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【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜

鉄の女騎士と、魔封岩塩の衝撃。〜天使の露草が渇いた喉を潤す時、不当解雇の理不尽を脂で焼き切る〜

掲載日:2026/04/04

本作をお目に留めていただき、ありがとうございます。


戦場で全てを捧げた女騎士が、理不尽な社会に突き落とされ、一皿のとんかつで「魂」を取り戻す物語です。

 

 「三種の神器」と呼ばれる極上の食材と、店主・揚太郎のチート級の職人技。

 そして、前作から引き続き登場する「あの令嬢」との邂逅をお楽しみください。


※空腹時の閲覧にはご注意ください。

 指先の感覚が、ない。

 革手袋の奥で、爪の先から順番に、冷たさが人間をやめていく。雨が首筋から鎧の隙間に滑り込み、背骨を伝って腰まで落ちていった。痛みですらない。ただ、冷たい。


 腹が鳴った。

 我ながら間の抜けた音だと思った。絶望の最中に空腹を訴える自分の身体が、ひどく場違いで——そして少しだけ、可笑しかった。

 最後にまともなものを食べたのはいつだ。戦場では凍りついた乾パンを泥水で流し込むだけだった。味などしない。喉を焼く乾燥と不快感だけが、自分が生きている唯一の証だった。


 部下を救った。

 その代償が、これだ。

 軍部規律違反の烙印を押され、剣も階級章も取り上げられ、退職金代わりに投げ渡された血塗れの銀貨三枚。革手袋の中で、その三枚だけが妙にはっきりとした重みを主張していた。十七年分のキャリアの値段が、掌の中で雨に濡れている。


 カトリーヌは足を止めず、ただ歩き続けた。

 どこへ向かうかは、考えていなかった。膝が動いているから歩いている、それだけだった。路地を曲がり、また曲がった。喧騒が遠くなり、雨音だけが大きくなる。石畳の継ぎ目から黒い水が滲み、靴底を濡らした。戦場には、少なくとも向かうべき敵がいた。だがここにあるのは、ただの雨だ。誰も見ていない雨が、ただ降り続けている。

 どこをどう歩いたのか、もうわからなかった。わかる必要も、なかった。

 その時、雨の匂いに混じって、何かが来た。


 脂だ。

 肉を揚げる——そういう種類の、腹の底を直接鷲掴みにしてくる匂いだ。カトリーヌの足が、意思とは無関係に止まった。鼻が、そちらだと言っている。十七年の軍人生活で培った勘とは別の、もっと原始的な何かが、路地の奥を指していた。

 市場の片隅。古びた暖簾が、雨風に揺れていた。


 くぐった。

 油の香りに満ちた店内は、外の雨音が遠くなるほど静かだった。カウンターの奥で、一人の男が巨大な豚ロースと向き合っている。細身で、どこか場違いなほど所作が洗練されている。この城塞都市の住人とは明らかに違う空気を纏った、二十代後半に見える男だ。だがその目つきだけが——何かをずっと追い求めてきた者の、研ぎ澄まされた鋭さを持っていた。どんな将軍の背中にも、あんな目はなかった。

 カトリーヌが黙って銀貨三枚を置くと、その男は振り向きもせずに言った。


「......騎士様、うちは『とんかつ』しかねえぞ。あんたのその冷え切ったツラを、脂で焼き切っちまっていいか?」


 返事の代わりに、カトリーヌはカウンター席に腰を下ろした。

 男が肉を叩く。

 ドスン、ドスン。

 鈍く、重い音が店内に響くたびに、カトリーヌの止まっていた時間が少しずつ動き出す気がした。肉が丁寧に整えられ、粉をまとい、衣を纏っていく。その一連の所作に、彼女はただ黙って見入った。

 そして、肉が油の海へと静かに投じられた。


 ジュクジュク......。ぶくぶく......。


 低く、穏やかな音。温度が肉の内側へと、じわじわと染み込んでいく音だ。

 その音を聞いた瞬間、カトリーヌの意識は、ほんの一瞬だけ遠い場所へ飛んだ。

 戦のない頃の故郷。見渡す限りの草原。黄金色の麦穂が風に揺れて、土の匂いと焼きたてのパンの香りが混ざり合う、あの縁側の午後。あの場所には誰もが明日を信じられる、確かな熱があった。そしてあの頃の自分には、守るべき場所があった。


 だが、カウンターの奥の男が火を強めた。


 バチバチバチッ! ジュワァァァアアアッ!!


 空気が震えた。咆哮を上げる油の熱気が、店内の温度を一気に塗り替える。その熱の圧力が、カトリーヌの胸の奥に眠っていた別の記憶を引き出した。

 降り注ぐ矢、押し寄せる蛮族、血の匂いと鉄の軋み——その全てを前にして、最後まで自分の隣に立ち続けた部下たちの眼の光。力尽きかけながらも、誰一人として武器を手放さなかった。あの眼は、自分を信じていた。あの眼に、自分は応えた。

 それだけは、誰にも奪えない。

 やがて、激しい音が次第に変わっていく。


 ピチ......ピチピチ......プツプツ......。


 高く、細い音。水分を失い、身を縮める肉が、最後の抵抗のように細い声を漏らし始めた。その音が途切れ途切れになるにつれ、カトリーヌの意識は深く暗い場所へと沈んでいく。だが沈みながら、胸の奥でまだ何かが燃えていた。消えていない。

 不意に、男が肉を油から引き上げた。


 ——しん、と。

 店内の音が、完全に消えた。

 生と死の境界で凍りついたような静寂が、永遠に続くかと思われた、その刹那。


 ザクッッ!!


 鋭利な音が、静寂を真っ二つに切り裂いた。

 閉じ込められていた蒸気が爆発し、断面から黄金の肉汁が濁流となって溢れ出す。


「......まずは、これだ。魔封岩塩。あんたの誇りを、呼び戻してやる」


 男の手から振られたのは、深海のような青白い輝きを放つ結晶だった。肉の断面に触れた瞬間、岩塩は熱に溶け込み、肉の深淵にある旨味を強制的に引きずり出していく。

 その傍らには、透き通るほど細く刻まれた、瑞々しい天使の露草が山をなしていた。

 カトリーヌは震える指で肉を掴み、口へと放り込んだ。


 ザクゥッ......。


 衣が弾けた。

 その瞬間、閉じ込められていた脂の甘みが一気に溢れ出し、泥水しか知らぬ喉を焼き尽くした。熱が食道を落ち、胃の底に届いた瞬間——身体の芯で、何かが灯った。魔封岩塩が舌の奥まで染み渡り、眠っていた味覚を極限まで研ぎ澄ませる。脂が舌の上に広がるたびに、全身の血が沸騰していく。

 熱い。あまりにも熱い生命の奔流に翻弄されながら、彼女は添えられた天使の露草を口に含んだ。


 シャク......ッ。


 口腔内に、冷涼な旋風が吹き抜けた。

 圧倒的な水分。春の朝露をそのまま閉じ込めたような清冽な甘みが、脂の熱狂を優しく包み込み、戦場で乾ききっていた喉を潤していく。肉の重厚な熱と、露草の清らかな冷が、彼女の魂を現世へと繋ぎ止めた。


「......美味い......っ!!」


 カトリーヌの目から、一筋の熱い雫が零れ落ちた。

 胃の底から力が湧き上がり、折れかけていた背骨を内側から支えた。


「......負けっぱなしで、終われるか。私は、まだ戦える」


 男は無造作に布巾で手を拭き、不敵に鼻で笑った。


「あんたの胃袋には、もう黄金の鎧が詰まってる。あとはその重みで、前へ進むだけだ」


「......あら。その不当解雇、私が有給休暇のついでに、賠償請求の事務処理を代行して差し上げましょうか?」


 隣を見れば、天使の露草に魔界黄金辛子をたっぷりと添えて優雅に平らげるシルヴィアが座っていた。


「......貴殿は、いつからそこに」


「最初から、ですわ。騎士様が暖簾をくぐった瞬間から」


 シルヴィアは口元に微笑みを浮かべたまま、静かに言った。

「さて、カトリーヌ様。その腐った軍部、まとめて叩き潰して差し上げますわよ」

 胃の底の熱が、まだそこにある。


「......頼む」

 それだけ言って、彼女は皿に滲んだ肉汁を、一滴残らず飲み干した。


(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 戦い疲れた騎士の心を救うのは、理屈ではなく「黄金の脂」と「天使の露草」でした。

 カトリーヌの逆襲は、ここから始まります。


本作は、とんかつ屋『揚太郎』を舞台にした連作短編シリーズ【異世界定食】の一編です。

 

 隣の席で不敵に笑っていた事務処理令嬢シルヴィアが、どのようにして「最強の味方」になったのか——。

 気になった方は、ぜひ彼女の物語もあわせてお楽しみください!


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「サクサク」な短編の次は、じっくりと「理」を味わう長編はいかがでしょうか?


面白いと思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価【★★★★★】やブクマをいただけると、執筆の事務処理速度が3倍になります!

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