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朔太郎の、重なる黄色  作者: ジェミラン


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1/2

前編

午前五時四十五分。

冬の底にあるような、しんとした冷気が寝室のカーテンの隙間から這い寄ってくる。


目覚まし時計が鳴る数分前、脳の端っこが「カチリ」と音を立てて覚醒した。朔太郎は、重い羽毛布団を跳ね除けるようにして身を起こす。独身の男が一人で住むには少し広すぎる二LDKのマンションは、この時間、まるで深海の底に沈んだ沈没船のように静まり返っている。


フローリングに足を下ろすと、突き刺さるような冷たさが脳を直撃した。


「……冷えすぎだろ」


独り言が、白い息となって薄暗いリビングに溶けていく。

リビングのスイッチを入れると、無機質なLEDの光が、整いすぎた——言い換えれば生活感の薄い——部屋をさらけ出した。三十八歳。中堅広告代理店の営業職。独身。それが現在の朔太郎を構成する記号だ。


キッチンへ向かい、まずは換気扇のスイッチを入れる。

「ブォォォォ……」という重い低音が響き始めると、ようやくこの部屋に血が通い出したような気がして、朔太郎はわずかに肩の力を抜いた。


冷蔵庫を開けると、庫内の白い光が朔太郎の顔を青白く照らす。

中には、数種類のドレッシングと、飲みかけの炭酸水、そして扉のポケットに律儀に並んだ十個入りの卵パック。

朔太郎は細く長い指を伸ばし、その中から二つの卵を慎重に取り出した。


「二つ……。いや、今日は三つにするか」


誰に聞かせるでもない呟きとともに、もう一つを追加する。

今日という一日は、昨日の延長線上にありながら、昨日よりも少しだけ険しいものになることが分かっていた。昨晩、クライアントから届いた修正依頼のメール。言葉の端々に漂う「これじゃない」というニュアンス。それを今日、どうにかして「これだ」と思わせる形に整えなければならない。


ステンレスのボウルをシンクから取り出す。「カラン」と軽い音が響く。

卵をボウルの縁に軽くぶつける。


「コン、パカッ」


乾いた音がして、透明な粘り気とともに鮮やかな黄色い球体がボウルへと滑り落ちた。

二つ、三つ。

ボウルの中に、三つの月が浮かんでいるような錯覚に陥る。


菜箸を手に取り、白身を切るようにして混ぜ始める。


「シャカシャカ、シャカシャカ」


ボウルの底を叩く規則正しいリズム。朔太郎はこの音が好きだった。

何者にも邪魔されない、自分だけの時間。

仕事では、自分の意図しないところで言葉がねじ曲がり、感情が削ぎ落とされていく。けれど、このボウルの中の卵液だけは、自分が混ぜた分だけ、自分が望んだ通りの質感に変わっていく。


「親父は、もっと雑だったよな……」


ふと、記憶の蓋が開いた。

小学生の頃、母が盲腸で一週間ほど入院したことがあった。

普段は仕事一筋で、台所のことなど一切関知していなかった父が、慣れない手つきでエプロンを締め、朝食の準備をしていた。

あの時の父の後ろ姿は、今の朔太郎よりもずっと大きく、そしてどこか悲壮感すら漂っていた。


「おい、朔太郎。卵焼きはな、火加減がすべてだぞ」


父はそう言いながら、眉間に深いシワを寄せてフライパンを睨んでいた。

出てきたのは、ところどころが黒く焦げ、形も歪な、到底「黄金色」とは呼べない代物だった。

一口食べると、味付けを間違えたのか、やたらとしょっぱかったのを覚えている。

それでも、父は満足げに胸を張り、「男の料理は勢いだ」なんて笑っていた。


当時の朔太郎は、「お母さんの甘い卵焼きの方がいい」と不満を漏らした気がする。

父は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐに「修行が足りんな」と笑い飛ばした。


今、同じように台所に立っている朔太郎の指先は、父のそれよりもずっと繊細で、知識も技術も上だろう。

けれど、あの時の父のような「勢い」が自分にあるだろうか、と自問する。

失敗を恐れ、焦げることを嫌い、完璧な黄金色を目指して、少しずつ、慎重に火加減を調整する。それは賢明な生き方かもしれないが、どこか息苦しさを伴うものでもあった。


卵液に、ほんの少しの白だしと、控えめな砂糖を加える。

朔太郎の好みは、ほんのりと甘く、けれど出汁の香りが鼻に抜ける上品な味だ。

それは母の味でも、父の味でもない。

この十数年の独身生活の中で、試行錯誤の末にたどり着いた「自分を納得させるための味」だった。


ボウルの中で、卵液はなめらかな一色に染まっていく。

「よし」

独り言とともに、朔太郎はコンロのつまみを回した。

「チチチ、ボッ」

青い炎が、冷え切ったキッチンを静かに、けれど力強く照らし出した。


熱を帯び始めたエッグパン(卵焼き器)の上で、薄く引かれた油がかすかに揺れる。

朔太郎は菜箸の先に少しだけ卵液をつけ、熱した鉄板に落としてみた。

「ジッ……」

微かな、けれど確かな反応。

準備は整った。


これから、この平坦な黄色い液体を、幾重にも重なる「層」へと変えていく作業が始まる。

それは、彼が今日一日を戦い抜くための、静かな儀式の始まりでもあった。



エッグパンから立ち上がる熱気が、朔太郎の頬をかすかに撫でた。


「……いくか」


ボウルに溜まった黄金色の液体を、お玉一杯分、静かに流し込む。


「ジュワッ!」


乾いたキッチンに、弾けるような音が響き渡った。薄く広がった卵液が、熱を帯びて瞬時に白く縁取られていく。


菜箸を器用に動かし、表面に浮き上がった気泡を「ぷつん」と潰す。その一つひとつを潰す作業は、自分の心のささくれを平らにしていく作業に似ている。

手前から奥へ、あるいは奥から手前へ。

一回目に巻く卵は、まだ頼りないほどに細い。形などあってないようなものだ。


「最初は、こんなもんでいいんだよな」


独り言が、換気扇の音に吸い込まれて消える。

一年前、大きなプロジェクトのリーダーを任された時のことを思い出した。

意気揚々と乗り込んだ初日の会議。朔太郎は、自分ならもっとうまくやれる、もっとスマートに、父の代のような泥臭いやり方ではなく、論理と効率で完璧な「黄金色」を描けるはずだと思っていた。


だが、現実は違った。

チームの足並みは揃わず、クライアントの要望は朝令暮順。

綻びを一つ直せば、別の場所が破れる。


「……結局、ボロボロだった」


巻くのに失敗した一巡目の卵のように、あの時の朔太郎の心は無残に形を失っていた。


再び、油を引いたキッチンペーパーで鉄板を拭う。「カサリ」という乾いた音。

二層目の卵液を流し込む。

今度は、最初に作った「芯」を持ち上げるようにして、その下へ新しい卵液を潜り込ませる。


「そう、潜り込ませる。……これが大事なんだ」


組織の中で働くということは、自分の色を押し通すことではなく、相手の色を汲み取り、自分の下へ静かに滑り込ませて、一つの大きな形にしていくことなのだと、今の朔太郎はようやく理解し始めている。

昨日のメール。クライアントの担当者は、苛立っていた。


「朔太郎さん、前回の提案、論理はわかります。でも、ワクワクしないんですよ」


ワクワク。その抽象的で暴力的な言葉に、昨夜までの朔太郎は毒づいていた。

けれど、今こうして卵の層を重ねていると、ふと思う。

自分は、論理という「殻」の中に閉じこもって、中身の温度を忘れていたのではないか。


三層目。

巻くごとに、卵焼きは厚みを増し、重みを増していく。

手首に伝わる、ずっしりとした手応え。

それは、彼が積み重ねてきた失敗の数であり、耐えてきた時間の重さそのものだった。


「シャカシャカ、シャカシャカ」


不意に、別の音が混じった。

かつて、この部屋には別の音が響いていた。

三年前まで一緒に暮らしていた女性。彼女が隣でトーストを焼く音、コーヒーメーカーがコトコトと鳴る音。


「朔の卵焼きは、真面目すぎるんだよね。もっとこう、隙があってもいいのに」


彼女はよく、そう言って笑っていた。

彼女が去った後、このキッチンに残ったのは、完璧なまでの静寂と、さらに洗練された——そして孤独な——朔太郎の調理技術だけだった。


「隙、か」


卵の表面がわずかに波打っている。

わざと、少しだけ焼き色をつけてみた。

父が焼いたような真っ黒な焦げではない。黄金色の中に、わずかに混じる琥珀色のグラデーション。

それは「隙」と呼ぶにはまだ臆病すぎるかもしれないが、朔太郎にとっては大きな変化だった。


湯気が立ち上り、出汁の香りが鼻腔をくすぐる。

甘くて、少しだけしょっぱい、平和な匂い。

この匂いの中にいる時だけは、自分が誰の評価も受けていない、ただの「一人の男」であることを実感できる。


エッグパンの中で、卵焼きが完成に近づいている。

四角いフォルムが整い、表面には艶やかな照りが生まれていた。


「よし……あと一回」


最後の一塗りを残したところで、朔太郎はコンロの火を少しだけ弱めた。

最後の一層は、すべてを包み込む「顔」になる。

慎重に。けれど、臆することなく。

彼は残りの卵液をすべて使い切り、最後の大仕事を成し遂げようとしていた。


その時、リビングに置いてあったスマホが「震えた」。

一瞬、朔太郎の肩がこわばる。

仕事の通知か。それとも。

だが、彼は視線を卵から逸らさなかった。

今、この瞬間だけは、クライアントも、上司も、過去の恋人も、自分を縛るあらゆるものから自由であるべきだ。


「ジュワッ……」


静かな熱狂を帯びた音が、夜明けの台所に満ちていく。

朔太郎の孤独な儀式は、いよいよ最高潮を迎えようとしていた。

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