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すれちがいの季節  作者: 夢追人
3/4

不可解

全くの偶然で、淡路島のある町で内海と麗華は再開する。中学を卒業と共に二度と会えないと思っていた麗華と、数日間一緒に過ごすことになり、今までの不可解な彼女の理由を探ろうとするが……。

 堤防での釣りを満喫した河口と田山が、小さな灯台の壁にもたれて海を眺めながら懐古に浸っていた私の所へやって来た。

「釣りは飽きたし、帰ろうぜ」

 私の事情など一切お構いなしに二人は歩き始めた。夕食までまだ時間がある。だが、他に行く所もないので三人は宿の前まで戻って来た。

 河口と田山は風呂に入ると言ってそのまま宿に戻ったが、私はもう少しこの町を探索したくてひとりで歩くことにした。

「飯の時間、わかっているな?」

 田山は私に確認してから宿に入った。河口はとっくにいなくなっている。私は周囲をキョロキョロ見渡しながら歩き始めた。

 町とは言っても、片側一車線の道を挟んで小さな食料品店や雑貨店が数軒並んでいるだけで、車も人通りも少ない。山手側に神社があり、神社の中にある公園で子供たちが遊んでいる。

 その公園の隣に学校があり、学校の背にも山肌が迫っている。学校の裏手にはなだらかな丘があり、奥の山肌に続いているようだが、その丘の平らな部分はキャンプ場になっていて、案内の看板が立っていた。

 何となく興味を惹かれてキャンプ場に続く道を上ってみる。坂は急だが十分と掛からずにキャンプ場に辿り着いた。小高い丘にしては、突然開けた展望に私は絶句した。

 予想していなかっただけに、見晴らしの良い絶景に感動した。視界一杯に広がる瀬戸内の海に、夕陽がゆっくりと沈み込もうとしており、海原がキラキラと輝いている。海を駆ける幾そうもの漁船の動きが全て見て取れる。海岸通りは視界の果てまで伸びていた。

 私はキャンプ場の海側にある展望台のベンチに座り込み、しばし海原を眺めていた。そこへ年配の女性が近づいてきて私に色々と話掛けてきた。このキャンプ場の管理人らしい。

 この丘は昔、(ぼら)の集団を発見する見張り台だったらしい。ここから見てやや北西方向にある、この丘と同じくらいの高さの小島に信号を送り、その島から本島側にある漁港に連絡すると、小さな漁船団が出港する。その漁船団に対して、この丘から指示を出す。

 今私の眼下に見える漁港は、昔はもっと北の方にあったらしく、その位置からはこの丘が直接見えなかったのだろう。それで、発見時の知らせは小島の連絡台を中継していた訳だ。無線も電話もない時代にどうやって適確な指示を与えたのだろうか。

 学校の授業ではこんな小さな町の歴史は学ばない。しかしこの土地にも歴史はある。その時代には今ほど人は住んでいなかったのだろう。この辺りは小さな漁村だったに違いない。そんなことを考えている私の脳裏に、神話の世界ではこの島が最初にできた島であることが思い浮かんで不思議な気持ちになった。

 東の方には丘陵地帯が広がっている。様々な形をした段々畑が小刻みに並んでいる。少しでも耕地を確保するための涙ぐましいまでの造作だ。

 土地の歴史話を聞いてすっかり旅行者気分になった私には、ゆっくり沈んでいく夕陽が、いつも見ている夕陽とは違う物のように思えてきた。そして、その夕陽は今日最後の輝きを放っているが、太陽もまた疲れているように感じた。

 海の方から届いてくる、綺麗に澄んだ静寂の微風が私の胸いっぱいに染み込んで来る。私は何となく疲れていた。身体的には健康だが精神的には深く沈んでいる。

 この一年間ふたつの戦いをしてきた。ひとつは受験。これは確かに合格という言葉で飾られ、一応は受験戦争に勝った。もうひとつは麗華のことだ。彼女には完全に嫌われてしまった。こちらは完敗だ。

 もう戦うのは嫌だ。これから先、もっと厳しい競争をしなければならないのに、もうそんな闘志は湧いて来ない。とにかく、一週間ゆっくりと心を癒したかった。

 河口は一週間掛けてこの辺りの風景画を描くそうだ。田山は写真を撮る。私は何もするつもりはなかった。ただただ時間を無為に過ごしてみたかった。

 陽も暮れかけてきた頃、私が立上がろうとしたその時に、突然、密封したはずの春の記憶、ややハスキーだが清らかに澄んだ響きの記憶がにわかに呼び起こされ、夕陽に染まっていた私を混迷させた。

「こんにちは。あのう、もしかして……」

 周囲の山肌に吸収されたその響きは、後に清水となって湧き出して来そうなほど清廉な響きだった。私は混迷した心根をそのまま表情に表して振り向いた。その刹那、健康な人間が目眩を起こすと言うのはこう言う状況なのかと、人生初めての体験に驚きながら、目の前に浮かんでいる幻想のような光景を認識はしたものの、息をすることさえ忘れて傍観していた。

 まるで夢でも見ているかのような現実感の欠如。とても素直に受け入れられない光景。故郷から何十キロも離れ、何の共通項もないこの土地で麗華と再会しようとは……。

 私は頭の整理も心の整理もつかないままで、いきなり沸騰した血潮が身体中を駆け巡るままに任せ、

「ど、どうして!」

 と、力任せに戸惑いを投げ掛けた。

「療養です」

 麗華が私の興奮を和らげるような優しい語気で即答する。

「療養?」

「ええ。私、肺の病気になってしまって。軽い病気ですけど、少しでも空気の綺麗な所にいる方が早く良くなるそうで……。たまたまこちらに親戚があるので……」

 麗華も少し舞い上がっているのか、別段尋ねてもいない詳細な事情まで、言葉を継ぎながら一気に語ってくれた。

「病気?知らなかった。それでバトミントンも止めちゃったのか」

「ええ」

 麗華は少し目を伏せてから、

「ところで内海さんは何をしにいらしたの?」

 と、語気を明るくして尋ねる。

「俺はサイクリング」

「好きですね、サイクリングが」

 見つめ合った二人の空間に、一年前の暖かな春景色が浮かんだ。

「まあね」

「ひとりで、ですか?」

「いや、田山と河口も一緒だよ」

「仲が良いですね?羨ましい。宿はどこですか?」

「あそこの古い建物」

 私は眼下の海岸沿いに小さく見える黒壁の建物を示した。

「私はあの丘の白い建物にいます。叔母さんの経営している旅館です」

「ほう。旅館だったのか、あれは……」

「失礼ね。この辺りじゃ有名な老舗高級旅館ですよ。旅館の庭から伸びている遊歩道がこの展望台まで続いているの」

 麗華は何の躊躇もなく隣に腰掛けた。この奇跡に近い現実を素直に受け入れることができたのか、落ち着いた様子が漂ってくる。

「いつまでいらっしゃるの?」

 私は女の持つ順応力の高さに感心した。

「一週間の予定」

 私の言葉の後、しばらく沈黙が続いた。西の空には筋状に走っている雲が真赤に輝いている。そして、その隙間から漏れて来る紅い光線が私たちの若い素顔を柔らかく照らしている。

 夕陽を見つめると、自然に色んな情感が湧いてきた。特に真冬の苦しかった時期の心情が嫌でも湧き上がってくる。受験勉強の苦しさに苛まれ、望む結果が出ない焦燥感に駆られ、麗華に無視される痛みさえ感じなくなっていた頃。絶望のどん底に安堵さえ覚えるようになっていた異常な状態。

 あの頃の夕陽は、氷のように凍てついた私の心に、哀愁と言う、ほんの少しだけ暖かい血流が生じる感情を誘い出してくれた。哀愁が暖かいとはおかしな話だが、感情凍結している者にとってはどんな感情であれ暖かく感じる。

 私は、あの頃の逆説的な温かみが微かに蘇るのを感じると共に、懐かしさと恐怖心が胸の奥で複雑に絡み始めた。

 当時、私の心を凍結し続けた麗華が今、旧来からの友人のように横にいる。しかも見知らぬ土地で彼女の方から声を掛けてきた。私が嫌いなら避けるべきものを。

 そんな麗華の態度が不可解ではあるが嬉しくもあった。肩が触れそうなほど近くにいる麗華から伝わる温かみは、甘い香りとなって私の凍りついた想い出を溶かしてくれる。

 しかし同時に、麗華の態度の急変に畏怖も覚え始めている。今こうやって柔らかな笑顔を見せてくれていても、いつまた氷河の谷底に突き落とされるかも知れない。

 私は彼女の言動のひとつひとつを、自然な喜びの感情と、その喜びに見合った悲しみを与えられることへの警戒心を以って見つめていた。

「もしよろしければ私の所へ来ませんか?」

「え?」

 私には意味が理解できない。

「叔母の所で一緒に過ごしませんか?こんな静かな所にひとりでいると退屈してしまって……。それとも、ご都合悪いですか?」

 何とはなしに麗華が急に大人びて見えた。

「いや、別に。正直言って俺も暇だけど」

「それなら是非。部屋もたくさん空いているので部屋代も要りませんよ、叔母さんは私の頼みなら何でも聞いてくれますから」

 そう言った彼女はなぜか寂しそうな表情を浮かべた。

「いくら何でもそれは……」

 私が困惑すると間髪入れず、

「大丈夫です。とにかく今晩来てくださいね」

 と、強引な語気で益々私を困惑させた。

「今晩?とにかく奴らと相談させてくれ」

 私は、今夜奴らと酒を飲むのを楽しみにしていた。

「お願いですから」

 悲痛な叫びとも言える語気と共に必死の思いを伝える視線に、私は戸惑いながらも頷いてしまった。


 私が宿に戻ると、田山はカメラの手入れをしていた。河口は横になってマンガを読んでいる。紙包みが置いてあって、ウイスキーの調達は終わっているようだ。

「どこへ行っていた?まあ、言われてもわからないけど」

 田口が笑った。

「キャンプ場」

「まだ春先だぞ、誰もいないだろう」

「麗華がいた」

「そう……。え?」

 驚いた二人に事情を話した。私が麗華に無視されたり、避けられたりしていたことは、彼らに話したことはない。だから、私たち二人は、春に知り合って以来ずっと良い関係が続いているものと思っている。

 もしかすると、河口は直子から状況を聞いていたかも知れないが、彼は一切話題にしなかった。

「女と旅館!すごいぞ!どうせお前は暇だろう?俺たちは明日から出掛けるし、ちょうど良いじゃないか」

「折角、今夜はお前たちと飲むのを楽しみにしていたのに……」

「バカか?酒くらいいつでも飲めるだろう。それよりも彼女と旅館に泊まるなんて体験は滅多にできないぞ。一日でも早いに越したことはない。羨ましいなあ!」

 河口の解説はもっともだと思ったが、私には彼女の悲痛な表情が何とはなしに気掛かりだった。


 私が彼らとの酒宴を諦めて、麗華に教えられた道順に従って辿り着いた旅館の前で入るのを躊躇していると、

「内海さーん」

 と、彼女の美しく澄み通った声が上から降ってきた。麗華が五階の窓から手を振っている。別に数えた訳ではないのに五階であることが記憶された。

 旅館の仲居さんが出て来て私を案内してくれた。彼女の叔母さんに挨拶してから案内された五階の部屋へ向かう。麗華が廊下で迎えてくれた。

 部屋に入ると、八畳ほどの和室が二つ東西に並んでいた。西の端には細い板の間があり、ベランダに続いている。そのベランダからは遠く海の漁火が見渡せる。

「いい部屋。こんなに素敵な部屋を使わせてもらって本当に良いの?」

「良いですよ、どうぜシーズンオフで暇ですから」

「そう。ところで君の部屋はどこ?」

「ここよ」

「なんだ。じゃあ俺の部屋は?」

「ここよ」

 彼女は平然と答えた。

「構わないの?」

「別に問題ありませんよ。それとも何かするつもりですか?」

 麗華は少し意地悪な微笑を浮かべている。私は反応に困って何も言わなかった。

「嘘ですよ。がっかりした?」

 彼女は悪戯な笑顔を浮かべて私の瞳を覗く。

「寝る時は向かいの部屋で寝ますよ」

「向かいの部屋からも海は見えるの?」

 私は動揺を見抜かれないように、どうでも良い質問をした。

「確かめに来ます?」

 麗華が再び悪戯顔を浮かべた時、仲居さんが夕食を運んで来てくれた。二人は小さなお膳を向かい合わせた。

「美味しいですね」

 私は彼女の言葉に頷いただけで何も言葉を発しない。とても空腹だったので食べることに集中していた。その後も時々彼女が話掛けて来たが、私は空腹を満たすのに執心して生返事しか返さなかった。

「ご飯のお代わりは?」

「山盛りで」

 私が空の茶碗を手渡した時、麗華がポロリと茶碗を落としたが、咄嗟に私の手が下に入って受取った。

「なかなか俊敏な反射神経だろう」

「会話の反射神経は鈍そう」

 私は苦笑いを浮かべながら茶碗を慎重に手渡し、味噌汁に口をつけた。

「相変わらずですね」

 山盛りのご飯を見る見る平らげてしまった私の食べっぷりを見つめながら麗華が朗らかに笑う。

「食べている時が一番幸せなのかも知れないな」

 私は麗華の相変わらずと言う言葉に違和感を覚えた。私が無視され続けていた冷酷な期間などまるでなかったかのような口振りだ。だが、今はそんな子細に拘るのは止めようと思った。


 食後、ベランダに出てみると、もうすっかり闇に包まれていた。吸い込まれてしまいそうな星の明かりとは趣を異にする漁火は、暗い漆喰色の海面を煌々と照らして、漁師たちの力強さを見せつけているようだ。

 その一方で、規則正しい時間間隔で灯りを届けてくれる灯台の灯りは、几帳面な公務員の働き振りを表している。

 そして、数キロ先では帯状に並ぶ数多の街灯りが本島の海岸線をショーウインドウのように華やかに飾りつけている。しかし、そんな人工的な灯りとは次元の違う、何万光年もの時空を経て到達して来る星々の輝きが、私たちを夜空から見下ろしている。

「空と海が同じ色ですね」

 麗華が無邪気に驚いている。

「違うよ」

 麗華は、無邪気な表情を少し曇らせる。

「海には底がある」

「ええ」

「空には屋根がない」

 麗華の息が微かに詰まったような、そんな音が響いたように感じた。

「私は限りのある方が好きですね」

 ほんのひと呼吸置いて応えた麗華の前髪が夜風に揺れている。そんな彼女の横顔を素敵だと思いながら、

「俺は無限の方が好きかな」

 と、彼女の横顔から星空に視線を移してから言った。

「なぜ?」

 麗華の澄んだ声を耳にしながら見上げる夜空には、数多の星が瞬いている。そしてそのひとつひとつの輝きに何千年、何万年の歴史があるのだと思うと、まさに目が眩みそうな感動とロマンに支配されて、

「夢がある」

 と、思いのままに答えた。

「夢?」

 麗華の声は澄んでいながらも、何千年単位の時間をまたぐ壮大な旅への恋慕を一瞬にして冷却するような冷たいものだった。女のリアリティを含んだその語気に私が呆然としていると、

「良いですね、将来のある人は」

 私とは正反対に現実世界に囚われているのか、彼女は妙に年寄りじみた言葉を吐いて、私から苦笑を引き出した。

「君は俺より若かったと思うけど」

 今度は明るく笑ってみせた。

「私も今年は受験ですからね。将来とか、夢とか言う気分じゃないですよ」

「なるほど。でもみんな通る道だからね」

 私は、後輩にアドバイスをできるほど余裕のある受験生ではなかったが、

「案外大したことはないよ」

 と、自分でも白々する言葉を吐いて、惨めに喘ぎ苦しんでいだ自分を嘲笑ってみた。

「いつかも一緒に星を眺めましたね」

 麗華が語調と共に話題を変えた。

「いつ?」

 私もあの夏祭りの夜のことを思い出していたが、なぜだか忘れた振りをしたくなった。あの夜の自分の言動が麗華を失望させたのではないかと言った、漠とした後悔を心のどこかに残していたからかも知れない。

「記憶力悪いですね」

「確かに」

「それでよく志望校に合格しましたね?」

「ほんと、不思議だ」

 私は明るい口調で麗華の冗談に答えた。

「毎日何を考えて生きているのですか?大切な時間なのに」

 他愛もない冗談を交わしているつもりなのに、急に真顔になった麗華の変節に少し驚いた。

「何をそんなに怒っているの?」

 私は慎重に言葉を吐きながら麗華の反応を待った。だが、しばらく経っても返答がない。私は少々困惑して彼女の横顔をちらりと確認してみると、彼女はじっと暗い海を睨んだまま沈黙を保っていた。

 その瞬間、私は、麗華たちと初めてサイクリングに出掛けた春のことを思い起こした。あの時も、麗華と二人きりの時に彼女が急に口を閉ざして雲の数を数えていた。

 だが、あの時の不安気な瞳とは違って、今は怒りのような確固とした意志を感じる。このような場合にどう対処すれば良いのか、女子との接し方など全く不案内な私は、ただ星空を見上げるしかなかった。

(星が瞬きをしているみたいだ)

 私はあまりに多すぎる星の数に再び圧倒されて、この窮状とは全く無関係な言葉が心の奥から湧いてきて自分でも可笑しくなった。すると、幾分緊張が緩和されたのか、この数か月抱き続けていた麗華に対する印象が思わず言葉になってしまった。

「何だかとても変わったね?」

 私の言葉は潮風にでも流されたのか、彼女はピクリとも反応しなかった。だが、暗い海のどこかから寂し気な汽笛が届いた時、

「あなたが緩い生き方をしているからそう感じるのよ」

 と、凍えた声が返って来た。

「緩い?」

「もっと真剣に生きてください」

 冷たく尖った言葉を吐いた麗華は海から視線を外さない。

「みんな、こんなものだと思うけど」

 私も彼女の視線に平行したまま言葉を投げた。こんなに側にいるのに、まるでお互いが海に語り掛けているかのようだ。

 麗華に無視し続けられていた頃、校舎の窓から寒い風景をぼんやり眺めていた私の横に麗華がいたとしたら、きっとこんな感じだったのではないかと、可笑しな想像が勝手に浮かんで来た。

「きっと後悔しますよ」

 余りに漠然とした言葉なので心に響かない。

「ご忠告ありがとう」

 沈黙の中、時折届いて来る波の音の狭間に彼女の怒気が紛れ込んで来る。私には彼女が不機嫌になっている理由がわからない。しばらく待ったが何も進まない沈黙の空間に焦れて、

「いったいどうしたの?」

 と、彼女の横顔に視線を置いてみた。

「何が?」

「変だよ」

「変?」

 彼女はまだ私を見ない。

「そう、何をそんなに不機嫌になっているの?俺が何か気に障ることを言った?」

「元々変な女です」

「元々じゃない。君はもっと優しくて素直だった」

 私は麗華に抱いていた思いを素直にぶつけた。

「優しくて素直な女?」

 吐き捨てるように言った彼女の瞳には、冬の枯葉が映っているように感じた。

「何があったのかは知らないけど、言いたいことがあるなら素直に言ってくれよ」

 私は彼女をなだめるように柔らかい表情を浮かべた。

「素直?優しい?あなたはどれほど私のことを知っているの?たった数ヶ月ですよ、私たちが仲良くしていたのは」

 漸く私の瞳に視線を向けた麗華は、まなじりをキッと上げている。しかしその瞳は意外に悲しそうだった。私は何も言い返せず彼女から視線を逸らせた。確かに私は麗華のことを詳しく知らない。

 特にこの半年間は、自分の心地良い思い出に生きる麗華だけを見つめ、現実の麗華は遠くから見つめることしかしてこなかった。

 麗華は、少し興奮した気持ちを静めるかのように、再び暗闇の海に視線を投じている。私も大きく呼吸をして冷静を取り戻してから話題も変えてみた。

「彼氏は元気?」

 意識的に声も優しく尋ねた。

「彼氏?」

 麗華は小首を傾げて不思議そうに私の目を見つめる。その愛らしい素顔は微塵も変わっていない。そんな笑顔を見ていると、麗華は一生、この笑顔を絶やさないのではないかと五感で納得した。

 ところが、私が愛着を覚えた次の瞬間、その笑顔が爆発的に破願して彼女は吹き出したまま顔を伏せて笑い込んでしまった。

「何が可笑しいの?」

 私には彼女の行動が全く理解できない。

「だって……」

 そこまで言うとまた笑い込んだ。

「だって彼氏なんて最初からいませんよ。本気にしていたの?」

 そうしてまた笑いを零した。

「それじゃ、俺を遠ざけるために嘘を吐いたのか?」

 私の胸には衝撃の風穴が開いている。

「そんな面倒なこと……」

 冷たく悲しい瞳で少しの間私を見つめ返したが、ふっと海の方へ視線を投げてしまった。

「じゃあ、からかっただけか?」

「もう忘れました、そんなこと」

 真暗な海を見つめたまま呟く。

「そんなこと……か」

 私は胸にポカリと開いた空虚な風穴に、湿った潮風が吹き込むのを感じながら、過ぎ去ったことなどどうでも良いと自分に言い聞かせた。しかし、夏休み後に急変した理由をどうしても確かめずにはいられなくて、

「でも、俺のことを無視していたことは事実だろ?その訳を教えてくれ」

 と、すがるような思いで彼女を見つめた。

「無視?そんな積もりはありませんでした」

「じゃあ、どんな積もりだ?」

 私は、訳さえ聞けば全てを受け入れられるような気がして、何とか答えを得ようとした。

「別に……」

 麗華はそう言ってまたもや暗闇に視線を向けてしまった。

「別にって……」

 私は彼女の無責任な態度に面食らって、冷たい横顔を見つめることしかできない。

「あなたと話したくなかったから……。ただそれだけ」

 横顔で話す挑発的な彼女の態度に、私はだんだんと怒りを覚え始めた。

「どうして話したくなかった?俺を嫌いになったからか?」

 私は自分の声が心持ち震えていることに気付いた。

「好きも嫌いもありませんよ。ただ話したくなかっただけって言っているじゃないですか」

 麗華は少しの間私に視線を向けて嘲笑気味な表情を浮かべたが、すぐに固い表情に戻ると、再び漁火に向き直って黙り込んでしまった。そして、やや肌寒くなってきた潮風に任せた前髪をそっと左手で流した。

 どこも変わっていない。清純な笑顔も、魅力的な声も。しかし、私に見せる態度や性格は、たった一年の間に恐ろしいほど変化している。それとも、私と仲良くしていた頃の彼女が作りものだったと言うことなのか。

「気分次第だった……。そう言うことか」

 私は積み残された疑問を晴らすことができずに落胆の溜息を吐いたが、それでも麗華が本当のことを言っているとも思えなかった。何か理由があって誤魔化しているようにも思える。

「私のことを素直な人間だったと言いましたよね。そのとおり、自分の気持ちに素直になって行動していただけよ。理由なんていちいち覚えていません」

 小柄な麗華が、石のように固くなっているように感じた。

「自分の気持ちを素直に表すことは良いことだと思う。でも、相手があることだ。少しは相手の気持ちも考えて表現するべきじゃないのか?」

 私の重い声には答えずに彼女は沈黙した。

「俺はとても苦しんだけど、そんなことはもうどうでも良い。だから誤魔化さないで理由だけは教えてくれ!」

 私はだんだんと詰問口調に変化していった。だが相変わらず麗華は沈黙したまま暗い海を見つめている。そんな冷淡な姿を見つめていると、抑え切れない怒りの波が次々と湧き上がってきた。ずっと蓄積されていた彼女への不満であり疑問であり怒りであった。

「何とか言えよ」

 厳しくなった私の言葉に振り向いた麗華は、ジロリと私をにらみつけた。ベランダには照明がなく部屋から漏れる灯りしかない。その薄灯りのために気付かなかったが彼女の瞳には涙が溜まっていた。

「泣けば済むのか?何も説明しなくて済むのか?どんなに他人を苦しめたとしても」

 一度動き出した私の激情は簡単には収まらない。

「それじゃ、殴るなり蹴るなり好きにしてください!」

 二人は睨みあった。彼女は唇をかみ締めて私をにらみ、身体の向きを変えて手すりに背をもたれ掛けた。彼女の身体が小刻みに震えている。

「女を殴れる訳がないだろ」

「男だって殴れないでしょ!格好つけないで!ちょっと無視されただけで逃げてしまう弱虫のくせに!訳を知りたいのなら、どうしてその場で聞かなかったのよ!」

 私の胸に彼女の言葉は鋭く突き立った。

「確かめるチャンスはいくらでもあったでしょう!正面から向き合うことを避けて来た弱虫が今更理由を聞きたいですって?恥ずかしくないの?」

 震える身体を手すりに預けている麗華の頬を、薄明りに浮かんだ涙が流れる。

「ここまで言われても怒らないの?腹が立たないの?情けない男!さあ、殴ってみなさい!」

「しつこいぞ!」

 私は思わず麗華の胸倉をつかんで引き寄せた。まるで縫いぐるみのように軽い。そして片手で部屋の中へ引きずり込むと、背もたれをなくした麗華の身体は崩れるようにその場にへたり込んでしまった。相当脅えているのか興奮しているのか、私には判断する余裕はない。

 元より本気で殴るつもりなどない私は、麗華の身体を放した後、震える彼女を黙って見つめていた。すると俯いていた麗華から嗚咽が漏れ始め、静かな部屋に悲しく響いた。

 私も少し冷静を取り戻して、これで全てを終わりにしようと思った。麗華が落ち着くのを待ち、もうこれ以上何も聞かないことにした。私は天井を仰いで大きく深呼吸をした。

 しばらくすると麗華の嗚咽も次第に収まってゆき、そのままじっと畳を見つめていた。床に座り込んだまま、身体を斜めに崩してじっと畳を見つめている。

 私も彼女が動き始めるのをじっと待っていたが、いつまでも無言でいる。その病的な様子が少し心配になってきて、私が声を掛けようとした時、ふと何かを覚悟したかのように麗華はゆっくりと立上がり、

「ちゃんと立ちましたから殴ってください」

 と涙が詰まった鼻声で意地を張った。

「もう良いよ」

「良くありません!」

「もうやめよう!」

「意気地なし!」

「……」

 この言葉を浴びせられると、なぜか私は頭に血が上り冷静を失ってしまう。子供の頃からそうだった。

「意気地なし!」

 麗華は、私の神経が反応したことを感じ取ったのか、同じ言葉を大声で繰り返した。

「意気地なし!意気地なし!」

 とうとう泣き声になって大声で喚く。私は必死で感情を抑制しながらも、破滅へと誘う彼女の態度が悲しくて、二人が破滅しないと彼女が納得しないようで、殴りたくないと心で叫びながら軽く右手を振ってしまった。

 自分ではかなり力を抑えたつもりだが、一瞬白くなった麗華の頬がすぐに真赤に紅潮し、間もなく瞳から大粒の涙が溢れ出た。麗華は両腕をだらりと垂れたまま俯いて、ゆっくりと私の方へ歩を進めて来る。

 そうして倒れ込むように私の胸にすがりつくと、大声で泣きじゃくった。私は訳のわからないまま、麗華の震える小さな身体を支えていた。


 夜の砂浜はとても静かだった。柔らかな波が砂浜を綺麗に洗った後、海に戻ろうとする時に、後から来る波と重なる豪胆な音と、波が引いた後に砂浜が海水を吸収するようなさわさわとした音色が繰り返し重奏される。

 そんな自然の奏でる音色に包まれていると益々星が美しく輝いて見えた。潮の香りを含んだ海風が、私と麗華の間を無遠慮に潜り抜けてゆく。

 私たちは、海岸までふらふらと歩いて来た。旅館から伸びている遊歩道を使うと十分足らずで浜に出ることができる。二人はほとんど口も利かずに貝殻の混じった砂浜に腰を下ろした。

 麗華は両脚を真直ぐに伸ばし、両腕を後ろに回して身体を支えている。そして遥かな宇宙を望みつつ、快い浜風を全身で受け止めていた。

「痛かった?だろうな……」

 砂浜に胡座を掻いて、貝殻を手で持て遊びながら私は謝罪しようとした。

「心に沁みました」

 暗くて良くわからないが麗華の笑顔を感じる。

「ごめん」

「いえ、私が悪いです。すみませんでした。私がどうかしていました。何だか無性に腹が立って、自分でも何を言っているのかわからなくて。本当にごめんなさい」

 まるで、悪霊に憑依されていた少女が、悪霊が去った後に何事もなかったかのように笑顔を振りまいているかのようだと、私は秘かに感じた。

「でも、女の子に暴力を振るうなんて最低だ」

 私はそう言って、弄んでいた貝殻を海に放り投げた。微かに波の上を跳ねる音がした。

「君に言うことは尤もだと思うよ?」

 私は、麗華に叱られた時、正直恥ずかしかった。彼女の言うとおり、自分であれこれ勝手に逡巡せずに本人に確かめれば良かったのだ。嫌われたことが明確になれば、それはそれで気持ちの整理も早くできたはずだ。それなのに、私は現実逃避を続け想い出に浸っていただけだった。

 波の重奏が単調に繰り返し、貧弱な私の精神をたしなめながら夜空に抜けてゆく。

「もう話題を変えましょう。恥ずかしいです」

 彼女は上体を支えている腕を更に後ろへずらして星空に向き合った。私も同様に後ろへ両腕を回して大きく上体を反らした。

「いつかも一緒に青空を眺めましたね?また忘れましたか?」

 少し遠慮気味な口調だ。私の脳裏には春の日の晴れた青空とポカリと浮かんだ白雲が映し出されていた。

「今度は星の数でも数えてみるか」

 遠い闇の果てから、春の香りが漂って来たように感じた。


 翌朝、朝早くに目を覚まし、朝食を取ってから二人して出掛けることにした。彼女の叔母さんに教えられた鳴門の渦観光に行くことになった。私は、別段どこに行こうと構わないので、勧められるままに従った。

 道中、麗華はよく思い出話をした。まるで、彼女の伝記を聞かされているかのようだった。そして、自然な会話の流れとして私の過去も聞きたがる。

「君は将来何になりたいの?」

 二人並んで腰掛けたバスの中で私が質問した。     

「小学校の先生でした。以前は……」

「今は?」

「別に。何にもなりたくないです」

 私は麗華の真意を測り切れず、窓際に座っている彼女の横顔を見つめたが、その硬い表情からは何も読み取れずに小さく吐息を吐いた。

「内海さんは何になりたかったの?」

 一瞬にして明るい笑顔を取り戻した彼女が少し斜めに見上げる。

「小学生の頃はジェット戦闘機のパイロットになりたかった」

「ジャンボ旅客機じゃなくて?」

「ジャンボは大き過ぎて難しそうだからね。二人乗りの方が簡単そうだから」

 私はそう言って笑った。正直なところ、いつの間にかそんな飛行機への憧れは失っていた。

「今でもジェット戦闘機に乗りたいの?航空自衛隊ね」

 麗華の瞳が輝いたように感じた。

「最近、自分が超方向音痴であることを自覚してね。もし飛行機のパイロットになったら、月に着陸してしまう」

 私は軽く笑いながら答えた。

「月へ行ったら、餅をつくウサギさんに会えるかもね」

 麗華も素敵な笑顔を浮かべる。

「どうせなら可愛いかぐや姫に会いたいな」

「へえ、内海さんも可愛い女性が好きなのね?なんか、可笑しい」

 麗華は更に明るい笑顔を浮かべた。私にはその笑顔の透明度が怖いくらいに美しかった。

「まあ、一応男だから」

 彼女の透明な笑顔に心を奪われていた私は、つまらない答えしか返せない。

「じゃあ、そのままかぐや姫と結婚すればどうですか?竜宮城の生活も楽しいでしょう」

「竜宮城は浦島太郎だろう?」

「あら、そうでしたね。亀を見つけたら大切にね」

 麗華の愛らしさに心を奪われると同時に、バスのシートに腰掛けてからずっと私の上腕に触れている彼女の肩から温かみが伝わり、つい、抱き締めてしまいそうな衝動に駆られた。

「あっ、そうか。内海さんは結婚しない派でしたよね。結婚は面倒だとか言って。お魚の骨を取るのも面倒ですもの、かぐや姫との結婚なんて絶対無理ですね」

「かぐや姫は骨を取ってくれるかな?」

 そんな他愛もない会話を続けながら、バスに揺られて触れ合う柔らかな感触に心を躍らせ過ごす時間は、まるで二人だけに与えられたもののように緩やかに進んで行った。


 福良の街でバスを降りた二人はゆっくりと歩いた。手元の地図や周囲の看板を確認しながら、観光船乗り場へ向かって海岸沿いの埠頭をぶらぶらと歩く。

「あっ」

 小さな叫び声と共に麗華が倒れかける。私は咄嗟に彼女の身体を支えた。

「何もない所で転ぶなんて、お婆ちゃんみたい」

 彼女は照れ隠しに明るく笑っている。

「運動不足じゃないか?」

「そうなの。激しい運動はできないから、散歩くらいはしていたんだけど、景色にも飽きてきて最近は怠けていたから」

 麗華は再び愛らしく笑ってから、そっと私の手を握った。その後も、段差などに足を取られて何度か転びそうになったが、手をつないでいたので転ぶことはなかった。その度に、麗華は空に抜けるような明るい笑顔を送ってくれた。

 特に観光をしたいと言う気持ちもなく、もし観光船に乗れなくても、このまま歩いているだけで十分幸福だと感じた。麗華と歩いていると言う事実だけでなく、大切な時間と言うものをさしたる目的も無しに過ごし得る今の境遇が、申し訳なく思えるほどに幸福だった。

 ほんの数週間前までは、散歩すらノートを片手に歩かねば気が済まないほど切羽詰まった精神状態だった。そして、自分では忘れたつもりでいても、いつも心のどこかでズシズシと重い心痛を響かせる原因は麗華だった。

 あの頃は、二人で散歩するどころか彼女と話すことを想像しただけで胸が熱くなった。そして身勝手な妄想を膨らませる中で想いを果たした後には、惨めさと絶望との合わせ技に溜息を吐くのが常だった。

 そんなことを思い起こしてみると、今こうしてごく自然に二人で並んでいる自分の神経が不思議にさえ感じる。しかし、同時に恐ろしいほどに無感動であることにも驚いている。

 夢想の中で体感した甘い感慨などは微塵もない。幸福なはずの今の状況が当たり前のように思えてしまう。いったい、幸福と言うものは、無感動な日常の中に存在するものなのだろうか。

 やがて、私たちは鳴門の渦に近づいて観潮するための遊覧船に乗り込んだ。渦潮が発生するピークの時間帯を過ぎていたが、私たちには初めての大きな渦があちらこちらに発生しては消えていく。

 遊覧船の中で麗華は小さな子供のように大はしゃぎした。船が渦に近づいて揺れる度に、大声で歓声を上げながら私の腕にしがみついて来る。しっかりと私の手を握り、

「わあ、すごい!怖い!」

 と、恥ずかしくなるほど大声で叫びながらケラケラと笑う。麗華のややハスキーな歓声が響くと、周囲の大人たちが微笑みながら私たちを見つめる。麗華は、どこにでもいる普通の女子中学生なのだと、この時改めて実感した。

 そして、こんなに楽しそうな麗華を見るのは久しぶりだった。もっとも、こんなに近くで見ること自体が久しぶりなのだが……。 

 時折、大きな波に船が揺られると、まるでジェットコースターにでも乗っている時のように喜々とした歓声をあげて私の胸に顔を埋めた。

 そんな麗華がこの上なく愛らしいと感じた。今までのわだかまりなどは全部捨てて、もう一度素直に愛して、やり直せるような気持ちになってきた。

 もう、失敗した時の落胆を考えて自分の気持ちを誤魔化したり、恋心に翻弄されることを恐れたりしないと誓った。こうやって彼女を抱きしめて生きていきたいと心から欲した。

 潮流のあちらこちらで自然にできては消えていく渦を眺めていると、時の流れの渦に揉まれ、もがき苦しんでいた自分の姿をそこに見出した。今はきっと、渦が消えた静かな流れに乗っているのだろう。そして、大きな渦が巻き起これば再びその中心へと引き込まれてしまうのかも知れない。

 だが、もう恐くなどない。こうやって麗華を抱きしめていると、どんな渦からでも抜け出せるような、そんな何の根拠もない勇気が湧いてきた。

 ふと気が付くと、私の腕の中から麗華が愛らしい笑顔で見上げていた。そうして彼女は、揺れるデッキの上で背伸びをすると、私の耳元でささやいた。

「好き……」

 波が船側に弾けて潮の粒が空に舞い上がった。

「俺も好き」

 そう言おうとした刹那、青空から舞い下りた潮を浴びてしまった麗華が、より一層大きな歓声を上げてケラケラと笑ったので、そのタイミングを逸してしまった。私は言葉を返すことを諦めて、その代わりに彼女の肩をより強く抱きしめた。

 麗華は、私の力に絞られるように身体をくねらせると、私の方へ唇を向けて目を閉じた。私はその仕草の意味がわからずに、硬直したまま彼女の唇を見つめていた。

 そして次の瞬間、その意味を悟ることができたが、まさかこんなに人がいる場所でそれを交わす訳にもいかず困惑していると、

「嘘よ」

 と、彼女は再び大笑いしながら私の頬を軽くつねった。私は安堵と共に小さな落胆を覚えたが、彼女の悪戯な笑顔がとても素敵で、潮の香りを思い切り胸に吸い込んでみた。

 海原は、群青色の波が春の陽射しにきらきらと輝きながらも、急峻で複雑な潮の流れに乱れながら、潮に乗る覚悟としくじった時の諦めが人生の全てだと若い二人に示しているかのようだった。


 麗華と二人で旅した渦潮の船旅から、二人の距離感が急に縮まったように感じた。お互いに余り気を遣わず思ったことを自然に言えるようになっていた。

 宿にお世話になって四日目の朝、春眠の甘さに身を任せて布団の中でゴロゴロ過ごしていると、

「もう起きてください、朝風呂が終わりますよ」

 と、爽やかな笑みを振りまきながら麗華が入って来た。私は毎朝朝風呂に入っている。

「もうそんな時間か」

「今日は天気も良いですから洗濯物を出してください」

「え?」

「もう四日目ですし洗濯物も溜まっているでしょう?一緒に洗いますから出してくださいね」

「いいよ、自分で洗うから」

「遠慮しなくても良いですよ、どうせ洗うのは洗濯機ですから」

「着替えはたくさん持って来たから大丈夫」

「頑なですね……。もしかして内海さん、夢精でもしたんですか?」

 明るく笑いながら私をからかう。

「……」

 私は一瞬固まった。彼女の冗談にも驚いたが、事実を言い当てられたことにも驚いた。この島へ来る前から溜まっていた欲求を我慢することは辛かった。だが、欲求を満たす行為は、麗華と一緒に過ごしているこの部屋と、二人の想い出を汚すようで嫌だった。

 しかし、今朝方夢の中で覚えた快感に目覚めた時には既に手遅れで、そのまま生理現象に任せるしかなかった。

「え?図星?」

 麗華も一瞬驚いたが、

「自分で処理していないんですか?」

 と更に驚く質問をして来る。

「そんなことできる訳がない」

「どうして?普段は毎日しているんでしょう?」

「さすがに毎日はしていない」

「二三日に一度くらい?」

 興味津々の瞳だ。

「頻度はどうでも良い」

「遠慮なくしてくださいね、エッチな雑誌とか持て来ているんでしょう?」

 彼女は私の荷物に視線を置く。

「わざわざ持って来ないよ」

「そうですか。じゃあ、困りますね、こんな田舎では刺激も少ないですし」

「そんなことまで気を遣わなくて結構」

 私は上体を起こした。

「私で良ければミニスカートでも穿いてきましょうか?」

 花咲くような笑顔で私をドキリとさせる。確かに、麗華はこの部屋にいる時はいつもジャージ姿だ。

「お気持ちだけいただいておくよ」

「ヒラヒラミニの可愛い系が良いですか?それともタイトなお姉さん系?」

 一瞬、私の脳裏に夏の制服を着た彼女のミニスカートがヒラリと捲り上げる光景が思い浮かんで来た。

「もう良いから。どっちも好きだけど……」

 私の答えに明るく笑った麗華は、

「脱衣場の奥に洗濯機がありますからね、全部まとめて放り込んでおいてくださいね」

 そう言って部屋を出て行った。 


 瞬く間に人生初体験の外泊六日目となり、麗華と過ごせる最後の日が訪れたことを実感し、それまで先送りして来たお別れを現実のものとして受け止めなければならない。明日の朝にはこの地を離れる。

 そんな私の心情など知るはずもない神様の気まぐれなのか、とても温暖な気候を与えてくださった。そう、ちょうど一年前に麗華と出会った時の、桜の香りに高揚し、麗華の声と可憐な笑顔が私の胸中に刻まれてしまった時のような陽気だった。

 私と麗華は、晴天の朝に気を良くしてキャンプ場のある丘まで散歩することにした。ほんの五分ほどの行程だ。私は浜まで行こうと言って微笑んだが、彼女は小さく首を横に振った。

 だが、距離など私には関係なく、麗華との時間が大切だった。春休みが終わってそれぞれの生活が始まれば、この数日間の思い出や距離感が保たれるかどうかはとても不安だった。それは、時折見せる麗華の不安定な硬い笑みが原因かも知れない。

 そんな私の葛藤を嘲笑うかのように爽やかな春風が届いて来た。甘く切ない香りだと感じるのは私だけなのだろうか。そんなことを思いながら歩いていると、

「もうすぐお別れですね」

 と、麗華が私の心情に寄り添うような言葉を零した。          

「いつでも会えるよ」

 私は、この一週間足らずの生活を失う寂しさを補う唯一の言葉を吐いてみた。私はこれで満足したのだが、あまりにもあっさりとした私の言葉に麗華は少々物足りない様子で、何かを言い掛けたままでそっぽを向いてしまった。

 しばらく無言のまま歩く。昨年、皆でサイクリングへ出かけた時の、切なくて暖かい春の空気を呼び起こすような潮風を胸いっぱいに吸い込み、綿雲が点在する青空を見上げた。

「帰りましょうか」

 私が色んな思いを感じながら胸に吸い込んでいた潮風と同じ風を吸っているはずの麗華が、大きく伸びをしながら青空を見上げたままで明るく微笑んだ。

「どうして?まだ、半分も来ていないよ」

 細長い綿雲が点在する真青な空の下にも、やや群青色掛かった海原が広がっている。

「美し過ぎます」

 麗華は再び青空を見上げた。

「何が?」

「部屋の中に居たいです」

「どうして?」

 花の香りを含んだ暖かな風が二人の頬をかすめていった。

「去年の春の思い出が浮かんできて……。悲しいです」

「みんなでサイクリングへ出掛けた頃のこと?僕にとっては楽しい思い出だけど」

 麗華はずっと青空を見上げている。

「もう嫌です。悲しいです」

「ごめん。君の悲しみはわからない」

 そんな私の実直な言葉など歯牙にも掛けない様子で、青空から私に視線を移してにこりと微笑んだ麗華は、ぼんやりと立尽くす私を置いたままで引き返し始めた。

 私は何も理解できずに、ひとり感傷に浸っている麗華の自分勝手な行動に疲れも感じたが、彼女の不可解な行動にも大分慣れてきていたので、あまり深追いせずに好きにさせることにした。

「じゃあ、先に帰っていて」

 そう言い残して、私はひとりで歩くことにした。しかし、麗華がそばにいることに慣れてしまった私は、ひとりでいても全く楽しくない。それで、一旦浜まで歩いてゆくとすぐに踵を返した。


 私が部屋に戻ってからは、明日以降の話題には一切触れなかった。いつもどおりに二人でテレビを見たり、本を読んだり、旅館の娯楽室でビリヤードをやったりして過ごしたが、心の片隅ではこの生活が終わる寂しさを感じ始めていた。

 ビリヤードをした後、缶ジュースを飲んでいた麗華が手を滑らせて床にジュースを零してしまったが、二人の間に漂い始めた寂しさを胡麻化すかのように大笑いしながら掃除した。

 卒業前の気持ちと同じで、今日が最後だと思うと何か特別なことをして時間を大切にしたいと言う思いはあるものの、結局、平凡に暮らすことしかできない。

 だが、こんな風に二人で平凡に過ごす時間こそが何よりも幸福であることを、子どもながら薄々感じ始めていた。

 その夜も、いつものようにベランダから海を眺めて過ごした。別段話しはしなくても、二人一緒にいるだけで幸せだった。だが、幸福だと感じた時にいつも浮かんで来る疑問は、これが本当に幸福の実感と言うものなのかと言うことだった。

 仮に、数日前に麗華と再会した時の心の高揚を幸福の実感だとすると、平静でいられる今は幸福ではないのか、それとも幸福感に慣れてしまって何も感じないだけなのか。

 そんな風に考えてみると、人間は、幸せにも不幸せにも慣れてしまうものだと、数週間前に陥っていた苦悩の境遇を思い起こしながらひとりで納得した。

 幸福の高揚感はなくとも、この時間がずっと続いて欲しい、何とかこのまま時間を止めたい、そんな虚しい欲望に覆われている今はやはり幸福なのだ。

「夜はまだ肌寒いですね、昼間は暖かかったのに」

 ベランダの手摺に両肘を置いて、幸福の考え事をしていた私の横に麗華が並んだ。彼女は薄いピンク色のカーディガンを肩に羽織っている。頭上には数日ぶりに満天の星が輝いていた。

「君はいつまでここで療養するの?」

「春休みが終わったら家に戻りますよ」

 彼女の息が、微かに白く広がった。

「じゃあ、すぐに会えるね」

 自然に発した私の言葉は麗華には受取られず、風に乗って届いて来る波の音に、申し訳なさそうに吸い込まれていった。

 いつもは、部屋から漏れて来る灯りがこのベランダの唯一の光源だったが、何という理由はなしに今夜は部屋の灯りを消していた。そのため、いつもよりも周囲の闇が深く感じられ、その深くなった分だけ星光や漁火が際立って見える。

 麗華は手摺に両肘を置いて頬杖を着いた。彼女の背丈ではほとんど背中を丸める必要もなく、ほぼ真直ぐに立っている。

 二人は、この宿に来てから初めて浴衣を着ている。部屋ではいつもジャージ姿で過ごしていたが、最後の夜と言うこともあって、風呂上りに旅館らしい風情を体験してみた。

 昨年の夏祭りの情景がちらほらと脳裏に展開し、薄紫色の黄昏などが麗華の浴衣姿を運んで来たが、夏の香を思い起こすにはまだ肌寒く、すぐに記憶の風景は閉じてしまった。

「明日は良いお天気みたいで良かったですね」

 麗華が黒漆喰色の海を見つめたまま呟く。この一週間、雨が降ることはなく安定した気候だった。

「雨降りのサイクリングは最悪だからね」

 私は何の変哲もない会話をしている自分が情けなく、焦燥感に駆られてきた。無慈悲に過ぎていく時間を何とかして止めたい気持ちだけが先走り、さりとて何もできず、ただただこの空気を、香りを、風の肌触りを、精一杯記憶に残す努力しかできない。

 ふと、私は本当に時間を止めたいのだろうかと自問してみた。確かに今の状況は心地良い限りだが、単にこの状況が終わることに焦燥を感じているだけなのだろうか?終わるまでに何かをやり遂げなければならないのではないか?

 この一年間、常に私の胸中で葛藤を続けてきたものが最近になって漸く整理され、麗華への想いを素直に認めることはできたが、何か不足したものが胸の中でポカンと空虚に存在している。

 その空虚が何なのかわからない。そして、それが得体の知れない焦燥感の原因であるように思えてきた。と、そこまで思考が走った時、なぜか鳴門の潮の風景が閃光のように脳裏を横切った。

「君に言い忘れていたことがある」

 私の脳裏の中で鳴門の潮が激しくぶつかり合い、自然にできた渦潮が白い飛沫を上げた瞬間、今までの焦燥感を払拭する快感が体内を駆け抜けていく。

「何?」

 真直ぐに海を見つめたまま柔らかく尋ねる麗華は麗華だった。いつも私の横にいる、小柄で初々しい色気を放つ麗華であった。

 私は、いつもと何ひとつ変わらない麗華に引き寄せられるように、まるで時の渦潮に巻き込まれるかのように、麗華の素顔を覗き込んだ。そして彼女の視線が私の視線と絡んだ刹那、その小さな唇にそっと触れた。

 彼女は頬杖を突いたままの姿勢で、唇を重ねたままじっとしていた。ほんの数秒の間、二人の時間は止まった。思考も止まった。爆発しそうな心臓の鼓動だけが全身に響いていた。

 だが、なぜだか彼女の前髪が夜風に流されていることだけは感じていた。とても柔らかくて長い時間だった。海風だけが、何の遠慮もなく二人の熱い鼓動を冷却しているかのようだ。

 私はゆっくりと唇を解いて彼女の横顔を見つめた。彼女の瞳に星の輝きが反射しているように見えた。と、唐突に疾風が走ってひと粒の星をさらっていった。

 麗華は泣いていた。またひと粒、今度は静かな風に流されて、目尻から真横にきらりと輝いて消えた。

「俺も好き」

 私は遊覧船のデッキで言えなかった言葉を記憶から呼び戻した。彼女の涙の意味はわからなかったが、詮索はしなかった。後悔もなかった。これで良いと思った。自分の気持ちを正直に認めて相手に伝えた。夏祭りの夜、反射的に出てしまった言葉ではなく、本心から搾り出した言葉だ。こんな簡単なことが、なぜ今までできなかったのか不思議ですらあった。

 麗華はずっと同じ姿勢のままで、風の流れと時間の流れに身を任せている。長い沈黙が続いた。時折、汽笛や波の音が風に運ばれてやって来るが、すぐにまた柔らかなしじまに包まれる。

 私は彼女の反応には一切拘泥しなかったし、どんな言葉が返って来るのかも気にならなかった。ただ一切が静かに流れている。その静かな流れに二人で流されている。しかも二人で手を繋ぎ合って流されている。そんな落ち着いた感覚に満たされていた。

「あっ、流れ星!」

 静かな時の流れから飛び抜けるように、麗華が明るい声色で叫びながら星空を指差した。反射的に彼女の指差す方向を目で追ってみたが時既に遅く、漫然と輝く星たちが若い二人を見守っているだけだった。

「ね」

 私に振り向いた麗華の瞳から最後の星が流れ落ちていった。流れ星の後には彼女の幼くて明るい笑顔が蘇ってきた。いつまでもこうしていたい。二人はそんな思いをもって再び夜景を眺めた。  

 自然で落ち着いた時間が流れ、私は時が経つことを恐れることもなくなっていた。そして、ひと時の興奮もゆっくりと覚めてゆき、先ほどの口づけは、まるで夢の中で起きたでき事のように遠く感じられるほど平静に戻っていた。

 そしてその穏やかな平静は、麗華と心が通じ合っていると確信できた安心感と、麗華に必要とされていると言う自分の存在感。そして自分の本心を言葉にすることができた解放感。これらが重なり合った満ち足りた心にあった。

 実はこれが本当の意味での幸福感なのかも知れないと、折節、麗華の横顔を眺めながら結論づけた。


 ついに出発の朝が来て、全員が準備を整えて自転車にまたがっていた。麗華も見送りに来てくれた。

「また、学校へ遊びに行くからね」

 河口が別れの挨拶代わりに言葉を投げる。

「お待ちしています」

「早く帰ってやってよ、麗華ちゃん。内海が寂しがるから」

 田山の冷やかしに微笑みだけを返した麗華は、抜けるような青空を見上げた。

「じゃ、行こう」

 河口たちが出発した後も、私はペダルを踏み込むことができず彼女の瞳を見つめていた。すぐにまた会えるのだから何も感傷的になる理由はないのだが、ここでの思い出たちとも別れてしまうようで、春の陽射しが優し過ぎると感じた。

 麗華の瞳がやや潤んで見える。私は彼女の涙につられないように無理に笑顔を浮かべると、

「さようなら」

 明るい口調で挨拶した。月並みな言葉しか出てこない自分に歯痒さを感じたが、この言葉の持つ寂しさをこの時ほど実感したことはない。

「さようなら……」

 麗華も笑顔で返してくれたが、その言葉は心持ち震えていた。私は思い切りペダルを踏み込んで前の二人を追った。麗華にもう一度だけ振り返りたかったが、漠然とした見栄のようなものがそれを押しとどめた。

 背中で麗華に手を振りながら、また会える日を楽しみにして前向きに暮らしていこうと決意した。そうして春の空気を胸いっぱいに吸い込んでみると、暖かいくせに切ない味がした。


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