しいのです。どうかお願いですから、私を死神から守ってください。この悪夢から救い出してください。
今すぐここに来て、私の手を強く握り締めてください。死ぬのは嫌です。もう一度あなたとやり直したいのです。自分の気持ちを偽らずにあなたと仲良くして、もっと長い時間を一緒に過ごしたいのです。死ぬのは怖いです。どうか昔の私に戻してください。
あなたに会えなくなるなんて耐えられません。お願いですからもう一度、もう一度だけ会いに来てください。私が愛しているのはあなただけです……。
恥ずかしながら、すっかり本心を表してしまいました。支離滅裂な言葉も並べてしまいました。でも謝るつもりはありません。これが今の素直な気持ちです。
人間として素直な感情を書き残して死にます。身勝手な女だとお感じになったでしょう。こんな言葉を聞いてしまったら、きっと私のことを嫌いになられたことでしょう。でも、嫌って頂いて結構です。どうか……どうか嫌いになってください。
醜い女だと嫌悪して、私のことなど忘れてください。私との思い出など早々に忘却して、新しい高校生活を楽しんでください。バスケットももっと上手くなって、勉強も頑張って、素敵な恋人も見つけてください。
そして、いつか優しいお嫁さんをもらって、可愛いこどもたちに囲まれて、平凡で明るい家庭を築いてください。私が果たせなかった夢の一部を実現してください。
きっとあなたは、これからも目標に向かって突っ走る方だと信じています。人並み以上に努力する方であることも良く知っています。とても強い方であることも十分知ることができました。
でも、もし辛くてくじけそうな時、寂しくて涙しそうな時、絶望のどん底に陥った時、そんな時は少しだけ私のことを思い出してください。
私はいつもいつもあなたのそばにいます。ずっとあなたを見つめて応援しています。ですから私の名前を呼んでください。きっと、きっと返事をしますから……。
それでは、そろそろお別れさせて頂きます。こんなにも短い人生でしたけれど、最期にあなたに巡り合うことができて本当に幸せでした。
この島であなたと過ごした一週間で、一生分の幸福を頂きました。ありがとうございました。
どうか、私のことは一日も早く忘れて、内海さんの人生をしっかり歩んでください。そして、必ず、必ずお幸せになってくださいね。では、さようなら……。
麗華』
私は、その夜一睡もせずに、何度も何度も手紙を読み直した。これで麗華の不可解な行動や言動の理由がはっきりとわかった。もうすっかり涙は枯れ果ててしまった。泣く気にもなれなかった。悲しみも感じなかった。言葉では表現し得ない衝撃、全身を壁に叩きつけられて、全ての感覚が麻痺してしまったような重たい衝撃に包まれていた。
ふと気がつくとすっかり夜が明け、陽が高く昇っていた。私は夢遊病者のように虚空を見つめたままふらふらと外へ出て行った。
外は余りに眩し過ぎた。余りにも陽射しが柔らか過ぎた。真青な空に白い雲がほんわかと浮かび、微風が春の香りを乗せて漂って来る。
私はそのまま不安定な足取りで歩き始め、中学時代の登校路を辿って行った。麗華といつも待ち合わせをした寺の門前を通り、一緒に駆けた橋を渡り、初めて言葉を交わした校庭の緑の広場へやって来た。
桜はほとんど散っていた。落ちた桜の花が時折の風に巻かれて舞い上がっている。優しい陽射しがこの上もなく悲しかった。悲しいくせに、湧き上がって来る想い出は麗華の笑顔ばかりだった。
いつも春であった。麗華が幸せそうに笑っているのは、いつも春の柔らかな陽射しの中だった。ふと、桜が枝の下で麗華が優しく微笑んでくれたような気がした。
「麗華……」
私はまた涙を浮かべた。もう、涙は枯れたはずなのに、感情を実感する感覚さえ失っているのに、自然に目頭が熱くなってくる。
だが私はもう泣きたくなかった。いつまでも泣いていると麗華に叱られそうな気がした。麗華が悲しむような気がした。
泣いている姿を見せると麗華が心配すると思った。しっかり生きて、私が幸せにならないと麗華も幸せになれないような気がした。
私は、これからもずっと麗華と共に生きて行くと決心した。どんなことがあっても麗華のことは忘れないと決心した。麗華を幸せにすると決心した。麗華を世界一幸福な女にすると決心した。私は、麗華を幸せにするために泣くのはもう止めると心を決めた。
私は全てを払いのけるように、思い切って右手で涙を拭った。
『涙を拭うと、そこには柔らかな春があった……』
最後まで読んでいただいてありがとうございました!