春のひざし
バスケットに熱中して恋愛などに全く興味の無かった中学三年生の春。春の陽気に男の欲が強く燃え上がったある日、偶然出会った愛らしい少女の容姿とハスキーな声が脳裏に焼き付いてしまい、その熱い記憶を持ち帰った。そんな心と身体の熱情を初めて覚えた私は、初めて恋愛らしき衝動に引き込まれてゆく。桜吹雪の舞い散る中で再会した二人は急接近していくが、彼女もまた不可解な少女だった。
『涙を拭うと、そこには柔らかな春があった……』
私は、屈託した心を癒すため旅に出た。それはもう二十年も昔のことだ。あの頃のことをこうして文字に残すつもりなど毛頭なかったが、年月と言うものの浄化作用なのか、それとも青春時代と言う言葉のマジックなのか。
いかに辛い体験をしたつもりでも歳を積み重ねてゆくうちに、いつしかそれらさえも思い出のひとつとして心に安住している実際が、面白くもあり恐ろしくもある。
あの頃の記憶を生涯忘れることないと何の疑いも無く信じていたが、年月の経過と共に記憶の中の光景や言葉だけでなく、あの頃どう感じていたのか、どんな考えでいたのか、大人になった今の自分の感覚がそんな記憶を上書きしていることに気付いた時、私は反射的に書こうと決めた。
私の心に大きな風穴を開けたあの出来事から既に二十年の月日が過ぎ去り、私も社会に出て仕事を持ち、家族を持ち、あの頃に麗華と約束したとおり、普通の幸せを手に入れた。
自分が幸福を手に入れるにつれ、麗華との記憶が薄くなっていくような気がした。しかし、それを恥じるつもりはない。麗華もそれを望んでいるはずだし、きっと許してくれるだろう。あの桜のような笑顔を浮かべて。
中学卒業後の春休み。 志望校にも合格し、重苦しい受験生活から解放された最も気楽な頃に、私は友人と三人で兵庫県の淡路島に出掛けた。それは自転車の旅だった。
まだ肌寒さの残る春の曙に出発し、昼前に岩屋港に到着。私たちの目的地は、ここから島の西岸を南に二十キロ下った所にある小さな漁村だ。
別段景勝の地でもないし、観光スポットがある場所でもない。夏に地元民が海水浴に来る程度の地味な町だが、私たちの故郷から自転車の旅をするのに適当な距離で、安く泊まれる民宿があったのがそこを選んだ理由だ。
私たち三人は、フェリーが接岸した岩屋港付近の小さな街を抜け、西海岸通りを自転車でのんびりと走った。穏やかな春の瀬戸内海が目の前に広がっている。
私たちがゆく路は島の形を縁取るように延びており、場所によっては海面から数十メートルの崖っぷちで、足がゾワゾワする恐怖感を味わえる所もあった。
そんな恐怖感を醸成する絶壁ラインでも、波の音は春の長閑さを漂わせ、柔らかな安堵感で私たちを優しく包んでくれた。
広々とした蒼い敷物の上には、まるで模型のように見える大小の船が走っている。大型貨物船は遠くの方でのんびりと春風に身を任せており、小型漁船は小忙しく波を蹴って白い帯を引きずっている。
人は、美しい景色や風景に出会った時、恋しい人と共にその美しさを享受したいと感じることがある。想い人と一緒に草花の香りが漂う野原を駆け回り、淡い陽射しを全身に浴びて、青空に浮遊する真白な雲を数えられたらどんなに幸福だろうか。
温和な春景色を目の当たりにしていた私は、ふと、そんな空想に導かれていた。そしてその空想は一年前の出来事にオーバーラップしてゆき、やがては去年の春に刻まれた、生涯忘れ得ぬ楽しい思い出に誘われていった。
ちょうど一年前の春。その日も穏やかで静かな春日和の朝だった。春休みに入っていた私はいつものように部活動の練習に出掛けた。
私はバスケットボールをやっている。一緒に旅している河口と田山も同じだ。私たちの部は決して強豪ではなかったが、練習だけはどこにも負けないくらいに一生懸命やっていた。
その日もいつもと同じように練習に打ち込んでいたが、自分でも不思議なくらいに練習が楽しくて、何かうきうきと躍動するような塊、まるでマグマのような熱い塊が身体の芯でうごめいているような気がしていた。
理由は良くわからないが、最近よく欲情的な夢を見る。普通の中学生男子が行う程度に欲求を吐いてはいたが、毎晩のように熱い夢を見ては身体が反応していた。
今朝も春の陽射しに照らされた満開の桜並木に心を染められながら全身に力が漲っているのを感じつつ登校して来た。だがその一方で、昨夜の夢で覚えた感覚を思い出し足腰に甘い震えを感じていた。
これが若さなのかと、初めての体感に驚きながらも新鮮な充足感と熱い躍動感に任せて練習に熱中していた。もしかすると、その後の運命の出会いを予期していたのかも知れない。
その日の練習も終盤となり体力的にかなり辛くなってきた頃、私たちが練習している体育館へ三人の女子が入って来た。練習に夢中だった私は彼女たちに気付かなかったが、振り向かずにはいられない何とも爽やかな声が突然天から降って来た。
ややハスキーで明るく張りのある声。過去に聞き覚えのない悲しいほど美しい声が館内に響き渡った。私が思わず声の方を振り返ると、体育館の二階で手摺に寄り掛かり私たちの練習を見下ろしている女子たちが目に入った。
小柄な女子が三人並んでいて、みんな制服を着ていた。女子の制服はスカート丈が膝上くらいが標準だが、時々、太腿が見えるほど短くしている生徒もいる。私が自然に目を惹かれた女子は、そんな短いスカートがよく似合うとても愛らしい女子だ。そして期待どおりにその女子から先ほどの声が発せられた瞬間、今朝から私の心の奥底でくすぶっていた、希望の塊とでも言うべき熱いエネルギーが一気に体内で爆発した。
その瞬間から彼女たちがそこを立ち去るまでのわずかな時間、私の心身は雲のように軽く闊達に躍動した。そして彼女の姿を少しでも多く捉え、声を聞き、素敵な笑顔と張りのある明るい声を記憶に焼き付けようと努めた。
半時間ほどで彼女たちは出て行ってしまったが、その熱い躍動感は寂しさなど寄せ付けず、いつかまた会える日が来ると自分に言い聞かせ、彼女の愛らしい容姿と琴線を刺激する声を脳裏にそっと仕舞い込んだ。そしてその躍動感の中に甘い感覚を覚えたのも確かだった。
やがて練習が終わり、ひとりで帰宅する間もその甘い感覚は不可解な鼓動と共にずっと続いた。部屋に戻った私は疲れた身体を横たえたまま眠りに落ちていった。疲労のために自然と意識が遠のいて、全身がベッドの底に吸い込まれるような感覚で眠りに誘われてゆく。それはいつもと同じだ。だが、何かが違っていた。沈みゆく感覚とは逆に、下半身からズキズキと込み上げる熱い鼓動が睡魔の動きを妨げ、半ば眠った状態で身体が宙に浮いてグルグル回転しているような不思議な体感を覚えた。
そしてその不安定な体感の中で脳裏に再現されたのは、彼女の愛らしい笑顔や悲しくなるほど美しい声と甘い感覚。宙に浮いた体感と彼女の全身から感じ取ったとろけるような雰囲気に包まれながら、私は今までに経験したことのない官能的な快感と共に、溜まっていた思春期の欲情を噴出してしまった。
それは、スポーツバカの私にとっては初めての体験だった。普段は欲望を持て余しながらも練習に疲れてすぐに寝落ちしてしまう。たまに睡眠中に自然現象が起きた痕跡に気づくこともあったが熟睡しているために記憶がない。休みの日に積極的に発散することはあるが、半落ちの状態で現実の女子を夢に見ながら甘い心持に包まれて熱い塊を吐き出してしまうことなど一度もなかった。
どうしてひと目見ただけの女子にこれほど欲情してしまったのか自分でも不思議で仕方なかったが、発散後の満足感と共に、どこか大人になったような不思議な充足感に満たされていた。
私の中で幻影となってしばらく生き続けていた彼女だったが、その後は目の前に現れることはなかった。練習中にはいつも彼女の出現を期待して時々周囲を捜したりしたが、小さな嘆息を重ねるしかなかった。学年もクラスも知らない彼女。捜す術もない。
やがて記憶に焼き付けたはずの容姿も時間と共に薄れてゆき、夢の中に現れることもなくなった。やがてあの出会い自体が幻想の中での出来事であったように感じるほど興味も薄れていった。
だがなぜか、あのハスキーで張りのある甘い声だけは聴覚の記憶にいつまでも留まっていた。
そんなある日、春休み唯一の部活動休日に、河口からサイクリングヘの誘いがあった。河口と、彼が付き合っているバトミントン部の岡部直子が中心になって企画したらしい。
バスケット部とバトミントン部から三人ずつ参加して、花見サイクリングに出掛けるらしい。折角の休みに遊びに行ける彼らの元気さに私は感心しながら、自分はゆっくり寝ていたいので断った。
だが、直子が愛らしく頼み込んできた。直子は一歳年下だが、河口と付き合っていることもあり、普段から何かと気配りをしてくれる。私の苦手な細々とした面倒な諸事をいつも快く手伝ってくれるので、嫌とは言えなかった。
ププー。後方から高速で走って来た自動車が三人を疾風の渦に巻き込んだまま去って行った。長閑な春に酔い、一年前の回想に耽っていた私は車のクラクションに驚いて少しよろめいた。
そんな私の後姿を見て田山が大声で笑っている。考えてみれば、田山や河口とこうしてサイクリングヘ出掛けるのはあの花見サイクリング以来だ。
「後、どのくらい?」
私は後ろを振り返り田山に尋ねた。
「次に目覚める頃には着いてるよ。別世界かも知れないけど」
田山は私が居眠りしていたと思っている。私は前に向き直って河口の様子を確認してみたが、彼も自分の世界に入り込んでいて、
「海は広いなあ、大きいなあ……」
と、何度も同じ歌を繰り返し歌っていた。
サイクリングは、大勢で走っていても基本的には孤独だ。頻繁に会話などできない。必要な時には言葉を交わすが、それ以外は各々が自分の世界に浸っている。
束の間の会話も途切れ、また沈黙が訪れた。河口の歌声もいつの間にか消えていた。その眠気を誘う陽気と、柔らかな春風に包まれた私は、再び回想の世界へと引き込まれて行った。
花見サイクリング集合時間の朝八時頃、私は校内にある集合場所に向かった。私の通う中学には桜並木が自慢の校庭があり、そこで待ち合わせをしている。まだ眠気を感じる私は、やる気なさの滲み出たふらふら運転で自転車を進めた。
校門をくぐると、校舎の表玄関まで真直ぐに延びている通路の両側に満開の桜並木が朝陽に輝いている。桜の枝からはピンク色の可憐な花びらがひらりひらりと風に流されながら明るいきらめきを放っている。そして桜並木の背後には、自然の香りが蒼く蒸れる緑の草木が広がっていた。
その蒼い校庭にも桜の木が散在しており、校庭全体が桜花の屋根に覆われているかのようだ。そんな華やかな屋根の下に置かれたベンチの周囲に皆が集まっている。どうやら私が最後のようた。
彼らは皆お喋りに夢中になっているようで、私の接近など全く気付かないでいる。薄いピンク色に輝く花びらが小雪のように舞い散る中で彼らは若い笑い声を響かせていた。
私は自転車を押しながらゆっくりと近づいた。女子たちは私の方に背を向けているので誰だか良くわからないが、見慣れた直子の後姿だけはすぐに見分けがついた。
私はその場に立ち止まり、桜の細雪を吹雪かせている枝振りを見上げたまま、微風に吹かれた小雪が甘い香りと共に軽やかに舞う姿に見惚れていた。
しばらくそうしていると、まるで自分が桜花に包まれて宙に浮いているかのような錯覚に陥り、ひらりひらりと舞う花びらが描かれている真青なキャンパスに吸い込まれていくような心持に酔ってしまった。
だが、空を見上げ続ける首の疲れと共に風流からも次第に目覚めてゆき、首を摩りながら地上の現実に舞い下りてみると、瞬く間の夢から覚めたばかりの私の視界に、少し前から私の方を振り向いていた様子の女子たちの姿が飛び込んで来た。
まるで全ての物が止まってしまったような瞬間。時間さえ止まってしまったかのようなゆっくりとした瞬間。男女全員が私の方に視線を置いているのに、私にはたったひとりの容姿しか目に入っていなかった。それは、いつかの素敵な声を発した女子だった。
再び夢の世界へ誘われた私は、甘い香りに吹雪く桜が小柄な彼女に降り注ぎ、その小さな肩に桜の花片が静かに舞い下りるのをぼんやりと見つめていた。彼女との二度目の出会いは、そんな美しい風景とともに記憶に刻まれた。
「おはよう」
私は現実に戻って皆に挨拶した。
「おはようございます」
女子たちからの返事はあったが、男たちは笑みを浮かべて軽く片手を上げた。すると直子が間髪入れずに素敵な笑顔を浮かべてメンバー紹介を始めた。
「内海さん、早速ですけど紹介しますね。こちらが私と同期の山野順子さんです。田山さんとお付き合いしています」
直子の言葉に恥じらうようにして順子が挨拶する。
「はじめまして。内海さんの噂は良くお聞きしています。よろしくお願いします」
私は慌てて自転車のスタンドを立て、自分も直立してから、
「こちらこそ。田山にこんな可愛い彼女がいたなんて全然知らなかった」
と、田山を冷やかそうとしたが、彼は素知らぬ風に桜の枝振りを眺めている。
「そして、こちらが同じくバトミントン部同期の美澄麗華さんです」
直子の紹介が始まった瞬間、なぜか私は急に鼓動が激しくなり膝までもが微かに震え始めた。
「はじめまして。私も内海さんのお噂はいろいろ伺っています」
笑顔を浮かべる彼女がちょこんとお辞儀をすると、肩にやや触れるくらいの短い髪が微かに揺れて、肩に留まっていた花びらがひらひらと舞い落ちた。
彼女が着ている淡いピンク色のカーディガンが春の柔らかい陽射しを反射している。そして、そのピンク色の反射光に照らされた彼女の頬が若々しく輝き、明るく新鮮な雰囲気を放っていた。
「どんな噂?」
ほんの一瞬麗華に見惚れてしまった私は、そのことに気付かれないように平静な表情を作って尋ねてみたが、奴らが良い噂などしている訳がない。
「お前を褒め称える噂に決まっているだろう」
河口がニヤリと笑ったが、二人ともそれ以上は何も言わない。彼らの様子に何となく違和感を覚えたが、二人とも彼女を連れているので少し照れているのだろうと理解した。
「女子の間では、内海さんはカッコイイって噂していますよ」
思いも寄らない麗華のお世辞に、私は思わずにやけてしまいそうになったが、そんな姿を河口たちに見られたくなくて、
「ありがとう。とにかくよろしく」
と、淡々とした口調でその場を切り抜けた。何か言いたげな視線を私に送っていた河口だが、直子に腕時計を示されて出発の号令を掛けた。直子は年下とは思えないほどしっかりしている。
全員が自転車に乗り、ゆっくりとした速度でサイクリングに出発した。 私たちの町から十数キロ離れた山間に湖があり、その周辺一帯が自然公園になっている。そこまでの道のりは、一級河川に沿った田畑や野原が広がる風景で、恵那、日本人が本能的に求めてしまうような山と谷、川の織り成す自然な風景が続く。
六人は、時には横一列になり、時には縦一列と、縦横無尽に好き勝手な走りを繰り返し、農作業をする人々が振り返るほど若い笑い声と弾む語気を周囲に発散しながらペダルを踏み続けた。
私は唐突な幸せの訪れにしばらくの間戸惑っていた。ひと目見ただけで夢の中に現れ、無意識とは言え欲情の対象にしてしまったことを内心申し訳なく思い、目の前の麗華の清潔さが実際なのだと思うと益々眩しく感じて、この幸福なはずの境遇をどうやって自分の物にすれば良いのか迷ってしまった。
何かと話題を持ち出してみては、自分の言葉や態度が変にぎこちなくて、そのことを悟ると余計に焦ってしまい、二人の空間が緊張で居づらいものになってしまった。
それでも麗華はいちいち頷いて明るく反応し、時には白々しいくらいの笑い声を上げて私の下手な会話を盛り上げてくれた。そして私が無言になった時には彼女が話題を持込んで、居づらい空間を何とか和ませてくれた。
そしてその甲斐があって、次第に固い空気が和んでゆき自然な形で打ち解けていった。お互いが色々な話題を持ち出したため、わずかな時間で互いの情報を得ることができた。
例えば、彼女には三つ違いの兄がいてとても慕っていること。ピアノを弾くのが好きなこと。バトミントンは好きだが下手なこと。料理を作るのが好きなことなど。
私は部活動を必死にやっていること、次の大会に掛けていること、なかなかチームが強くならないこと、そして河口や田山の明るくて呑気な性格のことなどを話した。
麗華が相槌の変わりに時々浮かべる笑顔は、彼女の穿いている白いジーンズよりも眩しく感じられた。
「彼女はいらっしゃらないの?」
麗華の大胆な質問に内心肝を冷やしたが、先輩らしく動じない振りをして、笑顔を浮かべただけで間を置いた。考えてみると、私と麗華以外はみんなカップルだ。
何となく、今日の企画が仕組まれたもののように感じる。だがもしそうだとしても、今日のところはありがたく感謝したい。
「残念ながら」
私はやや情けない表情を作って正直に答えた。実際、今までにも気になる女子は何人かいたが、彼女たちのことが好きなのかどうか自分でも良くわからないままに勝手な理想を抱いてしまい、自分で作り上げた理想の彼女たちと現実の彼女たちとのギャップに失望してしまう、そんなひとり相撲ばかりだった。
「あら、意外ですね。内海さんのファンはたくさんいますよ、私の周りにも」
「確か君と同じ中学に通っているはずだけどね?出会ったことがない」
お世辞だとわかっていても木っ端恥ずかしくなった。そして彼女の顔を見ることができずに空を見上げ、青空の広がりと綿のように浮かぶ白い雲に清々しさを感じた。と、どこからか鴬の声が淡い緑色に照らされた山肌に木霊した。
私たちの目的地は地元では有名な湖で、ボート遊びなどができる自然公園だ。湖の周囲には小高い丘陸地が連綿と連なって程良いハイキングコースになっている。
そのハイキングコースの休憩ポイントで昼食を取る計画にしている。ハイキングコースの入口、丘陵地の登り口にある神社の脇に自転車を止めて、どんな神様が祀られているのかも知らないまま、自然な気持ちで神社にお参りをした。
「こんにちは。大勢でお邪魔します」
私は神様に挨拶した。全員が各々の気持ちで参拝を済ませてから山道を登る。ハイキングコースになっているだけあって歩きやすい道だ。鴬の鳴き声があちらこちらから響き、山桜も散開している。
私は野生の山桜を目にしながら、桜が圧倒的な美しさを見せるのはやはり人工的な桜だと思った。お寺や神社、庭園など入念に手入れされたものが日本人の心を釘付けする。
それに比して、自然の山々に咲く桜はまばらで孤立している。だが自然の逞しい彩の中にポツンと開花する野生感は、華やかさは劣るものの素朴な少女の微笑みのような美を荒々しい山肌に添えている。
私たちは見晴らしの良い場所に出会うたびに立ち止まり、しばし感嘆しては目の前で待っている狭い自然道を進んで行った。女子たちに歩くペースを合わせているため少々じれったさを感じたものの、麗華がそばにいるため彼女のことが気になって仕方がない。
彼女が辛くならないように様子を伺い、ぎこちないながらも会話を続けて、二人の空間が気まずい沈黙に陥らないように苦心した。正直なところ、私にとっては山道を歩くことよりも女子と会話を続けることの方が大変だった。
そもそも女子との会話、多くは目的のない会話をすることが億劫と言うよりは嫌いだった私は、女子が好む話題など想像すらできなかった。
なぜそれが嫌いなのか自分でもよくわからない。何か用事があれば気軽に話せるが、漠然とした会話はできない。特に女子が集団でいる時などは面倒くさくて一切口を効きたくなかった。
だから私には直子が必要だった。目的がなさそうで実はあるような女子とのやり取りで、彼女は間を取り持ってくれる貴重な存在だった。
だが今、そんな直子の通訳も無しに麗華と会話を続けている。何のために話しているのか良くわからないような会話を何とか続けている。
勿論、彼女と過ごしている今の時間は幸福なのだと思うが、麗華は今楽しいのか、退屈していないのか、歩くのが辛くないか、そんな心配をしつつ下手な会話で彼女を楽しませることに専念している今は、幸福感を感じる余裕などない。
だが、不器用な私の会話に関わらず常に素敵な笑顔を見せてくれる麗華に心を溶かしながら一時間ほど歩くと、それまでの狭い山道が突然開けて、目を見張るほどの蒼い平原が目に飛び込んで来た。
三十メートルはある高さの崖から清らかな水の流れが白い帯のように流れ落ちて、滝壺の中で数回うねった後静かな清流となって数キロ下った湖へと流れてゆく。
滝壺から流れ出たばかりの流れは急だが、すぐに川幅が広がって穏やかな流れへと延びてゆく。川原も流れと共に広くなり自然の草花が群生した華やかな花壇があちらこちらに点在している。
広い川原を縁取るように川の堤がくねりながら伸びてゆき、堤から川原へは子供が大喜びしそうな短い急坂が短い草花の絨毯、いや滑り台を準備している。
そんな川堤から川下を見渡してみると、既に段ボールを敷いて滑り落ちている子どもたちとは別に、清い流れが緑の草原をくぐり抜けているように見える。
「この辺りでシートを敷こう」
「私も滑りたい!」
私の言葉が聞こえなかったのか、麗華は飛び跳ねて喜んでいる。
「この辺りで食事にしよう」
みんなで昼食を取るのに良い場所だと思った私は、麗華が気になりながらも言い直して、自分のリュックからシートを取り出して皆に声を掛けた。
「すごい、シートまで持って来ている」
田山が驚いて見せた後、直子までもが意味不明な笑顔を残して、カップルたちはこの場から去って行った。みんな思い思いの方向へ散らばってゆく。
「ハイキングにシートは必須だと思うけど」
去ってゆく田山の背中に向かって呟いてみた私は、その場に残された麗華と二人きりの空間を見渡した。困惑と甘い震えに狼狽した二人は一瞬間立尽くしていたが、
「ここは少し賑やか過ぎるね?」
と言う私の言葉に彼女も頷いて歩を進めた。実際、大勢で食事するには良い場所だが、家族連れが多すぎる。
私は堤を下りて、川原に座している平らな岩にシートを敷いた。ここなら二人にちょうど良いスペースだ。シートをきれいに伸ばす作業をしている私を放置して麗華はひとりで川に近づき、浅瀬の流れに手を浸すと私を振り返って満足気な微笑を投げ掛けてくれた。
「冷たい?」
「気持ち良いですよ」
麗華はその場にしゃがみ込んで清流の感触を楽しんでいたが、私は腹が減っていたのでさっさと弁当の包みを開いた。
「ちょっと待ってください、一緒に食べましょうよ」
麗華が慌てて駆け上がって来ると、勢いよく岩の上に飛び乗って自分のリュックを探った。
「え?すごい食欲」
彼女が取り出した包みが意外に大きくて、私は素直に驚いた。サンドウィッチやフルーツ、スイーツまで出て来る。フルーツの甘い香りが春陽に拡がって、遠い日の遠足の記憶が蘇ってきたりした。
「え?無理、無理!」
麗華は大声で笑いながら、
「みんなで食べようと思ってたくさん作ってきたの。まさか私ひとりの分じゃないですよ」
と言うと、もう一度愛らしく笑った。
「少し安心した」
麗華の慌てた様子がこの上もなく愛らしい。
「みんないなくなったので、内海さんに食べて頂きますからね、全部」
麗華は私の前に紙の皿を置き、サンドウィッチを山盛りに積んだ。
「全部食べて良いの?」
私の言葉に彼女は丸い目をしたが、私は素直に嬉しくて山積みされたサンドウィッチをまとめて手にして大きな口で頬張った。
「うまい。君が作ったの?」
色んな味が混じって複雑だったが空腹なのでとても美味い。肉親以外の女性が作った物を食べたのは初めての体験だ。何だか大人になったような妙な満足感に浸った。
「本当ですか?良かった。勿論私が作りましたよ、少しは母に手伝ってもらいましたけど」
朝顔が開いた瞬間のような瑞々しい笑顔を浮かべた麗華は、すぐにはにかんだ風に俯いて、卵サンドを半分にちぎって□に運んだ。
「魚はいるのかなあ?」
新たに積まれたサンドウィッチを束ねて掴み、飲み込むようにして食べながら川の流れに目を凝らしてみた。
「こんなに綺麗な水ですから住んでいそうですね」
同じように川面へ視線を移した麗華の瞳に、川の流れの涼やかな輝きが映っているように見える。そして彼女の全身からもこの清流に似た清純な輝きが放たれているように感じた。
私は、こうして二人きりで会話をしている状況を、未だ現実のものとして受取ることができないのか、まるで清流が反射する太陽の光に幻惑されているかのように心がふわふわと揺れている。
「魚釣りをしたことある?」
立つ瀬もなく揺れる私は、沈黙が恐くて思いついたままの言葉を口にするしかない。
「幼い頃、父に連れらたくらいですね」
つまらない問いに対する答えなどどうでも良かったが、真直ぐに見つめてくれる彼女の素顔が可愛くて、私は答えることも忘れて見惚れてしまった。と、彼女が小首を傾げて、
「内海さんは?」
愛らしく尋ねた。
「あ、俺は魚をつかめないから……。だから、釣りは無理」
慌てた私の様子を笑ったのか、答えが可笑しかったのか、麗華は悲しくなりそうなほど眩しくて愛らしい笑顔を満面に浮かべて、手で口を覆いながら笑った。
「意外とカワイイですね、内海さん」
そうからかった麗華は、笑顔のままでじっと私の瞳を見つめる。私は思わず照れてしまい、所在なくサンドウィッチに手を伸ばして頬張った。
「じゃあ、お魚料理は大丈夫ですか?お箸を使うでしょう?」
からかうような口調の麗華。
「あまり好きじゃない」
「あら、料理されたお魚はじっとしていますよ」
「……」
私が返答に困っていると麗華はクスッと笑って、
「私は大好きですよ。お刺身も焼魚も。煮付けなんかも大好き」
と言って私の答えを促すように瞳を覗いた。
「煮付けは絶対に食べない」
「あら、どうして?」
「色が悪い」
もっと気の利いた答えをしろよと自分を責めるが、考える間もなく質問が飛んでくる。
「焼魚は?」
「骨を取るのが面倒」
麗華は珍しいものでも見るような瞳で私を見つめた後、意味あり気に何度も頷いてから、
「なるほどね。内海さんのお嫁さんになる人は大変ですね」
と爽やかに笑った。
「結婚なんてしないよ、面倒くさい」
「そんな風に言う人ほど早く結婚するって、テレビで言っていましたよ。まあ、まだお魚も食べられないお子ちゃまですからね、結婚なんて無理ですね」
私をからかった麗華は、缶ジュースを私に差し出したが、私の手に渡る寸前でポロリと滑り落ちた。
「あら、ごめんなさい」
「大丈夫。君は良いお嫁さんになれそうだ」
私は缶ジュースを拾った後プルドックを開けてゴクリと咽を鳴らし、ジュースと共にハムサンドを飲み込んだ。
「よろしければ、まだありますよ」
彼女はもうひとつの包みを私に手渡した。私はもうひとつの缶ジュースを開けてから、
「ありがとう。折角みんなのために作ってくれたのに、俺が独り占めして申し訳ないな」
と、ジュースを手渡した。
「みなさん、愛情のこもった美味しい物を食べていますよ」
麗華は、自分の徒労など全く気にしていない風にとても綺麗に笑った。彼女の言うとおり、彼らはそれぞれのカップルで二人きりの食事を楽しんでいるのだろう。
他のカップルたちの幸福を嬉しそうに語る麗華の瞳が、なぜだか急に大人びて見えてきた。
私たち二人は食事を終えると、岩場の多い滝のそばから少し川沿いに下り、青い草花が広がる川原をぶらぶらと歩いた。そして、こんもりと柔らかそうに雑草が茂っている自然の絨毯に腰を下ろした。
草の絨毯は、足のくるぶし辺りまで毛足が伸びており、目を凝らすと所々に筑紫が混じっている。二人は川面を見つめながら、遠くに聞こえる滝の音と、時折届いて来る鶯の鳴声、そして頬を優しく撫でる春風の音に心を奪われていた。
肌に柔らかく降り注ぐ春の陽射は私たちの心にまで沁み込んで来る。地表から湧き上がる若草の香りはなぜか切なさを伴って、私が初めて麗華を目の当たりにし、そして見失った日の心細い躍動感を思い起こさせた。
「良い天気だなあ」
今朝から何度も口にした言葉を繰り返した後、春風と共に襲って来る睡魔に抗いながら、つい調子に乗って食べ過ぎた少し前の自分を罵ってみた。
結局、私は自分が持って来た弁当と麗華が作った弁当とを全部食べ尽くした。満腹感と睡魔に苛まれた私は、両脚を後ろに回して上体を支える姿勢から、両腕をそのまま後ろの伸ばして仰向けに倒れた。
今まで上体が耐えていた様々な疲労が背筋から地面に吸い込まれてゆくような感覚に陥る。昨日までの練習疲れが筋肉に溜まっていたのかも知れない。視界には真青な空が広がった。
と、私の横にいる麗華も、私と同じような仕草で腕を後ろに伸ばしてからゆっくりと仰向けに倒れた。
「気持ち良いですね」
青空が次第に細くなってから真暗に閉じられた私の視界に、張りのある新鮮な声が桜の淡い色を送り込んだ。地面に接した背筋が心地良く振動して爽やかな春の香りが漂った。
「春は良いですね」
草花の萌える香りと麗華のややハスキーな声が悲しいほど美しく感じるが、そのわずかに感じる悲しさはいったいどこから来るものだろうかと不思議に感じながらも今の幸福を飲み込んだ。
「綺麗な雲ですね」
少しの静寂が過ぎた後、再び麗華の声が響いた。その魅力的な声は、目を閉じている私の体内で何度も反響した後、胸の内で熱く静かに溶けてゆく。
「雲?普通は、綺麗な青空だとか言わない?こんなに青が広がっているのに」
私はさっき視界に広がった光景を思い浮かべた。
「私は心が清らかですからね、どうしても純白が目についてしまいます」
笑いを含んだ麗華の声は更に張りを増して春風に弾けた。
「青色が目につくのは?」
私は目を閉じたまま彼女の声を待つ。
「さあ、心が冷たいのかも?」
草花が耳をかすめるような含み笑いに心をくすぐられた私は、思わず笑いを零してからゆっくりと目を開いた。青空にぽかりと白い綿雲が浮かんでいる。麗華の表現が適確だった。
「なるほど。俺も心が清らかなようだ」
私は麗華がいる方とは反対方向にゴロリと半回転してうつ伏せになってみた。目の前には、名も知らない草花たちが気の遠くなるほどたくさん生い茂っていて、躍動的な香りを放っている。
この数多の草花たちのそれぞれに人生があるのかなと、春に酔った感性で罪悪感を覚えながらも、黄色い草花を摘み取って私の髪に飾ってみた。そして、右腕を肘枕にして横寝の状態になり、麗華の方を向くと、
「どう、似合う?」
と、目を閉じている麗華に問い掛けた。彼女はやや眠そうな横顔で気だるそうに私の髪飾りを見ると、私と同様に左腕で肘枕を作ってから、
「春ですね、変な人が現れる」
と言って、子供の悪戯を見つけた母親のような柔和な笑顔で私を包み込んだ。私は腕を伸ばしてその髪飾りを彼女の短い髪に差し込んた。とてもさらさらとした髪だ。彼女は右の手で髪飾りの位置を少し直しながら、
「似合いますか?」
と、問い掛けてきた。私は横になったまま、ほんのわずかな時間だけ、黄色い草花がアクセントとなっている麗華の愛らしい素顔に見惚れた後、小首を傾げて見せてから、
「美澄さんは好きな人いるの?」
と、自分でも驚く言葉を口にしてしまった。麗華は、私がしたように少し小首を傾げただけで、ふっと仰向けに戻って再び白い雲に見入ってしまった。
なぜ、ぶしつけな言葉をいきなりぶつけてしまったのか。過去の自分を責めながらも私は麗華の言葉を待っていた。言ってしまったものは仕方ない。謝るにしてもタイミングを逃している。
暖かな春風が二人の間を通り抜けて、私の動揺を少し和らげてくれた。そしてその動揺が収まると、今度は麗華が誰かの名を口にしたらどうしようと言う臆病風に吹かれ始めた。
麗華が好きな人の名前を口にしたら、どんな風に受け止めて、どんな反応をすれば良いのか。そんな愚かな逡巡を続けていると、麗華が何やら呟き始めた。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……」
とても寂しそうな声だった。私は何か言おうとしたが、青空と言うよりは虚空を見つめている麗華の無表情な表情に気が付くと、何やら近寄りがたい畏怖の念まで覚えて何も言葉が出なかった。
漠然とした虚無感に覆われた私は仰向けに寝転がった。と、同時に麗華の数えているものが目に入った。どうして麗華が雲の数を数えているのか理解出来ない。
私の図々しい質問が気に障っただけならまだ良いが、失恋の辛い過去や片思いの誰かを思い出させてしまったとしたら、心底申し訳ないと思った。
もし、麗華がいろいろな想いを吹っ切って今日の企画に参加しているのだとしたら、私はなんて野暮な言葉を吐いてしまったのだろう。私は大きな溜息をついてから静かに目を閉じた。
午後一時を過ぎた頃、六人は丘を下り始めた。みんなが出発準備を整えた頃には、麗華は再び明るさを取り戻していた。
さっき登って来たコースとは反対側のハイキングコースを下ってゆく。山を下ってから湖の横を抜けるコースだが、往路とは違い、山道は狭く急峻で所々に足場の悪い所もあり、女子には少し険しい道だった。
他のカップルたちは、しっかりと手を取りあい、歓声を上げながら喜色満面で険しい山道を楽しんでいる。しばらくの間、私は沈黙を守りながら列の最後尾を静かに歩いていた。
私と麗華の間には、彼女が雲の数を数え終わった後にも何かしらぎこちない壁が出来てしまい、笑顔で会話を交わすものの、その笑顔すら硬い作り笑顔となってしまうことに二人ともが気付いていた。
麗華がどう思っているのかはわからないが、これ以上下手な会話を重ねて、この壁が益々大きなものになることが恐くて、私は沈黙を保っていた。
足場の悪い狭道で麗華が私の前を歩いている。他の連中は手を取り合っている。正直なところ、そんな恥ずかしい真似は自分には出来ないと思っていた。
しかし、足の掛け場が少ない岩場の前で躊躇している麗華の後姿を目にすると、反射的に身体が動いてしまった。私が先に岩場に飛び上がってから彼女に手を差し延べる。
「すみません、ありがとう」
少し微笑んでから麗華は私の腕に身体を預けてきた。彼女の身体は思ったよりも軽かった。そして暖かな手は驚くほど小さかった。
私は改めて麗華に新鮮な愛らしさを感じて、もしこの小さな手を放してしまうと、彼女がここに取り残されてしまいそうで、悲しい思いをさせてしまいそうで、強く握りしめた麗華の手を私は離すことが出来なかった。
「山桜が咲いている」
麗華がひとり言のように言の葉を零した。彼女も何とか自然に振舞おうとしているようだ。私は気の利いた返事もできず、かと言って面白い話題を持ち出すこともできず、沈黙を埋めるために口笛を吹いた。
すると、驚いたことに麗華が口笛に合わせて歌を口ずさみ始めた。そしていつの間にか一緒に歌っていた。一オクターブの音階差が綺麗に調和して、頭を覆う雑木林の間に吸い込まれていく。
何曲か一緒に歌っているうち、他の連中までも歌い始め、麓に下りるまで全員で歌い続けていた。
「わあ、綺麗!」
山道を覆う雑木林が絶えて、湖を上から見渡せる展望ポイントで女子たちが一斉に歓声を上げた。その景観を目に焼き付けた後、六人は湖の畔まで下りた。
湖の周囲には、満開を迎えた桜の花びらや山つつじの蕾が、その美しさと甘美な香りを巧みに織り交ぜて、湖面にまでその華やかな姿を映し出している。
湖の対岸は、湖面の細かな反射のために眩しく輝いて見え、まるで蜃気楼に浮かぶ幻影のように虚ろに見えた。
ここでも自由行動となり、私と麗華はボートを借りて湖に出た。 緑が生い茂る山々から鴬の鳴き声が絶えることなく届いて来る。その鳴き声は、周囲の山肌にも湖面にも木霊して、私には何羽もの鶯がいるように感じられた。
湖の中央辺りで私はボートを泊めた。麗華は先ほどから湖底を見ようとしているのか、ボートから少し身を乗り出して目を凝らしているが、底が見えるほど透明度は高くない。
空は相変わらず、吸い込まれてしまいそうなほどに澄んだ青色を呈している。麗華が好きな純白の綿雲がゆっくりと形を変えながら流れてゆく。
微風に撫でられて起きる小波が、ボートに当たっては砕け散る音を奏でて、その単調な繰り返しが私を長閑な眠気へと誘ってゆくが、その眠気を覚ますように雉の声が鋭く響く。
私はすっかり春に酔ってしまった。麗華が左手を伸ばして湖水に触れている仕草が夢の中の出来事のように映り、この現実が実は夢ではないのだろうかと疑ってみたりした。
「冷たい」
ひと言零した後、麗華はしばらく湖水に手を遊ばせたままで黙している。そんな彼女の幼い表情を見つめていると、何やら胸の奥が熱くなるような、悲しくなるような、今までに体験したことのない不思議な感覚に包まれた。いや、はっきりと心惹かれる思いを実感していた。
体育館で初めて麗華の声を聞き、小柄で愛らしい容姿を見た瞬間から心の奥深くに芽生えていたもの、それが何なのか、今はっきりと現実のものとして自覚出来た。私は麗華に恋心を抱き始めている。
湖面を覗き込み、時折手を伸ばしてはすぐに引っ込める。麗華の瞳には今何が映っているのだろうか。私は幼げな彼女の瞳を見つめつつ、自分の胸の奥をも見つめてみた。
麗華に恋していることを自覚してしまった今、その想いを伝えることなく悶々と生活することは考えられない。だからと言って、単純に想いを伝えて傷心するのも怖い。それが正直な今の気持ちだった。
私は、今ならまだ間に合うと考えた。今なら恋心を沈めることができるかも知れない。急に麗華と距離が縮まったために舞上がっているだけかも知れない。だから、ここで平静を取り戻し、客観的に彼女を見つめる努力をしてみた。
「ここでボートが沈んだら、一緒に沈んでしまうでしょうね?」
恐ろしいことを口にしている割に、麗華は柔らかな笑顔を湖面に向けている。だが、湖面の輝きを受けている瞳には、先ほど草むらで雲を数えていた時の暗い影が潜んでいた。私は彼女が再び遠い所へ行ってしまうのが嫌で、
「人間はね、すぐには沈まないよ」
と明るく茶化して、麗華が暗雲を払いのけてくれることを期待した。
「嘘、すぐに沈みますよ。自信をもって言えます」
彼女が目元に笑みを湛えてくれたので安堵した。
「沈み始めてたらね、慌てずに大きく息を吸って全身の力を抜いてだらりとしていたら浮いてくる」
「へえ、そうなんですか」
存外、真面目顔で感心している。
「もしかして、泳げないの?」
「失礼な。泳げますよ。息継ぎが出来ないだけです」
彼女が明るく笑う。
「じゃあ、君は浮いているだけで良い。俺が岸まで引っ張ってあげるから」
「イルカみたいに?」
彼女が急に身を乗り出してくる。
「え?」
私には、なぜイルカなのかわからない。
「私、イルカにつかまって泳いでみたいの」
麗華の瞳が明るく輝いている。私は水族館などのイルカショーで良く見る光景を思い浮かべて、
「それは泳ぐとは言わない」
と言って彼女を笑顔で見つめた。
「じゃあ、イルカに乗ります。イルカに乗った少女!」
麗華がケラケラと大きく笑った声が青空に抜けて行くと、山肌に流れた鴬の声と、湖面に跳ねた鯉の水音がタイミング良く連なって、二人の心が自然の中で融和した。
そんな心の融和に胸を熱くした私は、春日を浴びて一層愛らしく輝く麗華の笑顔を見つめながら、恋心を冷却する努力をしていた自分の臆病さに恥じ入っていた。
「そろそろ休もう!」
長閑な静寂の中で、先頭を走る河口が振り返って大声を出した。
「賛成」
回想に耽っていた私は、河口の声にこっそり驚きながら周囲をキョロキョロと見渡して休憩場所を探した。
「あそこの公園にしよう」
田山が小さな児童公園を指で示す。三人は、公園にある水道の蛇口を捻って顔をパシャパシャと洗うと、トレーナを脱いでTシャツ姿になった。
それぞれが屈伸をしたり腕を回したり、軽く身体をほぐしてから各自が思い思いにベンチやすべり台に横たわる。後一時間程で目的地に付くはずだ。陽が高くなるにつれ、春と言うよりは初夏を思わせる気温になっていた。
私は水分補給をしてからベンチに寝そべって空を眺めた。抜けるような青さはあの時の空と同じだ。目を閉じて心地良い疲労感に身を任せていると、再び回想の世界へと誘われていった。
新学期が始まった頃の私は、活気と希望に満ちた日々を送っていた。学年がひとつ上がり、私は三年生、麗華は二年生となった。そして幸いなことに、私と麗華の新学年の教室は、階段のスペースを挟んで隣り合っており、彼女と顔を会わす機会も多くなった。
毎日学校へ行くことが楽しくて仕方なかった。勉強は嫌いだったが、麗華に会うためと、部活動をするために通っているようなものだった。
ある朝、私がぼんやりと歩いて登校していると、
「おはようございます!」
突然、爽やかな声を振りまいて麗華が小走りに近寄って来た。
「ああ、おはよう」
私は動揺を隠すようにわざと静かな口調で答えた。私たちは肩を並べて歩く。途中、教師に出会うと少々照れ臭い思いをしたが、麗華は何の躊躇いもなく大声で清々しさを振りまいていた。
やがて、時々二人は一緒に登校するようになり、部活の後二人で下校することも珍しくなくなった。
一緒に登校する際は、家から少し離れた所にあるお寺の門前で待ち合わせる。それから二人で川に架かった橋を渡るのだが、なぜだかいつも麗華は橋を小走りで渡った。時には二人で競争することもあった。
休憩時間は勿論、掃除の時間であろうと何であろうと、授業と部活動以外の時間は、何かと理由をつけては寸暇を惜しんで一緒に過ごそうとした。
いち日がとても短く感じられ、今までに経験したことのない速度で毎日が走り去り、ふと気が付くと、いつの間にか衣替えの季節になっていた。
麗華には白い制服が実によく似合う。ただでさえ眩いくらいに明るい笑顔なのに、淀みのない純白の制服に爽やかな表情が実によく映えて、益々清潔な雰囲気を放つようになった。
夏も本番となり、そろそろ夏休みの話題が出始める頃、私たちの町では夏祭りが催される。どこの地方にもある小さな氏神祭りだが、みんな楽しみにしていた。そして、中高生の間では誰と一緒に行くのかと言うことが話題の中心になるのはどこでも同じだ。
私も麗華を誘いたかったが、春休みに出会ってから急速に二人の仲が、いや、私の気持ちが今まで経験したことのない域までのめり込んでいることにいささか不安を感じ始めていた。
自分ひとりで恋心を抱いて突っ走り、最終的に受け入れられなくなる状況が怖かったし、逆に、いつしか自分が冷静になった時、彼女に幻滅するような事態が起きるのも悲しかった。
その上、私は元来雑踏が苦手で、祭りにしても幼い頃には行ったものの、露店から放たれる色んな誘惑に負ける度親の冷たい言葉で却下されて、楽しいと感じた記憶はなかった。
私が麗華を誘うべきか躊躇しているところへ、逆に麗華から誘いがあった。単純なもので、誘われてみるとそれまでの戸惑いなどは瞬殺され、二つ返事で了承した。
祭りの当日、午後七時頃にいつもの寺門前で落ち合った。二人で登校する時に待ち合わせる場所だ。少し遅れてやって来た麗華を見た私は、心臓がドキリと疼いた後、百メートルを全力疾走したほどの鼓動と息苦しさを覚えた。
麗華がいつも以上に可愛いかった。淡いピンク地の浴衣に明るい黄色の帯をしてゆっくりと歩み寄って来る。その間、私は笑顔を浮かべる余裕もなく茫然として見惚れていた。
麗華がそばに寄って軽く会釈をすると、薄く化粧をして自然色に近い口紅を引いていることに気づいた。本当に麗華なのかと、いつもと違う大人びた雰囲気に圧倒された私は“可愛い”のひと言さえ口に出すことができず、
「こ、こんばんわ」
と口籠るのが精一杯だった。
麗華も心持ち羞恥を浮かべ、少し上気した頬を団扇で隠すようにして、やや潤んだ瞳で細く微笑んだ。そして紅い鼻緒のついた黒い下駄が、彼女の背丈をほんの少し高くしていた。
私も藍色の浴衣に壊手をして、慣れない所作で夏の夕暮れ空に快い下駄の音を響かせて歩き始めた。
辺りは薄紫色に染まり始めており、神社に近づくにつれ、あちらこちらから下駄の音が響き渡った。麗華は両方の掌で団扇をぐるりぐるりと静かに回しながら、時折私の顔を見上げて笑った。
そんな笑顔を受けて私は幸福感に満たされた。幸福過ぎて漠然とした不安を感じるほどだ。ひとりになった時にはあれこれと心を迷わせているのに、こうして一緒にいると幸せを実感している自分が可笑しくて、紅い陽の滲んだ夕空をふいと見上げてみた。
神社への参道を中心にして露天が境内まで続いている。町じゅうから人々が集まって来て、若者たちの歓声や下駄の音が天に抜けてゆくような活気が渦巻いている。
私たちは露店の長い列に沿って歩く。鳥居に辿り着くまでにかなりの露店が並んでいる。
「あ、綿菓子!おいしそう!」
麗華がひとりではしゃいでいる。なぜか緊張を覚えている私は軽く笑うだけで、返す言葉を見つけられずにいた。それからも色々な露店を覗きながら麗華が嬉しそうに言葉を投げ掛けて来たが、私は気の利いた言葉が思い浮かばずに、ただ笑顔を返したり、短い言葉を返したり、頷いたりしていた。
「金魚すくいは得意ですか?」
ようやく外鳥居を潜り抜けた二人は石畳の参道に下駄の音が高く響くのを快く感じながら歩いている。
「さあ、しばらくやってないから」
こんなにも可憐な少女と二人で祭りを歩く初めての体験に、私は平静ではいられなかった。通り過ぎる人たちがみんな麗華を見てから私を見比べてゆく。そんな過剰な意識が芽生えるほど動揺していた。
「みんな楽しそうですね」
麗華が静かに言葉を吐いた。
「そうだね」
自分の発した乾燥した声に、そして何の感情も含んでいない口調に自分で驚いてしまった。
心の緊張を解すように夕風に涼み、同時に幸福感を味わっていた私は、石畳に響く下駄の音と同様に、祭りの中に渦巻く数々の響きのひとつとして麗華の言葉を捉えてしまっていた。
先ほどの言葉だけでなく彼女と交わした今夜の言葉はすべて、どこか宙に浮いた感じで祭りの空気にすぐに吸い込まれてしまう。また、言葉を現実のものとして捉えられないだけでなく、身体全体が心もとなく浮いている感じで、周囲の景色すら幻想のように感じられるほど動揺していた。
その結果、適切な言葉を選ぶ余裕もなく、口にした下手な言葉は会話を弾ませることはできず、動揺の中で焦りまで覚えた私は中枢反射的に無味乾燥な言葉を発してしまった。
「内海さんはお祭りが嫌いですか?」
先ほどまでの愛らしい笑顔に陰りを宿しながら麗華が私を見つめた。普段ならこの言葉で異常を察するはずだが、この日の私は平静を失っていた。
「別に嫌いじゃないよ」
今度は誠意を込めて言った。乾燥した語気にならないように思いを込めた。後から思うと無粋な返答だったが、決して悪気はなかった。私にすれば、麗華と一緒であれば祭りでも買物でも何でも良かった。それが本心だった。
いつもより少し大人びた淡い色気に心乱されながら何とか自然に振舞う努力をしたものの、空回りに空回りを重ねていた私には自分の本心を上手く伝える余裕はなかった。
麗華がどう受取ったのか、気にすればするほど私は動揺し、微妙な沈黙だけが流れた。そうして、今の自分が不安定であることを正直に伝えるしかないと思い直し、言葉選びに全神経を集中していると、
「帰りましょうか……」
突然麗華が立止まった。嗚咽を押し殺したような声だった。驚いた私が咄嗟に彼女の瞳へ視線を走らせると、一途に私を見つめる彼女の瞳が戸惑いの色を浮かべながら少し潤んでいた。
動揺と焦燥の只中にいる私には、彼女の挙動が全く理解できずにその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「無理なお誘いをしてすみませんでした。内海さんがお祭りを好きじゃないとは知らなかったものですから……」
視線を落とした麗華がそのまま小走りに去ってゆく。彼女が踵を返した瞬間、涙が落ちたように映った。浴衣の袖の模様がひらりとはためいて涙の落ちた軌跡を拭ったような光景がとても美しく記憶された。
そんな幻影に惑わされながら小柄で細身の後姿が遠ざかってゆく風景を心に投影した私は、漸く麗華の心の痛みと自分の愚かさに気づいた。
私は反射的に麗華を追い掛けて腕を捕まえる。そして強引に露店の間を抜け路地に引き込んでからひたすら謝った。
私と二人で祭りを歩くために入念に着飾り、薄化粧までしてくれたのに、美しさを褒めるどころか無愛想な会話しかできない自分が腹立たしかった。
「なにも私、怒ってなんかいません……」
麗華は私の腕から逃れようとしたが私は離さない。そして何度も謝罪した。しかし、その謝罪は麗華を納得させるような言葉ではなく、ただ反射的にごめんなさいを繰り返しているだけだった。
「内海さんが無理をしてつき合ってくださっているのに、何も知らずに有頂天になっていた自分が恥ずかしいです!」
やや強い口調できっぱりと言い放った麗華の言葉には何の含みもなかった。本当に自分を恥じている。そんな謙虚な彼女と押し問答していると、益々自分の無作法が腹立たしくなり、何とか全てをやり直したくて自分でも驚く言葉を吐いてしまった。
「祭りは嫌いでも君は好きだ!」
そんな言葉が路地に響いた瞬間、二人は見つめ合ったまま無言で立尽くした。言葉を受けた麗華は勿論のこと、言葉を発した私ですらなぜこんな状況になっているのか解せずに固まっていた。
麗華は涙に潤んだ瞳を静かに伏せた後、身動きできないでいる。私は羞恥心のために居ても立ってもいられず、その場から逃げるようにして数歩歩んだ。だが、麗華はまだ動揺が静まらないのか、その場に踏み留まったまま動かない。
「ごめん。もう、一緒に歩いてくれないよね?」
私は恥ずかしさのためにこの場から逃げたい気持ちと、今、ここで麗華とやり直せないと二度と会えなくなるような危機感を同時に感じながら彼女の瞳をじっと見つめた。
「だって、下駄が脱げてしまって……。歩けないです」
ちょっと甘えるような笑顔を浮かべる麗華の眼はまだ真赤だ。彼女の足元を見ると片足で立っている。周りを見渡すと、路地の曲がり角に子供が履くような小さな下駄が裏返っていた。
「明日は雨か……」
私は麗華の足元に拾ってきた下駄を置いた。
「ありがとう」
麗華は俯いたまま私の腕につかまり下駄を履き直すと、そっと私の手を握った。私も柔らかく握り返して再び祭りの喧騒へと溶け込んで行った。
二人は時々露店を覗き込みながらゆっくりと歩いた。不思議なことに、私の動揺はすっかり収まっていつもと同じように振舞えるようになっていた。
彼女も何事も無かったかのように、二人は横道に逸れずに真直ぐ参道を歩いて来たかのように自然な笑顔に戻っていた。そして彼女は露店を覗く度に“綺麗”とか“可愛い”とか、感嘆の声を洩らしている。
私は麗華のそばに立ったまま彼女の頭越しにチラリと露店の商品を見るが、大して興味を惹くものはない。しかし、あまり無関心でいるとまたさっきのように彼女が責任を感じてしまうから、適当に相槌を打ちながら微笑んでいた。
麗華は綿菓子を買うと嬉しそうに目を細くして、小さな口で綿を舐めながら歩いた。私はその綿菓子を見て、あの春の日にポカリと青空に浮かんでいた綿雲を連想した。
祭りには浴衣と下駄の音と露店、それに浴衣姿の少女が綿菓子を持つ姿が必須アイテムだと改めて感じながら、麗華から漂って来る幼い色香にしびれて夜空を見上げた。
私たちは人々の流れに従って川土手の方へ向かった。いつも通学で渡っている橋よりも随分上流の方だ。間もなく打ち上げ花火が始まる。
川堤への登り口にひなびた駄菓子屋があって、酒やら、かき氷やら、つまみの類が店の表に無雑作に置いてある。
私はビールを買い、彼女にイチゴのかき氷を買った。そして、人々がたくさん集まっている橋の付近から少し上流に歩いて、人気の少ない場所にある木製ベンチに座った。
「ビールなんか飲んで大丈夫?まだ中学生ですよ」
美味そうに咽を鳴らした私の仕草を見て、呆れたように麗華が尋ねた。
「時々、親父の晩酌に付き合っているから大丈夫。今夜はお祭りだから大目に見てくれ」
「美味しいの?」
不思議そうに私を見つめる麗華の幼さがこの上なく可愛い。
「炭酸飲料みたいに咽越しが良いけど甘くない。飲んだ後に少しフワーとなって気持ち良いよ。アッ」
麗華の手元からかき氷が器ごと落ちそうになり、慌てて手を伸ばした私の手の平にうまく乗った。
「さすがバスケ部。素早い運動神経ですね」
綺麗に笑った麗華が器を持ち直してスプーンを氷の山に刺した時、ドーンと言う爆発音が腹に響き、思わず見上げた二人の視界に火の花が開いた。
「わあ、綺麗!」
麗華はかき氷を口に運び掛けたままで手を止めて見入っている。足元ではコオロギが鳴いていた。私もしばらくはぼんやりと花が散る様子を見つめていたが、ものの五分もすると飽きてしまった。
時々麗華の横顔を盗み見たが、あどけない表情は一心に夜空を見上げ一向に飽きた風もない。仕方なく私も再び夜空を見上げて、麗華は路地で放った私の言葉をどんな風に受取っているのだろうかと臆病風に悩まされ始めた。
自分の発した言葉に後悔さえ覚え始めている。もしかすると自分の魂から出た言葉ではなくて、麗華をつなぎ止めたいが故に出た言葉ではなかったのだろうか。そんな疑念までもが花咲く夜空のキャンパスから降り注いできた。
「私、去年の暮れまでつき合っていた人がいました」
柳の枝のような火が夜空に流れて、その柳の枝から落ちた雫のような言葉だった。私は無言で麗華の横顔を見つめながら、自分の全身が急速に硬直してゆくのを感じた。
「その人とは去年の暮れに喧嘩別れしました」
再び柳の枝が流れ落ちる。こんなにも幻想的な空間に流れる言葉は、悲しくなるほど世俗的だった。
「その彼から連絡があって、もう一度やり直したいって……」
いつもは恥ずかしくなるほど私の目を見つめて話す麗華が、花咲く夜空を見上げたままでぽつぽつと語っている。そして、そんな彼女の横顔を呆然自失の状態で見つめる私の脳裏には、春の陽射しを身体いっぱいに受けながら、青い草の上で仰向けになっている少女が浮かび上がった。
そして少女は謎めいた表情で白い雲を数えている。甘い記憶の片隅に浮かんだ麗華の横顔が、今目の前にある蝋人形のように無機質な横顔と重なった。
「君の気持ちはどうなの?」
私は狼狽の中で冷静を装って尋ねる。心なしか声が震えていた。
「どうでしょうか……」
ひときわ大きな花輪が夜空に開いた。その花火が消えていく瞬間に、氷の雫のような冷たい粒が私の背筋を伝い下りていく。
もしかすると、麗華は別れた彼氏のことをずっと心に留めていたのだろうか。桜の花吹雪の中で出会ってからつい数十秒前までの二人の幸福な時間は偽物だったのだろうか。
それとも、とっくに忘れていたはずの彼への未練が、急な申し入れに刺激されて思い起こされてしまっただけなのだろうか。できれば後者であって欲しいと願いつつも、何とか平静を保った。
「自分の気持ちが良くわからないか……。誰にでもあることだ」
私は今の自分を棚に上げて微笑んだ。自分の気持ちがわからないのは正に今の私だ。麗華のことを好きになればなるほど臆病になってゆく。その臆病風は、本当は麗華のことを好きではないのでは?と私の鼓膜にささやく。
そのくせ、麗華が離れようとすると必死に止めようとする。そして必死で彼女を繋ぎ止めた言葉でさえ、それが本心である自信がない。いったい、自分の本心はどこにあるのか。完全に見失っているのは私の方だった。
おまけに、私が麗華のことを想っているのと同程度に、彼女もまた私のことを想ってくれているものと勝手に思い込んでいた。
ところが、私が麗華のことを好きだと叫んでからまだ花火も終わらないうちに心に潜んだ未練を明かすとは、いかに鈍感な私でも麗華の真意、本音は読み取ることができる。
慎重に接していたつもりが、実は勝手に恋人気分に浸っていた自分が哀れで情けなく、浴衣姿の愛らしい麗華との甘酸っぱい想い出が、花火が数発開花する間に薄っぺらな紙芝居となって私の記憶に虚しい景色が残された。
「自分の正直な気持ちを捜すしかないのかな。彼のことがまだ好きだとわかったらやり直してみるのも良い。それでまた失敗したら別れたら良い」
路地で吐露した私の言葉など、まるで祭りの喧騒に流された戯言のように忘れ去られているこの空間を不思議に思いながらも、私は自分に言い聞かせるように言葉を吐いた。
もしかすると麗華は、祭りから去ろうとする彼女の腕をつかんで強引に引き留めたように、ここでも未練に走ろうとする彼女を止めて欲しいと願っているのだろうか。
そんな甘い考えも浮かんできたが私には勇気がなかった。揺れ動いている麗華への想いを刹那的にぶつけて彼女の未練を消し去ったところで、必ず誰かが傷つく。いや、きっと誰もが傷つく。
「わかりました。ゆっくり考えてみます」
麗華はいつもの明るさを取り戻して、闇の中でほのぼのと浮かび上がるような笑顔を灯した。だが、その笑顔は勇気のない私を蔑む冷笑のようにも感じられた。
そうしてこの瞬間、私は全てが終わったと実感した。彼女の浮かべた冷たい笑顔は、覚悟を決めた女の迫力を含んでいたからだ。
ここでもっと心を開いて麗華と素直に接していれば、この後もっと幸福な時間を過ごせたかも知れない。だが、私は恋愛自体が苦手で、苦手だから思いどおりに進まない。思いどおりにならないとすぐに背を向けてしまう私の悪癖出てしまった。恋愛などに囚われている自分が腹立たしくなってしまったのだ。
「やっぱりこうなるのか」
私は小声で呟いた後大きく伸びをした。しかし、それは麗華を失った喪失感だけではなく、落ち着く所に落ち着いたと言う自暴自棄的な安堵感も同居していた。
私はさっと立上がってから麗華を見下ろし、今後は今までのような私に不似合いな距離ではなく、友人としての距離感を保とうと言う思いを込めて、
「そろそろ帰ろうか」
と、今夜の出来事全てを水に流してしまうように明るい声を掛けた。
「ええ」
麗華がゆっくり立上がった刹那、夜空がパッと明るくなるや大きな歓声が湧き上がり最後の連発大花火が次々と炸裂した。
やがて盛大な花火も消えてゆき、花の散った星空には、祭りの香りの中で浴衣姿の麗華に向かって想いを叫んだ幻想的な映像が映し出され、最後を告げる大花火と共に刹那の美しさを残して消え去ってしまった。
よろしければ次もお読みください。