第四話 雪解けと新しい距離
実家に戻ってから二週間が経過していた。
窓から差し込む日差しは、いつの間にか初夏の鋭さを帯びていたが、私の心は穏やかな春の陽だまりの中にいるようだった。
「紗和子、リンゴありがとう。美味しいわ」
病室のベッドの上で、母がウサギの形に切られたリンゴを頬張りながら微笑んだ。
手術は無事に成功し、経過も順調だ。背骨を固定するボルトの手術は高齢の母にとって負担の大きいものだったが、持ち前の忍耐強さでリハビリにも前向きに取り組んでいる。
「よかった。リハビリの後だから、お腹空いたでしょ」
私は母の背中にクッションを当て直しながら、何気ない会話を楽しんでいた。
これだ。私が求めていたのは、この温かさだった。
誰かに命令されるわけでもなく、理不尽に罵倒されることもない。ただ、大切な人が少しずつ元気になっていく姿を傍で見守ることができる幸せ。
会社は介護休業に入っているため、時間は十分にあり、母のサポートに専念できていた。
ふと、サイドテーブルに置いたスマートフォンが視界に入る。
画面は真っ暗なままだ。
実家に戻った当初、夫の健太からは毎日のようにメッセージが届いていた。
『洗濯機の使い方が分からない』
『母さんが飯がマズイって怒ってる』
『ゴミの日はいつだっけ』
そんな、生活能力のなさを露呈する内容ばかりだった。私はそれらに対し、『説明書を見て』『ネットで調べて』と事務的に返すだけに留めていた。
そしてここ数日、彼からの連絡はぱったりと途絶えていた。
諦めたのか、それとも別の誰かを見つけたのか。どちらにせよ、私の心は揺らがなかった。
「……紗和子、向こうのお家は大丈夫なの?」
母が心配そうに尋ねてきた。私の事情を詳しく話してはいなかったが、長期間実家に泊まり込んでいる娘を見て、何かを察しているのだろう。
「うん、大丈夫よ。ヘルパーさんも頼んでるし、健太さんもいるから」
「そう……ならいいけど。あんまり意地を張っちゃだめよ」
「意地じゃないの。これは、必要な時間なの」
私は母の手を握り締めた。母はそれ以上何も聞かず、ただ優しく握り返してくれた。
その日の夕方、病院からの帰り道だった。
実家の近くのスーパーで買い物を済ませ、マンションのエントランスに入ろうとした時、見覚えのある人影が立っていた。
「……紗和子」
声をかけてきたのは、健太だった。
その姿を見て、私は思わず息を飲んだ。
最後に会ってからまだ半月ほどしか経っていないのに、彼は別人のようにやつれていた。
いつも綺麗に整えられていた髪はボサボサで、ワイシャツにはアイロンがかかっておらずシワだらけ。目の下には濃いクマができ、頬がこけている。
あの、若々しく楽天家だった夫の面影はどこにもなかった。
「……どうしたの、その恰好」
「ああ……ちょっと、いろいろあってさ」
健太は力なく笑ったが、その笑顔はすぐに歪み、泣き出しそうな表情に変わった。
「話があるんだ。少しだけ、時間もらえないかな」
私たちは近くの公園のベンチに座った。
夕暮れの公園には子供たちの声が響いているが、私たちの周りだけ重苦しい沈黙が流れていた。
健太は缶コーヒーを両手で握りしめ、しばらく俯いていたが、やがて絞り出すように口を開いた。
「……謝りたくて、来たんだ」
「謝る?」
「うん。俺、紗和子に甘えてた。甘えてたなんてレベルじゃない、おんぶに抱っこで、何も見えてなかった」
健太は深く息を吐き出し、この二週間の地獄のような日々を語り始めた。
私が家を出た翌日から、高村家は崩壊の一途をたどったそうだ。
ヘルパーさんを頼んだものの、義母のプライドの高さと細かすぎる要求に、何人もの担当者が音を上げてしまったらしい。
『味付けが濃すぎる』
『掃除の仕方が雑だ』
『愛想がない』
義母のいつもの文句に対し、ヘルパーさんたちはビジネスライクに対応した。
「契約外のことはできません」「時間ですので失礼します」。
その冷たい線引きに、義母は孤独感を募らせ、さらにヒステリックになった。
そして、その矛先は全て健太に向かった。
仕事から疲れて帰宅すると、散らかり放題の部屋と、不機嫌な母親が待っている。
慣れない料理を作り、洗濯をし、義母の愚痴を聞き続ける毎日。
仕事でのミスも増え、上司に叱責され、心身ともに限界を迎えた。
「俺、初めて母さんに怒鳴ったんだ。『いい加減にしろ!』って」
健太は震える声で言った。
「そしたら母さん、泣き出しちゃってさ……。今まで紗和子さんがやってくれてたことが、どれだけ大変だったか、どれだけありがたかったか、ようやく分かったって」
「……お義母さんが?」
あのプライドの塊のような義母が、自分の非を認めたというのか。にわかには信じがたかった。
「ああ。昨日の夜、母さんが言ったんだ。『紗和子さんが剥いてくれるリンゴは、いつも角がなくて食べやすかった』って。『あの子は、私の嫌味も全部飲み込んで、家族として尽くしてくれていたのに、私はあの子を召使い扱いしてしまった』って」
健太の目から涙がこぼれ落ちた。
「俺もそうだ。紗和子の仕事を見下して、家のことは全部押し付けて……。お前の母さんが大変な時も、自分の保身ばかり考えてた。本当に、最低だった」
健太はベンチから立ち上がり、私の前で地面に膝をついた。
土下座だった。
公園にいる人々の視線が集まるが、彼は気にしていないようだった。
「ごめん。本当にごめんなさい。許してくれとは言えない。離婚したいと言われたら、受ける覚悟もしてきた。でも、最後に一度だけ、ちゃんと謝りたかったんだ」
地面に額を擦り付ける夫の姿。
かつては「長男の嫁なんだから」と私に犠牲を強いてきた彼が、今はこうして泥にまみれて謝罪している。
ざまあみろ、と思う気持ちがなかったわけではない。
けれど、それ以上に胸に去来したのは、哀れみと、そして一抹の寂しさだった。
彼らは、失って初めて気づいたのだ。私の存在価値に。
「頭を上げて、健太さん」
私は静かに言った。
健太はゆっくりと顔を上げた。額には土と小石がついていた。
「離婚届は、まだ出していません」
その言葉に、健太の目に微かな光が宿った。
「でも、今のまま家に戻るつもりもありません」
「……え?」
「私、明後日、お義母さんの病院に行きます。そこで、私の考えを伝えます。それを受け入れてもらえるなら、やり直すことも考えます」
「わ、分かった! 俺からも母さんに言っておく! 絶対に、絶対に大切にするから!」
健太は何度も頷き、涙を拭った。
二日後。
私は再び、義母が入院している整形外科病棟を訪れた。
前回訪れた時のような、戦闘に向かうような高揚感はない。あるのは、冷静な判断力と、揺るぎない自尊心だけだ。
病室のドアを開けると、そこには車椅子に座った義母と、傍らに立つ健太がいた。
義母は随分と小さくなったように見えた。
いつも完璧だった化粧も薄く、白髪も目立つ。
私が入室すると、義母はビクリと肩を震わせ、そしてゆっくりと私の方を向いた。
「……紗和子さん」
その声は、かつての鋭さを失い、枯れ木のように掠れていた。
「おはようございます、お義母さん。お加減はいかがですか」
私が努めて普通のトーンで尋ねると、義母は膝の上で手をきつく握りしめた。
そして、深々と頭を下げたのだ。
「申し訳、ありませんでした」
その姿に、私は息を飲んだ。
あの高村佳代子が、嫁である私に頭を下げている。
「私、驕っていたわ。あなたがいてくれることを当たり前だと思って……。自分の寂しさや不安を、あなたをいじめることで埋めようとしていたの。本当に、愚かな姑だったわ」
義母の声は震えていた。演技ではない、本心からの悔悟が伝わってくる。
他人であるヘルパーさんとの冷たいやり取りの中で、彼女は「家族の情」というものが、一方的な奉仕ではなく、相互の思いやりで成り立っていることを痛感したのだろう。
「実家のお母様のことも……本当にごめんなさい。どんなに心細かったでしょう。私、怪我をして初めて分かったの。体が動かない不安、家族に冷たくされる恐怖……。あの日、私が言った言葉がどれほど酷いものだったか、今は痛いほど分かるわ」
涙が、義母の服の膝元にポツポツと落ちていた。
私はその姿を、静かに見つめ続けた。
許せない気持ちは、まだある。八年間の傷は、そう簡単に癒えるものではない。
けれど、目の前にいるのは、老いと孤独に怯える一人の弱い人間だった。
「お義母さん」
私は一歩、近づいた。
「謝罪は、受け取ります」
義母が顔を上げ、すがるような目で私を見た。
「でも、忘れないでください。私は一度、壊れかけました。あなたたちの言葉で、態度で」
「……はい」
「ですから、以前のような『都合のいい嫁』には戻りません。これからは、私のルールで生活させていただきます」
私は用意してきたメモを取り出した。
「一つ。介護や家事は、私一人で背負いません。健太さんも当事者として参加すること。そして、プロのサービスも積極的に利用すること。お義母さんも、ヘルパーさんに過度な要求はしないこと」
健太と義母は、コクコクと頷いた。
「二つ。私の実家、私の母を、高村家と同等、いえ、今の状況ではそれ以上に優先させてもらいます。母の通院やリハビリがある日は、私は実家に帰ります。文句は言わせません」
「当然だ。好きなだけ行ってやってくれ」と健太が言った。
「三つ。これが一番重要です」
私は二人を交互に見据えた。
「私たちは、対等な人間です。嫁だから、姑だから、夫だからという上下関係はもうナシです。お互いに敬意を持ち、感謝を言葉にすること。それができないなら、私はいつでも離婚届を出して出ていきます」
部屋に沈黙が流れた。
それは緊張感のある沈黙ではなく、新しい契約が結ばれる厳粛な空気だった。
「……分かったわ」
義母が、涙を拭いて顔を上げた。その目には、以前のような意地悪な光ではなく、弱々しいながらも誠実な光が宿っていた。
「あなたが許してくれるなら……私、変わる努力をするわ。もう二度と、あなたを傷つけたりしない。約束する」
「俺もだ。紗和子、本当にごめん。そして、戻ってきてくれるチャンスをくれて、ありがとう」
健太も頭を下げた。
私は大きく息を吐き出した。
肩の荷が、本当の意味で下りた気がした。
復讐とは、相手を破滅させることだけではない。
相手に過ちを認めさせ、自分が主導権を握り、幸せな環境を自ら作り出すこと。
それが、私にとっての最高の「ざまぁ」であり、勝利なのだ。
「……分かりました。では、これからよろしくお願いします」
私が少しだけ微笑むと、二人は安堵したように泣き崩れた。
数ヶ月後。
季節は完全に夏に変わっていた。
「お義母さん、これ、母からの差し入れです。実家の近くで採れた夏野菜」
私は高村家のリビングで、カゴいっぱいのトマトとキュウリをテーブルに置いた。
退院した義母は、まだ杖が必要な生活だが、以前よりずっと穏やかな顔つきになっていた。
「あら、ありがとう。富美子さんによろしく伝えてね。……あ、そうだ紗和子さん。冷蔵庫に、あそこのケーキ屋のゼリーがあるの。一緒に食べましょう」
「いいんですか? ありがとうございます」
以前なら「お茶を淹れなさい」と命令されていた場面だが、今は義母が自分で立ち上がり、不自由な足でお皿を用意しようとする。
私はそれを制止せず、見守る。過剰な手助けは、相手の自立を奪うからだ。
キッチンでは、健太がエプロン姿で夕食の準備をしている。
手際はまだ悪いが、文句を言わずにカレーを作っている。
「健太、玉ねぎはもっと細かく刻まないと」
「分かってるよ母さん。今やってるって」
そんな親子のやり取りを、私はソファに座って紅茶を飲みながら眺めている。
私はもう、台所を駆け回る黒衣ではない。
この家の、一人の構成員であり、尊重されるべき個人だ。
週末は実家に帰り、母と温泉に行ったり、映画を見たりして過ごしている。
義母も、地域のデイサービスに通い始め、新しい友人ができたようだ。私への執着が薄れ、適度な距離感が生まれている。
「紗和子、味見してみてくれ」
健太がスプーンを差し出してきた。
「うん……ちょっと薄いかな。お醤油足してみて」
「了解」
カレーの匂いが部屋に満ちる。
それは、以前の息苦しい空気とは違う、温かくて、少し不格好な、新しい家族の香りだった。
私は窓の外を見上げた。
入道雲が青空に高くそびえている。
かつては分厚い雲に覆われていた私の人生も、今はこんなふうに晴れ渡っている。
傷ついた過去は消えないけれど、それを乗り越えて手に入れたこの景色は、何よりも美しい。
「ごはん、できたよー」
夫の声に、私と義母は顔を見合わせ、ふふっと笑い合った。
「いただきましょうか」
「はい、お義母さん」
私は立ち上がり、食卓へと向かう。
自分の足で、自分の意志で歩くその一歩一歩が、何よりも誇らしかった。
これが、私が選び、勝ち取った、本当の幸せなのだ。




