第三話 格付けの終了宣言
翌朝、私は大きなボストンバッグを肩にかけ、義母が入院している病院へと向かった。
空は驚くほどに晴れ渡り、数日続いた雨が嘘のようだ。病院の駐車場に車を止め、深呼吸を一つする。吸い込んだ空気は少し冷たく、私の決意をより鮮明にしてくれるようだった。
エレベーターで整形外科病棟へ上がる。廊下には朝の慌ただしい空気が流れていたが、私の心は奇妙なほど凪いでいた。
402号室。義母の個室の前で足を止める。
中から、義母の声が聞こえてきた。
「健太、お水。あと、背中のクッションの位置が悪いわよ」
「はいはい……母さん、これ何度目だよ。俺だって疲れてるんだからさ」
夫の疲弊した声。昨日は一日中、わがままな義母に付き合わされたのだろう。
私はノックもせず、静かにドアを開けた。
「おはようございます」
私の声に、二人が一斉に振り返る。
「あ、紗和子! やっと来たか!」
健太の顔がパッと輝いた。救世主が現れたとでも思っているのだろう。彼はパイプ椅子から飛び上がり、私の元へ駆け寄ってきた。
「遅いよー。俺もう限界。腰は痛いし、眠いし……。あとは頼んだぞ」
そう言って私の肩をポンと叩き、そのまま部屋を出ようとする。
その腕を、私は掴んで引き止めた。
「待って。まだ行かないで」
「え? なんでだよ。仕事あるし、着替えもしたいんだけど」
「大事な話があるの。そこに座って」
私の声色が普段と違うことに気づいたのか、健太は戸惑いながらも、渋々パイプ椅子に戻った。
ベッドの上では、義母が不満げに私を見ていた。
「おはよう、紗和子さん。随分と大荷物ね。泊まり込みの準備万端ってわけ? 感心ね」
義母の視線は私のボストンバッグに向けられていた。
彼女は、私がこれから自分の手足となり、召使いのように尽くしてくれるのだと信じて疑っていない。その傲慢な表情を見るのも、これが最後かと思うと、不思議と愛おしくすら感じられた。
私はボストンバッグを床に下ろし、二人の正面に立った。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「お義母さん、健太さん。お話があります」
「何よ、改まって。朝ごはんのメニューの相談なら後にしなさいよ。お腹空いてるの」
義母は私の言葉を遮り、手をひらひらと振った。
私はその手を無視し、真っ直ぐに義母の目を見据えた。
「私は今日から、実母の介護のために実家へ戻ります」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
義母は口を開けたまま固まり、健太は目を丸くしている。
「……は? え? 今、何て言ったの?」
義母の声が裏返った。
「ですから、実母の手術とリハビリの付き添いのため、しばらく実家に帰らせていただきます。お義母さんの介護はできません」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ紗和子!」
健太が慌てて立ち上がった。
「話が違うじゃないか! 昨日、会社に介護休暇の申請出すって言ったよな!?」
「ええ、出しましたよ。『実母の介護のため』という名目でね」
私は鞄から休暇申請書の控えを取り出し、健太に見せた。
そこには確かに『対象家族:実母 牧野富美子』と記されている。
「なっ……! お前、騙したのか!?」
「騙してなどいません。私は『家族のために動く』と言いました。私にとって、一番ケアが必要な家族は実母です」
「ふざけないでちょうだい!」
義母が激昂し、サイドテーブルにあったティッシュ箱を私に投げつけた。
箱は私の肩に当たり、床に落ちた。
「何が実母よ! あなたは高村家に嫁いだのよ!? 婚家の義母がこんな大怪我をしてるのに、実家を優先するなんて、そんな親不孝が許されると思ってるの!?」
「親不孝、ですか」
私は冷静に投げ返した。
「お義母さん。あなたは先日の法事で、転倒した私の母を『大げさだ』と笑いましたね。『法事の片付けが優先だ』と言いましたね」
「それは……その時は、そんな大事だとは思わなかったから……」
「いいえ、あなたは知っていました。高齢者の転倒がどれほど危険か。ご自身も転んでみて、よく分かったでしょう? その痛みと恐怖の中で、たった一人の家族に助けを求めたのに、見捨てられる辛さが」
義母は言葉に詰まり、視線を逸らした。
「それに、お義母さん。あなたは八年間、ずっとそうでした。私の実家のこと、私の仕事のこと、私の気持ち……全てにおいて優劣をつけ、自分たちを『上』、私の大切なものを『下』に置いてきました」
私の声は、怒鳴ることもなく、ただ淡々としていた。それが逆に、二人を威圧していた。
「盆暮れの帰省も、いつも高村家が先で、実家へは『顔を出す程度でいい』と制限されました。母が風邪を引いた時も、『移るといけないから行くな』と止められました。私はずっと、あなたのその『格付け』に従ってきました。家族として認めてもらいたかったからです」
「当たり前でしょう! 嫁なんだから!」
義母はまだ喚いている。自分の正当性を疑わないその姿勢は、ある意味で哀れだった。
「でも、もうやめます。私は、”母”を順位で選ぶのはやめます」
私はきっぱりと宣言した。
「私を産み、育て、どんな時も私の味方でいてくれたのは実母です。私を家政婦扱いし、私の母を侮辱するあなたではありません。大切な人を、大切にする。これからはそう生きます」
「さ、紗和子……落ち着けよ。母さんも悪気があったわけじゃ……」
健太がオロオロと割って入ろうとしたが、私は彼にも冷ややかな視線を向けた。
「健太さん。あなたも同罪よ」
「えっ、俺!?」
「あなたはいつも『母さんも悪気はない』と言って逃げてきた。私のSOSに一度だって真剣に向き合ってくれた? 今回だってそう。自分の母親の介護を、自分の出世のために私に押し付けようとした。私が仕事を休んで当たり前だと思った」
「だって、それは……世間一般的に……」
「世間一般? そんなものはどうでもいいの。私はあなたと結婚したのであって、あなたの家の奴隷になったわけじゃありません。夫婦は対等なはずでしょう? あなたが自分の親を大切にしたいなら、あなた自身が汗をかくべきです」
健太は口をパクパクさせ、何も言い返せなくなっていた。図星を突かれたからだ。
「というわけで、お義母さんのことは、ヘルパーさんと、息子である健太さんに任せます。私は実母の元へ行きます」
私は床に置いたボストンバッグを持ち直した。
「あ、この荷物は私の私物です。当分、実家で暮らしますので」
「か、帰ってくる気はないってこと!? 離婚するつもりか!?」
健太が悲鳴のような声を上げた。
離婚、という言葉に、義母の顔色が変わった。世間体を何よりも気にする彼女にとって、息子の離婚は大きな汚点になるからだ。
「離婚については、まだ決めていません。ただ、この冷却期間中に、あなたたちがどう変わるか、あるいは変わらないか……それを見て決めさせていただきます」
私はニッコリと微笑んだ。
それは、これまで見せてきた従順な嫁の笑顔ではなく、一人の自立した女性としての、余裕のある微笑みだった。
「お義母さん、お水、空っぽですね。ナースコールで看護師さんを呼んでください。それか、健太さんに入れてもらってくださいね。では、お大事に」
私は二人に背を向け、ドアノブに手をかけた。
「待ちなさい! 紗和子!」
義母の叫び声が背中に突き刺さる。
「私をこんな目に遭わせて、タダで済むと思ってるの!? 親戚中に言いふらしてやるわよ! 薄情な嫁だって!」
私は振り返らずに答えた。
「どうぞご自由に。でも、親戚の皆さんも、法事のあの日、あなたが私の母の救急搬送を無視して宴会を続けようとしたこと、見ていましたよ。どちらが薄情か、皆さんの判断に任せましょう」
それだけ言い残し、私は病室を出た。
ドアが閉まる瞬間、中から何かが壊れるような音と、義母のヒステリックな声が聞こえたが、それはすぐに遮断された。
廊下を歩く私の足取りは、羽が生えたように軽かった。
すれ違う看護師さんに「お疲れ様です」と会釈をする余裕さえあった。
病院の外に出ると、陽の光が眩しかった。
私は空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
「終わった……いや、始まったんだ」
長かった冷戦。一方的に耐えるだけだった従属の日々。
それに終止符を打ち、私は私の人生を歩き出したのだ。
携帯を取り出し、実家の母にメッセージを送る。
『今から帰るね。大好きなプリン買ってくよ』
すぐに既読がつき、『待ってるわ、気をつけてね』とかわいいスタンプが返ってきた。
愛おしさが込み上げてくる。
私が守るべき場所は、ここにあったのだ。
車に乗り込み、エンジンをかける。
カーナビに実家の住所をセットする。
「目的地まで、約40分です」
機械的な音声さえ、祝福のファンファーレのように聞こえた。
一方、病室に残された二人は、地獄のような静寂の中にいた。
「……健太、どうするのよ」
義母が震える声で言った。
「どうするって……俺も分かんないよ……」
健太は頭を抱えてうずくまっていた。
頼みの綱だった妻がいなくなり、目の前には怪我をして不機嫌極まりない母親がいる。しかも仕事は休めない。
「あんたが甘やかしたからよ! 嫁なんて、もっと厳しく躾けておけばよかったのよ!」
「母さんが余計なこと言うからだろ! 法事の時にあんな冷たいこと言うから、紗和子がキレたんだ!」
「何ですって!? 親に向かってその口の利き方は!」
「うるさいな! 俺だって困ってるんだよ!」
親子喧嘩の声が病室に響く。
これまで全ての不満やストレスを紗和子という緩衝材に吸収させてきたツケが、一気に回ってきたのだ。
ナースコールを押そうとした義母の手を、健太がイラつきながら制止する。
「看護師さん呼ぶなって。忙しいんだから」
「じゃあ水入れてよ!」
「自分でやれよ!」
「足が痛いのよ!」
醜い罵り合いが続く。
そこに、かつての平穏だった(と彼らが錯覚していた)日常はもうない。
紗和子という存在の大きさ、そして彼女がいかに多くのものを静かに背負っていたか。
それを彼らが骨の髄まで理解するには、まだもう少し時間が必要だった。
私は車の中で、好きな音楽をかけていた。
久しぶりに聴くアップテンポな曲。
ハンドルを握る指先でリズムを取りながら、私は実家へと急いだ。
これからの生活がどうなるか、不安がないわけではない。
でも、少なくとも自分の心に嘘をつかなくていい清々しさが、今の私を支えていた。
「ただいま、お母さん」
実家の玄関を開けた時の、あの懐かしい匂い。
母の笑顔。
それらを守るためなら、私はどんな悪者にだってなれる。
そう確信した瞬間、私の心の中にあった「高村紗和子」という名の重い鎧が、完全に剥がれ落ちた気がした。
私は、ただの「牧野紗和子」に戻ったのだ。いや、もっと強く、しなやかになった新しい私に。
これからの日々は、きっと忙しくなる。母の手術、リハビリ、そして私自身のこれからのこと。
それでも、私はもう怖くなかった。
自分の足で立ち、自分の心で選び取った道だから。
私はリビングに入り、ソファーに横になっている母に駆け寄った。
「お帰り、紗和子。顔色が良くなったわね」
母は私の変化をすぐに見抜いたようだった。
「うん、ちょっとスッキリしてきた」
私は母の手を握り、心からの笑顔を向けた。
本当の戦いはこれからだとしても、今の私には、この温かい手がある。それだけで十分だった。




