冷たい風
麗華の態度が急変する。麗華に冷たくあしらわれて初めて自分が麗華に恋していることに気づく鈍感内海。しかし時は既に遅く、受験の苦しみと失恋の辛さを同時に背負いながら精神崩壊へすすんでゆく。
私たち三人は、淡路島の某町中を半時間程さ迷った。目的地には辿り着いたが宿が見つからない。公共の宿とはいえ、中学生が一週間も滞在できる程の所だから、立派な宿であることは期待していないが、あまりにみすぼらしい宿も嫌だと思った。
近くを通りかかった女子学生に尋ねてみると親切に教えてくれた。彼女の指示どおりに行くと、漁港の辺に、どう見ても大きな民家としか言いようがない古い木造の建屋が現れた。
ほぼ予想どおりの朽ち具合だった。左右に開く大きな木戸を開けてみると、中はがらんとして薄暗い静寂があった。
何度か声を掛けると、漸く奥から若い女性が出て来て、部屋に案内された。玄関から真直に板を敷き詰めた廊下があり、歩を進める毎に板のきしむ音がするが、決して不愉快な音ではなくむしろ家の歴史を感じさせる重厚な音だった。中は薄暗く、壁や天井も煤けて見えたが不潔感はなかった。
私たちは畳の部屋で横になって少し休んだが、すぐに体力は回復してしまい、じっとしているのが辛くなって来る。夕食までまだ時間があるので、三人でこの街を散策してみることにした。
宿を出ると、まず目に付くのは小さな漁港とその漁港と瀬戸内海とに境界線を引く防波堤だ。そしてその防波堤の先端には赤い灯台がある。
波の静かな港内を白い鴎が自由奔放に餌を漁っていた。彼らは、ほんの一瞬海面に身を浮かして頭を海中に突っ込む。そして次の瞬間には白い羽根をあざやかに振って舞い上がる。海を見慣れぬ私にはまるで曲芸士のように見える。
細長い堤防の上を灯台へ向かって歩いて行くと、数人の小学生たちが釣りをしていた。海面に目を凝らすと小魚がきらきらと泳いでいる。
ひとりの小学生が竿を振り上げると、糸の先端にきらきらと光るものが食らい付いていた。彼が竿をぐるりと横振りにして先端についた魚を灯台の壁に叩きつけると、見事に魚が針から外れた。
灯台の壁から滑り落ちた魚は白い腹を大きく膨らませて怒っているようだが、少年もまたクサフグが嫌いなようで、その膨れた腹を海の中へ蹴り飛ばした。だが海へ戻されたクサフグの生命力も大したもので再び元気良く泳いで行った。
河口と田山は、子供たちに針と糸をわけてもらってテトラポットの隙間に住む小魚を釣り始めた。私は、あまり釣りをする気分になれなかったので、二人に交じろうとはしなかった。
それよりも、広大な海を望み、潮の香りをいっぱいに含んだ海風を全身で受け止めている方が心地良かった。ついさっきまで真青に晴れ渡っていた空がどんよりとした雲に覆われて来た。少し風が強まって海面が小刻みに揺れている。
辺りがやや不気味に薄暗くなって、風が肌寒く感じ始めた。海の天気は変わりやすいと聞いたことがあるが、まさにその移り気を目の当たりにしている。
大自然の壮大な勇姿で私を元気づけてくれていた海が、にわかに寂しさを漂わせ、波間にその哀愁を包んだまま私の胸に押し寄せて来た。そして、テトラポットに吸収される波の単調なリズムが、過去の辛い思い出の中へと私を導いていった。
夏休みに入り、私たちバスケット部は八月に行なわれる最後の大会を目標に毎日厳しい練習に励んでいた。休みに入ってからまだ一度も麗華には会っていない。
彼女は部活動にも出ていないようなので直子に尋ねてみたところ、バトミントン部を退部していた。しかし、誰も明確な理由を知らなかった。
麗華の家に電話を掛けることも考えたが、祭りの夜に、普通の友人関係でいようと決意したこともあって自制した。それで、休み中には一度も彼女に会うことはなかった。
会いたくないと言えば嘘になるが、無意識のうちに忘れようと努めていた。また、部活動の練習に打ち込むことで気が紛れていたのも事実だ。
新学期に入った初日、私は複雑な気持ちで登校した。単なる友人としてでも麗華に会えることはとても嬉しかったが、過去の彼氏とやり直しているのかどうか、事実を知ることが恐くもあった。
麗華のことを忘れようと努め、実際にひと月程度会わなかったこともあり、自分の感覚ではかなり平常心に戻っていた。
夏休み中には、時々祭りの夜のことが思い浮かんでしまい、その度にもっと話し合うべきだったとか、強引にでも引き寄せていたらどうなっていたのだろかとか、無意味な思考を何度も繰り返していた。
そしていつも行き着く結論は、麗華が誰と仲良くしようと友人としてつき合っていければ、それはそれで自分の望む形なのだと言うことだ。
そんな感覚でいた私は、一抹の不安と期待を胸に登校した。久しぶりのクラスメイトたちと楽しく会話した後、教室を移動するために廊下を歩いていると、向かいから三人の女子が歩いて来た。そして、その中に麗華の姿を見つけた。
しばらくぶりに彼女の容姿を見ると、やはり嬉しくて胸が激しく鼓動した。三人の中で麗華がとりわけ輝いている。あれこれと頭の中で制御はしていても、実際に目の当たりにすると熱い血流が全身を駆け巡ってしまう。休み中のでき事などを二人でゆっくりと語り合いたい。そんな欲望さえ頭をもたげてきた。
しかし、麗華は三人連れであるし立ち話する時間もない。二人の間のわだかまりを感じさせないように極力さらりとした態度で挨拶を交わそうと、私は言葉を探しながら歩を進めた。
そして、彼女がいつものように明るい笑顔を浮かべて、新鮮な挨拶を交わしてくれることを当然のように期待していた。ぎこちないのは私だけでなく麗華も若干照れているのか、二人は伏し目気味に歩き、互いが近づいた時に視線を合わせた。私は軽く笑顔を浮かべて、
「久しぶり」
と、声を掛けたその刹那、彼女は隣の友人に視線を移して明るく話し始めた。話掛けられた友人が驚いた風に麗華と私の表情を交互に見つめた。
私は完全に無視された。微笑みも会釈もない完璧なまでの無視だった。私は全身から血の気が引いて、顔が青ざめてゆくのを実感した。生まれて初めて体験する冷酷な衝撃だ。
頭から冷水を浴びせ掛けられて呆然とした私は、麗華に振り向けた笑顔を処理できず、その宙に浮いた笑顔を友人の困惑した瞳で見つめられ、その場から走り去りたいほどの羞恥を覚えた。そして麗華の冷淡な態度こそが、私が一番尋ねたいことの答えなのだと理解した。
それからと言うもの、麗華に会う度にことごとく無視された。最初は私の声が届かなかったのかとわずかな希望を抱いてみたが、すぐに現実を叩きつけられた。廊下ですれ違う時も、玄関で鉢合わせになった時も、彼女は大抵友人に話し掛け、私に視線すら合わせようとしなかった。
ただ、互いにひとりで歩いている時、階段などですれ違うような時だけは、さすがに会釈はしてくれた。しかし、それは俯いたままでほんのわずか頭を下げるだけの無機質なもので、むしろ知らない振りをしてくれた方がましだった。
新学期が始まってふた月が過ぎても麗華に無視され続けた。正直なところ、私にはその理由が全くわからなかった。夏休み明けの頃は、彼氏と仲直りしたことを伝えたかったのかも知れない。或いは、一学期に私と麗華が仲良くしていたことを彼氏が知っていて、今はもう関係ないことを周囲に強調したかったのかも知れない。
しかし、もう十分だろう。私と麗華が仲良くしていた頃の倍ほどの期間、挨拶すらしていないのだ。最早こんな私が麗華の恋愛を邪魔する存在であり得ないだろうし、さりとて、視線も合わせたくないほど嫌われる理由も思い当たらない。
あれこれと推測はしてみるものの、直接麗華と話しをして確かめる勇気もなく、もうそんなことはどうでも良いと自分に言い聞かせた。恋愛などに関わるからこんなことになるのだと、自分を罵ったりもした。
麗華のこともさることながら、夏の大会終了と共にバスケット部を引退したことも大きな変化だった。三年間、自分の中では最優先で時間と力を注いできた割には一回戦で強豪校と対戦して大敗した。余りにも呆気ない最後だった。
結果は出せなかったものの、バスケが大好きで努力してきた過去に決して後悔はない。だが、それほど大好きなバスケも受験が終わるまでは楽しめない。
また、この春三年生の新クラスに入ったものの、クラスには溶け込もうとはせず、麗華や彼女の友人たち、そしてバスケット部の連中とばかり仲良くしていたために、クラスの中では少々浮いた存在になっていた。
大好きなバスケもできず、麗華との会話を失い、クラスで浮いている私は、放課後の校舎を目的も無くふらついたりした。もしかすると、麗華に出会えることを心のどこかで期待していたのかも知れない。会えばまた辛い思いをすると知りながら……。
黄褐色や紅葉色に色づいた木の葉が寂しくなるほど冷たい風に吹かれて散っていく季節となった。思い返ればもう四ヶ月以上も麗華と断絶している。
四ヶ月も会話がなければ、仲良く過ごした時間も楽しかった想い出のひとつとして次第に薄れてしまいそうなものだが、麗華との想い出はいつまで経っても魂が抜け切れず、リアリティを伴った熱い感情と共に思い起こされてしまう。
そして、そんな想い出を消し去ろうと努めるほど、恋愛を毛嫌いするほど、麗華との虚の時間が長引くほど、却って自分の中では彼女への夢想的な恋慕が膨らんでいった。
しかし、現実の麗華には当たり前のように無視されて心が痛むので、彼女と出会うことを恐れるようにもなっていた。
ある晩秋の寒い放課後、教室で適当に時間を過ごしてから帰宅しようとして廊下に出た私は、誰とも顔を合わさないように俯いて歩いていた。俯いていると、仮に麗華と出会っても気付かない振りができる。
だが、廊下には人影が無く静かな空気に包まれていたためについ油断した私は、突然教室から現れた二人の女子と視線を合わせてしまった。そして彼女たちが麗華と直子であることに気付いた私は咄嗟に俯いた。
私は廊下の窓側に寄り俯いたままで歩いた。両者の距離はだんだん縮まってゆく。できれば二人がどこかの教室に入ってくれることを願った。
だが、愚かな私は直子が一緒にいることで、もしかすると麗華も挨拶くらいは交わしてくれるのではないかと言った、何の根拠もない希望を抱いてしまった。
やがて二人が数メートル先に近づく。と、その時、麗華が立ち止まってわざわざ窓を開け、そこから身を乗り出して、かつて私の魂を熱くたぎらせたあの明るく弾んだ声で、
「大崎君!」
と叫び、私の脳裏から決して離れない、あの清らかな笑顔を満面に湛えて手を振った。
ほんのわずかでも期待を抱いてしまった分だけ惨めさが増し、氷の剣で心臓をえぐられるような衝撃に打ちのめされながらも、もうそんな哀れな自分に心が慣れてしまったのか、すぐさま絶望の中で平常心を取り戻した。
そして、冷静な心でもう一度麗華の笑顔を見直してみると、記憶に刻み込まれた清潔さはもうそこにはないように感じられて、晩秋の夕陽が益々寂しさを増して全身に沁み込んで来た。彼氏の名が大崎君なのだろう。だが、もうどうでも良かった。
私の進路を塞いでいる麗華を避けて無言ですれ違った。直子が立場なさそうな瞳でチラリと会釈する。私も微笑み掛けてみたが笑顔に成り切らなかった。
そのままひとりで歩いていると、今しがたの麗華の所作が幾度も思い返されて、一瞬でも希望を持った自分を嘲笑った。だが、何か月も無視され続けている私は、虚しく悲しい状態が普通になりつつあったので改めて悲痛を感じることもなかった。
私を落ち込ませている原因は、麗華に関することだけでなく学業の成績も大きな要因だった。三年生の二学期ともなると一回の試験結果が高校入試に影響する。
その日定期考査の結果が出ていて、この成績では志望校には絶対合格しないと、教師から力強く保証を受けたばかりだ。その頃の私は、何事も思うとおりに行かないのが常で、成功するよりもむしろ悪い結果に落ち着いた方が安堵するような精神状態になっていた。
下手に良い結果が出たり楽しいことが起きたりすると、その何倍もの力で地面に踏みつけられそうな不安感に脅かされた。何事に対してもやる気が起きず、怒りも、喜びも、笑いも忘れていた。だから麗華にどれほど冷淡な態度を示されようと、悲しみに落ち込む余裕はなかった。
二週間後にまた試験が予定されている。何もやる気が起きない私は無為に時間を過ごし勉強をする振りだけを続けていた。当然、試験を受けてもまともに回答できず、全ての試験が終わった日、自分を馬鹿にしながら下校した。
いつもの通学路から大きく外れて祭りの夜に花火を見上げた川土手に腰を下ろしてみた。そして夕陽に輝く川面をぼんやりと見つめるうちに、今まで目を背けていた自分の真実に気が付いた。
その真実とは、自分が未だに惚れていると言う真実だった。春の出会いの中でそんな感情を認めたものの、自然に膨らもうとする自分の恋心を常に抑制していた。
そして抑制しながら夏祭りの夜を迎えたが、麗華の予期せぬ涙で本心を吐露してしまった。しかし、そんな大切な言葉でさえ本心かどうか疑うほど臆病者だった。
更には、その直後に明かされた麗華の未練と迷いを聞かされて、麗華が彼氏の方へ傾いていることを察した私は、自らの意思で一歩後退したつもりでいた。
だが、冷静に省みると、花火を見つめながら麗華に返したあの言葉は、彼女の幸福など微塵も考えることなく、自分が振られることの恐怖から逃げるための言葉でしかなかった。
そして、あの花火の終焉と共に麗華の覚悟は決まり、言葉を吐くだけで何の覚悟もできていなかった自分は未だに恋焦がれながら失恋しているという真実。そしてその失恋に打ちひしがれて勉強にも集中できない不甲斐ない自分。
そんな自らを冷静に見つめた時、失恋ごときのために、人生を左右する受験勉強に身が入らないことがいかにも情けなく、腹立たしく、そんな過去の自分を葬り去りやり直したいと言う気持ちが全身にみなぎってきた。
そう悟った日の夜から私は死に物狂いで勉強を始めた。まるで失恋の鬱憤をぶつけるかのように、寝る時間を極端に短縮して自暴自棄とも言える無謀な勉強方法を続けた。
決して効率の良い学習方法ではないが、無茶をやることで虚しい気持ちを晴らしていた。一週間、二週間と寝不足の続く辛い日々が続いたが根気強く頑張った。
そうやっているうちに、机に向かっている時には麗華のことがあまり意識に浮かばなくなってきた。時折、何らかの契機で自然と現れて来た時の麗華は、現実の人間と言うよりも、美しく流れる想い出の映像に映えた景色のひとつでしかなかった。
私の意識に出現する頻度は下がったものの、学校では現実に麗華が存在し、嫌でも出会ってしまう機会がある。そして、そのまますれ違うような状況になると自然に無視された。
数か月もの間無視され続けると、無視された瞬間の衝撃には慣れてしまうが、失恋を悟った心の核は、無視される毎に深い傷が刻まれてゆく。
自然、私は麗華に出会うことが辛くなり、怖くなり、無意識のうちに彼女を避けるようになった。しかし、一方で麗華を恋慕する思いは息を続け、彼女の姿を見つめていたいと言う欲求は止むことがなく、行き着くところ、遠くから彼女の闊達な笑顔や仕草を眺めると言う臆病な手段しか取れなかった。
そんな葛藤を抱えながらも厳しい受験勉強の日々は淡々と続き、日ごと募る寒さと共に大嫌いな冬が到来した。冬は社会全体が収縮し、暗く陰鬱な雰囲気に包まれるので大嫌いだ。
沈鬱な冬に耐えながら睡眠不足で重くなった頭を抱え、叶わぬ想いのために鉛のようにずっしりと沈んだ心持ちを何とか鼓舞しながら勉強に集中した。
しかし、私の精神力など脆弱なもので、睡眠不足、好きなバスケットができないためのストレスと運動不足、試験の抑圧、そしてどんなに努力をしても戻って来ない麗華への恋慕、それらの堆積で私の精神は崩壊寸前になっていた。
運動不足になっている分だけ体力は余り、健全な少年に蓄積される欲求には勝てず、麗華と二人だけの空間を好き勝手に想像しながら思いを果たすこともあったが、高揚が鎮まった時の虚しさと惨めさは現実以上に自分自身を踏みつけ、そんな妄想の世界からも次第に彼女を遠ざけてゆくほど心は弱っていた。
やがて次の試験が始まり、私は努力を重ねた全ての力を出し切った。手応えは決して悪いものではなかったが、結果は自分の最低記録を更新した。
学年での成績順位が志望校選択のバロメーターになる。その順位が過去最低だった。私も頑張っているが他の生徒たちも必死で努力していることを初めて悟った。
私は悔しさに豪を煮やしながらも二週間後に行なわれる次の試験に向けて猛勉強を再開した。前にも増して机の前に座る時間を増やし、歩きながらも、風呂の中でも知識を詰め込んだ。
この一か月間、過去に経験のないほど努力を続けて受けた試験だったが結果は更に悪くなっていた。さすがにそのショックは大きかった。心の奥底に持っていた、本気になってやればできるのだと言った自負が完全に崩壊してしまった。
クラスの連中は結果をもらって一喜一憂していたが、私は自分の結果を受取った瞬間に全ての思考が停止してしまい、感情的な反応も一切起こらず、口を利くことすら忘れてさっさと帰宅した。
家には誰もいなかった。自分の部屋に入ると持っていた鞄を床に叩きつけた。そして次の瞬間、私の感情が爆発した。どんなに努力しても、どんなに勉強しても、駄目なものは駄目なのだ。能力のない者がどんなに頑張っても無駄なのだ。勉強も、バスケも、麗華も、何ひとつ結果を出せない自分が許せなかった。
私は手当たり次第に物をつかんで壁や床に叩きつけた。涙が滝のように流れ落ちる。自分自身が余りにも情けない。結果を出せない自分が余りにも恥ずかしい。
何もかもが、全てがどうでも良いと思った。志望校に入れなくても、バスケで一試合も勝てなくても、麗華に嫌われても関係ない。何ひとつ勝ち取れない自分など、この世に存在する価値などないと思った。
息をして、飯を食って、のうのうと生きていることすら恥ずかしい気がした。自分が惨めで、情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて嗚咽した。もう死んでしまいたいと正直に感じた。
フォトフレームに入った、麗華たちとのサイクリングで撮った集合写真を手にした。そして、みんなの笑顔が集まったその写真を壁に投げつけようとして一歩踏み出した時、床に散乱した何かに滑ってそのままうつ伏せに倒れてしまった。
私はそのまま床に伏せ、力任せに床を叩き続けた。涙が流れ続ける。嗚咽が大声に変わり、悔しい、悔しい、と叫び続けた。自分はこんなにも大きな声で泣くのだと驚くほどの声が腹の底から飛び出して喚き続けた。
だが、この数か月睡眠不足が蓄積されている私は、どんなに憤慨しても、興奮しても、泣き叫んでも、身体が横たわると言う物理的な安楽のために、そのまま睡眠の渦に沈んでしまった。
それからどれほど時間が経ったのか。深い眠りから目覚めた私は薄暗くなっている部屋の中を見渡した。日暮れだった。静寂が辺りを包んでいる。
もう涙はすっかり乾いていた。まるで狐に包まれたような気分で散らかった部屋の様子を眺めた。誰がこんなに散らかしたのか。すっかり気持ちは落ち着いていた。
しかし、目の前に立ちはだかっている壁の大きさは微塵も変わりはない。その壁は、依然として気が遠くなりそうな高さから、足元で泣き喚いている私を見下ろして嘲笑っていた。
努力すればするほど成績は下がっていく。それは今のところ事実だ。だから、苦しい努力をしてまで成績を下げる必要はないだろうと、錯覚から生まれる感情が理屈を言う。
しかし、そんな時には同時に敗北感が襲ってくる。私は負けるのが大嫌いだ。人間の運命を操っている何かが私を苦しめ、挫けさせ、絶望の極地へ追い込もうとしている。そんな何かに負けることが悔しかった。相手が神様だろうが、仏様だろうが、負けることは自分が許さない。
私はゆっくりと立上がった。何となく誰かに試されているような気がしてならない。もう高校入試はどうでも良い。それよりも私を試している奴に意地を見せてやりたいと思った。精一杯の抵抗を示さなければ男のクズで終わってしまう。そう考えると、再び闘志が湧いてきた。
私は再び猛勉強を始めた。麗華に出会っても左程心は動揺しなくなった。まるでテレビ画面の向こう側にいる女優を見つめている時のように、現実的な心の動きではなく、実在しない架空の女性を見つめているような感覚だった。
だが、それは敢えて心にフィルターを掛けているだけなのかも知れない。あたかも異世界の者に憧憬するかのように心を鈍らせて、ぼんやりと彼女を見つめることで、現実逃避しながら未練を満たしている。
数週間後に期末試験が行なわれ間もなく結果が出た。そして、やっと志望校を受験できるほどの成績が収められた。それは大きな自信に繋がり、その後も猛勉強を続ける勇気を与えてくれた。
私はその自信と人生の壁に対する意地を以って、年末も正月もなく猛勉強を続け、睡眠不足とストレスに耐えながらいくつかの試験を順調にこなし、志望校受験に的を絞り始めた頃には当然のことながら春が訪れていた。
早春と共に卒業が迫って来た頃、三年生たちは時間が経る毎に離別を意識し始めていた。友人たちに対しても今まで以上に親しみが感じられ、それまでさほど仲良くしていなかった連中とも親しく言葉を交わすようになっていた。
みんな残された時間を精一杯楽しく過ごそうとしているのだろう。教室の中は、受験前だと言うのに和やかで穏やかな空気と、わざとらしくさえ思える笑いが耐えなかった。
不思議なことに、その頃になると麗華の態度にも変化が現われ始めた。私の卒業が近くなったために、最後くらいは真っ当な社交辞令で送り出そうとしているのか、或いは、自分の行為に多少の罪悪感でもあるのか。
理由は不明だが、麗華が私を避けることが少なくなり、出会った頃のように気持ち良く挨拶をしてくれるようになった。その不可解な現象に私が困惑したのは梅の花から桜の開花に近づく時分だった。
麗華が私に見せる笑顔はあの春を思い起こさせるに十分な、清々しい振舞いと可憐な笑顔だった。まるで、二人の間には夏も秋も冬もなく、春だけが存在するかのようだ。
しかし、麗華のそんな変化に対しても感動はなかった。私には空虚しか伝わって来ない。嬉しいのは確かだが全てが遅過ぎる。ただただ、時間の経過に対する苛立ちが増すばかりだ。
三年生たちはみんな最後に何かやりたそうだった。いや、率直に言うと時間を止めたい。それが叶わないから、この時間を楽しむために何か行動したいと思う。
だが、受験を控えて時間のない中でできることと言えば平々凡々と今までと同じ日々を過ごすだけだ。そんな薄情な時の流れに、ただ虚無感を覚えるしかない。
そんなある日の放課後、廊下で出会った直子と私が話しているところへ麗華がやって来た。今までなら、冷たく無視して横をすり抜けて行くはずなのに満面に笑顔を浮かべて向かって来る。彼女は両手を絵の具で真赤に染めていた。
「ほら、真赤でしょう!」
両方の手の平を私の顔に向けてから、彼女は私の両手首を握り締めた。私は突然の奇行に面食らって、
「オイオイ」
と言うのが精一杯で、ケラケラ笑っている麗華の冷たい笑顔を見つめるだけだった。そして手を離した後の私の手首には、赤い絵の具がべっとりと付いていた。
私は手に付いた絵の具を麗華の顔に近づけて塗りつける振りをしてみたが、彼女は笑みすら浮かべずに、冷めた視線で私を見つめてから教室に戻っていった。
麗華が去った後、私は無言で手洗い場に行った。なかなか洗い落とせずに困っているところへ直子が石鹸を持って来てくれた。
「なんか変わったね、彼女……」
私は手を擦りながら直子に問い掛けた。
「ええ、随分」
「そう……。しばらくの間話していないから、俺には良くわからないけど」
「最近は女子生徒の中でも評判が良くないの。他人が傷つくようなことでもはっきり言うし、刺々しくなった感じかなあ。それに、学校が面白くないのかよく休むようになって、ちょっと心配」
直子は私に遠慮しながら答えているようだ。
「彼氏に振られたのかな?」
私の自然な問いに直子はやや困惑しながら、
「彼氏?さあ……」
と、中途半端に答えた。
「まさか、不良への道を歩み始めたとか?」
私の冗談に微笑んだ直子は、スカートのポケットから取り出したハンカチを差し出してくれた。
「まあ、みんないろいろあるから……。そのうち元に戻るよ」
私は何の根拠もなく呟いてから、直子に差し出されたハンカチを丁寧に断って自分の汚れたハンカチをポケットから取出した。
その皺だらけのハンカチを見て彼女がクスッと愛らしく笑った。私は手を拭いながら、直子は綺麗になったと実感した。
卒業式も終わり入試の合格発表も終わった。幸い私は志望校に合格することができた。正直言って安堵はしたが喜びはあまり湧かなかった。あれほど苦しんだ高い障壁なのに、乗越えてしまうと乗越えて当たり前の高さだと思いたかった。
合格発表を確認した後、学校へ報告に行った。皆嬉しそうに集まって喜び合っているが、なぜか私は陽気になれなくて、別れの挨拶をしてからひとりで桜並木の広場へぶらぶらと歩いていった。
春だと言うのに広場は閑散として寂しかった。ベンチに座っておしゃべりをしているような生徒はいない。桜の花はまだまだ蕾の状態だし梅の花はほとんど散っている。
「おめでとうございます。合格されたのでしょ?」
卒然背後から届いた麗華の声が、私の琴線を悲しく撫でてから真青な春空に抜けて行った。何のわだかまりもない、ややハスキーで陽気が溢れた清純な声だ。
ぼんやりと桜の蕾を見上げていた私は、一年前に初めて麗華の声を聞いた時の躍動感はなく、単に脳裏を清らかに刺激されただけだった。そしてこの数か月の記憶から悲しい香りだけが蘇って来た。そんな私は静かに後ろを振り返った。
するとその瞬間、春の柔らかい陽射しを受けた桜の蕾が満開となり、青空に広がるピンク色の花びらは春風に吹かれ、その花びらが初夏の陽射しに白く輝いた後、枯葉の積もった冷たい地面に舞い下りていった。
そうして再び満開となった桜花の片鱗が、麗華の肩に美しく舞い下りたような幻影が走馬灯のように脳裏に映し出された。
「ありがとう」
とても嬉しそうに微笑んでいる麗華にお礼を言った。このひと時だけでも私のことを気に掛けてくれたことが嬉しかったし、わざわざここまで来てくれたことにも幸福を感じた。
だがそれだけだった。笑顔も浮かばない。余りに形式的で簡素な別れ方だったが、彼女がそれを求めていることは察しがついた。
最後だから礼儀正しく振舞う。だが、ここで思い出話をする気持ちも、将来のことを話す気持ちもないと言った空気が彼女の笑顔から伝わって来る。私は無理に作り笑顔を浮かべてから、
「さようなら」
と、ひと言だけ残して彼女に背を向けた。
「さようなら」
麗華の明るい声を聞いて、心を満たされたと言うよりは救われたような思いに満たされて、三年間の想い出を引きずりながら私は歩んでゆく。
後ろ髪を引かれるような思いは、麗華に対するものなのか、中学生活に対するものなのかは判別がつかなかった。
「さようなら」
再び麗華の声が届いたが、その声は心持ち震えているようにも感じた。私がゆっくりと振り返ると、なぜか麗華の瞳が濡れていた。
見つめ合った麗華と私の間を暖かな春風が通り抜けると、語り合うことすら許されなかった二人の胸に秘められた想い出が、ほんのわずかな合間だけ、ほんわりとそこに佇んでいた。