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朔太郎の、重なる黄色  作者: ジェミラン


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2/2

後編

最後の一巻き。朔太郎は、全神経を右手の菜箸と、左手のスナップに集中させた。

エッグパンをわずかに傾け、重力を味方につける。黄金色の絨毯が、すでに形成された断層をそっと抱き締めるように、一回転、二回転。


「……よし」


最後の一巻きが吸い込まれるように収まった瞬間、台所には完璧な沈黙が訪れた。


朔太郎は火を止め、余熱で形を落ち着かせる。

エッグパンの中で誇らしげに鎮座するその塊は、どこか神聖な生き物のようにも見えた。表面に浮かんだ微かな焦げ目が、均一な黄色に奥行きを与えている。

彼はまな板の上に、清潔なキッチンペーパーを敷いた。その上に、重みのある黄金を「コトン」と静かに着地させる。


「ふぅ……」


大きな溜息が、口からこぼれた。

わずかな時間ではあったが、戦場を駆け抜けたような心地よい疲労感があった。

時計の針は六時十五分を指している。

外は少しずつ白み始め、建物の影がコンクリートの地面に、青黒い輪郭を刻み始めていた。


朔太郎は、一番よく研いである包丁を手に取った。


「サクッ……」


刃先が卵の表面を捉え、吸い込まれるように沈んでいく。

一切れ、二切れ。

断面が露わになるたびに、朔太郎は自分の吐息が熱を帯びるのを感じた。


そこには、彼が先ほどまで丁寧に重ねてきた「時間」が、地層のように重なっていた。

気泡の跡はほとんどなく、密度の高い黄色が美しい縞模様を描いている。

中心部はまだ予熱で揺らぎ、ほんのりと出汁が滲んでいる。


「……俺も、少しは成長したってことかな」


不意に、二十代の頃の記憶が蘇る。

入社して三年目。仕事は山積みで、終電で帰宅してはコンビニのパスタを啜るような毎日。

ある夜、どうしても実家の味が恋しくなって、真夜中の二時に卵焼きを焼いたことがあった。

狭いワンルームのキッチン。焦りばかりが先に立って、卵液は半分も固まらないうちに焦げつき、最後には得体の知れない黄色い塊になった。

それをシンクの前で立ったまま、涙と一緒に胃袋へ流し込んだ。


あの頃の自分に見せてやりたい。

今の自分は、これほどまでに静かに、これほどまでに美しく、自分を喜ばせるための料理を作れるようになったのだと。

それは、出世したとか、年収が上がったとか、そういう外側の評価とは無関係な、自分自身との和解に近い感覚だった。


朔太郎は、棚から使い込まれた木製の弁当箱を取り出した。

漆の剥げかけた縁が、彼の日常の積み重ねを物語っている。

仕切りのないその箱の中に、まずは炊き立ての白飯を丁寧に敷き詰める。

その横に、先ほど切り分けた卵焼きを、一切れ、二切れ、三切れ。

向きを揃え、隙間なく、美しく。


「……整ったな」


弁当箱という限られた空間の中に、一つの秩序が生まれる。

昨日の夜、スーパーで買っておいたミニトマトの赤、そして週末に作り置きしておいた小松菜の浸し。

彩りが加わるごとに、四角い木箱は一つの「小宇宙」へと変貌していく。

誰に見せるわけでもない。SNSにアップして「いいね」を稼ぐためのものでもない。

昼休み、戦場のようなデスクで、自分だけが開くことを許された、自分への唯一の手紙。


「ワクワクしない、か」


クライアントのあの言葉を、もう一度反芻してみる。

この弁当箱の中に詰まっているものは、ワクワクするだろうか。

派手さはない。奇をてらった演出もない。

けれど、ここには「熱」がある。

一層ずつ、失敗を包み隠し、形を整え、最後には一つの完成された姿へと導いた執筆のような熱量が。


「もう一度、練り直してみるか」


独り言のトーンが、少しだけ明るくなった。

論理の殻を破るのではなく、論理の層を丁寧に重ねた先に、本当の熱量を宿らせる。

卵を焼く工程の中で得たその確信は、昨夜までの暗雲を、朝日が照らすように少しずつ晴らしていく。


だが、そんな感傷に浸っていられる時間は、そう長くは続かない。


「ピリリリ……、ピリリリ……」


部屋の隅で、スマートフォンのアラームが、無機質な現実を連れて戻ってきた。

それは、穏やかな朝が終わり、喧騒と摩擦の「日常」が始まる合図だった。


朔太郎の表情が、料理人のそれから、組織の歯車の一つである「会社員」のものへと、急速に切り替わっていく。

台所に漂っていた出汁の優しい香りが、にわかに動き出した空気にかき消されようとしていた。


スマートフォンの無機質な電子音が、キッチンの柔らかな静寂を切り裂く。


「……時間か」


朔太郎は、先ほどまでの穏やかな顔を脱ぎ捨て、現実という名の仮面を被り直した。


ここからは、一秒の猶予もないルーティンが始まる。

彼は蛇口を勢いよく捻った。ザーッという激しい水の音が、狭い台所に響き渡る。

先ほどまで卵を大切に包んでいたボウル、菜箸、そしてまだ余熱を持ったエッグパン。それらを洗剤の泡で一気に包み、冷たい水で流していく。

金属がシンクに当たる「カチャカチャ」という音が、先ほどの「カシャカシャ」という心地よいリズムを上書きし、彼を会社員・朔太郎へと引き戻していく。


「おっと、火の元……よし」


濡れた手をタオルで乱暴に拭きながら、ガスの元栓を確認する。

次に、お弁当箱の蓋を閉めた。パチン、という小気味よい音。

彼はその四角い小宇宙を、深い紺色のクロスで包む。端を丁寧に結び、カバンの一番収まりの良い場所へ滑り込ませた。

これが今日、彼が唯一持ち込める「自分の領土」だ。


寝室へ戻り、ネクタイを手に取る。

鏡の中に映る自分は、隈が少しだけ目立ち、昨日の疲れを完全には拭えていない中年男だ。

だが、その瞳の奥には、先ほどの卵焼きの層のように、確かな何かが積み重なっている。

ネクタイを首にかけ、ノットを整える。


「……昨日のメール、返信は会社に着いてからでいい。いや、まずは直接電話を入れるか」


指先がネクタイを締め上げる感触とともに、思考がビジネスの戦術を組み立てていく。


クローゼットからジャケットを引き抜き、袖を通す。

重みのある生地が肩に乗る。それは、守るべきプライドと、負わされた責任の重さだ。


「鍵、財布、名刺入れ、スマホ……」


ポケットを叩きながら確認する。

テレビのニュースキャスターが、どこか遠い国の紛争と、今日の下り坂の天気を無機質に報じている。


「予報は雨か。折り畳み……あった」


玄関へ向かう足取りは、数分前よりもずっと速い。

靴べらを使って、磨き上げられた黒ストレートチップの革靴に足を滑り込ませる。

カカトが収まる「カチッ」という音が、今日の戦闘開始のゴングだった。


ドアノブに手をかけたとき、朔太郎はふと立ち止まった。

振り返ると、まだ換気扇が回り続けている音が微かに聞こえる。

そして、部屋の空気に溶け込んだ、かすかな卵焼きの匂い。

甘く、香ばしく、どこか切ない、あの匂い。


「……行ってきます」


誰に告げるでもないその言葉を、彼は暗い廊下に放った。


「バタン!」


重厚なドアが閉まる音が、朝の廊下に響き渡り、やがて吸い込まれていった。

鍵をかける「ガチャリ」という金属音。

それは、自分だけの聖域に鍵をかけ、不条理な外の世界へ飛び出すための儀式だ。


エレベーターを待つ間、朔太郎はカバンの中のお弁当の感触を、脇腹越しに感じていた。

あの黄金色の層が、そこにある。

クライアントに何を言われようと、後輩がミスをしようと、あの卵焼きは裏切らない。

自分が時間をかけて、失敗を飲み込みながら作り上げた結晶だ。


外に出ると、冷たい空気とともに、通勤客の足音や車の走行音が混じり合った街の騒音が押し寄せてきた。

朔太郎は、ネクタイを少しだけ正し、駅へと続く人の波の中に足を踏み入れる。

彼の背中は、数千、数万といる名もなき会社員の一人にすぎない。

けれど、その胸の内には、自分だけが知っている「完璧な黄金色」が、今日を生き抜くための灯火として静かに燃えていた。


いつか父が笑い飛ばした「男の勢い」はまだ持てないけれど、自分には自分の、層を重ねていく生き方がある。

一歩、また一歩。

アスファルトを踏み締める靴音が、不思議と軽やかだった。

冬の低い太陽が、ビルの隙間から顔を出し、彼の歩む先を淡い黄色に染めていった。

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